初めての夜遊びは過去の味(3)
私が魔界に来たきっかけは魔王様が私を見つけたからだ。私を見つけて、問答無用で連れてきた。
でも、魔王様は無理強いはしない人だから。私がこっちに来たのは私が望んだからで、魔王様はそれに応えただけなんだって本当はわかってる。
だから本当のきっかけは。
「人間界にいた時、いつも居場所を探しているような気持ちでした。もちろん帰る家はあるし、学校に友達だっていました。でも、ここじゃないっていうか、私がそこにいてはいけないと思っていたんです」
お父さんが私たちを置いて出ていってしまったとき、私はまだ、大人が働くことや、お父さんが働いていることで自分が生活できているということを理解していなかった。
幼稚園で父の日のプレゼントを作るときも、言われるがまま作って、言われるがまま「いつもありがとう」と言って渡した。
そんなふうだから、お父さんがいなくなることでそれまでの生活が一転するなんてわかっていなくて、ただただ戸惑って。
お母さんが家にいることが少なくなって、私から見ても疲れた顔をするようになって、少しのことで苛立つようになった。
物が飛んで、食事がごみ箱に消えて、でもそんなものは忘れてしまえた。ただ、産まなければよかったという言葉だけは忘れられなかった。私には鋭すぎて。
お母さんは本当のお母さんじゃないんだ、いつか本当のお母さんが迎えに来てくれるんだ、なんて妄想をして、でも私は知っていた。私の母親はお母さんで、お母さんがお母さんだからこそ、私はつらいんだって。
お母さんじゃない人に言われたら、こんなにつらくなかったって。
でも私をつらくさせるお母さんのことを一番苦しめているのは私なんだって、知っていた。
「私がいるせいで不幸になる人がいるって思ってました。一番身近で、一番幸せになってほしい人が、私のせいで幸せになれないんだって」
小学校に上がって何年もすればお母さんの仕事も安定して、私も一人で家で過ごすことに慣れた。小さい時のことだって、事故みたいなものだって諦めたはずだった。
なのに、中学に上がってふいに心の中に襲ってきたのは、過去の記憶と「産まなければよかった」だった。
毎日毎日その言葉が胸に襲ってきて、私が生きているのは罪だと感じて、毎晩あてもなく懺悔した。
「今思えば、中二病ってやつだったんだと思います。中二病ってわかりますか? 人間界の日本の言葉なんですけど、中学二年生……えっと、14歳くらいの思春期まっただ中の時に、全能感に溢れちゃったり、自分には特殊能力があるって思っちゃったり、逆に、自分は無能だって、存在価値なんかないって思っちゃったりする病気なんです」
学校は楽しいのに、ふいに襲ってくる罪悪感は呪いのようだった。私には幸せになる権利なんかないのだと言われている気がした。私さえいなくなればみんな幸せになれると思った。でもそれと同時に、自分が要らない存在であることに耐えられなかった。私の頭はぐちゃぐちゃで、逃げ出したくてたまらなかった。
少し調べれば思春期特有のホルモンバランスの乱れによる情緒不安定だとわかったはずだった。誰にでも起こりうることで、平然と生きている大人たちにもそういう時期があったのだと知ることができたはずだった。
でも私は調べる労力を払わないまま考えることをやめてしまって、同時に、幸せになるために頑張ることを諦めてしまった。
「今から思えば視野狭窄と言うか思い込みが激しいというか、ともかく馬鹿だったとしか言えないんですけど、なんにせよあの時は自分がいなくなることが正解だと信じ込んでしまって、すべてを捨てようと思って場所を探しました。そのときに人間界に来ていた雇い主に見つかったみたいで、すべてを捨てることに決めたあの日、雇い主が現れたんです」
そして、私の腕を引いて魔界に飛んだ魔王様は私に笑いかけたんだ。
「どうせ捨てた人生ならこの手に委ねてみれば良いみたいなことを雇い主は言って、私はその手を取りました。彼は私に魔界語がわかるようになる魔法をかけてくれて、居候生活が始まりました」
当時は魔王城に純血の魔族のお姉さんたちが通ってきていて、お姉さんたちは人間を見下していた。私と魔王様が一緒にいるのを見つかると敵意をむき出しにして睨んできて、私はいつも執務室か自分の部屋にいるように言われた。魔王様は私の知らない部屋でお姉さんたちの対応をしていて、もしかしたら魔王様も私のことを見下しているのかな、なんて悲しいような諦めたような冷たい気持ちになった。
そんな風に居心地が悪い時もあったけれど、大抵は平和に過ぎていった。平和ながらも毎日やることがあって忙しくて、シェムさんやメイド長から魔界語を習ったりお掃除やお茶くみを手伝ったりと日々新しいことに触れていたせいで最初の一年は元いた世界のことを思い出すひまもなかった。二年もすれば魔王様の魔法を解除してもみんなとお喋りができるようになって、シェムさんがくれた漫画や小説を辞書なしで読めるようにもなった。
「16歳になるかならないかの時、突然言われたんです。お城の外に出てみたくはないかって。外に出てもお金がなかったら何もできないじゃないですかって言ったら、じゃあ働けばって。それで、気付いたらお屋敷のメイドになっていました」
でも、やることは一緒。お掃除をして、お茶くみをして、シェムさんやメイド長に頼まれた雑用をする。それまではなかった城下町へのおつかいも、そんなに難しいことはなかった。ただ、冒険者っぽい人とか、やたら顔が青白い人に物陰に連れ込まれそうになったりと危険な目には遭ったけれど。
「私が危ない目に合うと、雇い主はいつも助けに来てくれました。それで、私を叱るんです。帰ったらメイド長にも叱られて、でもメイド長はいつも私を抱きしめてお帰りって言ってくれます。そのたびに、私の帰る場所はここなんだって思えて」
でも同時に、仕事をしなかったら要らない子かもしれないとも考えてしまって。それなのに、私はこの世界を捨てようとは思わなかった。私は本当は要らない子なんだぞ、と自分を戒めようとしても、それは違うって反発してしまう自分がいた。
「雇い主は私に居場所をくれました。私がこの世界で一人で生きていけないとか、本当はそういうのは言い訳なんです。私は雇い主に感謝していて、だから雇い主と離れたくなくて、でも同時に、捨てられたらどうしようって、怖いんです」
信じ切ってついていって、裏切られるのが怖い。
私のことを大好きだと言ったその声で私を拒絶したお母さんのように、魔王様も私を拒絶する日が来るかもしれない。
おまえはもう要らないって、言われるかもしれない。
そうしたら私は、今度こそ居場所を失ってしまう。
今度こそ、存在意義を全て失って。
でも、この六年間が幸せすぎて、私はもう、自分でこの世界を捨てる勇気がない。
本当の本当に、手詰まりになってしまう。
「だから、捨てられるくらいなら、捨てられる前に距離を置いた方が良いのかなって。お屋敷にそのまま残れば、雇い主と離れることができるから」
喉がひどく乾く。
空いたグラスに残ったしずくを飲もうとしても、量が少なすぎて口元まで届かない。
でも次の瞬間、目の前に青紫色のカクテルが出された。
クラヴィスさんを見ると、「いいよ、飲んで」と返される。
口に含むと優しい甘みと爽やかな後味が広がった。
「このカクテルはブルームーンって名前なんだよ。一か月に満月が二度出るとき、普段は起こらないはずの二度目の満月をブルームーンと呼ぶんだ。だからこのカクテルの意味は『奇跡』と、そして……『叶わぬ恋』」
クラヴィスさんの穏やかな笑みに「叶わぬ恋、ですか」と質問すると、クラヴィスさんは琥珀色の液体の入ったロックグラスを傾けた。
「普通なら起きない現象だから叶わないと決めつけるのか、普通なら起きない現象が起きるから奇跡と呼ぶのか。それはその人がどう考えるかに左右される。でも、ブルームーンは存在する。これは確かなことなんだよ」
普通なら起きない現象、でも起きることが確実な現象。
それは確約された奇跡だ。
でもどうしてクラヴィスさんはこのカクテルを私に飲ませたのだろう。
普通なら魔王様は私を拒絶しないけれど、でも拒絶することが確約されているということなんだろうか。
胸が痛む。魔王様の目を細めた顔が浮かぶ。
不機嫌そうだったり、楽しげだったり、同じような顔なのに何よりも雄弁で。馬鹿なの、と言ってくるのも、貧乳だよねって言ってくるのも、苛立たしいのになんだか楽しくて。怒ると怖くて。頭を撫でられると嬉しくて。魔王様が綺麗なお姉さんたちと楽しげにしていると、罵りたくなる。嫌いだって言いたいのに、やっぱり嫌いじゃないって言いたくなる。
なんだろう、これじゃまるで私が魔王様のことを好きみたいじゃないか。まさか。そんな。
私、魔王様のことが好きなの……?
「雪子ちゃんのために一つ、奇跡の手助けをしてあげる」
クラヴィスさんの流し目が私の視線を真っすぐに捉えて胸にまで突き刺さった。
「帰ったらきっと、君の雇い主は『いったい何を飲んだんだ』って聞いてくるよ。だからこう答えて。ブルームーンだって」
「このカクテルの名前ですか?」
「そう。その時はシンデレラのことは言わないこと。約束して?」
不思議な約束だ。クラヴィスさんはどんな奇跡を起こそうとしているんだろう。でもきっと私のための奇跡なのだと、今は信じておこう。
了承の意味を込めて頷いたときだった。
柱時計がボーンと鳴り、繰り返し鳴るたびに照明がどんどん明るくなっていった。
「ようこそ素敵なお客人方。私はキャプテンルビー。我が船の宴はお楽しみいただけましたでしょうか」
声に振り向けば、お店の中央の少し空いたスペースで海賊帽を被った黒づくめのギャルソンさんが両手を広げていた。
「ただいまから始まりますのは真夜中の茶会。夜明けまでの僅かな甘い夢、どうぞ存分にご堪能ください」
黒づくめのギャルソンさんが舞台役者のようにお辞儀をする。それと共にスタッフさんがケーキのたくさん乗ったカートを押してテーブルをまわり始めた。
カウンターに体を戻せば、バーテンダーさんもケーキを差し出してくる。
「全種類を。それと、紅茶をカップ二つで」
クラヴィスさんの注文に合わせて目の前に大皿が置かれる。イチゴのケーキ、ベリーのムース、チョコレートケーキ、チーズタルト、ココットに入ったババロアやプリン、透明のグラスに入ったアイスクリームやゼリー。色とりどりのケーキが大皿の上にぎゅうぎゅうに乗せられる。
まるで宝箱の中身みたいだ。
「さあ、深夜カフェのスタートだ。もう少し経つと新しい種類が出てくるからどんどん食べるよ」
クラヴィスさんのフォークはすでにチーズケーキに刺さっている。その早業に置いて行かれまいとアイスクリームを口に入れる。おお、濃厚。ゼリーはレモンティーの味で爽やかだし、チョコレートケーキはキャラメルの香りがして甘さ控えめだ。これなら食べられそう。
「雪子ちゃんは美味しい食べ物を前にして、その食べ物が腐ってるかもしれないからって食べるのを諦めたりする?」
ふいに聞かれて、「それ腐ってるんですか?」と聞くと、すべての食べ物は腐っている可能性がゼロではないと返される。
「美味しいってわかってるなら……食べます。腐ってたらその時です」
イチゴが甘い。クリームもスポンジもふわふわで口の中で溶けるように消えていく。
「それなら、怖がらずに進めばいいんじゃないのかな。たとえ結果がどうであれ、命まで取られることはない」
どうやら捨てられたらその時だってことらしい。なんという無責任な。私は魔界での人生かかってるんですよクラヴィスさん。
「それで、もし腐ってたら、俺のところにおいで。原稿の誤字チェックや部屋の片づけをする人はいつでも募集中。それに、食事をすることを忘れないように警告してくれて、一緒に美味しそうに食べてくれる存在もね」
良いことを言っているのに、口の端にクリームがついているからいまいち決まらない。手袋を外してクラヴィスさんの口元を指先で拭うと、ひげの剃り跡がじょりっとした。
「あれ、ついてた? ありがとう」
「いえいえ」
左手で鞄をあさってハンカチを取り出す。どうせハンカチがあるなら指じゃなくてハンカチでふいてあげればよかった。これだから私は女子力が足りないんだ。
「新しいケーキが来る。残り食べちゃうね」
「待って、このゼリーとチョコレートケーキは食べます」
クラヴィスさんの手が伸びる前にゼリーの器を大皿から確保。クラヴィスさんに負けないようにチョコレートケーキをほおばると、クラヴィスさんは「その速さで俺に勝てるかな?」と猛然とチーズタルトに食らいついた。
大皿の上はさながら戦場。横目で見た他のテーブルもどうやら似たような様子で、理由を聞けば真夜中のお茶会で出されるケーキはすべて無料なのだとか。その代わり、真夜中のお茶会に参加するにはそれまでに一人五品以上注文している必要があって、私が過去のことを話している間、クラヴィスさんはお代わりにお代わりを重ねていたのだと教えてくれた。
私の分まで飲んでいてくれたことに感謝すると、「普段からこれくらい飲むから気にしないで」と新しく出てきたカタラーナやフォンダンショコラに手を伸ばしていた。
クラヴィスさんは手が早い。良い意味で。




