第三十七話 飛行魔法は生み出せない?
最後の奥の手である、【空を飛んで脱出しよう!】の案を出したとき、異を唱えた――いや、異を叫んだのはカズィだった。
「はぁ!? バカ言うんじゃねえよ。空を飛ぶだって?」
「その通りだ。近場の窓から出て下まで降りる。魔法を使って」
そう、通路を通っての脱出が叶わない以上、現状での脱出方法はそれしか残されていない。
まさか、こんなところでとっておきの魔法を使う羽目になるとは思わなかったが、真面目に研究していて良かったとしみじみ思う。
誰だって空を飛ぶ魔法に夢を見るものだ。
箒を使った飛行でないのが、少しだけもやもやが残るが。
しかし、何故かノアもカズィも反応がよろしくない。
カズィは渋い顔をしているし、ノアも表情がいつもよりも硬くなっている。
はて、一体どうしたのか。
(……ん? あれ?)
二人の反応を不思議に思っている中、そういえばと思い付く。
これまで魔法の勉強をしてきて、空を飛ぶ魔法の話を聞いたことがなかった。
とんと、だ。
人間にとって、自由に空を飛ぶということは普遍的な夢の一つだ。
世の誰しもが、空を自由に飛び回る鳥たちに憧れを持つものであり、男の世界でも古くからいろいろな人間が空への憧れのため、空を飛ぶための道具を作り続けて来た。
だが思い返せば、この世界では、空を飛ぶために人が何かをしているという話をまったく聞いたことがない。
魔法という尋常ならざる力を操る世界であるにもかかわらず、だ。
普通に考えて「魔法で空を飛びたい」という発想に行きつくものだと思うのだが――
不思議に思っていると、カズィが呆れたように息を吐いた。
「飛行の魔法はな、これまで魔導師たちが研究して、ずっとできなかったものだぞ?」
「そうなのか?」
「アークスさま。現時点で、魔法での飛行は不可能だと言われています。これまでいくつか作られたと聞き及んでいますが、すべて墜落という結果で終わっているのです」
「え? いや、それは呪文の構成が悪いからなんじゃないか?」
「構成もクソもない。紀言書から言葉を引用しても、上手くいった例はねえよ」
「想像の方でも、実際に空を飛んでいる生物の動きを参考にしたものが多岐に渡り取り入れられました。それでも人間は空を飛ぶことができないため、精霊が人に、空を飛ぶのを許していないからだと言われています」
ノアはそのあとに、「帝国皇帝という唯一の例外はありますが……」と付け足したが、それについてはここでは関係ないため、その部分は流れた。
「……なんか、不思議な話だな」
「不思議もなにも、常識だぞ?」
「じゃあ【念移動】の魔法ってどういう理屈なんだよ? 言うなればあれも飛行の……物体を飛行させてる魔法だぞ?」
「いやいや、あれは物を持って動かすのを簡略化しているだけじゃねえか?」
「え? うそ? あれ、みんなそんな風に考えてるのか? ノアも?」
「はい」
「えー……」
まさかの事実判明だった。
自分は男の世界の、念動力をイメージしていたのに。
他の人間は手で持って動かしているイメージだったのか。
そう言えば、自分はあれを早く自在に動かせるのに、他の者が使うと動きに制限らしきものが出ていたのを思い出す。
人力で運んだときの制限と、そうでないときの差異が出たのか。
だが、そもそもだ。
イメージの差があると考えると、呪文や想像の良し悪しではなく、それ以前。
想像の仕方の良し悪しが関わっているのではないか。
……物の落下に対する自分の考え方は、男の世界の物理法則に基づいている。
万有引力。
重力。
慣性の法則。
呪文もイメージも、それらを念頭に置いて作っている。
もし、スタートラインのある場所が違っていれば、あるいは――
「……まずさ、二人とも。物が下に落ちる理由ってのはどういう風に捉えてるんだ?」
この話の焦点はそこだ。
男の世界の知識が当然過ぎて、改めて訊ねたことはなかった。
この世界の人間は、落下という現象を一体どのように捉えているのか。
すると、ノアが口を開く。
「まず、アークスさま。物の落下や上昇は、魔法院の五年で習うものです」
落下と上昇か。
「……うん? 落下と上昇?」
「はい。落下と上昇です」
いまし方聞いたノアの話には、今回の話にはそぐわない言葉が混じっていた。
すると、カズィが説明を付け加えるように、
「ものが勝手に上に登ったり下に落ちたりするのはな、その属性が作用しているからなんだよ」
「へ? え? 属性の作用ぅ?」
「その男の言う通りです。地面に物が落ちたり、浮かび上がったりするのは、物体が同じ属性を持っている【属性の母体】に近付こうとしているからなのです」
「俺たち人間は大地の属性に大きく寄っている存在とされている。だから、地面に向かって落ちるってわけだな」
「ですので、呪文はこうなります」
『――大いなる御許、母なる地より脱するために、定められし楔と鎖を解き放て。大地の加護はしばし消えよ。空の加護を得しイオリアの飛鳥。寄る辺を失え。安寧は不要。広がる九天は青く。狭まる産土黒く。陽光を標に燕雀の自由をこの背にもたらせ翠』
ノアが呪文を唱えると、紡がれた魔法文字が彼の足元で弾ける。
楔と鎖を解き放て――つまり、彼を地面に縛っているものを破却しているのか。
やがてノアの身体がわずかに浮かび上がるが、それもわずかな時間。
すぐに床に着地した。
距離も時間も、ジャンプ程度の間隔だ。
どうにも浮遊する時間を保っていられないらしい。
そもそも、
「長い……」
「呪文が長くなるということは、それだけ大掛かりということですね」
「つーかよくもまあその長い呪文を一発で成功させるもんだぜ。普通噛むぞ?」
カズィが舌を噛むふりをする。
「ノアは魔法院の首席卒」
「ああ、後輩かよ。なら納得だわ」
「これは、先輩でしたか。そう言えばお名前に聞き覚えがあるような……?」
……ともあれ、呪文は失敗だ。
しかし、帰属する属性を打ち消して浮かび上がる、か。
そう言えば以前、これと似たような文章を目にしたことがなかったか。
もちろん今生ではなく、男の生で。
それは、確か――
「あ……!」
「?」
「アリストテレスだ……」
「あり?」
そう、それは男の世界の古代の偉人、アリストテレスが提唱した四大元素で語られる考え方だ。
この考え方をもとにした場合、物体の落下だけでなく上昇さえ含まれる。
物質はそれが帰属する大元の中心、石であれば地面、火であれば空に戻りたがるから、落下や上昇という現象を引き起こすのだという。
そして、故郷に近付けば近づくほど喜びが増し、その速度も増していくというように、加速度の話が言及されている。
すでに重力や万有引力の考え方が一般的な男の時代の人間には、なんのこっちゃと言うような話だ。
だが、そんな考えが根付いているからこそ、この失敗なのだ。
この世界の物理法則が、男の世界のものとまったく同じであればの話だが。
「その考え方はたぶん違うんだ。人間が落ちるのは、【重力】っていう別種の力が働いているからだ」
「【重力】、ですか?」
「ああ。俺たちが立っている大地が、俺たちを引っ張る力だ。俺たちの身体は、いるべき位置に帰りたがっているわけじゃなくて、惑星が作り出した空間のゆがみに落ち込んでいるから――あ」
説明を開始すると、ノアとカズィは理解できないというように顔をゆがめているのに気付いた。
いや、それも仕方ないか。事前に知る必要がある概念が多すぎるため、彼らにとっては理解できない言葉がいくつも交じっているのだろう。
だが、少しでもこの理論を理解してもらわないと、魔法のイメージが固まらない恐れがある。折角見つけた男の世界の【重力】に相当する【古代アーツ語】が活かせない。
ならば、どうするか。
ふと、カズィの持っていた布が目に映った。
「カズィ、ちょっとその布を広げてくれ」
「あ? これか?」
「そうだ。ノアはその端を持って、ピンと張って」
そして、部屋の中を見回しつつ、
「物体が存在すると、その場所……つまり空間に多少なり歪みができる。この布はその空間のゆがみを可視化するためのものだ。そして」
その上に手ごろなものを置いた。
「いま布の上に置いたものが、俺たちの立っている大地で、いまこの大地を置いてできた布のくぼみが、空間のゆがみとする。大地という巨大な存在が、空間に大きなゆがみを生んでいて、俺たちは常にこのくぼみに引き込まれている状態にあるんだ」
「お、おう……」
カズィが、はっきりしない声を返す。
これだけでは理解が及ばないのは当然か。
だがこれより詳しい話になると、天体、惑星、宇宙の話をしなければならなくなる。
それにはどうしても時間が必要になるし、いまはそれがほとんどない。
「要するに、俺たちが無意識に大地のある場所に行きたがっているんじゃなくて、こうして大地が作ったゆがみに引っ張られてるって考えればいい」
説明するが、やはりノアはきっちりしている性格なためか、異議を呈する。
「ですがアークスさま。それでは説明が明瞭ではありません。本当に正しいのですか?」
「それを聞かれれば、俺はわからないって答えなきゃならない」
「おいおい、それだけ自信満々に言っておいてそれかよ……」
「重力に関連する事柄の解明はされていないんだ。だからこそ、この落下という現象にはいろいろな理論がある。さっきノアが説明してくれた、アリストテレスの考え方、ガリレオの動力学やニュートンの万有引力、ビュリダンのインペタス理論、アインシュタインの一般相対性理論、素粒子の均衡力、数えればきりがない」
真理を追求すれば、終わりがない。
そこにたどり着くのは、まずもって不可能だろう。
だが、
「だけど、この世界の既存の考え方が正しくないっていうのは間違いない。現状はまず属性のくびきから脱することから考えて呪文を作っているけど、実際は違うから、いまのままでは空を飛ぶことができないんだ」
「だけどな……」
「というかそもそもな話、これから作る前提で考えないでくれよ。飛行の魔法はすでに作ってあるんだぞ?」
「おい……」
「本当ですか」
ここで嘘言ってどうすんのよ。
「いいか、呪文はこれだ」
『――地を這う者よ。行く者よ。汝、奈落への引き手の戒めに逆らい、大気の圧政から脱せよ。抗するものは重力。引き手の数多ある腕の一つなり。さすれば汝、翼を得、空を見下げる飛翔を成さん』
呪文を唱える。
すると、周囲に魔法文字がまばらに浮かび上がると共に、己の身体も浮かび上がった。
「どうだ? 自由自在とはいかないけど、落ちない。つまり、それだけ考え方が真に近付いているってことだ」
ノアとカズィに目を向けると、二人とも呆気にとられたように、ポカンと口を開けている。
身体を横倒しにして泳ぐような動きをしても、床に落ちることはない。
身体にいまいち重みを感じているため、正しい理論ではないのだろうが――
「こ、こいつ、ほんとに飛びやがった……しかも落ちる気配もまったくねぇ、だと……?」
既存の魔法では、すぐに落ちるか、もしくは均衡を崩して姿勢を保てず墜落する。
だが、この魔法ではそうはならない。
つまり、曲がりなりにも、理論が真に近付いているという証拠である。
ふと、聞こえて来る忍び笑い。
「……ふ、ふふ、ふふふ。さすがはアークスさまですね……毎度のことながら驚かせてもらいますよ」
「これで自由に動ければ最高なんだけどな。自由に飛び回るのにはまだまだ改良が必要だ。理論の見直し、呪文の構成、やるべきことは山ほどある」
ノアは忍び笑いは漏らすわ、身体をぺたぺた触って来るわで、やたらと興奮している。
それはともかく、
「いいか。さっき言った【重力】って【古代アーツ語】が鍵だ。俺たちが無意識に地面に戻りたがっているんじゃなくて、地面が俺たちを引っ張っているっていう意識に変えろ。そうすれば飛べるはずだ」
だが一方で、カズィがふとした焦りを見せた。
「ま、待て! その考えや呪文が正しいのはわかったが、いくらなんでもいま教えられた呪文を急に使うなんてのは無理だぞ!」
そう、覚えた呪文を使うには、単語成語に込める魔力の量を覚える訓練が必要になる。
それが、現在の常識だ。
だが、ここにはそれを覆す非常識がある……はず。
「ノア、あれ持ってきてるか?」
「はい。ここに」
「よし、さっすがぁ!」
できる執事は素晴らしい。
ノアはすぐに、懐から魔力計を取り出した。
それを見たカズィが、眉間にシワを作る。
「なんだそれ?」
「それは魔力の量を測る計測器だよ」
「は……?」
その言葉を聞いて、またしても呆気に取られるカズィ。
やがて、驚きから回帰したらしく。
「お、おい、いくらなんでも嘘、だろ?」
「嘘でも冗談でもない。ほら、魔力を出すと……こうして中の物質が反応して膨張する」
魔法銀が膨張するさまと、木枠に備え付けの目盛りを見て、カズィは目を丸くする。
「こんなもの、いつの間に開発されたんだよ……」
「これはアークス様がお作りになったものです」
「これを? こいつが? おいおい冗談だろ……このガキどんだけ」
カズィが言葉を失っている間に、ノアから紙とペンを受け取って、呪文を記していく。
「単語、成語の必要魔力量の総数は427。言葉の順に30、25。汝~脱せよまでの間で170。『抗するものは重力』については細かいんだが、62が使ったときに一番具合がいい。あとは――」
説明を交えながら、魔力量も記載。
ノアについては、魔力計を使い始めてからすでに二年経っているため、込め具合の感覚はお手の物。
「では、お先に私が」
ノアはそう言って、飛行の呪文を唱える。
やがて、自分のときと同じような現象が起こり、ノアの身体が中空に浮かび上がった。
「よ、と……。ふむ、これは」
魔法は成功したのにもかかわらず、何故かノアが難しい顔をして唸る。
「……これで自在に動ければどんなに楽しいことか」
「即興で作ってもいいけど、そうなると少なくともさっきノアが唱えた呪文の倍は長いぞ。しかも制御に難ありで」
「それは……込める魔力量から考えても実用的ではありませんね」
呪文が長くなれば、それだけ込めなければならない魔力量も、増える傾向にある。
「単語や成語よりも、呪文を強化する法則とか、いろいろ必要なんだと思う。いまは諦めてくれ」
「そのうちお願いします」
「研究の方、手伝ってくれよな」
「ええ、是非とも」
ノアとそんな話をしつつも、先んじて窓の外に出る。
高所であるためか、地上よりも風が強い。
飛ばされるということはないにしろ、邪魔ったるさは否めない。
まだ姿勢制御に多少の難があるため、窓枠を掴んで位置を取る。
この状況と重なるのは、男の世界のテレビで見た、宇宙飛行士の姿だ。
無重力下の宇宙ステーションで、内装を掴んで姿勢を制御するアレである。
一方、カズィは窓の下を覗き込んで、ごく、と唾を飲み込んだ。
飛行の魔法を使うのに、たたらを踏んでいる。
それも当然だろう。ここは高い。既存の魔法のように、降りる途中で浮力を失ってしまえば、決して助からない。
だからこそ、その『もしも』を考えてしまうのだ。
眼下を吹きすさぶ風が、困窮の泣き声をあげている。
やはり、こんな場所でぶっつけ本番をやるのは難しいか。
そう考えた折――
「ええいこのっ、もうヤケだっての!!」
カズィはそう言って、メモに書かれた呪文を口ずさむ。
何度か口ずさんで呪文と語感を覚えた折、今度は魔力計だ。
魔力の制御については達者らしく、すぐに魔力量の感覚を掴み――本番。
『――地を這う者よ。行く者よ。汝、奈落への引き手の戒めに逆らい、大気の圧政から脱せよ。抗するものは重力。引き手の数多ある腕の一つなり。さすれば汝、翼を得、空を見下げる飛翔を成さん。――浮きやがれ!』
【――飛翔への一歩】
まばらに浮かび上がった魔法文字が、緑風を生み出し、柔らかな渦をなす。
無事、カズィの身体は宙に浮かんだ。
しかし、呪文の効果に疑念を抱いていたのか、目を丸くしている。
「と、飛んだ……」
「ほらな」
「おい! これ本当に大丈夫なんだろうな!? 途中で効力失うとかないだろうな!」
「大丈夫大丈夫」
そう言って、エキサイトするカズィをなだめすかし、腕を掴んで窓の外へと引き込む。
そして、浮かんでいる感覚に慣れたあと。
「降りるときは【下に】って言うとゆっくり降りる。あまりに何度も言い過ぎると勢いがすごくなるから、俺に合わせて唱えてくれ」
パラシュートなしのスカイダイビングが始まった。