ドキドキのバスタイム
家紋武範様主催「看板短編企画」作品
こういうこと書くと、小学六年生にしてはかなりじじくさいって、みんなに言われそうだけれど、ぼく、早瀬マコトは、大の風呂好きだ。
家族で数えきれないほど、いろんなところの温泉に行ったし、家の風呂に入る時は、市販の入浴剤はもちろん、シャンプーや石けんにも、いっぱしのこだわりを持っている。
ぼくの家は、築三十年という古さだけれど、いちおう二才違いの弟、ミツルとは別々の子供部屋もあるし、広い玄関も、ダイニングキッチンとはよべない台所も気にいっている。オール電化じゃなくても、全く不便じゃない。ただ、浴室に関してだけは、最近ふつふつと不満がたまってきていた。
どんな不満かといえば、とにかくせますぎるんだ。
昔は父さんと二人で入れた浴槽は、最近のぼくには小さすぎる。体を縮こませて入らないといけないんだ。
一日の疲れをいやせるはずのバスタイムが、このごろでは、だんだんストレスタイムになりかかっていた。
だから、ある日ぼくは、思いきって、父さんと母さんの前に正座してたのんだ。
「お金はかかると思うけど、浴室をもっと広くしてください! お願いします」
こたえは、だいだい予想していた。
「まあ、考えておこう……」
おそらくそんなものかなあと……。
ところが、驚いたことに、返事はこうきた。
「ああ、もっともだな。これからマコトもミツルも大きくなっていくんだから、こんなちっぽけな風呂場じゃ困るよな」
「そうよ。もっと早くリフォームするべきだったわ。どうして気がつかなかったのかしら? さっそく手配しましょうよ」
どうだよ! このスピーディな成り行き!
なんでも、ものはためし。言ってみるもんだな!
その日を境に、とんとん拍子に話は進んで、二週間ちょっとの銭湯通いの日が続いたあと、待望の、リフォームされた浴室が、わが家に完成した。
リフォームしたての浴室に、初めて足をふみ入れたときの感動は、どう言いあらわしたらいいのかなあ……。
真っ先に目に飛び込んできたのは、低く開放感のある窓。大きな鏡。シャワー、そして大人二人はゆうに入れる広々としたユニットバス。
これまでのタイル張りにかわって、真冬でも寒くないサーモフロアを導入して、浴槽もお湯が冷えないような仕組みになってるらしい。
浴室全体は白で統一されていて、ダウンライトの照明が目にやさしい。これは浴室というより、バスルームといった方がぴったりくる! 築三十年の早瀬家の古屋敷の中で、この空間だけは、なんとも今風の香りに包まれている。
「すげえ! すげえ! すげえ!」
ぼくは、そこいら中をピョンピョンはねまわった。
続いて、やってきたミツルも足をふみいれるなり、
「わあい! わあい!」
歓声をあげて、走り回った。
「おにいちゃん、今晩いっしょに入ろう!」
最近は、一人で入るといって、さそっても無視してたくせに、調子のいいやつだ。
そんなわけで、この春から早瀬家のバスタイムは、ぐんと快適なものになりそうだった。
それから、三日後の土曜日のことだ。
昼下がり、ぼくは家でゲームに熱中していた。
父さんは仕事、母さんは買い物、ミツルは少年野球の練習で、家にいるのはぼく一人だった。
ゲームがひと区切りしたのと、玄関のチャイムの音がしたのと、ほとんど同時だった。
父さんと母さんならかぎを持っている。ミツルなら、チャイムを鳴らさず、勝手口にまわってくる。
しかし、チャイムはしつこく鳴り続けた。こういう場合は、開けてめんどうになる場合が多いから無視することにしているのだが……。
でも、ぼくはもう六年生だ。変な押し売りなら、きっぱり断われる。いざというときのための木刀を、こっそり玄関のわきにおいて、おそるおそるドアを開けてみた。
「こんにちは。お家の方はいらっしゃる?」
開けたとたん、でっかいヒヨコが立っているのかと思った。鮮やかな黄色のスーツ姿に、ふっくらとした顔立ちのおばさんがほほえんでいる。みるからにおっとりと優しそうな人だ。
おっと油断は禁物!
こういう人だっていちおう警戒しなきゃいけない。いつも母さんに言われていることだ。
「なにかご用でしょうか?」
わざと、ぶあいそうに返事をした。
「あら、坊や、わたしは決してあやしいものじゃないのよ。安心して」
ぼくの警戒心をみてとったか、おばさんの声色はぐんと高くなった。
思いきりあやしそうじゃないか! ようし。ぜったいにだまされるもんか。
腕組みをして、さらにぶっきらぼうにたずねてみた。
「どなたですか……」
すると……。
おばさんは、バッグの中から名刺を一枚とりだしてぼくに差し出した。
「ときめき会社開発担当部の木山といいます」
なんだ? それって結婚かなにかの会社かな?
名刺をひっくり返すと、このように書かれていた。
=一日の疲れは、ときめきでいやしましょう=
ときめき会社開発担当部長 木山典子
ああ、うさんくさい! いったい何にときめくっていうんだよ!
ぼくの心を読みとったかのように、木山さんがこたえた。
「わたしたちの会社は、これまでにない入浴剤の開発研究をしておりまして、今日は新商品の紹介にまいりました」
「入浴剤……?」
ぼくは思わず顔をあげた。
なにしろ、大好きな風呂にかかわることだ。自称「入浴剤マニア」のぼくが興味を持たずにいられるはずがない。
その変化をすばやく見抜いたように、木山さんの口がなめらかに動き始めた。
「ねえ、坊や、最近、何だか疲れた顔してる人が多いって思わない? 疲れってだんだんたまってくると、心までカチコチにしてしまうのよ。いつだって眉間にしわをよせてるような顔になっちゃう。そんな顔でいること自体いやだし、それを見てる方もつらいよね」
わかる! 睡眠不足の時の母さんは、目の下に黒いクマを作って、すこぶる不機嫌だし、飲み会の翌朝の父さんときたら、まるで死んだ魚のような目になっている。ミツルだってハードな練習の次の日は、無表情で、何をいっても生返事だ。
たいてい、半日もたてば、三人とも元気になるけど、毎日そういう顔でいられたら、こっちだってたまらない。
「肉体的、精神的な疲れをとるのに、最適なのは、やはりバスタイムしかないと思うのね」
木山さんは、断言するようにそう言った。
まったくもって同感。老いも若きも、風呂はこの世のパラダイスなのだ。
「そこでね!」
木山さんの瞳が輝いた。
「わがときめき社は、人間が持つ脳と体の関わりに注目したのです」
もはや、彼女の口は簡単には止まってくれそうにない勢いだ。
「たとえば、幽霊の話を聞くと、鳥肌がたってくるでしょう。あれは、これまで聞いた幽霊の話が、想像となって体を支配しているからなの。梅干しを口に入れた時を想像してごらんなさいな。思わず口をすぼめてしまって唾液が出てくるでしょう? 人間の体はまさに脳が支配している部分が多いのよ。だから、リラックスした状態で、感覚的な刺激を与えてみたら、その人の願望や夢が幻覚となって、体験できる可能性があるとみたの。それを叶えてくれるのが、名づけて3D入浴剤。まさにわが社の画期的な発明品なのよ」
ふう!と木山さんはひと呼吸おいた。
「ところで、お宅のバスルームを拝見させてもらえるかしら?」
えーっ! いきなり見学? 確かに、木山さんは悪い人ではなさそうだ。でも、いくらそう見えても、だれもいない家に、見知らぬ人をあげてしまうのはよくないような気がする。
「わたしがおじゃました、ほとんどのお宅では、バスルームの広さや照明なんかを、3D映像の参考にしたいから拝見させていただいているのよ」
「はあ……でも……」
こういう時、強く断れない小学生の立場って、つくづくいやだよな。
「だいじょうぶ。拝見するのはバスルームだけよ。写真をとったりとかいっさいしないから」
木山さんは、拝むように両手を合わせた。
バスルームは玄関の近くにある。リフォームしたばかりだから汚れてないし、いつだって見学オッケーだ。
ま、それくらいだったらいいかな?
ぼくがうなずくと、木山さんは、いそいそと入ってきた。そして、天井や照明、窓などあちこちながめ回し、うなずいたりしながら、三分ばかりバスルームに立っていた。
「とてもすてきなバスルームだわ。入っただけでドキドキしちゃった」
そりゃそうでしょう! 早瀬家自慢のバスルームだから! ぼくはなんとなく誇らしい気持ちになった。
「これなら、さらにバスタイムが楽しくなることうけあいね」
「あの……?」
おっかなびっくり、いちばん気になることをたずねてみた。
「本当にお風呂で3Dが体験できるんですか?」
3D映画というのは、登場人物やものを立体的にみせるために、専用のメガネをかけて見る。人間も動物も車や家も、映画の中から飛び出してくるようで、すごく迫力があるんだ。
たかが入浴剤を入れただけのお風呂で、そんなことが本当にできるんだろうか!
「もちろん!」
木山さんが力強くうなずいた。
「でも、効果を最大限に引き出すには、人間に備わった嗅覚とか記憶力とか無意識の力というのが必要になってくるのよ」
「………」
「この入浴剤には、安らぎの効果以外にも、気分を高揚させる効果があるの。ドキドキ、ワクワクって気分、最近なにか経験した?」
うーん、そういえば近ごろは少ない気がするなあ……。
小さい頃は遠足やクリスマス、家族旅行の前日は、明日になるのが待ち遠しくてたまらなかった。今は、楽しみにはちがいないけど、ワクワク、ドキドキの感覚じゃあないもんな。
「まあ、とにかく体験してみて下さいな。バスルームを拝見させてもらったお礼に、試供品として、三袋差し上げるわ。とりあえず使ってみてくれる? 近く発売予定だから、楽しみにしててね」
木山さんはそう言って、ぼくの手のひらに三つの袋をのせてくれた。
「ハブア・ナイス・バスタイム」
木山さんの、赤い唇が動いた。
「あ、ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げ、ぼくは玄関のドアをしめた。
父さんや母さんには、しばらくナイショだな……。
もし、報告しようものなら、母さんのことだ。まず、見知らぬ人を気やすく家にあげたことを叱るだろうし、ときめき社というあやしい会社名をすぐさまネットで調べるだろう。あげくのはては、いかさま商法にひっかかりやすいとかなんとか言って、二人がかりで責められるのは目にみえている。
「これを使ってみてからでもおそくはないしね……」
試供品の入浴剤を見つめながら、ぼくは、こっそりつぶやいた。
試供品の入浴剤を、さっそく使ってみることにした。
「どれにしようかなあ」
これまで、入浴剤はかなりいろいろなものを使ってきた。
登別、箱根、別府などの名湯シリーズ、ゆずにかりん、ひのきに、ハーブ、いろんな種類のバラ、粉末タイプ、キューブタイプ、数え上げればきりがない。
メーカーによって、香りや色が微妙に違うけど、ぼくのお気に入りは、ホワイトローズ系の入浴剤だ。同じローズでも、どぎつい色になるものは生理的にノーだ。
もらった三つの袋は、「ホワイトローズ」と「梅の花」そして「ザボン」の、粉末タイプの入浴剤だった。
「これの、どこが3Dなんだろうなあ……」
透かしてみても、ふってみても普通の入浴剤となんらかわりはなさそうにみえる。ただし、梅の花の入浴剤というのは、めったにお目にかかったことがない。どっちにしようか、さんざん迷った末、やはりホワイトローズからにした。
早瀬家のふろそうじは、たいていぼくの仕事と決まっている。
ミツルは、野球の練習で帰ってくるなり、風呂に直行という毎日だから、それまでにお湯を準備しておく必要がある。
父さんはたいてい帰りが遅いし、母さんもしまい湯に入ることが多いから、ぼくがふろそうじして、一番風呂に入っている。でも、今日ばかりは、母さんに隠し事をしているせいか、一番風呂を譲ってあげようかなどという、がらにもなく、優しい気持ちになっていた。
「ね、母さん、たまには一番風呂なんてどう?」
ところが、まるで、(子の心 親知らず)だ。
「あ、ごめんねえ、母さん、今から始まる韓国ドラマが見たいのよ。あとでいいから、マコちゃんが先に入りなさい」
あっさり断られてしまった。
そうですか? じゃあ、だれにも気兼ねなく、さっそくお先に入らせていただきましょう!
ぼくは、ホワイトローズの入浴剤を、パッパッとバスタブに入れた。白い粉が、またたくうちにお湯に溶けていく。
すると……お湯はみるみる白濁色となり、甘やかな香りとともに、もうもうと湯気がたちはじめた。
「すごいな……」
感心しながら、そろそろとバスタブに体をしずめていくと、お湯の表面になにかがいっぱい浮かんでいる。
「バラだ!」
真っ白なバラが、お湯の表面を埋め尽くしている。思わず、手をのばしてみた。が、まったくつかめない。たくさんの白バラが、すぐ目の前にあるというのに、指先にはなんにも触れる感覚はない。指の間から、お湯がこぼれていくばかりなのだ。
「これって、バーチャルの世界なんだ!」
ぼくは息をのんで、ホワイトローズの入浴剤の袋をまじまじと見た。裏をひっくり返して、改めて注意事項を読んでみる。
「えーと、まず、このお湯の効能は、気分を高揚させ、うつな気分を解消します。ただし、心臓の弱い方、血圧の高い方はご遠慮下さい。それから湯気と同時に見えてくるものは鑑賞用につき、口をつけたりしないで下さいだって! 3Dの効果は、個人によって違いがありますか! なるほどなあ」
その時だ。
チャポン、ぼくのすぐ真横で、お湯の音がした。
音のした方に目を向けたぼくは、思わず反射的にお湯の中にもぐってしまった。
ググッッ……苦しい! 苦しい!
熱いお湯にもぐるのは苦しすぎて、すぐに顔をあげた、とたん、
「うわっ! 」
すばやく、浴槽のはしっこに飛びのいた。
なんと、いつのまにか、バスタブの中に、ぼく以外にもうひとり入っている。
しかも、しかも、それは若い女の人なのだ。
チャプン、チャプン、その人は、ぼくのあわてた姿など全く見えていないように、うなじから、白い胸元にかけて指を這わしている。あたりまえだ。これはバーチャルの世界なんだから……。ということはだな………。ぼくはのぼせそうな頭を必死に働かせ、ひとつのこたえを出した。
彼女をいくら見つめたって、チカン行為にはならない!
向こうがぼくを見えてないんだから、ぼくが見たって、それは罪にはならないに決まってる。
ぼくは、たちのぼる湯気の間から、そうっと女の人をのぞき見た。
額や、うなじにぴたっとはりついた濡れた髪、首から肩にかけての、ほっそりしたライン、ほんのりとさくら色にそまりはじめた、頬や白い胸元……。ノーメイクのはずなのに、ぱっちりとした目。すらっとした鼻筋……。
なんてきれいな人なんだろう……。見つめれば見つめるほど、ボクの心臓はドキドキしてくる。
まもなく女の人は、なにやらハミングしはじめた。ぼくのファンの人気アイドルグループの歌だ。いっしょに小さくハミングしてみる。彼女の細く高い声と、ぼくの声が重なり合って、バスルームにひびきわたる。
小さなドキドキが、弧を描くように、少しずつ大きなドキドキにかわっていくのがわかる。
しびれたように気持ちのいいドキドキ。ぼくにとって、生まれて初めての体験だ。
それなのに、あっけなく、そのドキドキは終わってしまった。
「マコト~、まだ出ないの? そろそろご飯よ」
母さんの声が聞こえてきた。
やばい! 返事をしないと、きっとここまでやってくる。だけど、すぐ目の前に女の人がいるのだ。お湯の中から立ち上がる勇気なんてあるもんか!
「マーコート! 寝てるんじゃないの?」
案の定、声はだんだん近づいてくる。
なんとかしなきゃ! そう思った瞬間だった。
ザバーッと音がして、真っ白な湯気の中に女の人が立ち上がったのだ。
うわ、うわ、うわ! ぼくは、またもや反射的にお湯にもぐった。
「ちょっと開けるわよ、音もたてないでなにやってんの」
母さんがバスルームのドアをあけたのと、ぼくがバスタブからころがり出たのは、ほとんど同時だった。
「ほら、やっぱりのぼせてる! いくら、きれいなバスルームだからって、ほどほどにしなさいよ!」
母さんは、ぼくを見下ろしてあきれたように言った。
バクバク音をたてている心臓を押さえたまま、キョロキョロとあたりを見回す。
いつのまにか、白い湯気も、バスタブを埋め尽くしていたバラも、女の人も、そして甘くたちこめていた入浴剤の香りさえも、すべて消えてしまっている。
そういえば、3D入浴剤の持続時間は、入って十分内と、注意書きにあったような……。
バスルームの鏡には、だらしなく、たらんと鼻血を出したぼくが、ひとり映っているだけだった。
「うーん」
残り二袋になってしまった、「梅の花」と「ザボン」の入浴剤を、目の前に置いて、ぼくは考えた。
これは、人生につかの間のドキドキを与えてくれる、すごい入浴剤だ。そうたやすくは使えないぞ! ついさっきまでの甘い胸の高鳴りを思い出して、ぼくはうっとり目を閉じた。
残りの二袋は、たとえ家族であろうが、ぜったいにゆずられない。
今度いつ、またあの美女に会うとしようかなあ……。
それを考えるだけで、ぼくの心はおさえようがないくらいに、ドキドキが高まっていった。
そのうちに、第二回目のチャンスがやってきた。
じゃまものが入って来ないように、時間帯は四時を選んだ。この時間帯なら、母さんはパート、弟は野球の練習、当然ながら、父さんは仕事。学校からダッシュで帰って、十分間に合う時間だ。
バスタブを洗うのも、もどかしくお湯を入れた。
今日は「梅の花」だ。袋をそばに置いて……。さあ、入るぞと意気込んだとたんに、居間の電話が鳴った。この時間帯ならかかっても、仕方ないか! いったん、バスルームの戸をしめて茶の間に行く。
電話の主は月美おばちゃん。母さんの妹で広島に住んでいる。
「あっ? マコちゃん、久しぶり! 元気にしてる?」
いつもながらのかん高い声が、ぼくの耳を貫く。
「母さんならまだ帰ってないよ」
「お姉ちゃんなら、いつだって話せるからいいのよ。わたし、きょう、マコちゃんと話したくってね」
は? なんでまた? バスルームが気になりながらも、いちおう話を聞く体勢をとった。
3D電話じゃなくてよかったとつくづく思う。まだ明るいこの時間帯に、腰にバスタオルをまきつけてるだけのぼくが飛び出したら、さすがの月美おばちゃんだってびっくりするにちがいない。
月美おばちゃんが、話の口火を切る。
「実は、うちのタロちゃんがね……」
タロちゃんというのは、おばちゃんのかわいがってるペットのトイプードルだ。
「最近、お散歩に行きたがらないのよ」
「ふうん。それで?……」
「そんな人ごとみたいな返事しないでよ。マコちゃん。たかが犬って思ってるでしょうけど、わたしにとってはかわいい息子同然なんだから」
「はあ……それは、タロなりになにか理由があるんじゃない?」
返事などうわの空。ひたすら電話が終わるのを待っている。が、この月美おばちゃんはかなりてごわい相手だ。
「ほらほら、マコちゃんまで、そんな冷たい言い方をするのね。わたしね、ずうっと悩んでるんだから! ご飯も食べられなくてもう三キロ近くやせたのよ」
おばちゃんは、もともとお月様みたいにまんまるな人だ。それなら少しくらいダイエットできてよかったでしょ? のどまで出かかったことばを、必死で飲み込む。
だいだい、なんで、タロの気持ちが、ぼくにわかるんだよ!
そんなこんなやりとりをしているうちに、いきなり玄関の鍵があいた。
しまった! 母さんが帰ってきた!
「おばちゃん、母さんに代わるよ!」
「だから、わたしはマコちゃんにタロの気持ちをいっしょに考えてほしくて電話してるんだから、お姉ちゃんはいいんだってば!」
アホらしい。タロの気持ちはタロ自身に聞いてくれ。
あくまで食い下がってくる月美おばちゃんを、また今度とか何とか、説き伏せて電話を切ると、ぼくは玄関に走っていった。
すると、なんとパンツ一枚で、バスルームに直行している父さんと鉢合わせになってしまった!
「と、父さん、なんで、もう帰ったの?」
「たまにはな、午後から有休とって、のんびりくつろぎたいと思ってな。マコトもこれから風呂か? いっしょに入るか」
「い、いや、あ、あ、でも、」
「恥ずかしがるなって! 男同士だろうが」
父さんは、それはそれは嬉しそうに、バスルームの戸を開けた。
ああ、どうしよう、どうしよう!
こんな予想外の展開になるなんて!
だけど……ぼくは考えた。
計画はオジャンだけど、「梅の湯」の入浴剤はまだ入れてないからだいじょうぶだ。
ほっとひと安心したのもつかのま……。
バスルームのフロアの上に、からの入浴剤の袋が落ちているのに気がついた。
「と、とうさん、もしかして、これ入れた?」
父さんはケロッとした顔つきでこたえた。
「ああ。父さんが学生時代によく通った銭湯の名前が、梅の湯でな、同じ名前の入浴剤かってなつかしかったから入れてしまったよ」
あちゃー、父さんってば、それってふつうの入浴剤じゃないのに……。
絶体絶命だ! どうしよう!
前回同様、バスタブの中は真っ白な湯気に包まれて、なんにも見えない。
「おい、やけに湯気がたってるなあ」
何も知らない父さんは、不思議そうにバスタブの中をのぞきこむ。そして、たちのぼってくる香りを胸いっぱいすいこんで、満足そうにつぶやいた。
「ああ、いい香りだ。梅のにおいだ」
おとなしめの上品な香りが鼻をくすぐる。
「おい、マコト、最高だなあ。まだお日様があるうちに風呂にゆったり入れるなんて」
ぼくは父さんと頭を並べて、お湯に浸かっている。
今日は、あの美女はいったいどこから現れるのだろう。
目を閉じて、うっとりとした表情の父さんの横で、ぼくは気が気でならない。
お湯の中に、紅白の梅の花と、ころんとした梅の実までもが浮かんできた。
「おっ! しゃれてるなあ。こんなものがでできたぞ」
父さんは、梅の実をつまもうとするが、なかなかつまめない。あたりまえだ。バーチャルなんだからな……。
「あれっ! なんでだ! この梅、つまめないな」
業を煮やした父さんは、いきなりお湯の中に顔をつっこんだ。
「な、なにしてるの?」
「梅の味見だ! しょっぱいかな」
「や、やめなよ、父さん!」
たしか、注意書きに、浮かんでくるものは鑑賞用だから口をつけるなって書いてあったはずだ。
「くそー! どうも梅の実ににげられちまうな」
しばらくお湯に顔をつっこんでいた父さんが、あきらめたように、こちらを向いた。がしきりにあくびを連発しはじめた。
「あれれ、なんだか、もうれつにねむい。梅酒に酔ったわけでもあるまいにな」
そして、ほどなくとうさんは、バスタブにつかったまま、こっくりこっくりいねむりを始めてしまった。
ははあ……。
梅の実を食べたりはできないものの、少しでも口の中に入ると、睡魔におそわれるようになってるんだな……。
それから二分くらいたって……。
カシャカシャという、妙な音が聞こえてきた。
何だかあたりもザワついてきたようだ。湯気の向こうを一心に見つめているうちに……。
「ええっ!」
あやうく大声をあげそうになった。
なんと、早瀬家のバスルームが銭湯になっている。
素っ裸の二人のおばあさんが向かい合って、顔と体のこすりあいをしている。
「梅さん! ほれ、ちゃんと顔あげて!」
「竹さんも背中を向けなされ」
ふたりが手にもっているのは、なんと、茶色の固い亀の子たわし。それで、思い切りよくカシャカシャと、お互いの顔と体を洗っているのだ。
ぼくは、思わず父さんの方を見た。
父さんは、あいかわらず気持ちよさそうに、目を閉じたままだ。
早く時間よ、過ぎてくれ!
時間がたてば、この銭湯の3Dは自然に消えていくだろう。
ぼくは、父さんを起こさないよう、ひたすら、じっとお湯の中で息をひそめていた。
そのうちやっと……。湯気もおさまり、梅の香りもうすらいできた。
二人のおばあさんも湯気の中に溶けるように消えてしまった。
目を開けた父さんが、不思議そうに首をかしげる。
「ああ、ねむってしまったんだな。なんか銭湯に来ているような気持ちになってたよ」
半分のぼせそうになったぼくは、ふらふらしながらこたえた。
「そうそう。父さん、毎日お疲れだからね、居眠りしてたみたいだよ」
まったく、人生っていうのは計画どおりにいかないものだ。だが、計画をそれてよかったということだってありうる。
もしも、あの時父さんの目の前で、裸の美女が現れたらいったいどうなってただろう!
父さんだって、やはり鼻血をたらしかねない。へたすりゃ、血圧が急上昇して、頭の血管が切れてしまうことだってありうるかもしれない。
ザボンの湯の入浴剤を胸に抱きしめ、あらためてちかう。
「最後の一袋は、慎重にやるぞ!」
再び、バーチャルの美女に出会えるラストチャンスを夢見ながら……。
チャンスは、いつもとつぜんにやってくる。
それからまもなくして、父さんは出張、母さんは同窓会、ミツルは少年野球の合宿という、またとない夜を迎えることができたのだ。
「じゃあ、ちゃんと鍵かけて。またお風呂でのぼせたりしないのよ」
しつこいくらいに念を押して、母さんは出かけていった。
「ムフフ……」
うれしさのあまり、知らず知らず笑いがこみあげてくる。
だあれも知らないぼくだけの秘密。
そんなドキドキの秘密を持つということは、一歩大人に近づいた証拠だろうか? こんなドキドキばかりなら、大人になるのも悪くない。
バスタブにお湯が入った。
今夜、この中で再び美女と出会える。なんというすばらしさ!
ぼくは、大好きなアイドルグループのヒット曲を歌いながら、お湯の中に入浴剤を入れた。そして丹念に体を洗って、ひと足ずつそっと体をしずめていった。
もうもうとたちあがる白い湯気……。ザボンの香りがバスルームいっぱいに立ちこめる。
ああ、なんかなつかしい!
ザボンという果物を初めて見たのは、幼稚園の頃。
家族で別府旅行に行った時だ。高崎山に地獄めぐり。みやげもの店で、赤ちゃんの頭ほどある、大きなザボンにびっくりした。泊まった旅館では、ザボンの皮を浮かべた温泉に入った。そうそう、こんないい香りだったなあ。
体をしずめたぼくの目の前に、バーチャルのザボンの皮が、白い湯気に包まれて見えかくれしてきた。
さあ、まもなくだ。まもなく美女が現れる!ぼくは、じっと目を閉じて、その時を待った。
だいじょうぶ。時間はたくさんあるんだから……。
小さくチャポンと音がした。ほら、やってきたぞ!
目を閉じたまま、人の気配を確信した。
さくら色に染まった白い胸元が、何度も目の前にフラッシュバックしてくる。
ドクドクドク……心臓の鼓動が早くなる。落ち着け! 落ち着くんだ! マコト!
チャポン、チャプン、お湯の音はだんだん大きくなってきた。
最初、右側からだけ聞こえていたのが、左側からも聞こえてくる。もしかして、今日は美女が二人もいるんだろうか? なんてツイているんだろう!
見たい! 早く見たい!
ああ、もうダメだ! がまんの限界だ!
とうとう、ゆっくりと目をあけた。
湯気の向こうに、うっすら小さな輪かくが見える。ん? なんだか小さい? 小さすぎるぞ?
それに茶色の毛でおおわれてるような……。
目を開けて、まわりをみまわしたとたん、ぎょっと身がすくんだ。
なんと……ぼくのまわりはサルだらけだった。
真っ赤な顔をしたサルが、目の前に一匹、左右に一匹ずつ、うっとりした表情でお湯につかっているのだ!
バスルームの中は、ほかにも三匹くらいサルがいて、毛づくろいをしたり、芋を洗ったり、中にはケンカを始めるやつらもいる。
バーチャルとはいえ、顔がひきつってくる。
ぼくは、いちもくさんにバスルームから飛び出した。
世の中、まったく期待どおりにはいかないものだ。
「ザボンの湯」が、サルの湯だったとは予想もしなかった。
こんなことなら、野生のサル同様のミツルに入らせたらよかった。試供品の入浴剤を使い果たしてしまった以上、あとは商品の発売を待つよりほかはない。
「まだなのかなあ……」
新聞の折り込みチラシを毎日のようにチエックしつづけていたぼくは、ある朝、やっと見つけることができたのだ。
=新登場! 3D入浴剤=
大きく書かれた広告のチラシをにぎりしめ、開店と同時に、近くのドラッグストアに走った。
「あの、ときめき社というところから、新しい入浴剤が発売されてますよね!」
息をはずませながら、レジにいた若い男の店員さんにたずねた。
「ああ、あの3D入浴剤ね。一昨日入荷したよ。結構売れ行きよくてね。どれがほしいの?」
ああ、ずうっと待ちこがれたこの瞬間。
ぼくは、カウンターに身を乗り出すようにして言った。
「ホワイトローズ! ホワイトローズを下さい!」
ところが、意外なことに店員さんは困ったような顔をして首を横にふった。
「悪いけど、ホワイトローズは年齢制限があってね、十八歳未満の子には売ったらだめなんだ」
えーっ! お酒やタバコじゃあるまいし。たかが入浴剤にそんなことってあるの……?
そうだ! しつこくねばってみたら、案外どうにかなるかもしれない。
「あの……ぼく、お父さんにたのまれました……そう! お使いなんです。お願いします!」
けれども、まじめそうな店員さんは、申し訳なさそうに首と手をふるばかりだ。
「ごめんね。きみ、今度お父さんといっしょにおいで。そしたらすぐに売ってあげられるから」
ガッカリのひと言ですませられるもんじゃない。
はたからみたらおおげさだけど、絶望的とはまさにこのことだと思った。
「ねえ、きみ、だいじょうぶ?」
急にうなだれた小学生を放っておけなかったのか、店員さんは優しく声をかけてきた。
「ほかの入浴剤なら売ってあげられるんだけど……。なにかほしいものはないのかな?」
「梅とザボンならいりませんよ」
力なくそうこたえた。そのふたつはこりごりだ。
「じゃあさ、ブラックローズの湯なんてどう? これなら小学生以上はOKみたいだよ」
「えっ!」
思わず、顔をあげる。
そんなのが出てるなんて知らなかった。早く言ってよ! このまま、帰るところだったじゃないか。 このさい、ローズと名のつくものならなんだっていい。
「そ、それ、ひとつ下さい!」
ぼくはカウンターに飛びつくようにして、「ブラックローズの湯」の入浴剤を手に入れた。
決行時間は、真夜中の午前二時。
この時間帯には、おそらく家族全員寝しずまっているはずだ。
十二時あたりは、ミツルが水を飲みにきたり、宵っ張りの母さんがまだ起きていたりする。
だれにも気付かれずに、バスタイムを心ゆくまで楽しむには最適な時間設定だ。
そのために、ぼくは明日の朝早く起きて勉強するんだとうそをついて、午後八時にはベッドにもぐりこむことにした。初めてのことなので、父さんも母さんもすごくほめてくれた。
「やっぱり、六年生ともなると、マコトもいろいろ考えるのね」
「早起きはいいぞ。なんといっても、夜とは気分がちがうからな」
「さあ、早くお休みなさい。がんばってね」
父さんと母さんの声援を、背中ごしに聞きながら、少しだけ心がチクンとした。
いよいよ、日付が変わり、その時がやってきた。
足音をしのばせ、階下に降りていく。
バスルームに入り、お湯を足して、ブラックローズの入浴剤を一気に投入。黒い粉が、さらさらとお湯の中に落ちていく。
黒いあやしげな湯気がもくもくとたって、あたりいちめん、なにも見えなくなった。
そっと、バスタブに体をしずめていく。
ぼくは、ひたすら目を閉じ、あたりの気配を感じようと、全神経を集中させた。
やがて、お湯の表面に、バーチャルの黒バラが、数え切れないほど浮かびはじめた。
吸い込まれそうな、むせかえりそうな甘い香りが、ぼくを包みはじめる。
ポチャン……とお湯の音がした。
「来た、来た、来た!」
体をかたくして、目をぎゅっと閉じる。
だいじょうぶ。この湯に、サルは絶対現れないはずだ。
そうっと、そうっと片目を開く。
願いどおり、ぼくのかたわらに、あの美女がいた。
ただし、今回は後ろを向いているので、美しい表情は見えないのだけれど……。
透きとおるように色白の、首から肩にかけての細いラインがなまめかしい。
早く、こっちを向いてくれないかな……。そう思った時だった。
急に、バスルームの灯りが点滅しはじめた。
あれれ、どうしたんだ? そのうち、ふっと灯りが消えた。
暗いのは苦手だ。しかし、バーチャルではあっても、だれかが近くにいてくれるというのは心強い。
早く、こちらを向いてくれないかな……。
わざと、小指でチャポンと音をたててみた。
「ふ、ふ、ふ、ふ」
低く、くぐもった笑い声が、暗がりの中から聞こえてきた。
な、なんだ? 今の声……。
熱いお湯の中にいるのに、なぜか背筋がぞうっとしてくる。
やがて……。
どこからともなく、ふらりふらり、ぼうっとしたあかりがさまよい出た。
それも、ひとつではなく、二つも、三つも……。
「も、もしかして、ひ、ひ、ひとだま!」
フ、フ、フという不気味な声はだんだん大きさを増して、バスルーム全体にひびきわたった。
「ね、ね、お願い、こっち向いてよ」
ぼくは恥ずかしさも忘れて、美女の白い肩をゆすろうとした。バーチャルなので手は肩をするりと通りぬけてしまったけれど、美女は、ぼくの求めに応じるかのように、ゆっくりこちらをふりむいてくれた。
その瞬間、ぼくはあらんかぎりの大声で叫んでいた。
「わーっ! の、のっぺらぼう!」
目も鼻も口もない顔から、ヒヒヒ……と奇妙な笑い声が起こった。
あわてふためいて、バスタブを飛び出す。その勢いで、バスルームの床に勢いよく転んでしまった。
ガタンガタン、洗い桶が派手な音をたてて転がる。
転んだまま起きあがれないぼくの耳元に、生あたたかい吐息がかかり、かすかなささやき声がしたのだった。
「朝、勉強するなんて……ほんとかな?」
「えっ?」
思わずビクッと体が固まる。その声はもしかして……。
おそるおそる、ふりむいた瞬間……。
今度こそ本当に、口から心臓が飛び出したと思った。
バスタブの中から、ツルツルぼくの肩まで伸びた首。その顔は、まさに、ぼくをにらんだ母さんだったからだ。
「いやだあ! いやだあ! 助けてえ! だれか助けてえ!」
バスルームが一気に明るくなり、気がつくと素っ裸で震えているぼくを、家族全員がとりまいていた。
「どうしたの! なにやってんの?」
ろくろっ首ではない、本物の母さんがぼくの肩をゆすった。
「勉強します! します! ごめんなさい!」
顔をあげられず、ただ、そうくりかえすぼく……。
ミツルだけが、眠たそうな目をこすりこすり、口をとがらせて言った。
「こんな時間にみんなを起こすなんて、おにいちゃん、ホントにバカじゃないの?」
人騒がせな、ブラックローズのお湯のせいで、ぼくはしばらくの間、ミツルからバカにされどおしだった。父さんと母さんは、てっきりぼくが寝ぼけたんだろうと信じていたけど……。
3D入浴剤のことは、もちろん、だれにも秘密にしていた。
一週間後、母さんのお使いで、あのドラッグストアに行った。
いつかの店員さんが、いたずらっぽく声をかけてきた。
「ねえ、きみ、ブラックローズの湯はどうだった?」
ぼくは、店員さんに向かって口をとがらせた。
「あれって、なんのお湯だったんですか?」
みごと期待を裏切られた悔しさが、ふつふつとわいてくる。
「オバケの湯だよ。きもだめしに買っていく小、中学生、結構多いよ」
「ぼく、おかあさんのオバケを見ました」
のっぺらぼうもこわかったけれど、母さんのろくろ首は最高にこわかった。今でも、背後で声がするたび、ドキンとしてしまう。
ぼくのことばに、店員さんは笑いをかみころすような顔をしてこたえた。
「なにか、お母さんをだますようなことしたんじゃないの? 良心の呵責を感じてると、それが無意識のうちに、自分自身でオバケの幻覚を作ってしまうらしいよ」
「それは……まあ……」
うそをついたのは、確かなことだ。
店員さんは、話しつづけた。
「体に害はないけれど、この3D入浴剤には、嗅覚をとおして、記憶を呼び覚まし、幻覚作用を起こす働きがあるんだよ。ブラックローズの湯には恐怖感、梅の湯とザボンの湯には、思い出を呼び起こす作用があるみたいだね」
なるほど! そうだったのか。
ぼくにとって、梅の湯は、小さい頃銭湯に行った記憶があったからで、ザボンの湯は、別府と高崎山のサルがイメージ的に結びついていたからだ。
「じゃあ、ホワイトローズはどうして、十八歳未満禁止なんですか?」
店員さんは、ちょっと言いにくそうに苦笑いした。
「実はね、ホワイトローズには、エロ雑誌を読むのと同じような興奮作用があるんだ。たとえば、君に好きなアイドルや、女の子ができたとするだろう? その子のことをずっと考えていると、お風呂の中で、その子の幻覚を見ちゃうかもしれない。だから、十八歳未満には刺激が強すぎて禁止というわけだよ」
なるほど! それもうなずける……。
エヘヘ。だけど、十二歳のぼくは試供品で、ひとあし早く入っちゃいました! ちょっと得した気分。 でも……ひとつ疑問点がわく。
「もし、好きな子がたくさんいたら……?」
「ぜんぶが合成された幻影になって、現れるらしいよ」
それだ! ぼくはピンときた。
ホワイトローズの湯の美女は、ぼくの好きなアイドルT美、M子、Y子の合成だったのだ! どうりで、美しすぎたはずだ……。
ちょうどその時、3D入浴剤を求めにお客さんが入って来た。
お兄さんは、入浴剤の説明をしながら、最後にこう付け加えていた。
「いくら、まわりをごまかしたつもりでも、無意識の気持ちだけはごまかすことはできませんからね。そんなとき、この入浴剤を使うと、幻覚作用の中で、本音が出てしまいます。ときめき社の宣伝どおり、まさにドキドキの入浴剤ですね」
それから数日後。
パート帰りの母さんが、はずんだ声でぼくのところにやってきた。
「ね、ね、まこちゃん、これ、試してみない? 今大人気の3D入浴剤買ってきたの。おもしろそうでしょ?」
いかにもうれしそうに、ほら!と目の前に差し出す。
げ! ザボンの湯とブラックローズの湯。 両方とも三袋ずつ、合わせて六袋も!
「マコちゃんは、入浴剤大好きでしょ! さっそく、今晩これを入れてあなたから入りなさいね」
いや、いいです! もう、たくさんです!
ぼくは、ブルブルとかぶりをふった。
ドキドキのバスタイムは、当分おあずけ。
ぼくが、めでたく十八歳を迎える六年後に解禁だ。
それまで、どうか、ときめき社が、ずうっと、ずうっと繁盛してくれてますように!
お読みいただきましてありがとうございました。