3.御転婆
◇
昼過ぎ、応接間に立たされたまま、あたしは困惑していた。
華がまだ来ないのだ。女中が様子を見に行ったけれど、どういうわけか中々戻って来ない。こんなに焦っているのは理由がある。
応接間には客がいるからだ。
客人は女神。月が言っていた会いたくない人。
それは、月を初めて見た時に感じた神々しさとは比べ物にならないほど圧倒的な存在感を放つ人だった。あまりに強くて直視できないほど。それは、かつて月より聞いたその名に相応しい印象に違いなかった。
月はあまり焦ってはいなかった。
どぎまぎしているのはあたしだけだろうか。いや、あたしだけではなく、人間達も間違いなく戸惑っている様子だった。
「蝶」
月がふとあたしの名を呼んだ。
「こっちにおいで。座っていなさい」
自分の隣を指して言う月に対して、客人が小さく声をあげる。
「あら、どうせ待つだけなら、私の隣に来てほしいわ。噂に聞いていた胡蝶の魅力をすぐ傍で確認してみたいの」
妖艶な笑みを浮かべ、客人は月を真っ直ぐ見据えた。
その視線は、食虫花、絡新婦とも何処か通ずるものがあって少し怖かった。けれど、無駄に恐がってはいけない。相手は女神であって、魔女などではないのだから。
見る者を焦がすような視線を真っ向から浴びつつも、月は冷静にその視線から逃れる。
捉えきれないのだとすぐに悟った。
月が彼女を苦手と事前に言っていなくても、苦手であることが分かってしまいそうなほどだった。恐らく、客人もまたその事実をなんとなく把握していることだろう。
「生憎だが、蝶は平凡な娘でね。強すぎる貴女の威光に焼きつくされそうで恐ろしいよ」
目を逸らしつつも皮肉気味に答える月に、客人はくすりと笑ってみせた。
「冷静そうに見せているけれど、本当は嫉妬しそうなのでしょう? 自分以外の女神の隣にこの胡蝶を置く事が恐ろしいって聞こえてくるわ。ねえ、月。でも、大丈夫よ、貴女が恋い焦がれた娘を確認したいだけなの」
動作も少なく、生物的でもない客人の視線が月の姿を真っ直ぐ縛ろうとしている。
「駄目かしら?」
窺っているようでいて、全くそうではない。
月は逆らえないのだろう。戸惑いつつ、唸り、やがて月はあたしの目を見つめて、溜め息混じりにあたしに言ったのだった。
「すまないが、そうしてくれるか?」
なので、すぐさま従った。
そうしなければ、月を困らせてしまうと思ったからだ。それでも客人はやはり緊張感を放つ人で、恐る恐る近づく事しか出来なかった。
隣にゆっくりと座ると、客人は恐ろしく白い腕を伸ばし、あたしの顔を両手で覆った。温もりが手を介して身体の中へと伝わってくる。まるで蜜を流しこまれる時のようだ。でも、流しこまれているのはただの熱であって蜜ではない。酔いしれる要因なんて一つもないし、興奮を覚えるきっかけも与えられてはいない。
なのに、あたしは急に震えそうになった。
命綱もなしに高所を歩かされているような気分に陥ったのだ。
だが、客人から目を逸らす事は許されてはいないようだった。言われてはいないけれど、肌で感じた。客人の華やかな目に見つめられると、身体の隅々までも見通されてしまったような気がして、身体が火照ってしまった。
「素直な子」
客人の目が細められる。
「それに、哀れな子ね」
朝、女中が整えてくれた髪を、客人の手がそっと撫でる。
「まさしく、月の元に来るべくして来た子でしょうね。だからこそ、誰もがこの子に目を付けて、心の底から食べたいと願うの。魔術に傾倒すればするほど、この子の存在は魅力的に映るようだわ」
客人があたしを覗きこむ。
あたしをからかっているというよりは、月のことをからかっているようだ。
客人の関心は飽く迄も月にあって、あたしの事は月の妾としか思っていないのだろう。その証拠に、まるで、品物でも見るように客人はあたしの目を見つめている。
月はというと、その目が何処か冷たい。
あたしを見ているわけではないけれど、月が不機嫌になっている事が明らかに伝わってきて、とても不安になってしまう。
出来ればそろそろ解放してもらいたいのだけれど、客人はまだあたしの目を見つめたまま離してくれなかった。
「この子は本当に月の事が好きなのね」
含み笑いをしながら客人が言う。
「蝶は――」
何かしら言いかける月を客人は視線で押し黙らせた。
「心配せずとも、この子は悪意に包まれる貴女に贈られた癒しそのものよ。貴女以外の癒しでもなければ、私の癒しでもない」
そう言って客人はあっさりとあたしの身体を解放した。
その瞬間、あたしは突然、月に触れたくなった。机を挟んだ向かい側にいるというのに、おかしなことに隣にいなければ意味がないほどに恋しくなってしまったのだ。
そんなあたしの内心を見透かしていそうなものなのに、客人は何も言わずにただ月だけを見つめて訊ねた。
「貴女もひと目で気に入ったのでしょう?」
自分にだけ向けられた問いに、月は渋々頷いた。
「その通りだよ」
会話するのも億劫に見える。
客人の視線を真っ直ぐ捉えずに、やや下を向いている。あたしにはそんな月の態度が、更に客人を喜ばせているように見えた。
「誰にも渡したくないって貴女が思う理由、知りたい?」
「別にいらない」
月は即答する。
あたしはそっと客人の横顔を窺った。力ある女神と呼ばれているだけに、彼女には本当に様々な事が見えているのかもしれない。
月がそこまであたしの事を想っているのかどうかは分からないけれど、大事にしてくれる理由があるのならば知りたい気もした。
けれど、当の月が拒否した以上、何も言えない。
拒絶された客人の両目は、先程から月の姿を捉えたまま離れようとしない。月の釣れない態度にも、機嫌を損ねるようなことはどうもないらしい。
「高価な花を買い与えるほど愛しているのよね。貴女のお母様もかつて、自分だけの人工花を愛していらしたわ。完璧な方だったけれど、その花の事でからかうと大人気ない程に機嫌が悪くなるの」
愛らしい声で客人は語る。
月の母親、つまり、先代の月の話だ。月は人間のように歳を取っていくけれど、この客人はそうではないと聞いている。先代の月が生きていたのは少なくとも三十年近く前なのに、客人の姿は二十代そこそこの人間の姿でしかないのを見ても頷ける。
人工花。華の事が頭を過ぎる。ついでに、肖像画の花の事。あたしや月すらも知らない時代を、外部から来たこの客人は知っている。
それは少しだけ不思議な事に感じた。
だが、月はうんざりとした様子で溜め息をついた。
「その話は子供の頃からもう何度も聞かされた。耳にタコが出来るよ」
そうして、月はさり気なく応接間の扉に目をやった。
誰も来る気配はない。まだ、女中も使用人も華を捜しだせていないようだ。
「この子の為に買ったっていう人工花を捜しているの?」
客人にすぐさま問われ、やっと月は困惑した表情を見せた。長時間向き合うのはなかなか恐い人だ。人の心を正確に捉え、手玉に取る術に長けている。
月が何かを言う前に客人は続けざまに言った。
「華、という子だったわね。さっき庭で見たわ。月下美人のような白い花の子孫。野生花の子や、面白いお友達と一緒に居たわね」
「庭に……?」
月が思わず問い返した。
当然だ。庭にいるのならば、どうして女中も使用人も手間取っているのだろうか。城の中からは庭のあちらこちらが見える。一階からは死角になっていたとしても、二階、三界へと上がればほぼ全域が見えるはずだ。
庭にいると客人が言えるのならば、どうして華を連れてこられないのだろう。
本当にそれは華なのかどうか。華は一体何をしているのだろう。
あたしはそっとその場に告げた。
「あたし、様子を見てきます」
月は静かに頷いた。
◇
応接間を抜けだし、女中たちに声をかけてみても、何とも不思議な事に誰も華を見つけられていないのだと主張した。
嘘だと言うつもりはないけれど、他ならぬ客人が華に会ったと言うものだから、あたしもまた女中が見たであろうあらゆる城内を歩き回りながら、そっと庭を窺い続けた。
出来れば外には出たくない。
出るのならば、華を見つけてから確実に出たい。
着替えたばかりだという事もあるし、森から漂うどんよりとした空気をなんとなく避けたかったのもある。
ただ、城内を幾ら見回っても華はいなかったし、何処の窓から外を見てもやはりそれらしき姿はなかった。
そんな馬鹿な。
華に限って言いつけを破るなんて事があるだろうか。
そう考えてみたけれど、華は意外と言いつけを破る子だった。温室を出るなという月の指示も、他の胡蝶について行くなと言うあたしの指示も、少年とは二人きりで遊ぶなという女中頭や執事の指示も、全て破って見せた。
ただし、悪い子というわけではない。
月の指示を破ったのは、あたしや月を心配してのことだったし、あたしの指示を破ったのは花に生まれた者には抗えない魅惑の虜となってしまったからだ。
女中頭と執事の指示は最初から守る気なんてないだろう。
彼女にとって従うべきは彼らではなく、月であり、嬉しい事にあたしであった。そんな華があたしの指示を破るのは何故だろう。
昔、それを破られたのは華の意思ではなく、強者が華を捕えたためだ。
――胡蝶。
同胞といっても、自分以外の胡蝶なんて信用してはいけない。
ふと嫌な予感がした。
見渡しても見つからないということは、華は庭にすらいない。
考えられるのは、死角となっている場所に連れこまれていること。蜜を吸われているくらいならまだいい。例え、間違いがあったとしても、命があるだけで十分すぎる。
だが、もしも花の事を一切考えないような虫が接近していたとしたら。
華は馬鹿な子ではない。
ただし、自分の立場を理解しているようで理解できていないことがある。勇気のある子と言えば聞こえはいいが、向こう見ずであると言われても仕方がない。
確かに彼女の行動があたしや月を助けた事もあっただろう。
けれど、危ないという事実は変わらない。
今まで無傷でいられたのも運が良かっただけで、ひょっとしたら、あたしの身体に残る傷以上の傷を与えられてしまっていたかもしれない。
それこそ、花弁が全て散らされてしまうくらい。
華は何にでも興味を持つ子で、仲間意識がとても強い。
もしも野蛮な虫が庭に入りこんで、日精や少年に危害を加えようとすれば、迷うことなく立ち向かってしまうだろう。
ああ、だけど、彼女は分かっていないのだ。少年よりも、日精よりも、誰よりも美味しい蜜を持っているのが自分であるということに。
嫌な考えが悪夢のように次々に頭を過ぎる。
冷静になる事すら許されず、あたしは真っ直ぐ城の正面玄関へと向かった。城内は何処も彼処も見てしまった。
あとは、どの窓からも見えない城外の死角となっている場所を捜すだけ。
花に近づくとすれば、犯人は胡蝶であることも多い。
この月の森において胡蝶は決して珍しいわけではない。多く見えないのは捕食者を恐れて隠れているからで、野生花であれば一日のうちに少なくとも一人以上の胡蝶に出会うものだと聞いた。
仮に胡蝶でないとしても、蜜を吸う虫なんて似たようなものだ。
子供の頃ならともかく、羽化を経て大人となったあたしが、蜜を吸うような虫を怖がる必要なんてない。
そう、だから、あたしはただ華の心配だけをして正面玄関へと向かい、閉ざされた重たい扉を開けてから、外へと飛び出したのだ。
外の状況も分からぬまま。
◇
何が起こったのか、理解するまでには時間がかかった。
城の窓からは決して見えなかった華の姿がいきなり見えたせいもあるかもしれない。
重たい扉を開けてすぐに華と少年、そして日精を抱きかかえる蚕の姿が見えた時、あたしは思わず緊張してしまった。
どうして彼らの姿が見えなかったのか。
そんな疑問は一瞬にして消え去った。
それよりもあたしは、蚕が抱いている日精の異常さに気を取られていた。全く動かない。まさか枯れてしまっているわけではないだろう。
けれど、相手は蚕だ。
蚕とは旧知の仲と言ってもいい。昔は彼と子を残す事になるかもしれないと思っていたくらいだ。でも結局、あたし達の仲を引き裂いたのは価値観の相違というものだった。
蜜吸いと花への価値観。
蚕は恐ろしい胡蝶だ。欲望のままに花を枯らしても罪悪感の一つすら覚えないような青年なのだ。そんな彼とは分かり合えない。そんな思いが別れ道となって、あたしは月の、彼は絡新婦の元へと納まったのだ。
そして現在、絡新婦は月を守るべく立場を変えたけれど、あたしが抱く蚕への不信感は変わったりしない。
向き合う蚕と華たち。気を失っている日精を引き合いに、蚕が何かよくないことを持ちかけているのではないか。
そんな思いがあたしの身体を前へと引っ張った。
こちらを見ていた華が何か叫んだ。どういうわけか、蚕もまたあたしに何か伝えようとしている気がした。
直後、あたしは身を持って、その理由を思い知らされる事となった。