第百十四話 リーシャの冒険その一
――リーシャ・レイセフトは、王国は東部にある、レイセフト家の領地に存在する、とある森にいた。
レイセフト領の奥地にあるこの森は日中でも薄暗く、鬱蒼としているというだけでは決して説明のつかない暗さを抱えている。
この一帯は、王国の中でも植生が異なる地域だ。北東の端から続く大陸の背骨、クロス山脈由来の植物が自生しており、木々の葉はどれも緑ではなく紫や黒を帯びていて、木肌は枯れ木のように灰色を呈する。
木々には蔓が巻き付き、その蔓が他の樹木を巻き込んで木と木の間隔を狭めることはおろか、日の光をさらに遮る始末。
そのせいで晴天時でもかなり暗く、曇天となればほぼ夜のような様相を呈する。
さながら、暗黒の密林だ。
足元の水溜まりは周りの景色のせいで、晴れた日でも黒く見え。
どこもかしこもその臭水めいた水で湿気っているという有様。
暑さと湿気のせいで、訓練された者でなければ一日と過ごすことはできないだろう。
リーシャが歩くのは、獣道のような頼りない小道だ。
キャンプを出てはや二時間。道らしき道はすでになく、山林を開墾する開拓者になったような気分を味わって久しい。
いまは軽装の上に泥や砂を除けるマントを羽織り、足元は水の染み込まない加工を施したブーツを履いている。
そんな彼女の後ろには、二人の男が付き従っていた。
一人は無精ひげを生やした中年前男だ。のっぽで大柄。革製の胸当てなど軽装に身を包む一方で、身体は随分と鍛えられているらしく、見た目からも引き締まっていることがよく窺える。顔は飄々とした笑みを浮かべており、斜に構えた態度を崩さない。
もう一人は、黒の外套を羽織った寡黙な青年だ。頭にはバンダナを巻き、口元は外套を深く被っているため見えず。中年前男と違ってこちらは言葉もあまり発さない。ただ時折、周囲に向ける眼光がひどく鋭くなるくらいのことが、リーシャが掴める特徴か。
彼らは、リーシャの護衛のようなものだ。
父ジョシュアの命令で付けられた、子飼いの傭兵である。
二人とも腕利きで、よく頼りになるというのが父の評だ。
事実、この二人は立ち振る舞いに隙はないし、動きも機敏だ。
機知富み、知識にも優れ、王都からの道中はこういった場所での生存術に関する話なども頻繁に教えてくれた。
いまも周囲を警戒しながら、リーシャのことにも気を配っている。
鬱蒼とした密林を進んでいると、やがて開けた場所に出た。
黒土の地面が広がる空地。木々はないが、黒い水たまりが各所に落とし穴のように点在している。
地図によれば、目的の場所まであと少しというところだ。
「――お嬢様、近くに獣がいますよ」
そんな風に、警戒の声をかけてきたのは、無精ひげの中年前男だ。
さりげなく、周りに警戒しろ、戦闘になるかもしれないと教えてくれる。
「わかるのですか?」
「ええ。臭いと微妙な雰囲気で……って奴っすかね。近づくと、わずかに独特の獣臭さがしますし、耳を澄ませると、ほら、食い物を前にした犬みたいに、荒い呼吸が聞こえてくるでしょう?」
「匂いと音、ですか……」
彼の言葉を聞いて、五感に意識を集中させると、確かに言う通りそんな匂いと気配が感じられた。
身体を洗い忘れて久しい愛玩動物の発する、小便の混じったような臭い、と。
まだ躾も行き届いてない猟犬の目の前に、エサを置いたときのような息遣い、がだ。
「確かに感じます」
「でしょう?」
「すごいですね。すぐ近くというわけでもないのに、こんなことがわかるなんて」
「ええまあ、それが仕事ですもんで。こういうことに敏くならないと、この仕事はほんと呆気なく死んじまいますから」
中年前男とそんな話をしていると、今度は寡黙な青年が動いた。
手を前に出して、こちらの不用意な動きを制するような挙動を見せる。
「……近づいてきています。お気を付けを」
「ふむ。で、お嬢様。いかがいたしますか?」
「戦闘なら、私も戦います」
やがて、茂みをがさがさと揺らしながら、獣が姿を現す。それは番犬や猟犬を一回り大きくしたような獣だった。体毛の色はまだらで、薄汚れた風な色味が強い。
舌は長く、先に行くほど細くなっており、まるで夜の闇にちろりちろりと舌先を伸ばす、火災の炎を思わせる。
群れをなしているのか、他の場所からも複数、同じ獣が顔を出した。
「……トライブリードだ」
「これが、あの」
トライブリード。
これは、紀言書は【精霊年代】において語られる、妖精の使役獣の眷属が野生化したものと言われている。
リーシャも、レイセフト領の奥地に出没するとは父ジョシュアから聞いていたが、こうして見るのは初めてだった。
「ああ、お嬢様、こいつらなら安心ですぜ。なんせこいつらは賢いから、実力差がわかれば勝手に引いていきます」
「ではどうするのがよいでしょうか?」
「そうですね。じゃあこちらの群れのリーダーであるお嬢様が、あの獣共にも一発で実力がわかるようなお力をお見せすればよろしいかと」
「わかりました。ではお二人は後ろへ下がってください」
「へい。承知致しました」
「…………」
リーシャが指示を出すと、片や暢気そうな声を上げ、片や無言のまま。二人は大きく後ろへ飛び退いた。
やがてリーシャは周囲を一度見まわしてから、魔力を全身に充溢させ、呪文を唱え始める。
『――大なるその身、火身とせしめて、士に変じよ。左に盾持て、右に剣取れ。身体に鎧うは天灼く真紅。四魔結殺。三障落命。相八式。皆その道理に埋没せよ。ならば太祖よ。後塵の炎王よ。我が背をとくと拝するべし』
リーシャの背後に、巨大な火柱が伸び上がる。すぐにそれは形を変え、人型めいた形に固定化する。それはまるで炎の巨人の、その上半身だけが彼女の背後に現れたかのよう。
その炎の巨人の上半身は、リーシャを守るように、巨大な炎の身体とその腕で彼女の身体を囲い込む。
炎の巨人は呪文に含まれている通り、右手に剣を、左手に盾をそれぞれ持っており、リーシャが右腕を払うと、後ろの炎の巨人も彼女の動きに合わせて剣を払った。
それはさながら二人羽織か、パワードスーツタイプのロボットか。
炎の熱によって黒く濁った水溜まりは一瞬で蒸発し、強烈な剣圧によって突風が巻き起こり、木の葉や小枝が風圧で吹き飛んでいく。
しかしてトライブリードたちは、炎の熱と巨人の圧力に屈したらしい。
威嚇の唸り声を上げながら、じりじりと後ろに下がり、やがて後ろ姿を見せてその場から去っていった。
当面の危機が去ったため、リーシャは炎の巨人を消す。
すると、中年前男が飄々とした口調で労いの声をかけてきた。
「お疲れ様です」
「いえ、疲れるほどのことではありません」
「いやまあ、それほどの規模の魔法を使ったんですし……いえ、お嬢様ほど魔力があれば、そうでもないのか」
「確かに、市井の魔導師の基準ですと、かなりの消耗になりますね」
中年前男が感じた通り、市井のごく一般的な魔導師であれば、この魔法の使用も大きな消耗となるだろう。使用時の魔力量は千の数値を超えるし、維持するだけでも魔力を常に消費する。魔力量の平均が二千程度の界隈では、おいそれとは使えない魔法に属するはずだ。
「にしても、レイセフト家の【後塵の炎王の繰り手】ですか。以前、旦那様のお供をしたときにも見ましたが、やっぱすごいもんですねぇ。攻めるのにも守るのにも長けた魔法。これを使って旦那様が大暴れ出したときなんか、あの不気味な氾族の連中が木っ端みたいに吹き飛んで壊滅しちまった」
「レイセフトの始祖が生み出したと言われる呪文です」
「昔の人はとんでもない魔法を作るもんです。いや、国定魔導師の方々も負けちゃあいませんがね」
「ええ。一人一人が相当の使い手だと伺っています」
「……お嬢様、そろそろ」
「そうですね。では、先に進みましょう」
寡黙な青年に促され、リーシャたちは先へと進む。
目指すは、奥地のさらに奥にある洞窟の中だ。
リーシャがこうしてこんな場所に赴いたのには、理由がある。
それは、父ジョシュアの言葉から始まった。
「――リーシャ。突然だが、お前にはこれからレイセフト家の領地に行ってもらう」
王都にあるレイセフト邸の応接室で、ジョシュア・レイセフトは開口一番、そう切り出した。
正面には父ジョシュアと母セリーヌが座り、周りに執事たちと見慣れぬ男が二人控えている。
セリーヌは事情を知らないのか、ジョシュアに不思議そうな顔を見せた。
「あなた、リーシャに一体何をさせるおつもりでしょう?」
「うむ。リーシャにはこれから、レイセフト家の時期当主に課せられる試練をこなしてもらおうと思ってな」
「試練、ですか?」
「年齢を考慮すればまだ早いが、この年頃の嫡子が試練をこなした例もある。なによりリーシャには才がある。多少年齢が低かろうとも、可能だろう」
瞑目して厳かに頷いたジョシュアに、リーシャが問いかける。
「父様、その試練とは?」
「うむ。先ほど言った通り、お前はこれからレイセフト家の領地に赴き、とある森の奥にある洞窟の祠に行ってもらう」
「祠、ですか」
「そうだ。その祠には、そこに行き着いたことを示す証が納められている。その証とこの札を交換して、再びここに戻ってくるのだ」
ジョシュアが札をテーブルの上に置くと、セリーヌがまた不思議そうな顔を見せる。
「あなた。行って帰ってくるだけなのですか? 試練というには随分と簡単なように思いますが」
「いや、森には凶暴な獣も巣くっているし、それは祠のある洞窟も同様だ。一筋縄ではいかない」
「凶暴な獣……それはリーシャにはまだ早いのではなくて?」
「そんなことはない。すでにリーシャは攻性魔法も習得しており、詠唱不全を起こさないほど詠唱技術は熟達している。同じ頃の私と比べても、リーシャの方が魔導師として格段に優れているだろう」
「その辺りのことはわかりませんが、あなたがそうおっしゃるならそうなのでしょう」
「リーシャも、そろそろ自分の実力を見極めてみたいと思っていたところだろう。力を手に入れれば、それを使う機会を欲するものだ。それに、自分の力がわからなければ周囲とも比較できない。それでは今後の向上にも繋がらないからな」
「はい。わかります」
「それに、お前がこれをこなせれば、分家の者からも次期当主として認められる。今後、次期当主としてやっていくうえでも必要なことだろう」
ジョシュアはそう言うと、リーシャに札を渡す。
渡された札は、なんの変哲もないものだ。木製で、大人の手のひら大。表面には【魔法文字】で祈りの言葉が記載されている。
これを指定された祠に納めるのが、レイセフト家の試練。
だが、どうして父は、突然こんなことを言い出したのか。
「その……父様? やはり兄様が……」
ふと、ジョシュアとセリーヌの表情が険しくなる。
――しまった。
と、そう思ったが、二人の表情はすぐに普段通りのものに戻った。
「……そうだ。どんな幸運が働いたのかは知れんが、勲章を授与されたらしい。もしかすれば、それを知って、騒ぎ立てる者もいるかもしれん。今回、試練を早めたのは、それが理由でもある。それと、あれを兄とは呼ぶな」
「…………はい。申し訳ありません」
やはり父は、あの人が白銀十字勲章を授与されたことを気にしているのだろう。
それもあって、この次期当主に課せられる試練を繰り上げたというわけだ。
「ついては、道中の護衛も付ける」
「護衛を?」
「そうだ。この試練は供を付けてもよいということになっている。魔導師なら当たり前のことだがな」
「それで、その護衛の方とは?」
「すでに気付いていることだとは思うが、後ろにいるこの二人だ」
ジョシュアがそう言うと、後ろに立っていた見慣れぬ二人の男が頭を下げた。
「向かって右がラルフ。左がシャウガだ。二人とも腕が立つうえ、気配りもできる」
ジョシュアは先ほどとは変わって、語調を柔らかくする。
二人のことを短めに紹介すると、二人は前に一歩、歩み出る。
無精ひげを生やした中年前男と、黒い外套を口元まで被った青年だ。
「お初にお目にかかります、お嬢様。私はラルフと申します。お見知りおきを」
「……シャウガと申します」
ラルフはリーシャに、気さくな微笑みを向け、シャウガは寡黙な性格なのか、端的に名前を述べてまた静かになった。
「ラルフは少し馴れ馴れしいところがあるが、気をほぐしてくれていると思えばいい。まあ、何か粗相でもあれば尻に蹴りを入れてやっても構わないぞ。むしろ喜ぶかもしれんからな」
「だ、旦那様……」
「なんだ。そう言われたくなかったら、態度を改めろといつも言っているだろう」
ジョシュアの言い様に、ラルフが弱ったような顔を見せると、隣にいたシャウガがぷっと噴き出した。すぐに「……失礼」と言って表情を元に戻す。
「シャウガについては……そうだな。影や空気のようなものだと思えばいい。気を掛けないことが、うまく付き合うコツだ。本人もそう望んでいる」
ジョシュアがそう説明すると、シャウガもコクリと頷いた。
だが、
「それでよろしいのですか?」
「居心地の良さは人それぞれだからな。仕事がしやすい環境を与えられるようにするのも、上に立つ者の度量だ。それは決して、上に立つ者の押しつけであってはならない」
「はい」
「次期当主として、これから人の使い方、付き合い方もよく学ぶように」
ジョシュアはそう言うと、目をじっと見つめ、やがて口を開く。
「リーシャ、洞窟の奥まで行き、しかとその証明を得てくるのだ。よいな?」
「はい! 承知しました!」
「よい返事だ」
……それが、リーシャがレイセフト家の領地へ赴くことになった経緯だ。
その後は、ラルフとシャウガと共に王都を離れ、馬車で十数日をかけてレイセフト領へ入領。領地の代官と顔合わせをしたあと、試練に臨むことになった。
その道中でわかったことだが、ラルフとシャウガは、いわゆる『冒険者』と呼ばれる職に就く者たちだった。
冒険者とは、王国の隣国であるサファイアバーグにいる特殊な傭兵のことで、魔導師たちのようにギルドを組織し、その管理下のもと、貴族、商人、平民に拘らず広範な範囲で様々な依頼を受け、特に護衛や用心棒などを務めるという。
ときには魔物が出現する土地の探索や開拓のための先遣や、古代の遺跡に潜って魔物の掃討などもするらしい。
ラルフ、シャウガともに場慣れしており、どちらも冒険者としてベテランという風格があった。
リーシャは洞窟に立ち入った折、二人に訊ねる。
「応接室では父様と親しげにお話しされていましたが、お二人は父様とのお付き合いは長いのですか?」
「ええ、俺たちレイセフトの旦那様にはよくお仕事を回してもらってましてね」
「……戦にも何度か招聘されたことがあります。供回りですが」
ということは、この二人は父にかなり信頼されている者たちということだろう。
基本供回りは近しい者を付けるのが慣習だ。それは従士だったり、家中の者であったりと、決して裏切ることのない人間を置く。そんな者たちを差し置いて供回りに付けるということは、腕が立つということもそうだが、父からよく信頼されているということになる。
「まさか、ここまで付いてきてもらえるものだとは思いませんでした」
「そうなんですか?」
「ええ。お二人に供をしていただくのは途中の森までで、洞窟の中には一人で行くのかと」
「魔導師に前衛を付けるのは基本ですからね。今回はそれに則って、そういう形にしたんだと思いますよ?」
これについては、別に父が過保護だったというわけではないらしい。
確かに、魔導師には前衛を付けるのが、基本的な陣形の作り方だ。近接戦闘に長けた者に前衛を支持してもらっている間に、魔導師が呪文を唱える。基本中の基本であり、ごく当たり前の考え方でもある。
だからこそ、父はあのとき、「当り前のことだがな」と言っていたのだ。
ラルフは怪訝そうな表情を見せながら、無精ひげを撫でまわす。
「しっかしまあどうしてレイセフトの旦那様は、お嬢様にこんなことさせるんでしょうね。まだ魔法院にも行っていない時分なのに、さすがにちょーっと無茶が過ぎるんじゃないかっていうか……あ、いえ、お嬢様の実力は先ほど見せてもらったんで疑うべくもないことなんですがね」
「……そうだな。いくらなんでも若すぎる」
「お前もそう思うよなぁ。次期当主の証明なんてそんな必要なんかね? お嬢様の腕前を見れば一発だろうに」
「……ああ、あのような魔法、同じ年の、才ある者と言われる者でも、使うことはできないだろうな」
確かに、それはもっともな疑問だろう。同じくらいの年頃の、同じ魔導師系の貴族の子弟であっても、ここまで実戦的な教育はしていないらしい。
代々レイセフト家の教育が厳しいのか、単に父の匙加減なのかはわからないが、他の家でもここまでするところというのは、そうそうないだろうと思っている。
そんな一方で、リーシャは父が突然そんなことを言い出したのに、心当たりがあった。
「……父様はきっと、焦っているんだと思います」
「旦那様がですか?」
「……焦るとは、次期当主のことででしょうか?」
「ええ。私が次期当主として相応しいということを周りによく知らしめたいのだと思います」
「どういうことです?」
「……私に兄がいるのはご存じですか?」
訊ねると、ラルフはどことなく言いにくそうに視線を逸らす。
「あー、えーっと、その、レイセフト家のあの話ですな」
「存じていましたか。いえ、ご存じでしょうね」
「まあ、こうしてレイセフト家に出入りしているといろいろ聞こえてきますし、当時は旦那様も随分お嘆きと言いますか、そんな感じになっていましたから」
「父様の焦りは、その兄様に関係しているのです」
「ご令息が、ですか?」
「父様は兄様を廃嫡し、私を次期当主としました。おそらくはそれで……」
「では旦那様は、その判断が間違いだったと思っているというわけで?」
「いえ、たぶんですが、父様はそこまでお考えになっているわけではないのだと思います。兄様はことあるごとに活発に動きますから……その、なんと言えばいいかわかりませんが、それが父様にとっては目障りなのでしょう。そう感じます」
「……はあ」
ラルフは、要領を得ないというような、理解していなさそうな返事を返した。
「そうですね。私も考えたのですが、廃嫡した者が、庭で遅くまで魔法の練習をしたり、魔法の勉強をしたりすれば、父様は……父様だけではないでしょうが、どう考えるでしょうか?」
「そりゃあ……はあ、なるほど、ちょろちょろされるのが嫌で、叩き潰したくなると。ははん、それで今回、お嬢様の地位を盤石にしよう、ということなんですね?」
「はい、たぶんですが。兄様にはもうレイセフト家の家督に興味などないでしょうが、父様はそうやって兄様に圧を与えようとしているのだと思います」
そう言うと、シャウガが口を開く。
「……旦那様の判断は正しいのでは? こう言ってはなんですが、ご令息は無能なのでしょう?」
「兄様が無能なら、私は道端に転がる石ころでしょう」
「は……いや、いえいえいえ! さすがにそこまでは……」
「兄様は頭もよく、魔法の腕も立ちます。私も常々、私とは比べ物にならないほどの人だと思っています」
「ですが、旦那様はご令息を廃嫡したのでしょう? なら、何か当主にできない重大な理由があったのでは?」
「いえ、ただ魔力が基準より少ないという理由だけです」
「魔力が少ないのは……軍家にとっては致命的なのでは?」
「本当にそうでしょうか? 私はそれがいつも不思議でなりません。何か問題があるのであれば、伯父様だって弟子にはしなかったでしょうし」
「えーと、お嬢様の伯父上というと、王国に名高き溶鉄の魔導師様ですか……って、その弟子って!?」
「……では、ご令息は国定魔導師から直接手ほどきを受けていると?」
「いや、一族のよしみだから、ではなくてですか?」
「初めは確かにそういう理由だったからだと思います」
確かに、いま考えれば、あのとき伯父がそう思ったのも無理はないだろう。
廃嫡された甥を哀れに思って、手ほどきをする。家族のことを大事にするあの人ならば、そう考えてもおかしくはない。事実、あの人が伯父に教えを請うたとき、あの人は魔法の才を発揮していたわけではないのだ。伯父も伯父で、あの人の実力を見抜いたとは考えにくい。
だが、あの人に才があるのは、揺るぎない事実だ。
「父様が今回のことに踏み切った、決定的な理由もあります」
「それは?」
「兄様が、ナダール事変での活躍を評価され、白銀十字勲章を授与されたのです」
「ナダール事変って、確かつい先ごろあった、王国西部での戦のことですか?」
「……確か、西部の貴族が帝国の者にそそのかされて、反乱を起こしたと聞きましたが」
「いや、なんでまた西部の戦になんか」
「兄様は理由があって西に赴かれたのですが、そのときに偶然巻き込まれてしまったそうです。そのときにセイラン殿下を危機からお救いし、戦場でもセイラン殿下の供回りを務め、従士長の首を挙げました」
「首を挙げたって、それは……本当のお話で?」
「はい」
「……先のナダール事変といえば、セイラン殿下の初陣として諸国に、論功式典も大々的に行われたと聞いています」
「白銀十字勲章って言やあかなりの活躍をしないと授与されないものだったはずだ。確か、個人で貰える最上位の一つ下だったような……」
「勲功はルイーズ・ラスティネル閣下、帝国の猛将バルグ・グルバの進撃を食い止めた伯爵と男爵たちに次いで、三等だったと」
「さ、三等って」
「……文句は出なかったのですか?」
「そのようです。おそらく文句が出ないほどの活躍ぶりだったためでしょう。事実、参加した諸侯も認める働きぶりだったと」
リーシャが悲しそうに目を伏せると、シャウガが訊ねる。
「……つまり、それだけのことができるから、お嬢様はご令息の方が当主には相応しいとお考えなのですか?」
「はい。レイセフトの当主にはやはり兄様がなるべきでしょう。もう無理な話ではありますが」
この件に関しては、もはやため息しか出ない。どうしてあれほど頑ななのか。何度考えても、答えは出ない。あの人やガウンが言うには「人間は感情で動く生き物だから」ということだが、自分にはよくわからなかった。
「惜しむらくは、魔力なのでしょうね」
そう、魔力さえあれば。魔力さえあれば、こんなことにはならなかったはずだ。
いや、逆に魔力がなかったからこそ、あの人はここまで力を付けたのかもしれないが。
「俺がこう言うのもなんですが、魔導師はどこも魔力の量を重視しますからね」
「……経戦能力、使える魔法の幅、大魔法。魔力があるだけで、かなり違います。魔力が多ければ、同じ魔導師系の軍家にも侮られることもないでしょう」
リーシャも、二人の言葉は理解できる。理解できるが。だが、これがごく一般的な認識なのだろう。あの人を見れば考え方を改めるかもしれないが、話の上だけではどうしても『魔法が多少使える魔力の少ない少年』から、脱却できないのだ。さきほどの話も、もしかすれば話半分に聞いているのかもしれない。
リーシャが胸の中を遣る瀬無いでいっぱいにしていた、そんなときだ。
シャウガが洞窟の奥に向かって、松明を掲げる、
「……来たぞ」
シャウガが視線を向けた方向に、同じように視線を向けると、そこには奇妙な姿形をした生き物がいた。
生き物――いや、生き物ではなく怪物と言った方が適切だろう。
目の前で目を妖しく輝かせているのは、足がいくつもある蜘蛛の胴体に、人形でも乗せているような不思議で不気味な姿。上半身は常に安定性を欠き、波に翻弄されるクラゲのようにふらふら。体色は蜘蛛の色味をそのまま写したようで、まだら模様をしており、目は煌々と赤く光っている。
……父ジョシュアの話によれば、この洞窟の中に生息する生き物は、平地には存在しないもので、クロス山脈の奥地に出現するという魔物の流れを持った怪物なのだという。
当然、その生態は普通のものではなく、動きや行動も普通の生き物からかけ離れているとのこと。
怪物を見たラルフの顔が、あからさまにひきつった。
「こいつは、か、かむろぐも……?」
「……いや、その流れを持った生き物だ。あれとは違う」
「そ、そうだよな。違うよな、呪詛もまとってねえし…………やれやれびっくりさせないでくれよ」
シャウガの言葉を聞いたラルフは、心底安心したように言葉を漏らし、しかし硬質な表情を崩さない。警戒心は高いのか、息をひそめたように呼吸音を抑制しながら、視線は常に怪物へと注がれている。
「その、かむろぐも、とは、あの怪物のもとになったという魔物ですか?」
「……ええ。とてつもなく恐ろしい魔物です」
「かむろぐもと違って全身真っ黒で……もっと不気味なんですよ。姿が似てるからついつい勘違いしちまいましたがね」
いま目の前にいるこれも随分と不気味な見た目だが、ラルフの言ったような真っ黒の単色ではなく、きちんとところどころに色味がある。ただ、上半身の人型が綿の詰め込まれた人形のようにふらふらとしているため、ひどい気持ち悪さを覚える。
「……かむろぐもは、一匹倒すのに、前衛を揃えつつ、魔導師が五、六人必要になります」
「シャウガ、こいつは?」
「……俺たちだけでも十分倒せる相手だ。そもそも魔物でなければそこまで脅威でもないだろう」
「そうだな。確かにそうだわ」
ラルフは松明を片手に持ったまま、洞窟内でも取り回しのしやすいサブの剣を引き抜く。
相棒のシャウガは撃剣使いなのか、外套の裏から投擲用の剣を取り出した。
シャウガの話によれば、これは〈ひとぐも〉というものらしい。さきほど話に上った〈かむろぐも〉の流れを持った存在で、蜘蛛のような下半身が移動を受け持ち、上半身が蜘蛛の胴体から生えた槍のような棘を用いて戦うのだとか。
普通の獣では考えられないような生態だ。いや、本当に生き物なのかさえ疑わしい。
現れた数は、三体。計六つの赤い目が、こちらを見ている。
その視線に晒されていると、怖気が涌いて仕方がない。
まるで虫が背中を這っているかのように全身が総毛立つ。
〈ひとぐも〉は洞窟のなだらかな壁面でも、足がいくつもあると体勢は盤石なのか。姿勢を崩すことなく、下半身の蜘蛛が、がさがさ、がさがさと縦横無尽に這い回る。
「……お嬢様、お気を付けを」
「はい。まず魔法を使います」
そう言うと、すぐに光源を生み出す魔法を使う。
『――浮遊する魂。触れても燃え移らぬ陰火。ものは静かに仄めく』
魔法陣から、黄緑色に輝く光の玉が数個飛び出すと、それは宙を漂いながら洞窟内を照らし始めた。
昼間とまではいかないが、洞窟内にかなりの明るさが保たれる。
これで松明を持たなくても視界を確保することが可能になり、前衛は両手を自由に使えるようになった。
ラルフは視界が確保された瞬間、松明を投げ捨てて一番近い〈ひとぐも〉に躍りかかる。
剣の腕も立つのか、機敏な動きを見せる怪物相手でも一歩も引けを取ることはない。
一方でシャウガは、リーシャに寄り添うように位置を取り、投擲用の剣を投げつつ〈ひとぐも〉たちをけん制する。
この中で最も火力を発揮できるリーシャはと言えば……閉鎖空間内での魔法戦に関する注意点を思い出していた。
洞窟のような閉鎖空間では、火を扱う魔法は厳禁と言われている。火は空間内の空気を減らすため、その手の激しい魔法を使うと気を失ってしまうことはおろか、そのまま命を失う危険すらあるという。それに加えて空間が限定されているため、威力のあり過ぎる魔法も使えない。これは仲間に影響が出る可能性も考慮しなければならないからだ。
『――足元を脅かす剣の審判。これ敵を引き裂き貫く苛烈なり。いま眼前を啓くために、我らが大地に願いよ届け』
――【石鋭剣】
これは、父に南部魔導師の集会に連れていってもらった際に覚えた魔法だ。
南部魔導師たちが使う基礎ともいうべき魔法の一つで、集団戦でよく使用されるという。
ラルフの近くにいた〈ひとぐも〉の真下に地面に魔法陣が構築される。
異変を感じ取った〈ひとぐも〉の下半身は飛び退くも、そこから一瞬早く石の巨剣が突き出された。
巨剣は串刺しにこそしなかったが、足の数本を斬り飛ばす。
足元の均衡を失った〈ひとぐも〉に、ラルフが猛然と襲い掛かった。
「うぉらっ!!」
上半身の人型の腕を斬り飛ばし、無防備になったところを下半身の頭部に剣を突き立てる。どうやらこの〈ひとぐも〉という怪物は上半身が付属品で、下半身の方が本体らしい。
一方でこちらは、再度【石鋭剣】の魔法の準備に取り掛かる。
……この状況で使うならば、こういった魔法が適切だろう。蜘蛛の身体は這いつくばるため面積が広く、当たりやすいし、魔法で生み出された石の剣は外れても〈ひとぐも〉の機動を阻害する。動きが鈍れば、ラルフやシャウガのいい的だ。
リーシャはそのまま、援護じみた魔法攻撃で、怪物たちを追い詰める。あるいは土壁を立ち塞がらせ、あるいは先ほどのように石の巨剣を突き立てる。
火力が出せなければ、重量で攻めればいいというように。
〈ひとぐも〉が迫りくれば土の防壁を生み出して足止めを行い。
その裏側を突くように【石鋭剣】を突き立て。
〈ひとぐも〉がラルフから距離を取ろうとすれば、その背後に土壁を隆起させ。
近場の〈ひとぐも〉には足止めとばかりに、低位の魔法で足元を凸凹にして機敏な動きを封じにかかる。
やがて〈ひとぐも〉は動かぬ骸となり果てた。
ラルフが剣を収めて、称賛の言葉を投げかけてくる。
「お嬢様、お見事でした」
「はい。ありがとうございます」
「……的確な援護でした。常に冷静で、初めて戦ったとは思えないほどです」
「こういう戦い方は、魔導師ならば普通のことだと思いますが……?」
「いえいえ、そんなことはありませんよ。魔導師ってのは意外と自分勝手でして、自分が主役だと思ってるのが、これがまあ多いんですよ。俺が魔法を使うから、お前らでうまく合わせろってね。お嬢様はこちらに合わせてくれるんでとにかく戦いやすい。旦那様の護衛をしてるときと同じような安心感があります」
「場に状況に合わせて魔法を使うのは当然のことだと存じます。周りをよく見て、周りの物を利用するというのは、兄様から教わりました」
「ご令息ですか」
「はい。周りの物を利用する戦い方をすれば、物を生み出す工程を減らすことができる分、素早い魔法の行使が可能になり、呪文の長さや魔力の節約にもなる、と」
「そうですね。確かに得意な魔法を使ったというよりは、環境に合わせたものばかりでしたね」
「周りをよく観察し、常に冷静でいることこそ、魔導師としての本道でしょう」
「いやぁ、御見それいたしました。同じ冒険者の魔導師たちにも聞かせてやりたいですよ」
その後も二人は、さながらほめ殺しのように称賛を送ってくる。
ということは、それだけ他国の魔導師は、その技術の上に胡坐をかいているということだろう。
そして、そろそろ先へ進もうと一歩踏み出したときだ。
「――え?」
突然、足場が崩れた。
10月30日に「失格から始める成り上がり魔導師道!」の三巻が発売します!