1.戯れ事
◇
白い肢体があたしを刺激する。
日を重ねれば重ねるほど、人間の為に守られた貴重な花の娘は一際美味しい蜜を生みだす身体へと成長していく。
毎日、その味に身を浸しながら、あたしは華を抱いた。
蜜を吸い、蜜を与えられ、華の心と身体の隅々までも愛し、食し尽くす蜜吸い。繊細で危険も伴うこの行為を重ねながら、少しずつ少女から娘へと変化していく身体を実感し、独占している事実に、僅かな優越感さえ覚えていた。
あたしは所詮、下種な虫けらに過ぎない。
野生花を捕まえ、その心身を弄び、一方的に支配する。時には卵を生みつけて少しずつ命を枯らしていく事さえある。
華にとってあたしは天使でも何でもなく、悪魔のような存在。
それでも華はあたしを怖がらず、いつだって限界まで蜜吸いに付き合った。あたしが蜜を吸わねば生きていけない者であることをよく知っているからこそ、時には自分の身も顧みずに全てを捧げてこようとする。
その度にあたしは試されていた。
華の命を守りきれるかどうか。他ならぬ自分の中に潜む欲望と言う名の悪魔に打ち勝つことが出来るかどうか。
衣服を脱がし、柔らかな華の地肌に吸いつきながら、あたしは常に冷静を保った。
耳に届くのは華の甘い吐息。
この二年で華の身体はすっかり覚えてしまっていた。蜜を吸うだけではなく、華を喘がせて自分に縋らせたい。
それは支配欲に違いなかった。
「華……」
名を呼ぶと、華は潤ませた目をあたしに向ける。
柔らかな唇に吸いつき、唾液と共に目に見えない濃い蜜を吸い取ると、あたしの視界は眩んでしまった。
華の蜜は恐ろしい。
一度吸えば病み付きになってしまう。
今はまだあたししか知らない味。けれど、他の胡蝶が知ることがあれば、華はきっと何処かに攫われてしまうだろう。
一度きりでは満足できない味。何度も何度も吸いたくなるこの味。
華を殺したくないという思いが、どうにかあたしの理性を保ってくれる。
そのくらい、この蜜は危険なものだった。
身体を密着させる度に、甘い蜜が肌を通してあたしの身体に沁み込んでくる。昔はここまで出来なかった。まだ幼かった華の身体が持たなかったからだ。
それでも、胡蝶の食欲はどうしようもないほど深い。
華が気を失ったとしても、まだあたしの喉が潤うことはないだろう。
嫌になるくらい蜜を吸えたという記憶はあまりない。あるとすれば、それは罠にかかった時だけだ。
恐ろしい食虫花の蜜。
華のように魅惑的なだけではなく、毒を含ませ胡蝶の身体を弱らせるもの。次から次に蜜を押しこまれたあの時とは全く違う。
横たわる華の身体に覆いかぶさったまま、あたしはしばし力を抜いた。
仰向けのまま華はあたしに抱きついていた。お互いの吐息と、お互いの鼓動が共鳴し合い、閉ざされた温室の空気を揺らしている。
愛しい華の鼓動が聞こえてくる。
まだ大丈夫だ。初めて会った時よりも、華は確実に大人へと近づいて来ている。去年ならばここまで来る前に意識を失っていただろう。
でも、油断してはいけない。
自分に言い聞かせながら、あたしは華の蜜を堪能し続けた。
◇
吸い過ぎてしまっただろうか。
温室を去った後、あたしは暫く悩んでいた。
念のため、華の世話をしている女中に頼んだものの、内心穏やかにはいられなかった。
呼吸も心音も火照りも、蜜吸いを止めてしばらくおけば安定してくれた。それでも気になってしまうのは、華が眠ってしまったからだ。
二年前、あたしは加減を見誤ったことがある。
気付かぬうちに華を枯らしてしまう所だったのだ。あの時の事は忘れられないし、忘れてはいけない。
華が幾らせがんでも、あたしは常に冷静に蜜を吸わなくてはならないのだ。
幾ら甘美で快感であったとしても、我を忘れるほどのめり込んではいけない。その為にはもっともっと他の蜜が必要でもあった。
いつもなら気軽に誘える相手がいた。
日精だ。
華の気付かぬところで、あたしは度々日精を捕まえてその蜜を頂いていた。
日精は華とは違う。元々は尊い人工花であったはずの彼女の蜜は美味しいはずなのだけれど、あたしが捕まえる時でさえ、常に誰かに吸われてしまっている。
本人は恥ずかしがって答えたりしないけれど、あたしは気付いている。
蚕。あたしと同じ胡蝶。
真面目な華とは違って、日精は蚕に蜜を与えている。
蚕がどんな手を使って誘っているのかは分からないけれど、あまり好ましくないのは確かだ。蚕は雄花も雌花も構わず襲い、相手が枯れるまで蜜吸いを止めないときすらある。
勿論、主人を助けられて以来、彼が月と親しい花達に危害を加えるなんて事は無かったけれど、問題はそこではないのだ。
雄花と蜜吸いをするということは、日精に誰かしらを結び付けてしまっているのだ。
日精が実を結ぶような相手は月の森にいないと言われているけれど、絶対にいないなんて言えないし、雑種というものもそう珍しくなく生まれてしまう。
その事を幾ら日精に言い聞かせても、彼女は素知らぬ顔で蚕の誘いに乗ってしまう。
実を孕んでもいいとでもいうのだろうか。彼女だって月の保護下にいるはずなのに。
「蝶?」
声をかけられ、あたしはハッとした。
長い廊下の向こうより近づいて来る者がいる。
輝かしい金髪は薄暗い建物の中でもよく目立つ。この月の城には目立ち過ぎるほどの存在感。彼女こそ、日精本人。
日精はあっという間にあたしの目の前までやってきた。
「どうしたの? そんなところでボーっとして」
「別に何でもないわ」
「ふうん? 華の所に行っていたの?」
「そうよ」
「華、起きているの?」
「いいえ、寝ているわ」
あたしの答えを聞いて、日精の顔つきがやや変わる。
ほんのりと蜜の香りがするけれど、やはり日精の蜜は華に比べてとても薄い。貯められる前に複数の虫に奪われてしまっている証拠だ。
「ねえ、蝶? もしかして蜜が足りないのなら……」
言いかける日精に、あたしは視線を合わせた。
「今日は大丈夫。月の所に戻るから、貴女は遊んでいなさい」
そう言い聞かせると、日精は首を傾げた。
柔らかな日差しを反射する金髪の頭を撫でてやると、あたしはそのまま日精を置いて歩き去った。
あのまま二人きりになれば、答えに反して日精を押し倒してしまいそうだった。
こういう時、胡蝶に生まれた自分が嫌になる。
輝かしい蜜を僅かにでも前にすれば、理性も信念も何もかもが揺らいで、罪深い欲望と衝動に駆られてしまうのだから。
別に日精の蜜を吸ってもいいはず。
華の蜜を貰った直後だから、日精を苦しめるような事にはならないだろう。
だけど、温室での華とのやりとり思い出すと、少なくとも今日は躊躇われてしまう。
こんな事は滅多にない。これまでだってあたしは、華に種子を運ばない相手を複数誘い、気の赴くままに蜜を吸ってきたのだ。
それなのに、これは何なのだろう。
華以外の花を誘ってその身体を堪能する行為が、恐ろしく残酷なもののように思えてしまうのはどうしてだろう。
そもそも、華の蜜だけでは足りないはずなのに。
◇
月の部屋の扉を開けると、窓辺より髪の長い女が振り返ってこちらを見つめた。
美しく、神々しい。
その気配はどうしたって隠す事が出来ない。
彼女こそ月。この大地の女神であり、命そのものでもある尊い存在。悪しき者の存在のせいで二十年以上の時をこの城に幽閉されて暮らす儚げな女主人だ。
月はあたしを見つめると、そっと目を細めた。
「お帰り。ちゃんと蜜は吸えたようだね」
優しい言葉を受けて、あたしは惚けてしまった。
毎晩、あたしは彼女の傍で眠る。
ここに引き取られて二年以上経つけれど、それはずっと変わらない。いつしか彼女の温もりを感じながら眠るのが当たり前になっていたけれど、それでも、月を目にした時の感動はいつだって新鮮なものだった。
あたしは部屋の扉を閉め、正直に月に告げた。
「少し、吸い過ぎてしまった気がするの。華はまた眠ってしまって――」
「なに、大丈夫さ。女中には伝えてあるのだろう?」
そう言って月は窓の外へと視線を戻す。
「それは、そうだけど……」
あたしはそっと月の傍へと近寄った。月が見ているのは森だ。自分の名を持つ森を見つめ、憂鬱そうに溜め息を吐く。
いつもは空虚で気だるそうな彼女だが、ここ数日間は憂鬱そうだ。
それでも月は、あたしを適当にあしらったりはしない。
「蜜は足りたか?」
静かに問われ、あたしは戸惑った。
即答できなかった為か、月の視線が再びこちらを向いた。深みのある色の目が、あたしの心を見透かすようにじっと見つめてくる。
伸ばされた手に応じると、そのまま月の傍へと引き寄せられた。
「相変わらず軽いな。胡蝶だとこんなものか」
独り呟くと月はそっとあたしの頬に手を添えた。
「日精の蜜は吸わなかったのか」
「ええ……」
ただ答えることしかしないあたしを、月は問い詰めたりはしない。
「そっか。じゃあ、蜜飴が必要だね」
「今は大丈夫。欲しくなったら自分で取りに行くわ」
そう答えつつ、あたしはそっと月に身を寄せた。
心音が聞こえる。華のものとは少し違う。あちらが心を躍らせる刺激的なものだとすれば、こちらは心を落ち着かせる沈静的なもの。
月に触れられる事はいつも平穏なことだった。
森に暮らす人々に月の妾と呼ばれるようになって久しいけれど、この気持ちは決して変わったりしない。
出来るならば、ずっとこうしていたいくらいだった。
勿論、そんな事は叶わない。
「蝶」
名を呼ばれ、あたしはそっと月の顔を窺った。
柔らかな唇を見つめていると、華と触れ合っている時とは少し違う感覚に陥ってしまう。月が持っているものは決して蜜などではないけれど、それでも、あたしは時折、罰あたりにも思ってしまうのだ。
月が欲しい。
彼女の温もりがもっと欲しい。
「取りに行かなくても大丈夫。ほら」
月が見せてきたのは、一個の蜜飴だった。
そう言えば、あたしが何処でも口に出来るようにと、先日、月が人間達に命じて城の至る部屋に蜜飴を置かせたのだ。
この部屋にも当然置いてある。
その一個を月は持っていた。
黄金の蜜。飴にしたのは人間。名も知らぬ人工花より搾取し、菓子として作り上げた。その方法は花にとってはとても残酷なものだけれど、胡蝶であるあたしにとっては僅かばかりの栄養素となる貴重なものだ。
月がその飴をあたしの口に含ませる。
飴の甘みと共に月の香りが口の中に広がって、蜜吸いとはまた違った恍惚へと誘われていきそうだった。
蜜飴を口にしたまま、あたしは月の膝にもたれかかった。
月が暇な時、あたしは彼女に寄り添い、彼女はそれを決して拒まない。まるで夜の世界を優しく見守る天体の月のように、月はあたしを受け容れてくれる。
蜜の味に女神の温もり。
揺りかごのようなこの平穏な世界が心地いい。
眠気すら感じながらも、あたしは口を開いた。
「日精に注意した方がいいわ」
ぼんやりと出てきた話題は、廊下で感じたことだった。
「あの子、誰の誘いも受けてしまうの。放っておけば実を結んでしまうかも」
「そのようだね。止めさせるべきだとは思うのだけれど……」
言い淀む月がふと外を見やる。
庭ではいつの間にか日精と、野生花の少年が現れ、遊んでいた。少年は華と同じ始祖を持つ白い花の子だ。華とは間違いなく結ばれるはずだから、あたしは絶対に彼の蜜を吸ったりはしなかった。
一方、日精はその名の通り日精と言う金色の花の子。
遠い地にて生まれた彼らは同じ始祖を持つ者でないとなかなか結ばれない。普通ならばいらぬ心配かもしれないけれど、何故だかあたしは日精がよからぬ虫に蜜を吸われているという事自体に不安を抱いた。
「あの子も本当は高価な花なのでしょう? 森で拾ったからって誰でも彼でも受け入れさせてはいけないのではないの?」
「ああ、本当はよくない。それに、子を成すにはまだ早過ぎる。だが、どうもあの子は私の言う事すら聞いてくれなくてね……」
そう言って、月は深く溜め息を吐く。
ああ、そんな事分かっていた。あたしの言う事だって真面目に聞いてはくれないのだ。華が幾ら言いつけを守っている姿勢を見せても、日精はそれを真似したりしない。
まるで、あたし達の事を他人か何かだと思っているようだった。
「あの子は多分、ここには似合わないのかもしれない」
ぼそりと月は言った。
「それって、どういう……」
あたしがそう言いかけた時、不意に扉が叩かれた。
女中頭のようだ。