刻まれた日 後編
13 刻まれた日 後編
「お兄ぢゃんっ!!」
いや、神鳥 美撫の手が届いていた。
「…!」
海水に神鳥 切は落ちた。が、右腕が沈む前に神鳥 美撫の手が届いたのだ。
神鳥 切は命を助けられた事に気付き、神鳥 美撫が自分より一回りも大きい体を持ち上げる事は不可能だと理解した為、すぐに左手をボートに掛けた。
すると、繋いでた右手が神鳥 切の血のぬめりで、妹の手はすぐに滑り抜けた。
間一髪の出来事であった。
左手をすぐにかけていなければ神鳥 切は流されていたからだ。
そして、妹の力も借り、ボートに上がることができた。
「よがった…ほんどうに…よがっだ…いぎでで…よがった…。」
「はぁ…はぁ…はぁ…ありがとう…美撫…本当に…はぁ…あり…が…とう。」
神鳥 切は海水で息を止めていたのと、死の恐怖から心拍数が上がり息を整えられずにいた。
そして、神鳥 美撫も兄が飛んだ瞬間、目の前で飛距離が足りないと気付いた時、心のそこから兄が死ぬと認識した。
大事な家族が、大切な兄が、大好きな兄が、この世から消える。
きっとその現実を否定したかったのだ。
目の前の現状を拒否したかったのだ。
弱い自分と、何もできず兄に任せっきりになってしまった自分自身と闘い、恐怖に打ち勝つことで、無我夢中で、兄に向かって手を伸ばすことができた。
今、目の前に生きている兄を見て、心から安堵し、喜びを感じ、そして、泣いていた。
「そんなに…はぁ…はぁ…泣かなくても…ハハハ。」
神鳥 切は心配させまいと、軽く笑って見せた。
「だって…だって…ウグっ…」
それでも妹は涙は止まることを知らない。
「俺さ…はぁ…手が届かないって思った時、本当に死ぬって思ったんだけど、それと同時にさ…」
「…ん。」
「お前や、……お袋や、友達の…恵も…。そして、当たり前の普通の日常も…本当に大切な事なんだって思えた。…明日が当たり前に来てくれる…そんな平和な日常が幸せなんだって…。だから…今だから言いたいんだ…。本当に今までごめんな美撫。俺…素直になれなかった。怖い思いして、本当に死ぬかもしれないって状況になって初めて気付いた。…お前が本当に大切なんだって、本当に守りたい存在なんだって、今、心からそう思う。美撫…本当に…本当にありがとう。」
「…美撫も…ウグっ…私も思うよ゛?本当に生きてでよがった…。本当によがった…。」
神鳥 切は走馬灯を見た。
きっと、この状況だからこそ、今この時だからこそ、神鳥 切は本音を、心声を、心響を、聲を、しっかり伝えなければならなかった。
自分自身にとって、とても大切な、神鳥 切の宝として、皆がちゃんと心に居た事を伝えて置かなければならなかった。
右手の血が止まらない状況と寒さで、少しではあるものの、意識が朦朧とし始める中だからこそ、伝えなければならなかったのだ。
神鳥 切はどこかでもう長くないと…そう思っていた。
今となっては、恐怖と緊張が逆に神鳥 切を気力だけで動かしているに他ならなかった。
「…多分このまま行けば生きて帰れるかもしれない。」
だが、順調に流れているとはいえ、海水の高さはもう家一軒がほぼ埋まってしまうぐらいの量に達し、そして、波の影響で速度は速く、ボートは障害物にぶつかり、毎回その衝撃に耐えていた。
2人は疲労と恐怖、そして、逃げ場のなかった自宅からの脱出で安堵し、集中力を切らしつつあった。
すると…。
「み…っお…さ…。」
「…今、何か聞こえ…た…?」
神鳥 切が微かな人の声を聞いた。だが、警報の音で良く聞こえない。
「え?」
神鳥 美撫も耳を澄ませる。
「みぃなぁーーっ!おにぃさぁーん!」
「え?…未沙…?…聞こえる。未沙の声が聞こえるっ!」
2人は声のする方向を確認すると、ボートが流れる先にあるマンションの屋上に数人の人と、手を振る人物、黒駄 未沙がそこには居た。
ボートは波の影響で速い速度のまま、T字路だった為にマンションに向かって一直線に流れていた。
「…未沙も無事だったんだ。よかった…。」
「…美撫…落ち着いて良く聞くんだ。」
神鳥 切が真剣な顔をして妹の神鳥 美撫の目をしっかり見て、次の言葉を伝えた。
「このままこのスピードで進むと、おそらくあのマンションにこのボートはぶつかる。可能性として、その時の衝撃は多分振り落とされるぐらい強いと思う。だから…一か八かしかないんだけど、その衝撃を利用してマンションの三階に飛ぶんだ。」
「…え?…。」
「もう、これしかない。俺たちの疲労では多分もう衝撃に耐えられない。確実に海に投げ飛ばされる。そうなったら絶対に助からない。なら…あのマンションに衝撃で飛び移るしかない。」
「…。」
「…近くにならないとわからないが、もしかすると、ギリギリ、手が届くか届かないかぐらいだと思う。それでもやるしかない…。手が届いたら俺が早く登る。そしたらすぐにお前を上から引き上げるからお前も必死ででしがみつく事に耐えろ。そして2人で必ず生き残るんだ。」
「…怖い…。でも…そうだ…よね…。それしか…ないもんね。」
2人は覚悟を決めた。
そして…ボートはマンションに向かって流れ進み、距離が近くなる。
屋上にいる人達も異変に気付き数人が階段を駆け下り、3階に向かっていた。
「やっぱり…高さはギリギリだ。俺が3.2.1でカウントをとる。それに合わせて飛ぶんだ。いいな?」
「…う…ん。わかった…。」
「来るぞ。準備しろ。」
スピードに乗ってマンションに近づく。
近づけば近づくほど、2人の鼓動は速くなり、心拍数は上がり、息が激しくなり、緊張で手には冷や汗が止まらなかった。
死と隣り合わせの恐怖に心が挫けそうになる。だが、現実は待ってはくれない。
もしかしたら伸ばした手が届かないかもしれない。
もしかしたら足がすくんで飛べないかもしれない。
2人は必死に感情と恐怖と闘う。
心の中も、頭の中も、もう色んな感情で混乱が起き始めていた。
もうすぐで助かる。
安堵が目の前にあるが本当に成功するのか。
最悪のイメージが頭に浮かび続ける。
緊張と緊迫、それでも飛ばなければならない、飛ばないと助からない、必ず飛ぶと、2人は決めたのである。
そして、
「いくぞっ!カウントするっ!…3…2…1っ!!」
その刹那だった。
凄まじい音と、衝撃音が鳴り響いた。
それはボートがマンションの壁に追突した音だった。
そのままボートは破損し、海の中へとゆっくり飲み込まれていく。
それとほぼ同時、2人は飛んだ。
全身に力を込め、歯を食いしばり、全神経を足と衝撃のタイミングに合わせて、2人は跳躍した。
マンション3階フロアの塀に手が届くと信じて、必死に右手を伸ばす。
『頼むっ!きっとこれが最後なんだっ!とどけっ!』
「とどけぇぇえ!!」
神が居るならば、最後の頼みとして神鳥 切は叫んだ。
3階フロアの塀に手が届くまであと数センチのはずなのに、神鳥 切、神鳥 美撫の手はまだ届かない。
一瞬の出来事のはずなのに、とても長い時間、空中にいる感覚だった。
そしてようやく。
2人の右手は3階フロアの塀に手が届いた。
「う゛ぉぉお!!」
神鳥 切は間を空けず、体を気力だけで持ち上げ、雄叫びが漏れる。
そして、腕で体を持ち上げ、肘を付き、塀を脇にはめ、その次に足をかけた。
「頑張れ美撫!すぐにそっちに行くっ!」
妹も手が届いているのを横目で確認した神鳥 切は安堵と安心を今は頭から除外した。
女性が自分の体重を支えていられるのほんの数秒。
神鳥 切は理解していた。
だから急がなければならなかった。
早く妹を引き上げに行かなければならなかった。
そして、神鳥 切は塀を登りきり3階フロアへと転がり落ちた。
「ツぅっ!!」
神鳥 切は転がり落ちて痛みを感じ、声を漏らすが、さらに不足の事態に気付く、もう起き上がれないぐらい体が疲労と恐怖でいましめられていた事に。
『早く起き上がれぇぇ!おれ゛ぇぇえ!』
秒を争うこの状況で神鳥 切は自分自身にむちを打ち、気力で起き上がり、妹に駆け寄ろうとした。すると、
「お兄ちゃんっ!ダメ…もう限界…。」
妹が限界に達していた。
そして、神鳥 美撫の塀に掛かる手が少しづつずれ、指先までになり、離れかけた瞬間だった。
「みなっ!!」
神鳥 切の右手が神鳥 美撫の腕を掴んだ。
間一髪の所で間に合う事が出来た。
「お兄ぢぁゃんッ!早くッ!私をあげてっ!!」
妹はもう恐怖と混乱で取り乱し、荒れ狂う状態だった。
「くっそっ…!…み…な…頼む、俺の手を伝い、登ってく…れっ!!」
「…え?」
しかし、神鳥 切にはもう、人1人を持ち上げる力が残っていなかった。
すると、神鳥 美撫の腕に生暖かい感覚があった。
「え…?血?」
兄の右手を伝い、神鳥 美撫の腕に血が流れていていたのだ。
そして血の滑りで右手が滑りそうになる。
瞬時に神鳥 切は左手も使い妹を支える。
「みなっ!早くッ!」
だが、
「無理だよっ!お兄ぢぁん!早く私を上げてっ!!」
妹はただ、ただ泣きわめき、取り乱し、神鳥 切は妹を支える事しか出来ない危機的状況に陥った。
『ちくしょう…ここに来て…こんなのってありかよ…。』
神鳥 切は神を恨んだ。
死線を何度も潜り、その度救済をチラつかせられ、そして、後もう少しの所で、助かる術がもうない。
そんな状況を作った神を恨んだ。
しかし、
「大丈夫がぁ!今すぐ手伝ってやるっ!」
神はまだ見捨ててはいなかった。
屋上にいた町の大人達数人が3階フロアにようやく着き、その光景を目の当たりにし、焦り、そして血相を変え、大人達は妹を支える神鳥 切に向かって走っていた。
だが、神鳥 切にも限界が近づいていた。
『くそっ!後もう少しで助かるのに…腕が…もたないっ!…早く…早く助けに来てくれっ!!』
ひたすらに歯を食いしばり、必死に妹の腕を掴み続ける。だが、限界に近いからなのか、力を込めすぎているのか、神鳥 切は全身が震えだす。
「早くっ!早ぐだずけで下さいっ!!」
神鳥 美撫も声を荒げてしまうほどに、限界が近かった。
『……おい…嘘だろ…?…くそッ!…や…めろ……やめてく…れ…。』
その時、神鳥 切が必死に掴む妹の手が血のぬめりで少しづつずれていた。
「…え?…お…兄ちゃ…ん?」
手首と手首で掴み合っていた手が今もう手と手で繋ぎ止められる状態になった。だが、さらに少しづつ、少しづつ、手は滑っていく。
「…やめろ…ダメだ…離れちゃっダメだっ!やめろっ!ここまで来てっ!…そんなのってっ!…あっ!…あぁ…や…やめろぉぉぉぉ!」
神鳥 切は必死だった。必死に手に力を込める。が、それでも手は少しずつ滑る。妹はそれに気づき涙を流し、取り乱し、荒れ狂い、叫んでいた。
「いやだっ!待ってお兄ちゃんっ!死にだぐない゛っ!嫌だっ!嫌だよっ!お兄ちゃんっ!お兄ぢゃんっ!おに……」
手が離れた。
「みぃな゛ぁぁぁあ!!!」
妹は海に落ち、流される。
「お…にうぐ、ちゃぁぁん!!」
神鳥 美撫は海水を飲みながらも必死に兄を呼んだ。
「美撫っ!!美撫っ!」
神鳥 切は急ぎ妹を助けに行こうと、必死に塀に足をかけ、海に飛び降りようとする。が、
「ダメだっ!にいちゃん!あんたまで死んじまう!」
神鳥 切は数人の大人達に体を抑えられ、妹を助けに行くことが出来なくなってしまった。
「離ぜぇぇぇ!邪魔なんだよぉぉお!」
神鳥 切は荒れ狂い、助けに来た大人達を殴り、蹴り、何とかして抑えられる事を拒否しようとする。
「美撫がっ!流されてんだよぉお!離せっ!!離せっていっでんだろぉぉお!俺は助けに行かなきゃ行けないんだぁぁ!くっそぉぉお!離ぜぇぇえ!!!!」
だが、神鳥 切は振り払う事が出来ない。
「美撫ぁっ!み゛ぃっなぁぁぁぁあ!!」
そして…神鳥 切の目の前で、最後に水面に出た妹の右手が力無く、海に飲み込まれた。
「ぁあっ…あぁ……あ゛ぁぁぁあ!!!」
傷心に、心痛に、哀傷に、悲哀に、悲嘆に、愁傷に、悲しみに、哀しみに、荒れ狂い、泣き、神鳥 切の叫びの悲歌が雪降る空に響いた。
❇︎ ❇︎ ❇︎
「ピッ…ピッ…ピッ…。」
真っ白の部屋、白のカーテンが風で揺れて暖かい陽射しが部屋へと入ってくる。その光で照らされ、椅子に腰掛けている人物、俯いたままの神鳥 切がそこには居た。
そして、
目の前には機械に繋がれ、病室のベットで寝ている妹の神鳥 美撫が神鳥 切の前に居た。
まるで今にでも起きそうな安らかな顔だが、深い、とても深い眠りについている。
生きている事を知らせる心拍数を測る音が部屋一面に響いていた。
「…。」
神鳥 切は俯いたまま、動けずに居た。
妹の神鳥 美撫は海に沈み流されたが、近くに避難して居た人が危険をかえりみず、助けてくれた。
そして、早期救助処置のおかげで妹は助かった。だが、無呼吸状態が長く続き、植物人間状態になってしまったのである。
医師には奇跡的に目覚めても体は動かず、更に記憶喪失は確実と言われ、最悪の場合はもう2度とこのまま目覚めない可能性があると告げられた。
「俺の…俺のせいで……くっそっ!!あ゛っ!!」
神鳥 切は、後悔、罪、負い目、悔根、の感情から自分の座っていた椅子を蹴り飛ばした。
何故、犠牲になったのは、何も無い、何も持たない、自分自身ではなく、未来を夢見る、輝かしい未来がある、神鳥 美撫でなくてはならなかったのか。
神鳥 切は目の前で眠る妹を見て、もう未来が無く、普通に戻る事さえ出来なくなってしまった事に、神を恨み、さらに怨み、助けられなかった自分を恨み、自分自身も怨み、そして、世界の理を必死で恨んだ。
床を涙で濡らし、手には震えるほど力が入り、今にでも自分自身を力ある限り殴りたいと思っていた。
だが、そんな簡単な事で報われるはずがない。
許してもらえるはずがなかった。
いや、報われる事も、許しも、それさえも求めてはいけないと理解していた。
「…ごめん…ほんと…に…ごめん。俺がっ…俺があの時…っ…俺があの時…お前を引き上げられてさえいれば……う゛っ…ぅ……ぁあっ…ぅぁああ…。」
涙は止まらない。
そして、嗚咽は漏れるばかり。
謝っても、後悔しても、許してもらえるとも思えない。
報われるとも思えない。
償えるとも思えない。
ただ、この責任を背負い、抱え、苦しみ、嘆き、泣き、一生を生きていくしかない。
いや、自分だけが生きていて本当に良いのだろうか。
神鳥 切の精神は限界に来ていた。
その場で崩れ、妹が寝るベットに寄りかかりただひたすらに聲を漏らし、泣きつづけた。




