5.囮
◇
蝙蝠がわたし達を振り返る。
その手にはしっかりと蝶の腕が握られていた。もがこうとする彼女を、力で抑え込みながらも、蝙蝠の目はわたしと蚕だけを見つめていた。
蚕が絡新婦の命令で動いているならば、蝙蝠だって同じだ。
既に庭の端まで進んでいる彼は、今にも蝶を連れたまま月の城の敷地外へと逃れてしまいそうで恐ろしかった。
「やめて、蝶を返して!」
わたしの説得に応じるわけがない。
蝙蝠は嘲るように口元を緩め、わたしをじっと見つめた。
「この子の身代りになりたいのならば来るといい。どちらであれ、同じ事だ」
そうは言いつつも、彼は蝶を手放す気が無い。
それもそのはず。食虫花が好むのは蝶に決まっている。主人の気を引きたいのならば、最良の獲物を連れ帰りたいのは当然だろう。
「汚らしい蝙蝠よ。我らが女神ともあろう人が、一介の魔女に過ぎないお前の主人に屈するはずないだろう。すぐに蝶を放せ」
蚕が厳しい口調で蝙蝠を攻める。
「苦戦しない、ねえ」
蝙蝠は耳に纏わりつくような声で繰り返す。
「そうだとすれば、別にいい。女神を奪うのは食虫花様のお力が戻ってからの事だ。この虫けらはその為に犠牲となってもらうよ」
それはずっと狙っていた事なのかもしれない。
月に拾われてからは、月を誘き出す名目で狙われてきたけれど、元々、蝶は食虫花に捕まっていた所を逃げ出して月の元へと駆けつけた者なのだ。
利用出来ずとも、食虫花にとってはご馳走に変わりない。
「それが嫌ならば。お前の主人に伝えればいい」
蝙蝠は蚕に向かって言った。
「助けられるものなら助けてみるといい。仇を討てるものなら、仇を討てばいい。食虫花様に勝てると思うのならば、立ち向かえばいいだけのこと」
蚕が唇を噛む。
絡新婦は胡蝶にとって絶対的なものだけれど、だからといって何にも増して強いわけではない。彼女は一度、食虫花に負けている。負けた上に、食虫花は絡新婦までも攫って喰おうとしたのだ。
元々力ある魔女は、他の魔女にとっても魅力的な獲物となり得るらしい。
女神さえも捕食しようとしている食虫花にとって、絡新婦が獲物とならないわけがない。いつの間にか食虫花は、他の魔女にとっても脅威の存在となってしまっているのだ。
わたしはそっと一歩踏み出した。
「お願い」
睨むのを止めて、その目を蝙蝠に向ける。
蝶がこちらを見ていたけれど、関係なかった。
「蝶を放して、わたしを連れて行って」
「駄目よ、華……」
怯えながらも蝶は言う。
彼女はいつだってそうだ。自分が危なくても、わたしを心配する。けれど、そんな場合じゃない。このまま連れ帰られてしまうのは、よくないことだ。
「華……」
蝶が戒めようとすればするほど、わたしの身体は反発した。
蝙蝠が去る前に行動しなければ。その思いだけが、わたしの足を動かした。蚕がわたしの名を呼び、手を伸ばしたけれど、それに引き留められることもなく、わたしはまっすぐ蝙蝠へと突進した。
蝙蝠は動揺しない。蝶の青ざめた顔がわたしを見ている。それらの光景が断片的にわたしの目を介して頭に沁み込んできた。
「小癪な」
黒いマントが翻され、掴みかかるわたしの手は阻まれた。
それにもめげずに蝶を取り返そうとしたけれど、彼の力はさすがに強過ぎた。
冷たい視線と共に、渾身の力で突き飛ばされて、情けなくもわたしは地面へと叩きつけられてしまったのだ。
「華……!」
少年の声が間近で聞こえる。いつの間にか近くまで来ていたらしい。
けれど、その姿を確認する事は出来なかった。
強い衝撃に視界が眩み、あまり感じたことのない苦痛に身悶えした。思えば、痛みを伴うような暴力的な事をされたのは初めてかもしれない。
「人工花のくせに勇敢な奴だ」
耳元で蝙蝠の声が聞こえる。
薄っすらと目を開けると、蝶を掴んだままの男が獣よりも鋭い目でわたしをじっと覗きこんでいた。
「昔の楽しい思い出が甦って来るよ」
嫌らしい笑みに、攻撃的な視線。
昔とはいつの事なのか、わたしの頭に話が過ぎる。
幼くか弱かった月を守ったという先代女神の愛した花。わたしと同じく、月下美人に近い種族であって、決して強いわけではない女性。彼女を喰い殺したのがこの男であることを、この城に長く仕える人間達は忘れてやいない。
女中頭も、執事も、そしてその他、長年ここに仕える人間達も、皆が皆、年頃のわたしに吹き込んだことがある。
――蝙蝠を見たら逃げなさい。
「……華には手を出さないで」
静かに蝶が言った。
蝙蝠の視線がわずかに蝶を振り返る。
「別に、私はどちらでもいいんだ」
低く嘲るような声が耳に纏わりつく。
その直後、蝙蝠は蝶を引っ張って、更にわたしから距離を取った。蚕が接近したためだ。段々と城壁側へと近づいて行っている。このまま行かせてはいけない。けれど、どうしたらいいのか、さっぱり分からなかった。
蚕がわたしの前に立ち、まっすぐ蝙蝠を睨む。
気付けば、わたしの横には日精が座り込んでいた。既に意識も戻っていたらしい。息を潜め、ただ真っ直ぐ蝙蝠と彼に引っ張られる蝶の様子を窺っている。
一人足りない。
少年が傍にいない。
「蝙蝠よ。そのまま蝶を連れ帰れば、絡新婦様はお前達を許さない。力が戻らぬうちに、必ずや見つけ出してやる」
蚕が吠える。
だが、その警告もまた蝙蝠には無意味なものらしかった。
「許さないと、どうなるのだろうねえ」
笑いをこらえながら蝙蝠は言った。
「見つかると、何が起こってしまうのだろう」
絡新婦など彼は恐れていない事がよく分かる。
そもそも、彼の主人である食虫花は、月の森に潜むただの虫どころか、あらゆる魔女すらも誘いこんで喰い殺しているという噂があるのだ。それが本当だとすれば、絡新婦など恰好の獲物に過ぎない。
そうでなくとも、食虫花の狙いは月なのだ。この大地の女神を奪おうとしている魔女とその隷属が、女郎蜘蛛等を恐れるはずもない。
月に知らせなくては。力で敵わない以上、わたしに出来る事はそれだけだった。
けれど、身体を襲った衝撃は強過ぎて、なかなか立ち上がることが出来ない。
「日精……」
乞うように隣の日精を窺ったその時、わたしの視界の端に、親近感漂う銀色の姿が映り込んだ気がした。
少年だ。
蝙蝠の背後にまわり、たった一人で行く手を塞ごうとしている。その勇ましさは青年となりゆく彼の正義感の為だろうか。だけど、わたしには無謀にしか思えなかった。
思えば彼はいつだって行動的だった。
一年前も、二年も同じ。彼の行動が様々な動きを生んだ。向こう見ずと言われてもいたし、それも確かな事かも知れない。年端もいかぬ子供であることを弁えていないと執事は言っていたけれど、彼の勇敢さに何度も助けられていることもまた事実であったし、わたし自身、そんな彼に憧れていた。
けれど、今回の相手は蝙蝠なのだ。かつて人工花の大人を散らした彼ならば、年端もいかぬ少年を散らすくらいわけもないだろう。
思わず少年に声をかけようとしてしまって、わたしはじっと耐えた。
日精も、蚕も、少年に一目置いている。日精はともかく、まさか蚕が少年一人で蝙蝠を阻めるとまでは思っていないだろうけれど、それでも足止めにはなるだろうと踏んでいるだろうことは間違いなかった。
彼らの邪魔をしてはいけない。
そう思っても、震えが止まらなかった。
「なるほど」
しばしの沈黙の後、蝙蝠の声が風に乗ってきた。
振り返ってはおらず、少年の姿は一度も目視していない。それでも、彼はにやけた表情を変えずに、さらりと告げた。
「虫けらにちっぽけな花。大人にすら成り切れていない、蜜の量もささいなもの。そんなお前達でも舐めてはいけないという食虫花様の御言葉が頭を過ぎる」
気付いている。
わたし達の視線のせいか、少年の気配を肌で感じ取れているのか。
だが、蝙蝠が見つめているのは蚕だけで、わたし達花には一切目もくれていない。警戒しているのは蚕一人だけのようだ。
目を細めたまま、蝙蝠は吐き捨てるように言った。
「だが、それで私を囲ったと思うのならば大間違いだ」
マントが翻され、蝶が抱き寄せられる。
さながら、伝承の中で吸血鬼に攫われる若い娘のよう。
「さあ、蝶よ。我らが主様のもとへと参ろうか」
わたしにわざと聞かせるように、蝙蝠は言う。
――いやだ。
我らが主。違う。蝶の主人は月だけだ。そう言い返したかったけれど、言い返したところで反抗にもならない。
涙が溢れ、視界が曇る中で、わたしは蝶へと手を伸ばした。
言葉は出ず、その名を呼ぶこともできない。蝶を攫おうとしている禍々しい未来が好けて見えるような気がしてしまって、身体が震えて仕方なかった。
少年と、蚕が囲うその真ん中で、蝙蝠が何故笑ったままなのか。
余裕なその態度だけで、わたしは敗北してしまう。彼には逃げる術があるのだ。例え網で覆ったとしても、この怪しげな中年男は霧のように消え去ってしまうのだろう。
では、蝶はどうなってしまうのか。
考えたくもないのに、思い出すのは二年前の姿。食虫花に攫われ、ほんの一日ほどで身も心もずたずたにされた蝶の姿。あの女より受けた蝶の傷は、今もまだ癒えてはいない。一生残るだろう無数の傷は、その心にまで残っている。
このままではどうなるだろう。
命さえ助かればいい。
けれど、蝙蝠はそのつもりすらない。
もしも蝶が月を誘き出す餌にならなかったとしても、だからといって蝶を解放してくれるわけでもないのだ。愛らしい蝶を虫けらと蔑み、主人のご機嫌取りの為だけに攫って行く蝙蝠にとって、わたしの怒りや悲しみも他人事に過ぎないだろう。
それは食虫花も同じ。
魅惑的な胡蝶の武器は食虫花と言う女には効かない。むしろ、その食指を動かしてしまうだけだ。
食虫花は慈悲のある魔女ではない。
獲物が痛がっても、苦しがっても、逆にもっと面白がって攻めるような女。そこにあるのは身勝手な欲望だけ。
「やめて……」
波のように記憶と感情が押し寄せてきて、恐怖と絶望が怒りへと変わっていく。
気付けばわたしは起きあがり、蝙蝠に向かって叫んでいた。
「蝶を返して!」
悲鳴でもあったし、懇願でもあったし、怒りでもあったし、憎悪でもあった。身勝手な理由でわたし達の平穏を脅かす食虫花への敵意でもあった。このまま蝶を連れて行かれるという現実への嘆きでもあった。
けれど、どんなに嘆いたところで、蝶を取り返せるわけでもない。
わたしは花でしかない。人々を和ませ、金で取引される為だけに生まれた力ない植物に過ぎない。
大好きな人を救う事も出来ず、力ある者に逆らう術も持たない。
蚕と少年が動き出した。
二人もまた恐れているのだろう。行く手を阻んでも困らない者がいるとすれば、その者は魔法を使う。姿を消したり現わしたりする者にとって、逃げ道なんて幾らでも作れてしまうことくらい、森に暮らしていれば分かりきっている。
況してや、この空間自体が食虫花の魔術に曝されていたとすれば。
「卑怯者!」
「待て!」
蚕と少年の声がほぼ同時に響き、蝙蝠へとぶつかるように突進した。しかし、蝙蝠は風のようにその合間をすり抜け、逃れた。勿論、蝶は手放さない。どんなに蝶が暴れたとしても、それを抑え込んでしまう力が蝙蝠にはあった。
これが、獣と虫の違いなのだろうか。
そうだとしたら、全てを創造した神様はなんて残酷なのだろう。
「蝶……」
もう一度、歩もうとするわたしの手を、日精が強く掴んだ。
『駄目だよ、華』
日精の言葉は直に頭に響いた。
口を介さない花特有の声だ。花同士だけが仕えるテレパシー。恐らく、少年にも届いているだろう。
『月様が来るまで近づいては駄目』
行けば二の舞にしかならない。冷静に判断しての事だろう。そうだとしても、黙ってここでじっとしているなんて耐えがたかった。
『二人とも、下がっていて』
今度は少年の声が聞こえてきた。
『蝙蝠も動揺しているみたいだ。魔法なんて使わせる暇は与えないから』
そう言って、少年は再び蝙蝠へと迫った。
その手には腰に下げていたナイフが握られている。力ない花の、力ある外敵への唯一の抵抗手段。同意していない蜜吸いや、命を蝕みに来るような相手より身を守る為に、少年はいつも護身用のナイフを持っている。
日の光を跳ね返すナイフの輝きを見つめ、蝙蝠は目を細めた。
何も言わず、ただじっと二人の行動を見つめている。
まるで、呼びこんでいるかのよう。
『駄目。早まらないで!』
少年に対してわたしは言った。
けれど、それで引き留める事は出来なかった。