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日の輪  作者: ねこじゃ・じぇねこ
第一部
4/15

4.影


 美しく魅惑的な胡蝶は花にとって時に脅威ともなる。

 蝶のように優しく、花を慈しむ心があればいいけれど、残念な事に蚕はそういう類の胡蝶ではなかった。

 彼は花を食糧としか考えていない所があり、わたし達の個々の感情や立場について尊重することは殆どない。

 彼に手を出されたことがあるわけではない。

 日精や少年は分からないけれど、少なくともわたしはない。

 けれどそれは、絡新婦という絶対的主の指示があったからだ。逆に言えば、彼女の意見一つで彼の態度は変わってしまう。

 彼も絡新婦も、確かに月を崇拝し、月に従う立場を取っているけれど、飽く迄も月に従うというだけだ。彼らにとって、わたしは月の生死に関係のない装飾品と変わらない。


 もしも蚕が蜜吸いに飢えているならば、わたし達を襲う事に躊躇いなど感じないだろう。

 それは、ここにいるわたし達全てが共通して納得する結論だった。


 そこまで警戒出来ているというのに、わたし達は誰も動くことが出来なかった。理由は簡単だ。蚕が胡蝶であり、わたし達が花であるから。彼にこのまま手招かれでもすれば、あっさりと行ってしまえる自信があった。そのくらい、年頃の花にとって胡蝶からの誘いは魅力的なものなのだ。

 蚕が手招くことはなかった。

 しかし、その代わり、彼は少しずつわたし達へと歩みを進めてきた。

 その接近を眺めながら、わたしは一年前の事を思い出していた。


 あの時、わたしは抵抗も出来なかった。蚕に手招かれ、少年の手を離れて、誘われるままに近寄ってしまったのだ。

 その結果、どうなったか。

 思い出せば思い出すほど自己嫌悪してしまう。全ては絡新婦が蝶を誘き出すための罠で、わたしはその餌としてまんまと利用されてしまったのだ。

 勿論、あの時と状況は違う。

 あの時は危険な森の中だった。それに、絡新婦はまだ、月に絶対的な忠誠を誓っていなかった。月の大地に生きるものとして、月の命は大事に思っていたけれど、その心の安定など二の次だった。

 だからこそ、私利私欲のためにわたしを利用し、蝶を奪おうとしたのだ。


 人間達にこそ畏怖される月だけれど、森で暮らす虫や花、獣にとっての信仰心等その程度だ。要は、自分の生活の為に月には死んでほしくないだけの事。

 では、今はどうだろう。

 この一年、絡新婦は蝶に手を出したりしなかった。蚕も同じだ。わたしや少年、日精に無理矢理蜜吸いを迫ってきた事はない。誘われたことがないとは言わないけれど、拒否すれば身を引いてくれたし、その前に蝶が出てくればそれ以上の事はしてこなかった。

 だからといって、安心していいのだろうか。

 彼が近づいて来る間、わたしは迷い続けた。逃げるべきか、否か。しかし結局、わたし達は皆、怯えたまま彼が来るのを待つ事しか出来なかった。


「花の子たち」


 遂に蚕はわたし達のすぐ目の前にやってきてしまった。

 胡蝶の眼差しは金縛りのよう。不思議な霊力でも持っているのだろうかと思いたいくらいだけれど、そうではなく、彼の魅力にわたし達が抗えないからだ。

 蚕はそんなわたし達を見つめたまま、声を潜めて言う。


「今すぐ移動しなさい」


 冷たい口調に聞こえるのは気のせいだろうか。

 花として持つべき野生の勘が、わたしには乏しい。特に、蜜を欲するような虫相手では、自分の感性よりも少年や日精の方が頼りに思えた。

 その二人はと言うと、やはり蚕を見上げたまま固まってしまっていた。


「どうして?」


 辛うじて蚕に質問をぶつけられたのは、やはり少年だった。

 声は震え、身動き一つ取れないのは、わたしや日精と同じだけれど、それでも花としては十分勇ましいものだ。

 そのくらい、胡蝶と花には立場の差が存在するのだから。

 蚕は少年を真っ直ぐ見つめ、眉をひそめる。


「理由は後で教えてあげるよ。説明している暇はないんだ」


 そう言って彼は手を伸ばす。

 思わず、わたし達はその手を避けてしまった。理由も説明されずに虫に掴まれるのは恐怖以外の何者でもない。特にわたしにとっては、一年前の嫌な記憶が甦ってしまって恐ろしくて仕方がなかった。

 蚕は当然、それを分かっていたはずだろう。わたし達の動きに動揺することなく、さらに捕まえようと手を伸ばしてきた。

 むしろ、わたし達が畏れて逃げるように扇動しているかのようだ。


「抵抗しないでくれ。絡新婦様の命令なんだ。私の言う事を聞きなさい」


 絡新婦。

 その名を出されれば逆らえないのは彼女の隷属となった胡蝶だけのこと。わたしは恐れを抑え込んで蚕に答えた。


「ここは月の城よ。わたし達が従うのは月であって絡新婦ではないわ」


 はっきりとしたわたしの主張に、蚕の恐ろしい眼差しがこちらを睨んだ。

 その直後、彼の手がとうとう日精の腕を捕えてしまった。


「ならば女神様の為と訂正しよう。華、君はまさか自分のせいで月様が危険に曝されることを望んではいないだろう?」


 当然の事だ。訊かれるまでもない。

 けれど、だから何だと言うのだろうか。彼の言いなりになって連れ去られ、その結果、月を危険に曝してまで城の外に連れ出す羽目になったのは、たった一年前のことなのに。

 だが、蚕はそんなわたし達の疑惑にいちいち説明するつもりはないらしい。

 時間がない、それがどういう意味なのかは分からない。

 はっきりしていることは、蚕が捕まえた日精を餌にわたし達を引き寄せなくてはいけないくらい切羽詰まっているということだけだ。


「日精を放せ。その子は月様の娘なんだぞ」


 少年が蚕に吠えた。

 けれど、蚕は全く動じない。動じるわけがない。どんなに強気で出たとしても、わたしと少年は花で、彼は胡蝶。奪われる者と奪う者の立場はそう簡単に崩せるものではない。

 日精は怯えたまま蚕に抱かれている。

 いつもは明るく輝いている瞳が、恐怖で潤み始めていた。


「二人とも……」


 日精が声を震わせる。

 その声が届いた時、蚕の手が日精の首筋をなぞっていった。

 日精の蜜が動いているのがなんとなく分かった。ただ動かしているわけではない。

 紛れもなく蜜吸いだった。

 普段わたしが蝶としているような深いものではない。あの程度では花が本能的に求める結果は起こることもなく、どう転んでも盗蜜行為にしかならない。

 その目的の多くは本格的に蜜を吸われる前の戯れ。

 けれど、それですらわたし達花には深く重たい快感と脱力感が生まれ、逃げる気力も理性も奪われてしまうのだ。

 立っていることも出来ない日精の身体を支えながら、蚕はわたしと少年を見つめた。

 彼女を見捨てる気なのかどうか、無言で問い詰めてくるようだった。

 勿論、日精を見捨てる事なんて出来るはずもない。


「これで十分かな? 二人とも。これでも言う事をきかないのならばこの娘と同じような目にあってもらうよ」


 どうすればいい。

 どうするべきなのだろう。

 気を失っていいわけがない。日精を取り戻して逃げるなんて事が、わたしや少年に出来るとも思えない。

 まさか月の城の敷地内でこんな事になってしまうなんて思いもしなかった。

 こうなってしまったら、蚕の目的が恐ろしく残酷な事でないと願うしかないのだろうか。本当にそれしかわたし達には出来ないのだろうか。


「僕達をどうするつもりなの?」


 少年が冷静に訊ねる。

 蚕は日精を抱え直し、静かに辺りを窺い始める。


「どうもしない。少なくとも私は……」


 どういうつもりだろう。

 絡新婦の命令と言う事は、わたし達に用があるのは彼女ということだろうか。絡新婦は力ある魔女だけれど、少なくとも月の敵ではないし、花であるわたし達が必要以上に畏れる相手でもない。

 勿論、恐ろしくない相手でもない。

 彼女は時折、他の虫を手懐ける餌として花の蜜を使う。その蜜を搾取する方法は、決して花の身を労わるようなものではない。

 月もかつてその方法で野生花の命を潰したことがあると言われている。

 優しい彼女がそんな事をしたなんて想像も出来ないけれど、それはともかく、花以外の者にとって花を潰す事なんて容易すぎることなのだ。

 ついて行ったら破滅しか見えない気がして仕方がない。

 けれど、戦えば気絶させられて終わりだろう。


「早く来なさい」


 蚕が周囲を窺いながら言う。

 時間がない、という彼の言葉通り、焦りが窺え始めた。どうしてだろう。彼が畏れているのは己の主だろうか。それとも、もっと違う理由があるのか。

 わたしはそっと蚕の窺う周囲を見渡した。

 何も感じない。

 城壁の向こうの事なんて一切伝わってはこない。閉ざされた門の向こうは異世界であるし、殺伐とした森で暮らす誰もが月の目を畏れて庭の中では殺生を躊躇う。

 そんな場所でわたし達を急かす蚕の目的は何なのか。


 その時、やっと、わたしは視線を感じた。城壁の向こうに生えた大木の影より、誰かがこちらを見ている気がしたのだ。

 殺気だったような視線は別に珍しくはない。

 少年と共に森遊びを覚えた頃は、そんな視線で溢れているものだと早々に知らされることになったのだから。

 奇妙に思うとしたら、その視線が迷いなくこちらを見ている事だけだろう。

 飢えているのならば、わざわざ女神の膝元に留まるわたし達を狙うのではなく、森を放浪している野生花を捕まえる方が安全であるのに、何故、あの視線の持ち主がこちらを見ているのか。

 少しだけ、その答えが分かった気がした。


「不審者がいるのね?」


 わたしの問いに蚕はようやく息を吐いた。



 時間がない、というのは、その視線の持ち主がこちらに来る危険性を感じていたからだろうか。

 それでも、わたしは蚕に言った。


「ここは月の庭よ。誰だって殺生を躊躇う場所のはず。あなたや絡新婦が恐れているような事は起こらないわ……」

「それは違う」


 蚕はやや周囲を窺いながら、声を潜めた。


「奴は躊躇ったりしないだろう。絡新婦様はそう仰っていたからね。そうでなければ、どうしてこの庭が血に染められた過去があっただろうかと」


 ――奴。


 此処に来てようやく、蚕が恐れている者の正体が分かった。

 その者は今もわたし達を監視しているのだろうか。力を失い、弱っている主の為に、わたし達を監視して、その情報を持ちかえっているのかもしれない。

 全ては来るべき時の為に。

 少年がそっとわたしの手を握る。しっとりと肌に馴染む彼の温もりを感じているうちに、自分の身体が震えていることを知ることが出来た。

 蚕を見据え、少年が注意深く訊ねる。


「僕達はどうしたらいい?」


 少年にも伝わったのだろう。

 遠くからの刺す様な視線は、一度気付いてしまえば今度は無視する事が出来なくなる。見られているという気持ち悪さよりも、今にも迫ってきそうな緊張感が波のように押し寄せ、こうして突っ立っている今もそわそわしてしまう。

 蚕はもうずっと前からそんな気持ちに立たされていたのだろう。


「いい質問だね。私が守護をするから、ゆっくりと城内へ戻りなさい。人間達のいる場所ならば、安全なはずだ」


 冷静な蚕の言葉に、わたしと少年はお互いに身を寄せたままほぼ同時に頷いた。

 蚕はそれをしっかりと確認してから、更にわたし達に近づいてきた。

 その瞬間、遠くで視線の主が動いたような気がした。ただの気のせいかもしれないし、先程から木の葉を運ぶ微風のせいかもしれない。

 けれど、わたし達を焦らせるのには十分な変化だった。


「逸れないように。距離はなくとも油断は禁物だ」


 蚕がそう言ったのも束の間、その足がぴたりと止まった。

 理由はすぐに分かった。わたし達の目にもそれがはっきりと見えたからだ。

 動いたのは閉ざされていた城の扉。開けた人物はすぐに庭へと出てきて、周囲を窺った。そして、すぐにわたし達の姿に気付き、外へと飛び出してきた。

 蝶だ。

 朝とは違う衣服に身を包む蝶が、わたし達の傍に蚕がいる事に気付くなり、不用意にもすぐに駆け寄ってきた。

 まずい。


「蝶、待って!」


 思わずわたしがそう叫んだ時、蝶の視線が真横を向いた。蚕の目の色が変わる。日精をわたし達に託し、彼は真っ直ぐ蝶の元へと駆けだした。

 けれど、間に合いそうになかった。

 突如、庭に侵入してきた黒い影の動きはあまりにも早くて、蚕が間に合うような暇は全くなかったのだ。

 現れたのは黒い姿の男。

 幾度となく彼の姿をわたしは目にしてきた。怪しく月の姿を見張り、隙あれば近寄ってこようとする彼は、いつだって危険人物に違いなかった。


 蝙蝠。

 彼の主人は彼の事をそう呼んでいた。

 美しく毒々しい花の魔女の、数多いるという隷属の一人。その中でも彼は、はっきりとした罪を犯した悪人だった。


 先代の月――つまり、月の母が愛していたという人工花を生きたまま喰い殺した罪。


 美しく心優しく勇敢だった人工花が激しく散らされたその光景は、今も執事や女中頭の心を抉っているらしい。

 その犯人が目の前にいた。

 彼が狙っていたのはわたし達だったかもしれない。油断しきった無力なわたし達ならば、いつでも簡単に捕まえられると踏んでいたかもしれない。

 その計算が狂った矢先、今度はもっと魅力的な獲物が見つかってしまった。


「蝶……!」


 少年に日精を託したまま、わたしは走り出した。

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