第二十七話 侯爵の思惑
王国において貴族とは、国王から爵位や官職、領地などを保証、もしくはそれらを与えられた特権階級のことを言う。
血統が社会的に「高貴」と追認されたうえ、それが世代を重ねて周囲から継続的に「高貴」と認められるものでなければならないが、庶民と比べると明確な地位的格差が存在し、差別が容認されている。
職務については、国家の政務、財務、軍務など、国にとって重要な仕事に従事するのが本分とされ、それと並行して領地経営を行うというのが、彼らの基本的なスタイルと言えるだろう。
武官貴族はそのまま、軍務に従事するのがその役目だ。
国王の所有する近衛や国軍に加わり、大なり小なり指揮権を与えられる貴族。
他国と接する辺境に領地を持ち、有事には私兵を動かして国を守る貴族。
前者はアークスの伯父であるクレイブで、後者はクレメリア伯爵だ。
レイセフト家自体は、クレメリア家の代々の補佐であり、伯爵の領地と近い場所に領地を与えられている。そのためアークスの父ジョシュアは、後者に当たると言えるだろう。
一方で文官貴族は、宮中や各省庁で政務に携わる貴族だ。
彼らは官僚のようなものと言えばわかりやすいだろう。
カーウ・ガストン侯爵も、この文官貴族に当てはまる貴族で、主に王国の財務を担う業務に従事している高級官僚である。
これらの官職は試験制度によって得られるものではなく、すべてが上位者の決裁によって左右されるものだ。要は個々人の能力を鑑みた配置ではなく、コネクションによって賄われるものであり、ともすれば不正の温床になりやすい土壌であると言える。
「――書類がいくつかなくなっただと?」
そんな怪訝そうな声を上げたのは、先日リーシャが訪れた夜会の主催者、カーウ・ガストン侯爵だった。
年齢は老境に差し掛かっているにもかかわらず、見た目は脂の乗った中年さながら。
豪勢そうな金色の髪を持ち、カイゼル髭は美しい曲線を描いている。まなじりは鋭く切れ上がっており、そこから窺えるのは厳しさ、気の強さ、そして抜け目なさ。
手には火の付いた吸い差しの葉巻。
指にはゴロゴロとした宝石があしらわれた指輪がいくつも。
腰掛けている革張りの椅子には派手な毛皮が掛けられ、質素とはまるで無縁。
脇には先日の夜会で貴族たちの度肝を抜いた【ヘイフウ】なる大型のネコ科の獣が、侍るように伏せている。
場所は彼の屋敷の執務室だ。ダークブラウンの執務机の下には細やかな刺繍があしらわれた真っ赤なカーペットが敷かれ、内装は大広間にも負けず劣らず。絵画や彫刻、輝煌ガラスの照明、背後には紋章入りの旗が交差されている。
ガストン侯爵の前にいるのは、屋敷の管理を任せている使用人の一人だ。
時刻は昼すぎ。午後一番に行われた彼からの報告で、書類の紛失が発覚した。
使用人の失態に対し、侯爵は仕事の手を一旦止めて、銅鑼声の叱責を響かせる。
「一体何をやっているのだ!」
「申し訳ありません」
「謝って済む問題か!」
ガストン侯爵の怒声に、使用人は深々と頭を下げて書類紛失についてを謝罪。ひとしきり侯爵の怒りを一身に浴びたあと、彼の溜飲が下がったのを見計らって切り出した。
「閣下。ただなくなったにしては、不審な点がございまして」
「不審な点だと?」
「は。書類が収納してあった場所に、荒らされた形跡が」
「……ならば、その書類は外部の者に持ち出されたということか」
「おそらく」
「それで、無くなったものはどういった書類なのだ?」
「はい。それは――」
それから使用人が口にしたのは、侯爵が行った汚職を匂わせる書類や、金銭授受の記録についての話だった。
使用人から一通りの説明を聞いた侯爵は、落ち着いた様子で吸っていた葉巻を灰皿ににじる。
「フム……その程度のものであれば、問題なかろう」
侯爵は証拠が盗まれたにしては、冷や汗の一つも流さず、態度は余裕の一言。その様子から、侯爵にとってそれらの証拠が取るに足らないものであることが窺える。
つまり、不正の証拠となり得るものではあるが、侯爵の権力があれば揉み潰せる程度のもの、ということだ。
しかし、その中には当然、見過ごせない物もあり、
「あとは裏帳簿の一つもなくなっていました」
「……それはよろしくないな」
侯爵の表情に陰りを呼び込んだのは、やはり裏帳簿の存在だ。
これは、国に納めなければならない税を少なくしていたことの証拠となる。
だが、侯爵にはまだ余裕があった。これ一つ露見したところで、まだ身の破滅には至らない。間違っただけと白を切り通し、改めて正しい税を納め、関係する役人に鼻薬を嗅がせればいいのだ。
だが、一度露見すると監視が強くなるため、できれば表には出したくはないものでもあった。
「いつなくなったかは見当が付いているのか?」
「おそらくは先日の夜会のときかと思われます」
「あのときか……」
夜会には要人が訪れるため、警備はいつも以上に強化されるが、招待客の出入りも多いため、目が行き届かないこともしばしば。特に今回の夜会はいつも以上に気合を入れたため、かなりの人数が集まった。
ネズミが行動を起こすには、格好のタイミングだったということだろう。
「……やはり監察局の手の者か?」
「は。最近になって屋敷内で怪しい動きをしている者がいるという報告を受けておりましたので、おそらくはそうではないかと」
「間者の真似までするか。忌々しい限りよ……」
監察局。王国において、王が布いた法を貴族が正しく守っているかどうかを監視する、王家の忠実な狗どもである。ときには外から、ときには内から、貴族が不正を行っていないかどうかを調べ上げるという。
恒常的に不正を行っている侯爵にとっては、憎たらしい者たちだ。
苛立ちの言葉を吐いたものの、しかし侯爵は冷静さを保っていた。当主になったときから汚職に手を染めていた彼にとって、こういった危機は初めてではない。
「それで、その者の所在は掴めているのか?」
「は。すでにそれらしき者の身柄は押さえてあります」
「押さえているだと? どういうことだ?」
侯爵は怪訝な表情を見せる。盗人を押さえているにもかかわらず、証拠が無くなったという報告が上がるのは矛盾している。身柄を確保しているのならば、盗られたものも押収しているのが普通だ。
しかし、取り戻したという話にはならなかった。
「それが……身柄を押さえられる前に手元から放していたようで」
「ではすでに証拠は監察局に渡ったということか?」
「いえ、そういうわけでもないようなのです」
「ふむ……では間違った者を捕縛したのではないのか?」
「その辺りも、現在取り調べている最中でございます」
使用人の言葉を聞いた侯爵はしばし沈思する。
そして、
「……そうだな。夜会のときになくなったのであれば、すでに城に召喚されてもおかしくはない」
盗まれたと思われる日から数えて、すでに数日が経っている。告発までの準備があるとしても、監察局の手に渡っていれば、先方から何かしらのアプローチがあるはずだ。
だが、実際は何もない。
となれば、その盗人がどこかに隠したということが考えられる。
「尋問はどの程度まで進んでいる?」
「すでに行っていますが、なかなか口を割らず……」
「手荒になっても構わん。必ず囀らせよ」
侯爵がそんな命令を下した折、ふと使用人が口を開く。
「その、書類の行方に関してですが、他の者から気になる話を」
「なんだ?」
「当日受付を担当した者に聞いたところ、レイセフト家の息女が訪れた際には持っていなかった荷を持って帰っていたのを見たと」
「レイセフトの息女だと? 何か土産物を持って行ったのではないか? 招待客のためにいくつか用意したであろう?」
「は。ですが、用意したものとはあからさまに違うものだったようで」
「どんなものだ?」
「ドレスにはまるで合わない黒鞄だったそうです」
「む……」
侯爵は首を傾げる。レイセフト家の息女とは、夜会の日に初めて会ったが、まだ十歳程度の少女だったと記憶していた。子供が監察局の狗の仲間というのは、まず考えにくいことだ。
だが、
「もしその荷が盗まれたものだったとして、どういったことが考えられるか?」
「監察局の間者が、何も知らぬ子供に預けた……と言ったところでしょうか」
「そうだな。やはりそれ以外ないか……」
実に面倒な状況になったと、苦い顔を見せる侯爵に、使用人は今後の方針を訊ねる。
「いかがいたしましょう? レイセフト家に連絡を取り、返却をお求めになられますか? もちろん中身については伏せる形でです」
「いや、それでは駄目だ。ジョシュア・レイセフトに中身を確認される。そうなれば、潔白を旨とする東部の軍家のことだ。すぐにでも、ことが露見するだろう」
東部軍家はクレメリア伯爵の下で結束している。みな不正を好まず、徹頭徹尾誇り高い貴族であろうとする頭の固い連中だ。中身を見れば間違いなく、司法の手に渡るだろう。
……東部を中身から切り崩すはずが、こちらが切り崩されては本末転倒だ。
侯爵は、聞こえよがしに大きなため息を吐く。
「……やれやれ、困ったものだ。私も東部の面々と表立ってことを起こしたくはないのにな」
「では」
「密かに子爵の息女を呼び出して、やんわりと返してもらえるよう手配せよ」
「やんわりと、ですか?」
「やんわりと、だ。その辺り、測り違えるなよ?」
侯爵はそう言って、些事は終えたとばかりに再び仕事に戻る。
……その使用人が影で、ニヤリとほくそ笑んだことも知らずに。