妖1
「…衣羽。…何を憑けてきた? 」
それは、帰宅して早々投げられた言葉だった。
「えっ? …つ、着けてきたって? 」
心当たりがあり口元を拭えば、少年は呆れたようにため息をついて、テレビへと向き直ってしまった。
「……??? 」
三木谷家での一件から一週間程経とうとしている。
あれから、来客こそ無いものの依頼の電話は毎日のように来ており、ミキは忙しそうに外へ足を運んでいた。
衣羽はといえば彼に着いて行く事もあったが、大半はこのオフィスの掃除に勤しんでおり、ようやく一通り済ませたのだ。
そして、ここの主とその相棒はろくな食事を取っていなかった事も知った。
掃除した冷蔵庫にはレトルト食品ばかりで(しかも賞味期限切れ多数)、栄養不足も甚だしいものだった。
そんな訳で、衣羽は食材の買い物に出ていて、たった今帰ってき所である。
彼の下に来る以前、この周辺を彷徨っていた時に見つけたスーパーを見つけていた事もあり、そこへと出向いていた。
てっきり店内で試食をした際に食べかすが着いて、そのまま帰ってきてしまったのかと思った。
しかし少年の様子を見る限り、そういう事では無さそうだ。
(そういえば…"あそこ"、綺麗だったなあ…)
それは買い物帰りに、ふと思い立った周辺の散策をした時だった。
山育ちでそれなりに方向感覚のある衣羽はオフィスに辿り着けそうな道を見つけ、来た時とは違う道を選んだ。
しばらく歩けば遠回りになっていた事がわかり、重い荷物を持っていたこともあって若干後悔している時だ。
ふと住宅街の一角に、とある工事現場が目に入る。
何かを取り壊しているようで、中を覗けば組まれた鉄骨の奥に鳥居が見えた。
どうやら神社のようで、元々の色に真っ赤に差す夕陽も相まって朱一色の空間が広がっていた。
「綺麗…」と、声に出さずにはいられない程に。
その瞬間、息が止まる程の強い風が吹き付けた。
「ぶわっ!」と、効果音通りの音が耳を塞いだ。
ハッとした衣羽は帰らなければいけなかった事を思い出す。
「壊されちゃうのかな…勿体無い……」
なんて事を呟き、小走りでその場を後にしたのだった――。
―――「……その首元だよ」
回想をしていれば、テレビを見つめたままの少年の質問が続いた。
言われた通り、首筋に触れて指先で周辺を撫でると、一ヶ所だけ熱を持っている所に気づく。
「………?? 」
いつの間にか虫にでも刺されたのだろうか。
目視で確認する為に鏡に自身の姿を映す。
ツチの胃袋から出した三木谷の物だったそれは、変わらずにヒビが入ったままの状態である。
「んー……? 」
熱を持つ一点をよく見れば、そこには虫刺されには見えない跡が付いていた。
「……なに…これ……?」
それは、"歯形"だったのだ。
背中越しに映る少年が、もう一度同じ質問を投げる。
「……衣羽。何を"憑つけて"きた? 」
その言葉の意味をようやく理解した上で答えを探す。
「……えっと…」
擦るように歯形をなぞるが、熱を感じるだけで痛みや痒みは全く無い。
思考の中で、真っ先に思い浮かんだのは、あの朱い神社だった。
しかし、あそこで特に噛まれるような何かは起きていない。
「えっと…スーパーでも…特に噛まれてなんて…」
自分の行動を巻き戻してみるが、やはりそんな記憶は見つからない。
そうして考えていると、ツチが白い身体をくねらせて近づいてくる。
探るように衣羽の足元を三周すれば一言、「臭え」と呟いた。
「…え゛!? 」
それは当然、女子としてショックな言葉だった。
「草を燃やした臭いだな」
「へ…? く、草…? 」
「"煙管"を吸ってる奴に会ったか? 」
「きせる…って、昔の人が良く吸ってるみたいな…? 」
時代劇のシーンを思い出す。
「てやんでい!」と言っている江戸っ子や、妖艶な花魁が吸っている様なイメージを持った。
そういった今時見ない物を持っている人が居れば印象に残るだろう。
もちろん、衣羽にそんな記憶は全く無かった。
「ねえ、触っていい? 」
そう言って白い手が少女の首元に伸びる。
承諾の意で頷けば、その手は歯形に触れた。
「…っ! 」
一瞬だが、まるで針が刺さった様な痛みが走る。
それは触れた指先にも伝わったらしく、少年の顔も少し歪む。
「ふうん…。まあ、衣羽だからこそ影響は無かったみたいだね」
離れた彼の指先。そこには、小さな血の粒が滲んでいた。
「ミキ君…! 血が… 」
「別にこれくらい何ともないけど……」
ぺろりと指をくわえたミキは、ニヤリと微笑んだ。
「……僕の地区で好き勝手やってるのは見過ごせないよね」
その笑顔はまるで悪巧みをする少年のようだった。
「おい、どうするんだ? 」
「そうだねえ。とりあえず今日は疲れた。」
「…は?」
「だから、とりあえずツチ君、"呑んでて"くれる? 」
「はあ゛!? 」
「何が起こるかわからないし、ツチの胃の中なら心配いらないでしょ? 」
言い合いをする中、双方の視線は衣羽へと向けられる。
「…へ? えっと…? 」
「衣羽には影響無いならいいじゃねえかよ」
「何寝ぼけた事言ってるの。歯型が他の人間にも影響与えてるかもしれないんだから。調べる必要があるでしょ」
「それならお前でもできるだろ! 」
「だって僕疲れてるもん!! 」
目の前で繰り広げられる言い争いは続く。
そして原因にもなっている少女は、状況に訳がわからないまま彼らのやり取りを見ているしかなかった。
「あ…あのぉ……」
夕飯の準備をして良いか聞こうと声を挟めば、嫌々とした顔でこちらを向いたのはツチだった。
「…ったくよお、鏡吐き出してすっきりしたと思ったのに…」
ため息と共に、文句を溢す。
「衣羽」
「…は、はい…? 」
「逃げるなよ」
「……?」
途端、大きく口を開けた蛇。
勢いよく、衣羽の首筋を狙って飛んできたのだ。
「ぎゃあっ…!!」
驚くのは無理も無い。いくら蛇に慣れたとはいえ、その鋭利な牙がこちらに向かってくるのだから。
避ける間もなく、それが自身の皮膚を貫通した。
「ぎゃあああああぁぁ……ぁあれ? 」
なんとびっくり。痛みは全く感じないではないか。
「うるさいなあ…」
ミキはすごく迷惑そうに呟いて、テレビ観覧へ戻ってしまった。
皮膚の下に通る牙は歯型の部分にあった熱を吸い取っているのがわかったが、それは一瞬の事だった。間もなくして、ツチは離れた。
鏡をもう一度覗けば、そこにはもう何も無かった。
「無くなってる……」
「おえ。なんだよこれ、不味ぃ…」
「あ、ありがとう…? ツチ君…」
白蛇は、尾を揺らすことで返事をする。
ミキに文句を垂れながらも、こうして謎の歯型を消してくれたこの神獣は、この一週間でわかったが案外優しいのだ。
「やっぱりただの噛み跡じゃないね。ツチ、どう?」
「妖の力だな」
「ふうん…妖か…」
「洋子の所で呑んだガラクタの中からは同じ力は無いぞ」
「……そっかあ…」
顎に指を添え、悩む少年。部屋には沈黙が流れる。
そして、真剣な眼差しが衣羽とぶつかる。
「……? 」
「……ねえ」
「…は、はい…」
「…夕飯作って」
「………。…は? 」
あまりにも見当違いな要求に理解が遅れてしまう。
「詳しくは明日でいいや。今日は疲れた。お腹すいた」
「はあ……? 」
「そういう事だから。オムライスよろしく」
その直後、少年の大きなお腹の音が部屋に鳴り響く。
これはもう、了承せざるを得ない状況だった。
「…わ、わかりました」