下校ルートは危険がいっぱい(5)
私はこの場所を知っている。
きっとそれは、夢だから。
目線の高さが低い。たぶん私は、幼稚園の二年目。
世界は広くて色んなものが大きくて、でも、世界は今よりもずっと狭かった。あの時はまだお父さんがいた。好きだったお父さん。もう顔の思い出せない、お父さん。
ここは誰かの家の中。お父さんが左。お母さんは右。
二人は言い争っていて、耳をふさぐ気力ももう残っていない。やがてお母さんは言う。「雪子帰るよ」と。お父さんはすぐに、待てよ、と言って、一秒、耳鳴りがするくらいに静かな一秒が過ぎる。
私はわからない。どうすればわからないから、考えることから逃げて、動かなかった。
お母さんはあの日私を置いて行ってしまった。なのに私は翌日には家に帰っていて、そこにお父さんはいなかった。その日も、翌日も、一か月たっても、お父さんは帰ってこない。
お父さんはいつ帰ってくるの、と聞けば、家の中に冷たい風が流れて。
あなたはあのとき来なかったものね、とお母さんは言う。何年も何年も、言う。
「起きたんだ?」
頭が痛かった。頬に手をやればやたら濡れていて、鼻が詰まる。
床で倒れていたはずの雪子は再びソファの上にいて、椅子に座ったサケルに見下ろされていた。
「凄くイイ表情だったよ」
サケルは淡々とそう言って、雪子の頬に顔を近づける。呆然としているうちに、サケルの舌は雪子の顎から目までを舐め上げていた。
「可哀想にね」
サケルの手が雪子の頭を撫でる。その手は予想に反して温かく、なんとなく身をゆだねてしまう。
サケルの顔ごしに見える天井は壁と同じように黒く、白い雪が舞い落ちてくるのがまるで万華鏡のよう。
「雪子、おいで。僕にすがりついて」
黒い目が雪子を射抜く。感情の読み取れない瞳は、なぜか優しさまで感じさせる。言われるままに抱きつけば、サケルは満足そうに息を吐いた。
「良いよ。すごく良い。もっと近づいたら、もっと良いのかな」
サケルの体は温かいのに、なんだか底冷えがする。サケルの体が雪子の上に移り、彼の手が雪子の太腿に伸びる。私はどうしてこんなことになっているんだろう。体に感じる重みとは別に、胸が苦しい。
混乱する思考から逃げるように目を閉じたときだった。
まるで目の前で交通事故が起きたような衝突音。それとほぼ同時にガラスの割れる音が空気を震わせた。
目を開ければ、黒のマントをはためかせた魔王様が宙に浮いている。
「雪子から離れて」
冷たい声。お茶の時間にスルメと明太子を出された魔王様だってこんな声は出さなかった。
「遅かったね、ベル。こんなに楽しくなれるオモチャ、僕にくれなきゃあ駄目じゃないか」
「もう一度言う。離れろ」
「嫌だね。ベルはもう十分遊んだろう? ちょうだい、これ」
サケルが雪子の腕を強く握って引き起こす。 部屋の温度が一層下がって、魔王様の不機嫌そうな顔がさらに凶悪になる。
「あげない。雪子、帰るよ」
「雪子、僕に抱きついて」
サケルが声を発した途端、腕が無意識にサケルにむかって動こうとする。
まるで自分の腕じゃないみたいに、腕が上がる。きっとこのまま何もしなければ私はサケルに抱きつくんだろう。
この状況を私は知っている。
そう、さっきみたばかりの夢と同じ。混乱して考えることをやめたあのときと同じだ。
あの日、私は間違った。だから。もう、間違えない。
「魔王様、私、帰ります」
そう言って、伸びようとする腕を両手を握ることで抑える。相反する力が腕にとどまって、まるで筋トレをしているみたいに腕が痛い。
でも、負けちゃ駄目。私は帰るんだ、6年前「ここに住んでみたら?」と言った魔王様も、「早く帰っていらっしゃい」と言い続けてるメイド長も、出かけるたびに「お気を付けて」と見送ってくれるシェムさんも、みんな待っててくれるから。
「ケル兄さん、僕が一番嫌いなこと、知ってる?」
魔王様の周りに魔力の渦が見える。いつも移動に使うような白い光ではない、熱量を感じるような赤紫色。
「たからものを奪われることだよ」
赤紫の光が雪子に向かって伸びてくる。
って魔王様! 殺す気ですか! サケル逃げてるし! もう!
両手を光に向かって差し出せば、赤紫色が手の中に収束する。でも、手をひっこめたくなるくらいに熱い。
「魔王様これ熱すぎるんですけど!死ぬ!」
「じゃあ、そこの和服の男に向かってぶっ放してみたら?」
魔王様は飄々とそう言って、ああ、それもいいかも、なんて思って。
「覚悟!」
ちょっとカッコいいポーズを取ってサケルに照準を合わせて熱を解放すれば、反動で体が後ろにぶれる。
倒れるかも、と思ったら、いつの間にか移動してきていた魔王様に肩を支えられた。
「不用心にもほどがあるよ、雪子。こんな首輪つけちゃって」
目を細めた魔王様が雪子の首に手をやれば、紫色の鎖のようなものが雪子の首から剥がれる。文字が連なったようなそれは魔力のかたまりらしく、魔王様の手の上で音もなく崩壊した。
「お説教は後でするとして、帰ろうか」
「帰るけどお説教は要らないです」
「僕がしなくてもライラがすると思うけどね。メイド長のお説教とイケメン魔王のお説教、どっちが優しいかな?」
「どっちも嫌……むしろシェムさんがいいです」
「あー、ちょっと君たち?」
何か声が聞こえたような……気のせいか。
「シェムシュは雪子を探すのに散々残業したから明日は午前休だよ」
「えー、じゃあメイド長で……」
「ライラが良いんだ? わざわざここまで来てあげた僕を差し置いて?」
「聞け!」
サケルの大声。
見れば魔法の影響もなんのその、和服の裾を乱すこともなく、懐手で平然と立っている。
「まだいたの?」
魔王様の言葉に「まだいたも何も、ここは僕の別邸なんだけどねぇ」とサケルは不満そうに鼻で笑った。
「反抗期かい? 昔はあんなに素直で可愛くて、僕が欲しいって言ったらなんでもくれたのに、なんでそんな風になっちゃったのかなぁ。魔王なんてくだらない政治屋やってるからじゃあないの」
あ、サケルいま地雷踏んだ。
魔王様に仕事がくだらないとか言うとめっちゃ怒るんだよ、前だってお金持ちっぽい人にそれ言われて怒っちゃって、お付きの人たちと一緒にグロどしゃスプラッタみたいにしちゃってたんだから! ああいう時の魔王様ってほんとに魔王なんだから!
「じゃあ、僕たち帰るから」
ほら、こうやって……あれ? 予想外に穏便な台詞だわ。
「あ、でもその前にケル兄さんにはプレゼントがあるよ」
魔王様の右手から生まれる、深紫の球。みるみる成長して人が二人くらいすっぽり入れそうな大きさになったところで、魔王様はにっこりと笑う。
「兄さんの顔、二度と見たくないかも」
やっぱり穏便じゃなかった! なんかやばそう、たぶんこの部屋ふきと……
魔王様がパチンと指を鳴らす。
瞬間、閃光に思わず目を閉じて、開けた時には部屋が吹き飛んでいた。
おそらく爆音が発生したんだろうけれど、いつのまにか魔王様が張っていた結界のおかげで、なんの実感もない。
ただ、全面スノービューイング。部屋どころか建物全壊。明け方のぼんやりとした空の下、崩れた豪邸と真っ白な雪原の真ん中に浮かぶ私たち…とってもロマンチックね……あはは…。
「逃げちゃったみたい。でも、ちょっとは痛かったかもね」
魔王様が雪子の顔を見つめる。そして全身にざっと目を走らせて、ため息。
「残念だよね、色々と」
胸? 胸がないこと言ってる?!
ちょっとはだけていた胸元を直して、風でめくれていた裾も直していると、魔王様がマントを脱いだ。
「はい、こっち向いて」
魔王様がマントを肩にかけてくれる。マントの温かさを感じながら魔王様が一つずつボタンを留めていくのを見つめると、なんだか安心した気持ちになる。
マントってボタンを留めたらコートみたいになるんだなぁ、なんてくだらないことを考えていると、一番下のボタンを留め終えた魔王様と目があった。
見下ろす形になっているせいか、魔王様の長いまつげがよく見える。雪明りのせいか、なんだか綺麗。
「いま、なんか失礼なこと考えてる?」
「いいえ滅相もない」
「そう。ならいいけど」
魔王様に手を引かれて雪の上に降り立つと、結界が解除されたのかめちゃくちゃ寒い。というか裸足に冷たさが刺さる!
魔王様の短い口笛に呼ばれて、巨大な鳥が飛んでくる。この前見た時は目つきの鋭かった「魔王専用車」は、徹夜だったのか目に力が足りない。
ごめんね、と首筋に手をやると、突然ギョエッと鳴いて、おびえたような眼になった。
「雪子、そいつただでさえ疲れてるから魔力吸い取ったら倒れるよ」
私の疑問に答えるように魔王様は言って、後ろから私の体を抱きしめた。首筋にあたる吐息が温かくてなんだかぞくっとする。
「魔王様……ってうわぁ!」
どぎまぎした私の心をひっくり返すかのように体が宙に浮いて、次の瞬間お腹が鳥の背に押し付けられる。背骨っぽい固いところが内臓にクリーンヒットだ。痛い。
痛いです、と呻く私の声を無視した「手袋置いてきちゃったから、どこも触らないでよ」という台詞と共に背中にも圧力が加わる。よく見えないけれど、紐のようなもので鳥に縛られているような気がする。さながら荷物!
「つかまれないからしょうがないでしょ。お荷物なのは事実なんだし」
私の文句をするっと無視して鳥が翼を広げる。羽ばたきと共にマントの下から風が入ってきてどうしようもなく寒い。脚丸出しだし。もうだめ凍る。そんな私の泣き言もするっと無視されて、永遠とも思える魔王城への旅が始まった。
魔王様はなんだかんだ言って、鬼畜だ。




