2.身支度
◇
仏頂面といえばいいのだろうか。
どんなに姿勢を正していても、どんなに丁寧な言葉遣いでいても、女中頭が月に対して何らかの不満を抱いている事が一見して分かる表情。
月が生まれた頃から見守っているのだから、もっと優しくしてくれたっていいのに、彼女はいつどんな時だって己の主に冷た過ぎる。元々、そんなに気安い人柄ではないのだとも言われていたけれど、月の母、つまり先代の女神様の時代では、もう少し柔らかかったような気がするとも同世代の女中や使用人は言っていた。
そんな彼女が持ってきたのは着替え。
月のものではないらしかった。
「蝶お嬢様のお召替えです」
そう言って彼女はやや眉をひそめた。
あたしがいつまでも月にべったりとしているからだろうか。彼女があたしに直接的な嫌味を言う事なんて殆どないと言ってもいいけれど、それでも、彼女はこの城に仕える人間の女たちの筆頭として、月に嫌というほど神聖さを求めた。
――あの方はこうではなかった。
彼女は度々そんな言葉を口にする。
あの方とは、先代の月のこと。月が覚えてもいないお母様のことらしい。肖像画でしか知らない先代の女神は、恐ろしいほどにあたしの知っている月とよく似ている。その事が更に、女中頭を苛立たせているのだと、月がほろりとあたしに漏らした。あれはいつだっただろう。
あたしはそっと月から離れた。
この城に仕える女中頭と執事は、不満を決してあたしにはぶつけない。
相手にしないという方が正しいかもしれない。
月の城の娘となったあたしへの不満、そして、華への不満は、そのまま月へと向かう事が多い。今は更に日精への不満、そして、華や日精を訪ねてくる少年への不満すらも月にぶつけられているらしい。
ただでさえ小言が多いのだから、さすがに月も参っているようだ。
ここで変に反感を買ってしまえば、後で月が更に面倒な事になるだろう。
「有難う、その辺に置いてくれ」
月が素っ気なくそう言うと、女中頭はツンとした態度で身を正した。
ここ数日、女中頭は月に対して華の将来の相手についての問答を繰り返しているらしい。
華はまだ十四歳。勿論、人間の年齢と比べるつもりはないけれど、花としてもまだまだ幼いと考えていい。
月はまだ子供であるし考える必要はないと一蹴するが、女中頭は今から決めておくべきだと主張をし続けている。これには執事も同調しているらしく、例えば野生花の少年などとくっつく前に考えるべきだと騒がしい。
――花売りが必死に守っている誇りを穢してはなりません。
それはきっと尊い事なのだろうけれど、その話を傍で訊く度にあたしは内心暗い気持ちになった。当の華は何も知らずに少年たちと遊んでいるのだから。
月をせっつくのは、勝手に花売りに連絡を取れないからであるらしい。そうでなかったならば、とっくの昔に少年ではない雄花が迎え入れられていたことだろう。
ともかく、華の相手について月が真面目に取り合わないのが不満で、ここ数日の女中頭はいつ会っても表情が硬い。
といっても、そんな事がなくとも柔らかな表情をした彼女の姿を見た事はあまり無いのだけれど。
「かしこまりました」
冬場の岩のように冷たい声で女中頭は言った。
月に言われたとおりにすると、彼女もまた呆気なく部屋を去る。
長居して月に不平不満を述べる事もあるけれど、さすがに今日はそういうわけにもいかないらしい。
何せ、本日の客は特別なのだから。
「人間達に言って新しく作らせた服だ」
女中頭の置いていった服を手にした時、月がぽつりと呟くように言った。触ってみて、あたしはその素材の違いに驚いた。普段着せられる事のない、質の高い衣服だ。月の城の紋章を象る刺繍も、その端々のデザインも、何もかもが精密で手間がかかっている。
これまでの来客とは違う。
そうは言われてはいたけれど、服の質から違う等とは思いもしなかった。
「彼女は多分どうでもいいのだろうけれどね」
月はそう言って面倒臭そうに窓辺にもたれかかる。
彼女というのは今日迎える来客の事だろう。
来客の多いこの城で破格の待遇を受けているのはやはり神と呼ばれる者だ。男神も女神もそして性別などない神も来ていたけれど、あたしや華までも侍らせて会う神は限られている。ただ偉いだけでは、あたし達が会う理由にもならない。何か理由があってあたし達も同席することばかりだ。ただでさえそうなのに、こんな服を新調しなくてはいけないほどとは思いもしなかった。
「ちゃんとしないと後で執事が煩いからね」
月の言葉に執事の火照った顔が頭に浮かぶ。
口酸っぱく注意をする彼は、湯沸かし器のようだと下っ端の使用人や女中が呟いていたのを耳にした事があるけれど、本当にその通りだった。
「それなら、ちゃんと着替えないと駄目ね」
妙な納得と共に、あたしは服を脱いだ。
◇
手紙。
あれが届いたのはどのくらい前だっただろう。
月の城にはあらゆる便りがくるけれど、その手紙だけは普通の便りとは違っていつの間にか月の使う机の上に置かれていた。
――愛しの月へ。
美しく滑らかな字で書かれた手紙を目にした時の月の表情は忘れられない。あの表情を目にしたから、あたしはすぐに手紙の主が誰なのかピンと来たくらいだ。
月は前々から言っていた。
会いたくない人がいるのだと。
だから、届いた手紙を確認する前、月はいつも憂鬱そうだった。全てを確認し終えた後の安堵の溜め息を聞く度に、本当に会いたくないのだと思い知らされた。
そんな月の元に、とうとう手紙が届いてしまったのだ。
「会いたくないな……」
手紙を読んだ時、隠すことなく正直に彼女は言った。
「本当に、会いたくない」
「どうしてそんなに会いたくないの?」
あたしは思わず訊ねた。
どんな人なのか、どうして嫌なのか、聞いたことはない。ただ、毎回の便りの確認が憂鬱になるほど会いたくないとはどうしてなのかとても気になった。
「怖くなるから、かな」
月はシンプルに答えた。
「怖くなる?」
問い返すと、月は静かに頷いた。
「月、として生まれてしまった事に対してね」
声を潜めた答えに、あたしは黙した。
時刻は夜。虫や野鳥の声が昼の生き物達を眠りに誘う頃合い。城に仕える者たちも少しずつ眠りの準備を進め、滅多な事がない限り月の部屋を訪ねたりはしない。
それでも、月は声を潜めた。
月が、月であることを恐れる。
それは、人間達にとってはあまり好ましくない事だろう。
「逃げ出したいなどと恐れていては、女神として失格だ」
三十年で月は満ち、新しい月を生み落とすだろう。
多くの者が、月を尊いと崇める代わりに、跡継ぎを生み落としてくれる事を望んでいる。その後は生きていようが死んでいようが構わないという者の何と多い事だろう。
その為、月と名のついた多くの女神が娘を生み落とすのと引き換えに死んでいっても、生き物達はのうのうと暮らしていけるのだ。
あたしは嫌だった。
月は今年で二十七歳。
その時が近づけば近づくほど、執事や女中頭の気持ちが少しだけ分かるような気がしてならなかった。
あたしはそっと月に寄り添った。
「その人、どういう人なの?」
訊ねると、月は言葉を模索する。ようやく導きだした答えは、やはり先程と同じくシンプルなものだった。
「私より力のある女神だ」
力のある女神。
本来ならば、それは説明になっているようでなっていない。何故なら、己の守るべき大地を離れてここへ訪れる事の出来るような神には珍しくない特徴だからだ。
もちろん、月に力がないというわけではない。
彼女の扱う聖剣は、あらゆる魔にも打ち勝つと言われている。それを盲信しているわけではない。人間達も同じだ。そうでなければ、月はこんな城に閉じ込められたりしないだろう。でも、聖剣は確かに説明通りの力を持っていた。
今も壁にかけられている剣。城の宝であり、今までに少なくとも二度は持ち出された過去のある武器。
あの剣は月を守るもの。
月に剣術を指導している剣士であっても、あの聖剣の真の力は使えない。魔を滅し、月の命を蝕むものを払えるのは、他ならぬ月が扱うからなのだと言われている。
そんな月が、そんな事を言う。
「彼女は私とは全く逆の存在なんだ」
月は淡々と告げた。
「魔女を恐れてこそこそ隠れ住まなくてはならない私とは絶対的な差がある。私の女神としての力等、彼女にとってはちっぽけなものだ」
まるで卑下するような月の態度に、あたしは少しだけ不安になった。
少なくとも、月はあたしや華にとっては絶対的な神様なのだ。どんなに弱い部分を見せられていても、それでも、最後には月が勝つのだと信じて疑えないでいる。それは、あたしや華が特殊なのではなく、ここに仕える人間達、延いては、月の森に生まれ育つ生き物の殆ど全てが同じであるはずなのだ。
そんな不可視の期待が重過ぎるのだろうか。
あたしの眼差しに気付きつつも、月は全く態度を改めることなく続けた。
「私の力の大半は、彼女から受け継いだものだと思っていい。聖剣に呪いをかけるのも彼女。この城を安全なものにするのも彼女。そして、私に……」
言いかけて、月はふと口を噤んだ。
ぼんやりと手紙を見つめたまま、その口から出るはずだった言葉は浮いてしまった。あたしにはその言葉と言うものを正確に捕まえる事も叶わず、ただただ月の惚けている姿を見ていることしか出来ない。
愛しの月へ。
その言葉があたしの頭の中で響き渡る。
それは一体、どんな女神なのだろう。名前すら口にせず、ただ圧倒的力のみを説明する月の頭にどのくらい占められている人なのだろう。
信頼なる月、ならばここまで思い悩むこともなかっただろう。
けれど、その名前も知らぬ女神が徒に記した表現のせいで、あたしの心には解消してもしきれない濁りのようなものが生まれてしまった。
月に、何をする人だというのだろう。
「彼女はしばしば此処を訪れるんだ……」
しばしの静寂のち通り雨でも降り始めるように、再び月の声がぽつりと聞こえた。あたしの視線には答えず、彼女は軽く目を閉じる。
「我が城が安定を保つのも彼女のお陰。そういう意味では感謝すべき女神で、私等よりもずっと敬われるべき人に違いない」
けれど、と月は大きく息を吐いた。
「あの女神はとにかく得体が知れなくてね」
「得体が知れない?」
「彼女からの手紙はこうやって神出鬼没だし、こちらから返事の手紙を書けば人間達に託す前に届いてしまう。おまけに、ここにやって来る時も同じ。いつの間にか城門の中にいて、誰かが開け閉めした気配すらないんだ」
それは確かに不思議だ。
神と呼ばれるものであっても、月の城を訪れる来客ならば物理的な足跡を残すものだった。誰も彼もが生き神と呼ばれる存在であることが理由だろう。
多少の魔法を使える者がいたとしても、自分達の領地からこの月の大地まで魔術で移動できる等といった桁外れの魔力の持ち主はいないと断言してもいい、と魔術に詳しい者達は言っていた。
細かいが、絶対的な差と言えるだろう。
月を訪ねてくる力ある女神とやらは、これまでの女神とは比べ物にもならないと考えておいたほうがよさそうだ。
「その女神様はなんて名前なの?」
あたしの問いに月の視線がゆらりと動く。
その口が風を食み、一人の女神の名を告げた日とは、本当にどのくらい前の事であったのだろうか。
考えてみても、正確には思い出せなかった。
◇
着替え終わったあたしを、月は微笑を浮かべて見つめていた。
その深みのある眼差しを受け続けていると、なんだか仄かな幸福感に包みこまれていく気がしてくるのはいつもと同じ。
見つめ合っている必要はない。ただ、月に見守られているという感覚だけでも十分過ぎるほどだった。
あたしはというと、全身鏡の前で着替えた自分の姿を見つめていた。
今までに宛がわれたどんな衣服よりも上品で、まるで自分が生まれながら高貴な身分であったかのようだった。
勿論、そんな事実はない。
あたしは華とは違って、ただ森で雑草のように生まれて生き残った一介の胡蝶に過ぎない。それでも、月が注文したという衣服は、あたしにぴったりと合っていた。
「似合うな。さすが魅惑の妖精だ」
月がからかうように言った。
振り返るとその神々しい眼差しを思い切り浴びてしまうので、あたしはじっと鏡だけを見つめて立っていた。
「月は着替えないの?」
問いながら、あたしは自分の衣服と露出した肌を見比べた。
この腕にある刺青は、月のものである証だ。華にも衣服を逃した先に同じようなものが刻まれている。これを見れば人間達は怖気づく。信仰深い虫や植物も同じだ。ただし、何事にも例外はある。
一方、手首と大腿部に見え隠れするのは入れ墨などではなく、ただの生々しい傷痕だ。
服を脱げばもっと酷いものがある。
仮にあたしが華のように金で取引される胡蝶であったならば、この傷の存在だけでかなりの減損となっただろう。
そのくらい無慈悲な傷が残ったままなかなか消えてくれない。
これは、他人につけられたもの。つけられた時の事を、今のあたしは忘れてはいない。以前は、忘れたいと言う気持ちが爆発して、本当に忘れてしまった事があった。その結果、あたしは月を危機に曝した。
身体に残る傷。心に残る傷。その犯人をもう二度と忘れてはいけない。
――食虫花。
あたしを喰い殺そうとした花の魔女。月を狙い、この大地を枯らしてしまおうとしている悪しき女。
「着替えたくない、のが正直なところだけれどね」
月の気だるそうな声が、あたしの意識を思考の渦から引き戻す。
振り返れば既に、いつもと変わらぬやや不真面目な女神の横顔が見えた。




