第百六十話 聖賢聖賢また聖賢
「……講義に行ってくるです」
メルクリーアはふらふらとした歩調で、たまり場を一人出て行った。
もっとずっとだらけていたい、という意志が全面に現れた背中だが、それを引き止める力を持った者は誰もいないし、引き止める理由もない。
あれは当分、復活する見込みはなさそうだ。機嫌もきっとあのままだろう。
そんな小さな背中を見送って、スウに訊ねた。
「あれ、大丈夫かね?」
「大丈夫だと思うよ? ストリング講師があんな風になるのは初めて見るけど」
「いろいろ、お仕事に影響出ないといいけどな」
「あんな感じにはしてるけど、きちんとした国定魔導師だから。大丈夫大丈夫」
スウはメルクリーアのことをあまり気にしていない様子だ。
やはり、国定魔導師という肩書きに信頼を置いているからだろう。
メルクリーアがたまり場から出て行ったところで、何の気なしに右腕を見た。
「……俺たちももう時間だな」
「皆さんもう行くんですか? ちょっと待ってくださいね」
セツラはそう言ってお菓子を両手で口の中に目一杯放り込む。その様はさながら木の実を貯めこむ習性を持つリスのよう。相変わらず食い意地が張っていることである。
ふと、リーシャが小首を傾げた。
「兄様、それは腕輪でしょうか。先ほどから随分気にしていますね」
「ん? ああ、これか?」
リーシャは自身が右腕を見ていたのを目ざとく見ていたらしい。
さりげなく、右腕が見えるように差し出す。
右手首には、文字が刻まれた円盤が取り付けられた革のベルトが巻かれていた。
スウもなんだなんだと覗き込んでくる。
「アークス、何それ?」
「時計だよ」
「とけい? 時計ってあの時間を測るあの時計?」
スウは聞いてもあまりピンと来ていない。
そう、この世界にはまだ、この手のタイプの時計は存在してないのだ。もちろん見ればわかるだろうが、突然そんなことを言われても認知と一致しないため、不思議がっているのだ。
追ってシャーロットも覗き込んでくる。セツラはまだもぐもぐしていた。
「影を使ったものとか、水を使ったものとかは見るけど。そういうのは初めて見るわね」
「これはそういったのとは違うものでさ。歯車とかガンギ車で出来てるんだ」
スウが目を輝かせる。
「すごーい。つまりこれ、ずっとこうして動くってことでしょ?」
「刻印具と同じ動力で動いてるんならな」
「こんなに小さくまとめられるなんてすごいよ! 持ち運びもできるし! 便利過ぎるよ!」
「アークス君はそんなのも作れるのね」
「いや、これ俺が作ったものじゃなくて、拾ったんだ」
「そうなの?」
「そうそう。この前の塩の中でさ」
「塩?」
「ほら、例の魔人になった奴が持ってたみたいなんだよ。あの残骸の中から見つけたんだ」
そう、これは魔人の持ち物だったものだ。風で吹き流されずに残った塩の中に埋もれて、あの場に残っていたところを拾ったのだ。
スウが感心したように唸る。
「あの激しい戦いでよく壊れなかったね」
「まったくだ。あの高重力下でも形状を保てるなんて、一体どういう仕組みなんだか」
あのとき、重力の魔法の効力で、範囲内にあったものにはビー玉や豆粒にまで圧縮するほどの力がかかっていたにもかかわらず、何事もなくこうしてある。普通は砕けて粉々になったり、縮んで小さくなってしまうはずだが、そうはならずに原型を留めたのはおろか、こうして機能を損じず、いまも規則正しく動いていた。
何かしらの刻印が刻まれているのだろうとは予測するが――果たして。
スウは腕時計にかなり興味があるらしく、針の動きをじっくりと見詰めている。
「これも、便利だね。ねえアークス、これ構造解明してたくさん作ってよ」
「それは……」
「できない?」
「精密機器だから一度バラすと戻せなくなるかもだしな」
「アークスなら一度見たものなら忘れないから、そういうの大丈夫なんじゃないの?」
「機構を正しく理解していなかったら、正しく戻しても動かないこともあるからなぁ……」
この手のものは、位置やはめ込みが少し狂っただけで動かないということもある。それに精密機械を扱うのには、環境を整えないと壊れてしまう可能性もあるのだ。
せめてもう一つくらい同じ品があれば……いや、そもそもこんな精密な歯車を生み出す技術がないと不可能だ。それには不純物の少ない綺麗な水による部品の洗浄や、同じく不純物の少ない清浄な空気が整った環境が必要になる。
お手上げだと言うように首を横に振った。
「やっぱ無理だな。王国の技術じゃまず無理だよ。小さい歯車も作れないし、それにこれ、たぶんだけど、あちこちにかなり細かな文字で【魔法文字】が刻まれてる」
「でも、これってドネアスから来た間者が付けてたってことでしょ? ドネアスは作れてるってことになるんじゃないかしら?」
「いや、これはドネアスの技術じゃないな。たぶん【魔導師たちの挽歌】の時代の遺物だ」
「どうしてそんなことがわかるのですか?」
「こんな小さくしたものを作れるくらいの技術力と生産力があるなら、もっと他にいろいろな品を作っててもおかしくない。にしてはドネアスにそういうものがあるって話も聞かないしな」
精密機器を作る技術、そしてミリサイズ、ミクロンサイズの細かな文字を刻める技術力があるなら、それこそ様々な分野で応用できるはずだ。それが可能ならすでにこの世界で技術的に優位に立っていてもおかしくないし、まず輸出で荒稼ぎしているはずである。男の世界で言う、時計産業で世界一だった頃のスイスのようなものだ。それがないということはつまり、ドネアスにもこういった技術は存在していないということになる。
「うーん。かなり役に立つと思うんだけどなぁ」
「みんなで正確な時間を共有できるからな。それこそ色んな分野で役に立つぞ。医療関係は特に欲しがるだろうな……」
「ねーアークスー、どうにかできない? ねーねー」
「無茶言うなよ……」
再現を諦めきれないお姫様が、作って欲しいとせがんでくる。だが、不可能なものは不可能だ。そもそもこちらがミリサイズ、マイクロサイズで刻印を施す技術が欲しいくらいなのに、それをやってのけろとは無茶の押し付けも甚だしい。押したり引いたりされても困るばかりだ。
ともあれ、いまは講義の時間が迫っている。
「さて、と。俺は後片付けしてから行くよ」
「え? アークス、いいの?」
「いいよ。どうせ俺は次の時間は行きたい講義ないし。スウはあるんだろ?」
「うん。じゃあ遠慮なく」
「シャーロットも」
「そうね。アークス君、ごめんなさいね」
シャーロットが遠慮がちに謝ると、リーシャがこちらに来る。
「兄様。お手伝いします」
「いや、リーシャも次の講義があるだろ? 準備しておいた方がいい」
「ですが」
「いいからいいから。全部俺がやっとくって」
「……わかりました。ありがとうございます」
そこへ、便乗しようとする者が一人現れる。
「じゃ、私も――」
「あ! お前はちゃんと手伝いに残れよな?」
リーシャの退室に乗じて、このまま自然な流れで去ろうとしているセツラの制服の後ろを掴み、無理やり引き止める。
制服の襟がおかしな感じで首に極まったせいか、セツラが抗議のために振り返った。
「えー! 皆さんはいいのにどうして私はダメなんですか!?」
「今日は何もせずにお菓子食べたんだからお掃除くらいしていきなさい」
「ひどいですー! 横暴ですー! いやー! 誰か助けてー!」
駄々をこねても、解き放つ気はない。
そんなやり取りの最中に、スウたちが出て行った。リーシャは苦笑いのままどうしていいかわからない様子だったが、手で行けと指示すると、大人しく部屋から出て行った。
扉の前に立っていると、やがて足音も聞こえなくなる。おそらくは、もう周りには誰もいないはずだ。
しばらくのあと、振り向いた。
「――で? 話は聞かせてくるんだろうな?」
「はい。ご随意のままに」
「…………」
振り返った真後ろの、先ほどまで騒いでいたセツラの表情は一変していた。
静かな様は、まるで彫像のよう。まったく忠臣らしい神妙さだ。片膝を突いて、臣下のようにこちらの言葉を待っている。
その様子を見て変な顔をしていると、セツラが顔を上げた。
なんの臆面もない、生真面目な表情だった。
「導士様、いかがなさいましたか?」
「いや、すげー変わり身だと思ってな」
「私の役目は、裏と表を使い分ける必要がありますので」
「誰もお前がこんな感じだとは思わないだろうな。ま、一部勘のいい奴がいるから、どうかはわからんけどな」
「スウシーア様のことですね。あの方は初めからそうです」
「そうなのか?」
「はい、ずっとです。初めて会ったときから、私の立ち振る舞いを気にされているような素振りがありました。もちろんそれはここへ初めてきた他の方へ対しても同じですが」
「さすがだなぁ」
スウは勘も良いし、なによりやたらと鼻が利く。生半可な隠し立てなどないようなものだし、少しでもボロが出ると怪しまれるだろう。
それはともあれ、だ。
「お前が俺に近づいたのは、あのアーシュラの命令だったって話だったが?」
「はい。大族長様が、これから導士様とお近づきになるに当たって、身辺を調査せよとお命じになりました」
「勝手に調べられる側はたまったものじゃないんだが?」
「いえ、これは決して聖賢様に害をなすためのものではございません。取得する情報は適切なもののみに限定しております」
「こっちが協力する確証もないのにか?」
「他者の信用を得るには、まず自分から信じて動かなければならない。というのが大族長のお考えです」
「ふむ……」
思案するように目を伏せる。あのアーシュラという女はよっぽど『導士』という存在を重視しているらしい。それだけ期待が大きいのか、そこまでヒオウガ族にはのっぴきならない事情があるのか。
「…………まあ、俺も二人を呼んできてもらって助かったしな」
「それはなによりでございます」
「お前はこのまま、俺の周りにいると?」
「はい。それが大族長の命令ですので。また何かあればお申し付けくださいませ」
セツラは膝を突いたまま、頭を下げた。
恭しい。しかし、こちらの言うことを聞くとはいっても、先ほどの言葉の通りならば、優先されるのは大族長の命令だ。やはり、爆弾は爆弾らしい。
だからと言って、気にし過ぎていてもしょうがないか。
「……ま、勝手にすればいいさ。ミリアみたいに敵側に回らなければ構わんよ」
「導士様を敵に回すなど恐れ多いことにございます」
「そうかね? 俺みたいなガキ一人、組織立って動けばどうにかなると思うけどな」
「いえ、あの強大な魔法を見せられれば、誰もそうは思わないでしょう」
「…………」
あの強大な魔法。それはつまり、魔人に対して使ったもののことだ。
重力制御系攻性魔法、【黒点を穿つ】。
副次的な効果でさえ、意図した物をビー玉大に圧縮する力があるのだ。
見た者にかなりの衝撃を与えるのはまず間違いないし、あのとき場に居合わせた講師や生徒たちの反応を見れば、それは自明の理というものだ。
腕時計に視線を落とす。
「……ちなみにこれ、ドネアスにはないよな?」
「はい。私も聞いたことがありません。おそらくはあの男が個人で遺物を見つけて、所有していたということでしょう」
「だよな。もしそんな技術があったら今後マズいことになるかもだし」
「何かご懸念でも?」
「なんとなくだけど、今後ありそうなことを考えるとなぁ……」
これはすべて自分の憶測、勝手に想像を膨らませた結果の憂慮だ。
もし今後、今回の件で王国がドネアスに賠償を迫った場合、どうなるか。
そのうえで、ドネアスが支払いを拒んだ場合、どうなるか。
王国とドネアスの間で、戦争が起こる可能性があるのではないか。
無論そうなるにはまだまだ条件が必要だが、時計を量産できる体制があれば、王国は時間を密に、正しく合わせられる相手と戦うことになる。そこから被る戦いの不利たるや、言わずもがなだ。おそらく魔力計の優位など簡単にひっくり返ってしまうだろう。オートマチックな時計というものは、それだけの実力がある。
見えないものを目に見えるようにすることの難しさは、魔力計で身を持って知っているが、やはり驚異的なものだ。
……アークスは適当に掃除をしたあと、たまり場を出る。
瞬間、セツラの表情が変わった。
先ほどの神妙な表情からまったく打って変わって、表情豊かなものになる。
セツラが演技過剰に胸を張った。
「まったくアークスさんはしょうがないですね。やっぱり私がいないとダメなんですもん。ふふふ」
「……俺はお前がこえーよ」
何とも言えない微妙な視線を向けていると、セツラはぺろりと舌を出して悪戯っぽい笑みを作った。本当に筋金入りだ。ある意味この少女が、ここ最近で一番の強敵かもしれない。
なんというか、自分の周りには一癖も二癖もある人間が多すぎるのではないか。
だがそれももうどうしようもないかと、諦めのため息を吐いて歩き出す。
セツラは何も言わずに後ろを付いてくる。
魔法院の廊下では、講義のない生徒たちが掃除をしていた。
これはまだ、先日の事件の爪痕が残っているためだ。あの増殖する肉塊が、ぬたりぬたりと這いずった跡が、雑なモップ掛けをしたように床や壁、天井に見て取れる。生物的が持つような組織液じみたシミは、そうそう簡単には取り除けないらしい。一生懸命擦るくらいなら、大人しく魔法を使えばいいものをと思うのだが、清掃の魔法を使うつもりはないらしい。むしろ魔導師の性質を考慮すれば、そんな魔法など知らない者の方が多い可能性もあった。
歩いていると、声が聞こえてくる。
――おいあそこにいるの、アークス・レイセフトだぞ。
――なんかこの前の騒動で活躍したって話だよな?
――俺、あのときの戦い見てたぜ。とんでもない魔法使ってた。
――とんでもない魔法って……魔力量少ないって話だろ? どういうことだ?
……魔法院の生徒たちが、遠巻きにひそひそと話をしている。
耳元でセツラの口が悪戯っぽく動く。
「アークスさんったら、有名人ですねー。入学試験でも首席なうえに、今回は大活躍でしたから」
「あーあ、なんであんなことになったんだかなー」
「それは生まれを呪うしかないのでは? ど う し さ ま?」
そんな含みのあり過ぎる発言に、横を向いて目を細く鋭くしてみても、当人はまったく何も効いていない様子。ニヤニヤとした笑顔を浮かべては、身体を傾けこちらの顔色を楽しそうに窺っている。一体どちらが彼女の本物なのだろうか。これが演技だというなら、徹底はもとい、いささか以上に過剰ではないだろうか。
ともあれ。
「……魔人のことはクラキの予言書にも書かれてた話だったしな。俺はもうあの紀言書を見るのが怖いよ」
「見ようが見まいが変わらないと思いますけどね。むしろ読んでおいた方が今後のためになるのでは?」
「頭痛い……」
「あはは……それはお察しします」
セツラもさすがそこは茶化さないか、苦笑いを見せながら、同情の言葉をかけてくる。
――そもそも、そもそもだ。聖賢の導士というのは一体なんなのか。自分はこの存在のことを知っているようで、実はあまり詳しくない。
「聖賢の導士アスティア。三聖のうちの一人で、少ない魔力をその知恵で補い、数々の危機を乗り越えた賢人……だったか」
「そうですね。他の三聖と一緒に多くの怪物を退け、それらを打ち倒し、人々に安寧と繁栄をもたらしたと書かれているようです」
「わかってるのはそれくらいだよな」
「ですね。でも持っている知識なんてそのくらいでいいのでは?」
「そうかなぁ」
「だってアークスさんも似たような感じじゃないですか」
「そうかぁ? 作った魔法で苦難は乗り切ってはいるけど、知恵とかはそこまでないぞ?」
こちらがそう言って、眉間にシワを寄せていると、セツラは思いがけないことでも聞いたというように、目をパチクリさせる。
そして、なんとも含意のありそうな息が吐かれた。
「何言ってるんですかねこの人。魔人と戦っているときも、よくわからない理論で追い詰めてたって部下も言ってましたよ?」
部下……部下か。この少女にはリアルにそういうのいるらしい。そういえば改めての自己紹介の折、ヒオウガなんたらとは言っていたが、セツラはこれで氏族の中でなかなか重要なポストにいるのかもしれない。
「まあ確かにあのときはそうだったのかもな。でもあれは常識の範囲だし……」
「アークスさんの常識は私たちの非常識です。そもそもどうしてそんなこと知ってるんですか? 魔力計とかあのすごい武具とか、『えあこん』とか『れいぞうこ』とかもそうです」
「いろいろあるんだよ。いろいろとさ」
「むむむ、聖賢を遥かに上回る頭脳とあのとき言われていましたが」
「それは言い過ぎだって、てかあのときのこと知ってるのか」
「はい。あのろきすでに私、あそこに潜んでましたので」
ぺろりと舌を出すヒオウガ族の少女。悪戯を告白した子供のような稚気溢れる仕草だが、やっていることがやっていることなので、可愛くもなんともない。
確かに状況を考えると、改めて出てくるのも難しいか。人知れず潜入できるとは、あの男の国の忍者か何かを想起させる。
セツラと立ち止まって話していると、また会話が聞こえてきた。
――この前の戦いって言えば、スウシーア様もすごかったよな。
――すげー剣術だったよな。確かあれ、古式二剣流だっけ?
――ストリング講師も言うこと聞いてたし、アルグシア家ってそんなに権力あるんだっけ?
――ばっか。王家に次ぐ力を持つ公爵家だぞ?
スウの話が、流れ伝わって来る。
セツラがおもむろに首を傾げた。
「スウシーア様。あの方も謎ですよね。アルグシア家というのも妙なお家ですし、一体何者なんでしょう?」
彼女がその辺りのことに言及すると、どうにも嫌そうな顔が止められない。
「お前さ、頼むからあいつのことは嗅ぎ回ろうとするなよな?」
そこで、セツラは何かに気付いたように手を叩く。
頭の上に電球の幻が見えたような気がした。
「そうですよねー。アークスさんにとって、スウシーア様は大事な人ですもんねー。心配ですよねー」
セツラはそう言うと、ウリウリと肘で横腹をグリグリしてくる悪友ムーヴをかまして来る。冗談で有耶無耶にできる話ではないのだ。
「茶化すな。お前もマジで危なくなるんだからな」
「そうなんですか?」
「たぶんな。ラウゼイ長官と全面衝突したくないなら絶対やめろ」
「……監察局の長官ですか? スウシーア様とは何かご関係が?」
「俺も詳しくは知らないけど、姫様って呼んで付き従ってるときがある」
「そうですか……部下からも監察局の長官は強者だと報告を受けています」
「そうだ。あと、もしかしたら国定魔導師とか出張って来るかもしれないしな」
「それはさすがにあり得ないのでは? 国定魔導師は国王シンル・クロセルロードの命令がないと動かないはずです」
「みんなスウにも結構恭しくしてたからな。メルクリーア様とかもそうだし、ギルド長とか伯父上とかも、スウのことかなり丁重に扱ってるんだよな。もしかするともしかするぞ。王国とヒオウガ族を敵対関係にさせたくないなら絶対やめとけ」
「…………はい」
さすがにそれは望まないだろう。セツラも両手を上げて降参のポーズ。大人しく了承した。
そんな話をしていた折、前から一団がやって来る。
あの男の世界であった、医療と医療裁判を扱ったドラマの回診シーンを見ているようだ。
先頭を行くのは、金髪を縦ロールにした女子生徒、クローディア・サイファイスである。
こちらを見とめると、おしとやかそうに、優雅に挨拶をした。
「これはアークス・レイセ……ごほん、聖賢様。ごきげんよう」
「ごきげん麗しゅうなんですが……あの、クローディア様? その呼び方は、そのですね」
こちらが指摘すると、クローディアは恥ずかしそうに顔を赤らめ、焦りの言葉をぶつけてくる。
「こ、これはおじいさまから言いつけられているからですわ! 聖賢様に失礼な態度を取ってはならないと! そう言い付けられているから言うのです!」
「だから俺はですね。聖賢ではなくてですね」
未だに往生際の悪いことを言っていると、非難の視線が向けられる。
「あなたはまだそのようなことを言い張るのですか? もう証拠は挙がっているのですよ?」
「え? どこに?」
「いちいち惚けるのですね。墓場に行きました」
「…………ぐふっ」
行ったのか。行ってしまったのか。その話を知っている者のところに。
しらばっくれたが、致命的な衝撃に呻き声が抑えられない。
そう、墓場には、死者の妖精ガウンがいる。妖精とは、双精霊チェインとエッジのしもべであり、それぞれがそれぞれ、特定の事象や概念を司るという。紀言書の一つ【精霊年代】に描かれた時代からこの世を見守る、人知を超えた存在だ。当時のことを知っているし、グロズウェルの話は当事者の一人でもある。
もちろんガウンはあれで口が堅いため、誰にでもは言わないだろうが、クローディアは関係者の子孫である。彼女が確信を持って話を聞けば、おそらく教えてくれるのだろう。
後ろから「あ、ちなみに私も聞きに行きましたよ?」と囁く、小悪魔ムーブをしたがる奴もいる。このヒオウガ族はどうやら後ろから撃つのも得意らしい。
「で、ガウンはなんと?」
「アークス・レイセフトは聖賢なのですかと、お伺いを立てたら、そうだよと、一言だけ」
「…………」
確定した。妖精は嘘を吐かない。ずーんと気分が重くなる。
「どうしてそんなに衝撃を受けているのですか? 普通は舞い上がったりするものでは?」
「その前に大変な目に遭うのがわかりきっていますので……」
「それは……お察しいたしますわ」
やはり誰も彼もがそんな反応だ。せめて目を逸らすなと言いたい。あっちもこっちもだ。
ともあれ、呼び方の話。
「でもこのままこうだと、なんかやりにくいといいますか。クローディア様は公爵家のご令嬢ですし、魔法院でも先輩です。やはりお互い外聞がよろしくないと言いますか」
「そうですわね……」
「院長閣下が見ていないところでは以前のようにする、というのはどうでしょう?」
「それは、一つの手ではあるでしょうが……」
クローディアは葛藤しているのか、首が縦に動かない。やはり敬愛する祖父の言葉には逆らうわけにはいかないらしい。だが、四公と呼ばれる家の人間が傅くような態度を取っていれば、どんな噂が流れるか。無用なトラブル。そんな言葉が、脳内を巡って離れない。
「……アークス・レイセフトが聖賢様だとしても、わたくしの態度以外特に何か変わるわけではありません。しばらくはこのまま様子を見ましょう」
「は、はあ……」
クローディアからそう言われれば、こちらはどうしようもない。
あとでスウに相談してみようかと考えながら、クローディアとはそこで別れたのだった。