第四十話 襲撃!
『――失意の氷床。寂れた園。冷ややかなる風。輝ける奈落にあって地に満ちん。人は凍てつき、戦車の足は脅かされた』
怜悧な声で紡がれる呪文。
それが効果を現すと、ノアの周囲に冷たい風が吹き上がり、微細な氷が舞い上がる。
水晶のように透き通った氷は青い輝きを帯びて、輝煌ガラスの光を反射しキラキラと輝く。やがてそれは侯爵邸の庭の一画に広がり、地面に落着。傭兵たちが上手い具合に集まってきたところで、侯爵邸の庭が凍り付き始めた。
氷床の構築。
これがノアの魔法【氷脚下】の効果である。
一方アークスにとって、ノアの魔法の発動はこの上ないタイミングだった。
アークスに躍りかかろうとした傭兵たちは突然凍った足元に対応できず、勢い余って次々に転び始める。
しかしてそんな傭兵たちに、ノアから、吹きすさぶ氷雪のように容赦ない追い打ちがかかった。
『――零落する乙女が流すその涙。清らかにあって冷たく、氷雨を牢する青玉の如し。しかして剣士よ、その涙を持て。その冷たき悲涙を掬い取り、乙女を守る剣となせ』
ノアの手の中に魔法文字が蟠ったかと思うと、そこから氷柱が伸長し、やがて氷の剣が現れる。
白い靄の凍気を常に振り撒く、水晶の如き剣。
――【ジャクリーンの氷結剣】。
零落の乙女ジャクリーン。
紀言書は第六、【世紀末の魔王】に語られる貴族令嬢、これはその栄光と転落を謳った一文から構成した呪文だ。
種別は見た目通り、武装構築系攻性魔法に他ならない。
ノアが、王国式細剣術の構えを取る。
「お?」
その場で立ち止まって構えを取って、さてどうするのかと思いきや、ノアは弾かれたように突進する。
まずは一番近くの傭兵を氷の剣で一突きにしたかと思うと、いまだ足元の覚束ない傭兵たちに優美に一礼。
「申し訳ありませんが、我が主の邪魔をなさる方は、ここで排除させていただきます」
敬意と謝意を示す礼が、いまはひどい皮肉に見える。
しかして、始まったのはあまりに苛烈な連突だった。
ノアの使った魔法は氷の剣を生み出すだけのものではないのか、一突きごとに鋭く尖った氷の塊を生み出して、切っ先の前方へと射出する。
氷に輝煌ガラスの発する光が反射し、目を突き刺すような輝きが火花の如く散乱。
撃ち放たれる氷刃が周囲の傭兵まで傷つけていく。
狙いは甘く、数に頼った無作為のものだが、それゆえ傭兵たちは不用意に動けない。
ノアの繰り出す氷の刺突が、傭兵を貫いた。
撃ち放たれた氷刃が、傭兵を切り裂いた。
なおそれでも飽き足らんと言わんばかりに、ノアは氷の刃を撒き散らしていく。生垣は凍り付き、巻き込まれた石像が砕け散る。石が氷に負けるとは理外だが、魔法である以上、単語成語の意味が加われば理外の力を発揮するのだろう。
そんな中、
「うぉおおおおおおお! 舐めるな魔導師ィ!」
傭兵の一人が、氷床の呪縛から逃れ、気合と共に突っ込んでくる。
しかしノアはそれを優雅にいなし、傭兵の首を真横から氷の剣で一突き。
串刺しにしてしまう。
――六、七人、まとまっていた傭兵たちはすべて血だらけだ。ところどころが凍り付き、誰もピクリとも動かない。
ノアが氷の剣を払うと、ピィィィンという甲高い音が辺りに響いた。
「つっえぇ……」
思わずそう口にしてしまうほど、圧倒的な戦いぶりだった。
さすがは魔法院の首席卒。魔法の冴えもそうだが、剣の腕前も驚嘆に値する。
氷の園を悠然と歩くノア。遅れて出て来た傭兵たちも、彼には迂闊に手を出せず、躊躇するばかり。
そんな中、別方向から傭兵が叫んだ。
「火の魔法だ! 奴に撃ち込みつつ足元の氷を溶かせ!」
傭兵たちの中にも、魔導師がいるのか。目を向けると、それらしき者たちがご丁寧に横並びになって、魔法を唱えようとしていた。
魔導師たちが攻勢に出ようとした、そんなときだった。
「――かーっ、主従共々化けモンかよお前らは。どいつもこいつもどうかしてるぜ。頭おかしいんじゃねえのか?」
そんな声が聞こえた方を向くと、カズィがまるで散歩でもしているかのように、氷の上を歩いていた。
そんな彼をも巻き込もうと、魔導師たちが呪文を唱える。
『――火者の取り立ては非情なり。借り手を追い立て追い詰めて、家も土地も焼け野にする。ならば汝よ、その対価は命で贖え』
「おっとっと……『才子スケイル。弁士スケイル。汝のその朗々たる弁舌により、火難を払え、巧言並べて盾とせよ』」
カズィが口にした呪文は、魔導師が口にした『火者』という単語に対するカウンターだ。
紀言書は第五【魔導師たちの挽歌】曰く、高利貸しの依頼を受けて苛烈な取り立てを行ったこの『火者』は、債務者を追い詰めるために火を放ち、その悪名を轟かせたという。
これは、その記述を用いた防御法だ。
紀言書には、火者はこの語りの最後に、法廷でスケイルという名の弁士にその罪のすべてを明らかにされたという結果があるため、防御に『スケイル』の名を使用すると通りにくくなる。
だが、傭兵たちは魔法の知識に乏しいのか、カズィの呪文を耳にしても、そのまま同じ魔法を使い続ける。
使い続ければいつかは貫けると思っているのは浅はかだが、その後もカズィは、傭兵たちが使う魔法を難なく防御していった。
手際がいい。防御に関しては、彼の実力は疑うべくもなく一級品だ。
これがどうして人攫いに身を窶していたのか、これが甚だ謎めいているが。
「く……」
「傭兵どもは、火の魔法を使うとき【火者】を好んで使うからな。火の魔法が事前に来るってわかってりゃあこんなモンだわ。キヒヒッ」
カズィは独特の笑い声を上げ、肩をすくめて挑発する余裕すらあった。
あの人を食った笑みで嘲弄されては、苛立ちもするだろう。
だが、カズィが差し向けるのは嘲弄だけでは済まなかった。
『さて――縛鎖を司る者共は戒めに喘ぐ科人を冷たく見下ろす。科人よ、鎖に巻かれよ。科人よ、鎖に抱かれよ。双精霊チェインの足元、幽世の引手に足を掴まれ、とこしえの微睡へと落ちよ』
――【幽冥界からの呪縛】。
…………呪文からして、魔法が拘束型であることは間違いない。
だが、文の結びにある『とこしえの微睡』を鑑みるに、助性魔法ではなく攻性魔法の類だろう。
それに、この呪文の文頭には覚えがある。
以前カズィと路地裏で対峙したとき、スウの本気に合わせて彼が使おうとした魔法だ。
詠唱と共に、魔法文字が彼の足元に円陣を成して、さらに魔法文字でできた幽玄な鎖が周囲に現れる。
鎖は空を飛び交い、まるで鳥かごのように傭兵たちを覆うと、剣や革鎧をすり抜けて傭兵たちに絡みついた。
手足を、胴を、首を。
逆さ吊りに、首吊りに、反り吊りに。
さながらそれは、磔刑に処せられた科人か。
いや、百舌の早贄のような残虐さもある。
しかして人体のあらゆる場所が鎖でつながれたその直後、カズィが一言を下す。
『いましめよ』
と、だけ。
直後、弛みを持っていた鎖は緊張し、傭兵たちを締め付ける。
縛られた傭兵たちは鎖の締め付けに敢え無く敗北し、糸の切れた操り人形さながらに腕や足をだらりと下げた。
種別は、呪式拘束型攻性魔法。
呪文学のテキストに載っていた覚えがないため、完全なオリジナル。
しかも、完成度がやたらと高い。
軍事使用でも、実用レベルにあるだろう。
「ま、傭兵程度ならこんなモンだろ……」
なんということはないというように、カズィはそう言い放つ。
そんなカズィに、ノアが称賛の言葉を投げかけた。
「これは、お見事です」
「お前に褒められても嬉しくねえな。ほとんど一人でぶっ倒しやがって」
「おー、すげー、やっぱカズィって相当の腕前だろ?」
脇からひょいと顔を出すと、やはり忌々しそうな表情を向けられ、
「……十歳そこらのガキに褒められてるとかなんかなぁ」
こちらは微妙そうに言われる始末である。
そんな話をしていると、再び増援が現れた。
しかし、これでほぼほぼ打ち止めなのか、それ以上出て来る様子は見えない。
おそらくは正面を警戒していた者たちと、屋敷内にいた者たちだろう。
出遅れたのは、単純に移動する時間があったためだと思われる。
持ち場を離れるかどうかの判断に迷っていたため、というのもあるかもしれない。
ノア、カズィ共に身構えるが、ここは――
「悪いけど、お前らは俺のちょっとした実験に付き合ってくれ」
そう現れた傭兵たちに呼びかける。
侯爵や傭兵頭が出て来る気配はない。
近場の窓にも、それらしい姿は見えない。
ならば、ここで自分が魔法を使っても構わないだろう。
無論、種別は攻性魔法。
致死性のあるものを外すという配慮は度外視。
すでに、相手を思いやるというタガは外れていた。
そう、これはあの日泣いていた妹のためだ。
そう、これは両親の期待に応え、頑張っている妹のためだ。
そんな彼女を害そうとする者たちに、かける慈悲などもとよりあるわけがないのだ。
ゆえに、躊躇なく呪文を紡ぐ、
『――地を繋ぐ円環。輝ける奈落にありて、対なる熾天を抱く者。禍々しき聖者は終わりなき彷徨に身を委ねて幾久しく、棺を背負いてひた走る。錆付いた黄金。底なしの釜。それら相反する理を以て、終極を見出し、六道の門よ開け。泥濘の濁流は黒く群れなす吐息を以て荒れ狂い、生者を呑み込め、塗りつぶせ』
呪文を唱えている途中、ちらりと二人を窺うと、どこか怪訝な表情が滲んでいるのが見えた。
それも当然だ。いま唱えた単語や成語の組み合わせは、紀言書に書かれた現象や事象を示すものではない。
しかも、カズィが使った魔法のように、どんな現象を引き起こすものなのか、どんな現象に頼るものなのか、単語や成語による指定もない。
成語は矛盾ばかりの構成。
確かに知識がある者が耳にすれば、打ち消し合いが起こって威力が激減するとも受け取られるような呪文である。
おそらく二人の頭の中はいま、この言葉の羅列にどんな謂れが合致するのか、検索している真っ最中だろう。
現状、自分が使える魔法の中では、コスト最大、威力も最大。
だが、実地で試したことのないもの。
人体に対して使ってはいないもの。
そう、だからこそ、これはまだ試みの範疇を脱していないのだ。
呪文が成った直後、輝煌ガラスの明かりで煌々としていた庭に、陰りが差す。
直後、背後に轟轟とした風が渦巻いた。
生垣を、石像を、輝煌ガラスを、すべてを呑み込む渦はそう――竜巻だ。
細く、さながら線のような小規模なものだが、その力のほどは言うに及ばず。
「かっ、風の魔法だ! 刻印付きの盾を構えろ!」
「持っていない者は伏せてやり過ごせ!」
「残っている魔導師は全員、対風撃防性魔法を――!」
傭兵たちの間に、怒号が響く。
その焦りは、先ほどのノアの魔法に匹敵する威力を垣間見たからか。
それぞれの手段でこの魔法を防ごうというのだろう。
統制された指揮のもと、防御の姿勢を取り始める。
だが、
「……これがそんな見え見えの魔法なもんかって」
薄笑いを交え、口にする。
そう、この魔法の見た目は突風の一種、渦巻き状の上昇気流という一個の現象だが、実際は数千にも及ぶ群体の災害を模した呪いの塊である。
男の世界にある聖典に記されるアバドン、蝗害の化身を表したものだ。
蝗害自体は男の国ではあまり馴染みのない現象だったが、他の国では割とポピュラーなものとされている。
農作物を食らい尽くす、最悪の虫害であると。
もちろん、生物を作り出す魔法は作ることができないため、黒い風はそれを模したものなのだが。
黒い竜巻が、瞬く間に傭兵たちを巻き込む。
無論、防御する術を持たない彼らに、なす術はない。
剣で払う。
盾を構える。
その場に縮こまる。
魔法を使って防御を試みる。
だが、真っ黒い風は止められない。
あらゆる隙間から入り込み、瞬く間に肌の色を塗り潰していく。
しかしてそれらが過ぎ去ったあとは、黒い竜巻に穴という穴をふさがれて、窒息した骸が転がるばかり。
空気を求めて腕を伸ばす骸。
喉元をかきむしる骸。
窒息にもがき苦しんだ骸。
数はその場にいた十人程度。
室内にいた者を含め、ほとんどの傭兵は無力化された。
ここにあの傭兵頭が交ざっていればありがたかったが、そう上手くことが運ぶはずもない。
ともあれ、
「外性神話式攻性魔法【飛蝗旋風】。やっぱり人に使うには、ちょっと弱いな」
結果に少しの不満を抱きつつも、まずは魔力の具合を確かめる。
これであとは、大体【黒の銃弾】三回分程度。
まったく魔力が少ないことが忌々しい限りである。
「な、なんだあの魔法は……」
「あんなガキまで魔導師だとっ……」
「こ、こんな魔導師相手なんて聞いてないぞ……」
離れた場所にいて、竜巻を免れた傭兵たちが慄いていた。
ふっと二人の方を見ると、カズィは悪態づいた表情を作り。
「またえげつねぇ魔法使いやがる」
一方でノアはと言えば、その端整な顔にべったりと驚愕を張り付けていた。
頬には、一筋の冷や汗が。わずかに身構えるような姿からは、どこか警戒を抱いているようにも見えるが。
「ノア、どうした?」
「……アークスさま、いまのはもしや竜巻ですか?」
「ああ、そうだが、それがなんかあったか?」
不思議そうに訊ねると、ノアはやはりその表情のまま。
「私は以前に一度だけですが、竜巻を見る機会がありました。ですがアークスさまはあれをどこで見たのですか?」
「どこでって……」
「あの現象は気候の安定した王都では滅多に……いえ、発生はほぼ皆無のはずです」
そう言えば、自分は竜巻を見たことがない。
それを見たことがあるのは別世界の『あの男』だ。
夢で追体験したときに、男の目を通して見ただけ。
ならばノアの驚きの正体は、見たことがないはずの現象を完全に再現したことにあるのか。
「本か何かの知識じゃねえのか?」
「いまの現象を文章だけで想像することはできません。王都から一度も出たことのないアークスさまがあれを再現することは不可能……なはずなのです」
確かに言う通りだろう。
魔法の行使には魔導師のイメージが関わる。
もちろん呪文によって起こる現象はある程度は決まるのだが、それでもイメージが先行しなければ先ほどのように綺麗には発生しないだろう。
……だが、いまはそれを論じている暇はない。
「俺はほら、アレだよアレ。ユアチューブで見たんだ。ROMってたんだよ」
「は……?」
「あんま気にしないでくれ。さて……」
周囲を見る。これであらかた倒し切ったか。
見えないところにまだ残党はいるようだが、それも時間の問題だろう。
ノアも流されたのが少しだけ不服そうだったが、さすがは出来る男。
すぐに気持ちを切り替える。
「アークスさま。ここは我らに任せて、先に屋敷に」
「ああ」
「おい、一人で行かせていいのかよ?」
「カズィさんは、いまのを見せられても頼りないと思うので?」
「あー。いや、愚問だったわ」
カズィはそう言って後ろ頭を掻きつつ、残りの傭兵の排除へと取り掛かる。
そんな彼らに、
「じゃ、一足先に行ってくる」
そう言って、傭兵の持っていた手ごろな剣を拾い上げる。
サブアームにしていたのだろう。子供でも使える長さのものだ。
剣を拾ったその足で、裏口へと走る。
妹を必ず、助けるために。




