3.光
◇
その来客の姿は、だんだんはっきりと見えてきた。
あれが蝶の言っていた人物なのだろうか。
それは明るい印象の衣服に身を包んだ女で、ひと目見るだけで視線をそのまま引きつけてしまうような不思議な雰囲気を漂わせていた。
そして奇妙な事に、来客用の馬車が停まっていなかった。
歩いてきたとすれば、何処からやってきたというのだろう。彼女はどう見ても、花でもないし、虫でもない。それどころか他の獣――人間などとも違う。
似ているとすれば、月に似ている。
そう気付いただけでも、この世界に住む者ならば誰だって、彼女の事を何処かの土地の女神なのかもしれないと推測するだろう。
月を訪ねる客の中にはそういった者もいた。
でも、そういった者は決まって馬車で来る。徒歩で来るなんてことは考えられない。
――それにしても、一体何者なんだろう。
わたしも、少年も、そして日精もまた目を奪われたまま、黙って彼女の接近を待っていた。彼女の方も、まっすぐわたし達に向かって歩いていた。
何故か、城の者は誰も彼女の訪れに気付いていない。
けれど、その時のわたしは、その事実さえも忘れてしまうほど、来客の女に見惚れてしまっていた。
そうしているうちに、ついに彼女はわたし達のすぐ目の前までやってきた。
「こんにちは」
瑞々しい唇から零れ落ちた声は、違和感なく耳に馴染む聞き心地のよい声だった。
「貴方達は月に飼われている子達? それとも、庭に住みついているだけかしら?」
「僕は野生花だけれど……」
やや詰まりながら、少年が答えた。
「彼女達は月の娘たちです」
少年の言葉を受けて、客の女がわたしと日精を見比べた。美しいのは勿論だが、彼女はこれまでの客と何か違う。何処かの女神であるのは間違いないだろう。けれど、本当に何者なのだろうか。
「そう。貴女達、月に買われたの?」
「あたしは違うけれど、この子はそうよ」
またしても答えられなかったわたしの代わりに、日精が答えた。
それを聞くと、客の女の視線がちらりとわたしだけに向いた。
「なるほど、じゃあ、貴女が華ね」
名前を呼ばれ、わたしはますます緊張した。これまで客人に名を訊ねられる事はあっても、名乗る前に呼ばれた事はなかったと思う。あったとしても、こんなに怖気づくような事ではなかっただろう。
この女に緊張しているのだろうか。
見つめられていると、身が焦がれそうなほどだった。
「初めまして、華。月よりも先に会えるとは思わなかったわ」
彼女は優しく微笑んだ。
「私の事は後で教えてあげる」
そう付け加えてから、彼女はちらりと日精を見つめた。
急に視線を向けられて、日精は怖気づいたようだった。無理もない。遠くから見ても輝かしいその客人の視線は、向けられているだけで焼け焦げてしまいそうなくらいに刺激が強いのだ。
それはまるで昼の世界を照らし尽す日射しのよう。
「貴女は買われたわけではないのね」
伸ばされた手に日精は怯えつつも動けない。そうしてあっさりと、何処かの女神は日精の輝かしい金髪に触れた。
「美しい髪ね。野生花にはない光沢よ。貴女、人工花の血を引いているようね」
「……あたしは、日精」
たどたどしく日精は答える。
「花売りの一家の下で生まれて、でも、色々あって、ここに流れ着いたんです……」
そう、と軽く答えながら客人は日精の頭を撫でる。
その目を見れば、日精の答えなどわざわざ訊ねなくとも知っていたかのようだ。もしかしたら、月に聞いたのだろうか。そういえば、ここに来る客人の中には月と頻繁に手紙のやり取りをしている者もいると蝶が言っていた。
しかし、だとしたら、この人は何者なのだろう。
「日精……」
客人が呟くようにその言葉を告げた。
日精の身が強張るのがわたしの目にも分かった。
「ここ、月の大地よりもずっと遠くの太陽の大地という場所に、菊によく似た始祖を持つ野生花が住んでいるの。それが日精。そこの都では人間達がその血統を大事に守っている。ここでの白い花の種族と同じ」
そう言って彼女はわたしと少年をちらりと見つめる。
太陽の大地。
女の言葉をわたしは反芻した。聞いたことがあるけれど、わたしには関係のない遠い世界の名前だとしか認識していない。そこに君臨するのは太陽だろう。今、空を照らしている太陽のように、あらゆるものを見守っている神。
日精が客人をじっと見上げた。
「貴女は、あたしの帰り道を御存じなの?」
こんなに震えた日精の声は聞いたことがなかった。
蜘蛛の脅威が去って以来、彼女はいつだって気丈で明るい女の子だと思っていたけれど、それは日精がそう振る舞っていただけの事だったのかもしれない。
客の女は日精に目線を合わせると、柔らかな笑みを浮かべた。
その笑みがもたらす光を感じて、わたしは再度疑問を浮かべた。
この客人は一体、何者なのだろう。只者だといわれても、俄かには信じられない。人間でもなく、魔女という言葉も全く似合わない。月と同等であるにしても、彼女は何かが違い過ぎる。
「知っているわ」
客人は日精に向かってはっきりとそう言った。
「貴女のいるべき場所。貴女に名前を付けてくれる人。私は全てを知っているわ。でも、これ以上は駄目ね。貴女は今、月が所有しているのでしょう?」
問われた日精が怖気づきながらも頷いた。
「それなら、全ては月次第ね。でも、念のために貴女自身にも聞いておこうかしらね。日精、貴女はここにいたい? それとも、もっと違う場所に行きたい?」
それはわたしにとっても思いがけない問いだった。
日精が何処かへ連れていかれてしまうかもしれない。この一年間、一緒にいることが当り前となっていた彼女が、急に何処かへ貰われていくかもしれない。
人工花なのだから、あり得ない事ではない。
けれど、日精本人はともかく、わたしは妙に不安な気持ちになってしまった。
「あたしは……」
戸惑いつつ日精は答えた。
「あたしの主人は月様ですから、月様の判断に全てを委ねます……」
それは実に人工花らしい回答だった。
日精は相当幼い頃に盗まれてしまったのだと自分で言っていた。
記憶を辿って生家の思い出を導きだそうとしても、優しかった人間の一家と母親の顔を薄っすらと思い出せるくらいで、後は常に獣のような顔をした盗人達の顔と暴言暴力で覆い隠されてしまっているのだと。
その為、彼女は人工花としての教育をあまり受けていないのだ。
地域や家が違っても、花売りが人工花に施す教育なんて変わらない。わたしが受けてきた教育は、当然、日精もまた受けるべきものだったはずなのだけれど、彼女はその教育をきちんと受ける前に盗まれてしまったのだ。
それくらい幼い頃というと、それはもう五つか六つくらいの時だ。
そんな彼女であっても、人工花らしさは根付いている。一度主人と認めた者に全てを委ねてしまうのは、人工花の性に他ならない。野生花である少年は、そんなわたし達を理解できても共感が出来ないと言っていた。
「そうね、貴女達はそういう生き物ですものね」
客人もそれを理解しているようで、そう言うに留めて日精の髪を撫でた。
美しい金髪が日光を浴びて輝いている。陽だまりの中で輝くその髪は本当にうっとりとするほど美しい。わたしや少年にはない明るさに憧れた事もあった。
そして目の前の客人もまた、その色に惹かれる一人であるらしい。
「それなら尚更、月に訊いてみないとね」
客人は憂いを帯びたような声でそう言うと、音もなく立ち上がった。
名残惜しそうに日精の頭を撫でると、わたしや少年へは一瞥をくれただけで、あっさりと背を向けて城へと向かっていってしまった。
取り残されたわたし達は暫く黙って彼女の背が小さくなっていくのを見つめていた。小さくなっていくと言うのに、その存在感が光沢を増しているように見えるのは何故だろう。
ともかく、完全に見えなくなるまでは、彼女から目を離すことも出来なかった。
そうしている内に、客人は遂に城の入口へと辿り着いた。見ていれば、迎え入れたのは適当な女中や使用人ではなく、執事と女中頭だった。この城で働く人間の内で最も偉い二人が恐ろしいほど丁重に彼女を招き入れる。
もしかしたら、食虫花の事さえなければ、彼女を招き入れていたのは月自らだったのかもしれない。そう思わせるほどの丁寧ぶりだった。
扉を閉める直前、女中頭がちらりとわたしの姿を見つめた気がした。
目が合った瞬間、わたしはふと蝶の言葉を思い出した。そういえば、挨拶をさせられるかもしれないというもの。誰にも何も言われなかったために此処に居るのだけれど、そろそろ戻るべきなのだろうか。
ふとした疑問を抱いている内に、扉は閉められてしまった。
◇
『ビックリしたね』
沈黙を破ったのは少年だった。
日精は何も言わず、今もまだ閉められた扉を見つめていた。
『あの人、日精を連れていく気らしいけれど……』
少年とわたしの視線に、日精は表情を曇らせた。
誰だって新しい主人の元に行く時は恐いものだ。わたしだって花売りに連れられてここに来た時は緊張した。花売りは素姓の知れない相手に花を売ったりはしないものだと母に言い聞かせられてきたけれど、花売りの目すらも騙し、わざわざ大金を叩いた上で、人知れず花を虐待するようなおぞましい者もいるのだと言う噂は嫌でも耳に入ったのだ。
特に相手が神であれば、花売りは拒否も出来ない。
幸いにも月は優しい女神だったけれど、世の中には花を食らうために買い育てる神もいるらしい。そんな相手だと分かっていても、花売りは自分の育てた花を売らなくてはならなくなるのだ。
日精はどうなるのだろう。
月の元に居ればこのまま穏やかな時間が約束される。
では、あの客人はどうだろう。
見た目など参考にもならない。見た目だけならば、あの食虫花だって初対面の者には心優しい雰囲気を漂わせることが出来るのだと蝶が言っていた。そこに騙された結果、獲物は獲物として一生を終えてしまう。
あの客人はどうだろう。
月と同等かそれ以上の立場であるかもしれない女神。彼女が引き取りたいと言った時、月はどう判断するのだろう。
そして、もしも手放すとなった時、あの客人は日精を何処へ連れていくつもりだろう。生家である花売りの家だろうか。そうだとしても、日精はとうに売られる時期を過ぎてしまっている。その後、彼女はどうなるのだろう。生家にて名前を付けられるのか、適当な家に安く売られてしまうのだろうか。
すぐ隣に居る友の行く末が不安で仕方なかった。
『どうであれ、決めるのは月様だから……』
日精はそう言いつつ、今もまだ客人の消えた城の扉を見つめ続けていた。
月ならばどうするだろう。
日精の生家が特定されて、彼らに日精の代金を請求されたとしたら、月は払ってしまうような人だ。けれど、そんな選択肢もなかったらどうなるだろう。
月は少々無茶をする人だけれど、まっとうに暮らす人間達の生活を脅かすのは神としてやってはいけない事だと彼女自身が言っていた。
日精を返さないというのは、そういうことだ。
花売りにとって人工花は財産である。
たとえ、日精の生家の者たちが月を畏れていたとしても、客人が間に入れば話が変わってしまうだろう。日精が本来いるべき場所を知っているという客人。つまり、日精はここに居るべきではないという事だ。
考えれば考えるほど、日精がこのまま引き取られてしまう可能性の方が高いような気がしてならなかった。
『日精自身はどうなの?』
わたしは思わず彼女に聞いてしまった。
『もしも此処を離れたら、寂しい?』
何かを期待していたのかもしれない。
一年の間、彼女とは毎日過ごしてきたのだ。
月も蝶も優しかったし、ここに仕える人間達もまた、日精をもてはやした。特に若い女中などは日精をよく可愛がってきた。初めはそんな城の生活に慣れていないような日精も、いつの間にか安心しきって過ごすようになっていた。
『寂しいね……』
日精は答えた。
『でも』
『でも?』
わたしが問い返すと、日精は大きな目でこちらを向いた。
『でも、あたしもなんとなく思うの。此処じゃないかもって』
『此処じゃない?』
何故だろう。
ここでの生活は、日精にとっても悪くないはずなのに。
『あたし、多分、あの人が言っていたように太陽の大地で生まれたんだと思う。日精っていう言葉しか覚えていなかったけれど、なんとなく分かるの』
日精は小さな声で言った。
『花売りの一家も、あたしを何処かきちんとした所に売るはずだったんだ。きっとそこがあたしのいるべき場所なんだと思うの』
何故だか否定したい気持ちになってしまうのを必死に抑えこんだ。
人工花として、彼女の精神は正常なのかもしれない。彼女の主は月。月の判断に全てを任せたいという気持ちはわたしだって同じだ。それに、日精が盗まれて生家を後にしたのならば、本来の主は花売りのままでもあるのだ。
『月様が許して下さるのなら、あたしは太陽の大地に行ってみたい。確かめてみたいの』
それは、わたしにとっては寂しい事だけれど、日精にとってはかけがえのない事に違いなかった。
『そっか。日精がいいのなら、それでいいのかもね』
少年が穏やかな声でそう言った。
わたしもようやくそれに同調した。もしも日精の立場にあったら、わたしも同じような気持ちになっていたかもしれないと思えたからだ。
『月様はどうお答えするんだろう? ちょっと覗けないかな?』
少年がそんな事を言って歩きだす。その言葉には、わたしも日精も少し後ろ髪を引かれたけれど、なんとなく彼に釣られて歩きだした。
ちょうどその時だった。
真っ直ぐ城へと向かっていた少年の視線が突然真横を向いた。声をかけようとした時、日精もまた同じ方向へと顔を向ける。
二人の様子を目にしても、まだわたしには何の異変も感じ取ることが出来なかった。
結局わたしは、この目で彼らの視線の先を確認するまでは、その存在にすら気付くことが出来なかった。
それを見つけてすぐに身が強張った。
気付いた途端、刺す様な視線と雰囲気が今更になってわたしの全身を緊張させる。
そこにいたのは一人の胡蝶だった。蝶のような娘ではなく、青年。彼の事はよく知っている。絡新婦の隷属であり、花にとっては残酷な捕食者。
蚕。
そんな名前の者が城壁の傍からじっとわたし達を見つめていた。