4.侵入者
◇
連れ去られる。
その恐怖は尋常なものではなかった。
あたしの手を掴んで放さない者。それは、蝙蝠。中年の男。ただでさえも、虫なんかよりもずっと力のある獣だった。
食虫花に忠誠を誓い、主人の為に罪を犯す荒くれ者。
彼の悪行は既に知っている。
かつてこの神聖な庭を血で穢したのだ。
幼い頃の月を攫おうとした食虫花を妨害し、追い返したという先代の女神の忘れ形見。新たな月――愛した人の娘を守ろうとした人工花を、食虫花は酷く邪魔に思ったのだ。
その結果、人工花は蝙蝠に殺された。
高貴な身体は食いちぎられ、蜜の殆ど全てを飲み干され、白い身体を赤く染めながら枯れてしまったという彼女。その悲鳴は食虫花の魔術によって消され、人間達が気付いた時にはもう手の施しようもなかったらしい。
月は覚えていないらしい。
ただ、白く美しい女性が自分を守ってくれた瞬間だけが断片的に頭に焼き付いていると言っていた。
その美しい女性を引き千切ったのがこの男。
あたしの手を掴み、何処かへ連れて行こうとする蝙蝠。
――行きたくない。
その言葉は声にならなかった。
恐怖で息が詰まりそうだ。
蚕と共に華が駆けつけてきても、蝙蝠は動揺すらしなかった。相手が虫と花であるせいで、ちっとも恐れていないのだ。
仕方ないことだ。
蝙蝠など胡蝶が相手出来る者ではない。そもそも、相手にするような状況なんて殆どない。蝙蝠が蜜を吸っていれば潔く離れるし、蝙蝠もまた胡蝶を甘く見て無駄に敵視したりはしない。
あたしが逃げ出せるという心配もしていないし、蚕達が目立った行動を起こせるだろうとも思っていない。
それに、あたしは気付いていた。
この状況を近くで見守っている者がいる。恐らく、蚕も気付いているだろう。あの濃くて毒々しい蜜の匂いは胡蝶ならばどうしても感じてしまう。
食虫花だ。
喉の渇きが訪れるのが情けない。
毒だと分かっているはずなのに、その匂いには魔性の魅力が込められているのだ。そして、その匂いは蝙蝠からも十分に香ってくる。
食虫花につけられた傷が疼いている。
何故、城の中から華達が見えなかったのか、だいたい分かった。きっと同じ事なのだろう。二十年ほど前に蝙蝠が人工花を殺した時も、食虫花が魔術をかけていたのだと言っていたのだから。
「お願い」
華の訴えが聞こえてくる。
見れば、華は怯えきった様子で蝙蝠を見つめていた。
「蝶を放して、わたしを連れて行って」
なんて事を言うのだろう。
それは恐ろしい訴えだった。
蝙蝠はじっと華を見つめている。彼にしてみれば、華の姿はかつて自分が殺した人工花に重なるだろう。その味を隅々まで堪能したという彼の目線が、華を見ているだけで汚らわしくて仕方がない。
「駄目よ、華……」
震えを必死に抑えながらあたしは華に訴えた。
でも、雲行きが怪しい。華の中で何かしらの情動が溜まっているように見えた。
「華……」
言葉だけで必死に止めようとしても、無駄だった。
華の身体はあっさりと動いてしまったのだ。真っ直ぐ走り、闇雲に進み、蚕の制止も掻い潜って華はこちらへと走って来る。
蝙蝠はそれを狙っていたかのように待っている。
血の気が音を立てて引いていく。
このままでは、最悪の光景を目にしてしまう事になる。
掴みかかる華と、それを迎え撃つ蝙蝠。
「小癪な」
冷たい声と共に、蝙蝠がマントを翻し、華を翻弄した。
それでもめげずに掴みかかる華を、蝙蝠は加減もなく突き飛ばした。捕まらずに済んだものの、華の華奢な体は容赦なく地面に叩きつけられた。
少年が悲鳴を上げた。
息が詰まるほど痛々しい光景で、あたしは固まってしまった。
あたしを捕まえたまま、蝙蝠が動けない華を覗きこんだ。
「人工花のくせに勇敢な奴だ」
その声はあたしにも聞こえた。嫌らしく、ねっとりとした声だった。
「昔の楽しい記憶が甦るよ」
獣の目が舐めまわすように華を見ている。
恐ろしい昔話が今ここで再現されようというのだろうか。絶対に嫌だ。愛しい華にはそんな目に遭って欲しくない。
「……華には手を出さないで」
泣きそうな思いであたしは蝙蝠に言った。
彼の視線が僅かにこちらを向いた。
「別に、私はどちらでもいいんだ」
華か、あたしか。
食虫花は恐ろしい。このまま連れて行かれれば、間違いなく殺されてしまうだろう。吐き気のする中、あたしの脳裏には食虫花の笑みが浮かんでいた。
けれど、華を差出す事が出来るわけもない。
その時、蚕が動き出した。蝙蝠が華を諦めて距離を取ろうとする。乱暴に引っ張られて、あたしは引きずられるように動いた。
目指すは城壁の向こうだ。
そこで待っている者にはどうしても会いたくない。喉の渇きはあるけれど、その渇きを潤して貰う喜びよりも、死への恐怖が圧倒的に勝っている。
「蝙蝠よ。そのまま蝶を連れ帰れば、絡新婦様はお前達を許さない。力が戻らぬうちに、必ずや見つけ出してやる」
蚕の怒声が聞こえてきた。
絡新婦も何処かで見ているのだろうか。だとしたら、どうか助けてほしい。月を崇拝するというのなら、今すぐに助けてほしい。
「許さないと、どうなるのだろうねえ」
笑いをこらえながら蝙蝠は言う。
「見つかると、何が起こってしまうのだろう」
蝙蝠は蜘蛛をも恐れない。
恐らく、彼にとっても、食虫花にとっても、絡新婦など餌に過ぎないのだろう。
確かに、絡新婦は一度食虫花に負け、あわや喰い殺されるかという時に月に助けてもらった事実がある。
けれど、それでも絡新婦は力ある魔女に違いない。一度負けたのならば、次は対策を練るのが絡新婦の強みでもある。
この状況を打破出来るかもしれないという期待はどうしても持ってしまう。
問題があるとすれば、絡新婦がこの近くに居ないことだ。
食虫花が近くにいるのならば、その可能性だって高い。
蚕は華の前に立ち、蝙蝠をただ睨んでいる。華の隣にはいつの間にか意識を取り戻したらしい日精。
少年の姿だけが見当たらなかった。
「なるほど」
沈黙後、蝙蝠が一人喋り出した。
真っ直ぐ蚕を見たまま、彼は先ほどとは声色を変えて淡々と語る。
「虫けらにちっぽけな花。大人にすら成り切れていない、蜜の量もささいなもの。そんなお前達でも舐めてはいけないという食虫花様の御言葉が頭を過ぎる」
蝙蝠の姿勢が変わった。
腕を掴む力は更に強まり、その痛みに思わず顔を歪めてしまう。
「だが、それで私を囲ったと思うのならば大間違いだ」
蝙蝠の冷たい声が響き、強い力で引き寄せられた。
「さあ、蝶よ。我らが主様のもとへと参ろうか」
――我らが主様。
傷に触れられ、恐怖が甦る。
蝙蝠のような未来はあたしには与えられないだろう。食虫花があたしに期待するのは血肉の味と悲鳴だけだ。
食虫花は見ているのだろうか。
絶望するあたしの姿を今も見ているのだろうか。
気が遠くなるような感覚の中で、あたしはふと昔の事を思い出していた。
◇
美味しい蜜を分けてくれる美しい大人の花。
彼女が豹変したのは、いつだっただろう。
甘い蜜に誘われて、言われるままに抱かれたあたしに、彼女はたっぷりと蜜を分けてくれた。
最初は良かった。
幸せな気持ちになった。
今まで吸ったことも無い濃厚な蜜の味に酔いしれ、豊満な身体に身をうずめる感覚は、まるで蛹の中にいた時のようで安心感があった。
けれど、すぐに異変は訪れた。
蜜が回るにつれ、具合が悪くなったのだ。その後、力を失ったあたしは抱きしめられたまま、何処かへと連れていかれた。
そうして辿り着いたのがあの屋敷。けれど、蜜で朦朧としていたあたしは、そこが胡蝶の噂で出てくる屋敷であることすら気づけなかった。
ただ、あたしの体を労り、休ませてあげると約束した彼女の言葉を信じて、寝台に寝かされるまで抵抗すらしなかった。
そして、寝台に寝かされてしまうと、地獄の時間が始まった。
優しい言葉に反して、あたしが与えられたのは痛みと恥辱。あたしが何をいっても、もう彼女は聞いてくれず、どんなに嫌がっても躊躇いすら見せずにあたしの服を奪い、露にされた肌を長い爪で弄り始めたのだ。
恐怖で逃げ出す前に、彼女はすぐに蜜を流しこんできた。身体が痺れ、動けなくなるあたしを見て笑い、肌の上に流れる血を吸って、更には肉をも削いで食べた。
痛みはもう忘れてしまった。忘れなければ狂ってしまいそうだった。
残っているのはただ恐怖だけ。
――食虫花。
その名を彼女に聞かされたのは、寝ている事すら辛いと思うくらい追い詰められた時になってからだった。
「どういうことか分かる?」
優しい心でも持っているかのような声で問われ、あたしは泣いた。
止めを刺すことなんて簡単なのに、食虫花はそうしない。
「お前はこの森での最後の獲物。永遠に私のものとなって、生まれ変わることも出来ないように、ゆっくりと時間をかけて食べてあげる」
雫が落ちるように、言葉が流れ落ちる。
壮絶という言葉では納まりきらない程の痛みを伴いながらも、あたしは結局、気を失うことも出来ないまま、長い時間を寝台の上で過ごした。
ひとしきり欲を満たし、満足すると突然労わるように優しく抱きしめてくる。
潮の満ち引きのような行いを受けながら、あたしは次第に自分の感覚がおかしくなっていくことに気付いていた。
心まで蝕まれながら、あたしは恐ろしい陰謀を聞かされた。
どうせ喰い殺すからと油断したに違いない。
あの状況から逃げだせたのは奇跡に違いなかった。
大量に血を流し、意識も朦朧としていたあたしに、まさか余力が残っていようなんて食虫花でも思わなかったのだろう。
蝙蝠が見ていなければ、きっと気付かれるのもずっと後だっただろう。
あたしを目撃し、主人である食虫花に知らせたのは蝙蝠だった。月の城へと走るあたしの姿を追ったのも、きっと彼だったのだろう。
その際、あたしは男の声を聞いた。
あれは追っている蝙蝠の声に違いない。
「逃げても無駄だよ、蝶。お前はもう食虫花様のものだ。大人しく屋敷に戻り、その身体を捧げなさい」
捧げた時、それが食虫花にとってのきっかけとなる。
「お前の主人はあの方なのだよ」
――違う。
あたしは必死に自分に言い聞かせて走り続けた。
あたしの命を全て蝕み尽くした後の事を食虫花は口走っていたのだ。
もうずっと欲しいものがある。何年も昔に手に入れかけたのに一歩届かなかった。それはとても高貴なもので、あの時よりもずっと美しく成長している。もしも自分がそれを手に入れれば、この森で、この大地で、のうのうと暮らしている愚か者たちは次々に飢え、その殆どが死に絶える事となるだろう。
何の事だかすぐに分かってしまった。
もしも、あたしがただ時を経て羽化しただけの胡蝶ならば分からなかったかもしれない。けれど、あたしは羽化して間もない頃、とある魔女によって最低限以上の教育を受け、知識を与えられたのだ。その魔女がどんな者であったにしろ、その時に受け取った知識は間違いなく役に立つものだった。
月の城。この大地の女神が住まう城。
この大地の命そのものを担う、あたし達の神様が住まう場所。
あの場所を目指さなくては。あの場所に辿り着かなくては。そして、この事をどうにか伝えなくては。
ぼろぼろの身体も、ぼろぼろの衣服も、走れば走るほど千切れてしまいそうだった。
どのくらい血が流れたのかなんて全く分からないし、自分の姿を顧みる暇なんて全くなかった。
ただ、捕まれば食べられてしまう。
今度こそ逃げる術は失われるだろう。
その思いばかりがあたしの足を動かし、あたしの意識を狭めていった。痛みなんて忘れてしまわなくては。痛いと思った瞬間、走れなくなってしまう。
けれど、ようやく月の城に着いた時の事は今でもあまりよく思い出せない。無事に城に辿り着き、月に保護され引き取られ、治療を受けた時の事も、月から聞いた範囲でしか思い出せなかった。
痛みのせいだろうか。
ぞっとするくらい酷い有様だったと月は言った。城の人間達が手配した医者も、助かる可能性は低いと言っていたらしい。
その後、傷は塞がったけれど暫くは高熱が続いた。起きれば痛みと苦しみが、そして寝れば悪夢があたしを苛んだ。その時の事すら断片的にしか思い出せない。
ただ、夢の中で蝙蝠の声は何度も響いた事を覚えている。
――お前の主人はあの方なのだよ。
身体が癒え、動けるようになる頃には、あたしは月の城に来るまでの事を忘れていた。古傷をつけた者が誰だったのか。何に追われ、何を目的に此処まで来たのか。痛みのせいか、熱のせいか、あたしは忘れてしまったのだ。
ただ、あたしの心の根底にはあの言葉だけがくすぶっていた。
――お前の主人はあの方だけなのだよ。
度々夢で聞こえてくるそれを、あたしは何度も否定した。
今はもう二年も前の事だ。
◇
食虫花が見ている。敵は蝙蝠だけではない。
その事は蚕も気付いているはずだ。あんなに濃い蜜の匂いを胡蝶が気付けないなんて事はないだろう。
けれど、それでも蚕は蝙蝠だけを相手に警戒しているようだった。
少年は慰め程度の護身用ナイフを手にして無謀にも立ち向かおうとしている。無理だ。むしろ、思うつぼだ。
華や日精が怯えて見つめている中、蚕と少年が同時に走り出した。
勇ましく、身を奮い立たせてはいるけれど、二人とも所詮は虫と花に過ぎないのだ。獣に勝つには圧倒的に力が足りない。
あたしは見たくない。
この二年ほど親しく話した少年が、かつて好ましい仲と言ってもいい関係であった蚕が、残酷な蝙蝠に傷つけられるところなんて見たくない。
それでも、ここにいる誰もが彼らを止める事なんて出来そうになかった。
蚕よりも先に、ナイフを持った少年が迫りくる。蝙蝠はその成長途中の身体だけを見据え、蚕には背を向けた。そこへ蚕もやってくる。
けれど、勿論、蝙蝠は計算済みだ。
一目もくれずに蚕の攻撃を掻い潜ると、蝙蝠はそのまま少年へと逆に迫った。あたしを捕まえたまま、彼は少年の身体を弾き飛ばすように再び城壁を目指したのだ。ナイフが蝙蝠とあたしの間を掠めて行く。外した反動で少年の身体がバランスを崩したその時、蝙蝠の怪しげな手が少年の首筋に触れた。
直後、少年の目が揺らいだ。
小さく呻くと、彼はそのまま力を失い、地面へと倒れこんでしまったのだ。
「哀れな花よ」
そう言って蝙蝠は先程よりも強い力であたしを引っ張った。
「逃がすものか」
蚕が吠え、近づくと、感情を殺したような眼差しを背後に向ける。
「面倒な奴らだ」
蝙蝠はそう言うと、空いた方の手で蚕を指差した。すると、突風が音を立てて舞い踊り、木の葉を巻き込んで蚕の身体を抑えつけたのだ。
魔術。
魔女が魔女と呼ばれる所以のものを、ごく軽くではあるが、この蝙蝠もまた使える。これはきっと食虫花のために使うものなのだろう。
蚕が怯んだのを見るなり、蝙蝠は再びあたしを引っ張って城壁を目指した。遠かったはずの城壁も、いつの間にかすぐそこまで迫っている。
此処を越えれば最期。
そんな思いがあたしを絶望させた。
異変があったのは、そんな時だった。