2.庭
◇
朝の陽ざし強まる中、広々とした城の庭にはわたしの友人が来ていた。
人間好みに剪定された美しい庭を気ままに歩く銀髪の少年と、その少年の傍で何やら小さな虫たちの集りを眺めている金髪の少女。
少女の名前は日精。少年には未だ名前がなかった。
わたしが庭に出てきたのを見つけると、二人とも視線をこちらに向けてきた。
毎日のように集い、遊んでいるけれど、ここ一年近くはもっぱら月の城の敷地内でしか遊んでいない。理由はたった一つだけ。ここが一番安全だからだ。
わたしだけではなく、皆にとってのことだ。この場所で荒々しい虫が近づいて来ることは一切ない。何故ならこの辺りの森に住む者ならば、わたし達がただの花ではなく月に守護されている少年少女だと分かっているからだ。
だから、不用意に一歩を踏み出した所で、危険な目に遭うという心配はしなくてもいい。
けれど、時を重ねれば重ねるほど、この庭より感じる外の空気は、これまで思っていたよりもずっとピリピリとしたものに感じてしまう。
その理由はきっと、わたしが前に蝶以外の虫に囚われた事があるからだろう。
『華、おいでよ』
その声はわたしの頭の中で響いた。
手を振ったのは日精。花独特の口を介さない声が、わたしへと向けられている。
彼女はいつだってわたしや少年とは違う。輝かしい笑顔を振りまき、明るく軽快な声でよく喋る。髪の色の違いが、そのまま性格に出ているかのようだ。
わたしと同じ色を持つ少年はというと、日精の隣でただただ微笑んでいる。
輝かしい雰囲気は日精と同じだが、その毛色は日精とはかなり違って、彼の方はまさに月の城に似合うものを持っていた。
対して日精はどうだろう。
月の城とは正反対の存在に見えてしまうのは、その名前のせいもあるのかもしれない。だが、どちらにせよ、二人とも相応に美しいのは花としての共通点だった。
『何をしていたの?』
『なんにも!』
近づきながら訊ねるわたしに、真っ先に応えるのはやはり日精だ。
『二人で華が来るのを待っていたの。華が来てから何をするか決めようって』
そう言って無邪気に笑う日精と、控えめに微笑む少年。
本当に対照的だ。けれど、金と銀、少年と少女で、よくバランスが取れている。わたしから見て、少年と日精はかなりお似合いに見えるのだけれど、それを蝶に言ったら笑われてしまった。
月下美人の子は月下美人の子と一緒になるべきよと一蹴されてしまった。
『身体は大丈夫?』
少年にそっと訊ねられ、わたしは無言で頷いた。
彼がわたしの体調を窺うのはいつもの事だ。明け方に行われる蝶との蜜吸いの後、夢心地に誘われて再び眠ってしまうわたしを、彼はこっそり見かけてしまうのかもしれない。
それでも彼は優し過ぎるものだ。
彼自身だって日精だってわたしと同じように、いや、もしかしたら、わたし以上に花の蜜を求める不特定多数の虫と関わりを持っているかもしれないのだから。
蝶以外の虫を頑なに拒むのはわたしくらいだ。
月の城の庭に閉じこもっていても、何処からか穏やかな虫が迷い込んでくる時はある。
年老いた者であったり、若者であったり、男であったり、女であったり、胡蝶であったり、そうではない虫であったりとまちまちだ。
勿論、女神の膝元でわたし達に強制的に手を出してくるような者はいないけれど、彼らは必ずわたし達に蜜吸いを誘ってくるのだ。そういう時、わたしは誰であっても拒否するけれど、少年や日精は相手によってはあっさりとついて行ってしまうことがある。
名も知らぬ虫について行った彼らが何をしているのか、想像するまでもない。
二人ともいなくなるなんて事は殆どないけれど、そういう時がないわけでもない。庭に一人残されてしまうと、必ずといっていいほど蝶がかけつけてくる。
蜜を吸うわけでもなく、彼女はただわたしを一人にしないでくれるのだ。
その理由はよく分からない。わたしが寂しいと思っているからなのか、それとも、安全なはずの月の庭でさえも不安に思ってしまうほど心配されているのか、はたまた、わたしが知らない虫の誘いを受けないかと恐れての事なのか。
わたしが蝶以外の者を拒むのは、ただ単に嫌なだけではなく、蝶に固く忠告されているからだ。
蜜吸いは本来、虫を満足させ、花が悦に浸るためだけのものではない。
虫に栄養を提供する事で、花が子孫を残すために行われるものなのだ。
花の男女は虫を介して混ざり合い、花の女はそれがきっかけで子を宿す。不特定多数の虫と関わりがあれば、子の父親が誰であるか分からないなんて事は珍しくない。
だが、実を結ぶ時は相手も同じ始祖を持っている事が多いので、野生花ならば父親が誰であっても同じだと考えるものらしい。
けれど、わたしのような人工花は違う。
わたしの母も父も、その父も母も、すべて人間の花売り一家が管理してきた血統より生まれている。誰と誰の子であるかが刻銘に記録され、誰を相手にすべきかという事もきちんと計算されているらしい。
わたしもきっと蝶に気に入られていなければ、今頃は花売りの青年が選んだ相手に引き合わされていたことだろう。
主人が月に変わった今も、同じ事。
年頃になったら、きっとわたしも誰かを引きあわされる日が来るだろう。せめてその時は、蝶を介して欲しい。それが、わたしのささやかな願いだった。
『華は本当に蝶が好きなんだね。幾ら気持ちよくっても、あたしなら眠りこけるまで相手したりはしないよ』
本当に不思議そうに日精が言ってきた。
純粋な感想のようだけれど、わたしとしては何だかとても押された気になってしまう。日精の雰囲気は明るくて好きだけれど、近過ぎると焼け焦げてしまいそうになる。
『蝶の身体の為だもの。前みたいに痩せたら可哀そう』
『それなら、あたしにだって相手させたっていいじゃないか。何も、華一人が負担することはないのに』
「別に負担だなんて……」
声に出して言い淀むわたしを少年が心配そうに見つめていた。
彼も以前、蝶に言ったことがあるらしい。その時は断られてしまったことを、二人して不思議がっていたものだったけれど、今なら分かる。蝶だって、少年が女の子だったら断ることがなかったかもしれないと。
「それで華の方が身体を壊したら、蝶の心を傷つける事になるんだよ」
少年がそっと口を介してわたしに告げた。
優しく諭すような調子だったけれど、わたしはますます困惑した。確かにその通りなのだと思う。蝶はいつだってか弱いわたしを守ってきた。わたしが枯れてしまわないように必死だった。でもそれは、わたしが子供だったからだと思っていた。
しかし、どうだろう。
今日だって蜜吸いの終盤は抗えない眠気に誘われて、蝶が温室を去った時の事さえはっきりと思い出せないくらいだ。
『とにかく』
日精が明瞭な声が頭の中で響く。
『無理をするくらいなら、あたしにも協力させてよね。そうじゃないと、あたし、何もしないで、ただ此処に居るだけなんだから』
日精がそんな事を言うのは今に始まったことではない。
残酷な森の中で無慈悲な胡蝶に捕まって以来、彼女には行き場が無かった。
かつて、日精は遠くの土地で、それなりの花売りの家に暮らしていたらしい。けれど、幼くして早々に盗人に攫われてしまった彼女は、奇跡的に逃げだせたものの帰り道も分からず、月の森を彷徨っていたらしい。
言うなれば、蝶と一緒。
金で買われたのではなく、月に拾われた花の娘。
日精はわたしや蝶の恩人でもある。一年前、わたしのせいで蝶が恐ろしい蜘蛛の魔女に囚われてしまった時に、救うことが出来たきっかけでもあるのだ。
それだけで十分だと月は言うけれど、当の本人はこうして気にしている。
城に置いてもらう以上、自分も何か出来る事をしたいと言って、女中や使用人の仕事を手伝おうと回っていたこともあったらしい。結局、花に出来る仕事はないと全てを断られてしまって、今はこうして少年やわたしと共にと日の光の下で遊んでいる。
きっとそれは、不本意の事なのだろう。
彼女はよく考え事をしている。自分のいるべき場所はここじゃないような気がすると、わたしに漏らした事もあった。その度に、日精と遊べる事、話せる事は嬉しいし、楽しいことだと言って聞かせるけれど、残念な事にあまり効果は無いらしい。
『日精が何もしていないなんて事、ないと思うけれどね』
正直にそう言ってくれたのは、少年だった。
『だってさ、君はいつだって、城の周辺を歩いて、変な虫や人がいないか見回っているじゃないか』
『そうなの?』
少年の言葉を聞いて、わたしは思わず日精に確認してしまった。
初耳だった。そんな事、日精は一度だって言ってくれたことがない。そもそも、そんな危険な事、城の人間達が聞いたら許してくれるはずもない。
日精はというと、肩をすくめてやや少年を咎めるような表情を見せてから呟いた。
『だって、絡新婦を信用出来ないんだもん』
絡新婦はその名の通り、女郎蜘蛛の魔女だ。胡蝶を隷属化する魔女で、虫を食らうことで腹を満たす。一年前はわたしを利用して私欲のために蝶を捕え、月から奪おうとしたけれど、逆に月に命を助けられて以来、月の僕として忠誠を誓ったのだ。
それから一年、絡新婦は月を守るために、弱い虫を食べながら城の周辺を見張っている。
信用出来ない。それも仕方ないことかもしれない。
わたしも、蝶も、そして日精も、彼女に拘束された恐怖を忘れられないのだ。糸で縛られ、身動きが取れないまま相手に身を委ねるのは恐怖以外の何者でもなかった。そんな彼女がどんなに月の為に動いていると聞かされても、全面的に信用するのはわたしだって少し恐いと思ってしまう。
『でも、日精、あなたには危ないわ。無理に何かしようと思わなくたって――』
『勿論、その時は僕も一緒さ』
少年が言った。
彼に至っては森で暮らしている。日精の行動以上の危険を体験した事はいっぱいあるだろう。彼によれば、彼の年齢まで育つ野生花も多いわけではないらしい。そんな話を聞いてからは、夜になって彼が森に帰る事がいつも不安だった。
『幸いにも不審者は殆ど居ないよ。居るとしたら、華や蝶に興味を持つ虫だ。僕達を見ると驚いて逃げる奴らばっかりさ。況してや月に危害を加えようだなんて思う奴、この森にはいないだろうね。……奴を除いては』
少年の目の色が変わった。
わたし達を取り囲む空気が一変した。
穏やかで絶対安全なはずの月の庭にいても、体中の皮膚がぞわぞわと刺激される。
確認せずともわたし達全員、同じ人物を思い描いていることだろう。それは、一人の花の魔女のことだ。わたし達のような花とは全く違って、この森に住まう殆どの生き物と比べても異質な存在。
食虫花と呼ばれる彼女は、その名の通り虫を食べる。
同じく虫を食べる女郎蜘蛛のことさえも餌と見なすらしい。この森にはいないはずの種族で、余所者らしい。そんな彼女が狙うのは、月の命。月を殺すために蝶を捕え、酷い怪我を負わせたのはもう二年も前の事だ。
月が操る聖剣に貫かれて以来、彼女は力をだいぶ落としたらしいけれど、まだ死んではいない。深い傷を負った身体を癒し、長い時間をかけて今も機会を窺っていると言われている。
少年や日精、そして絡新婦が警戒しているのも彼女だ。
『最近は特に、城の外では不穏な噂が流れているんだ』
少年が言った。
『森の各地である程度力のある虫の魔女が失踪している。最後に目撃された場所はだいたい決まって、若い胡蝶達が噂する花の魔女の屋敷の傍なんだって』
その屋敷の事は今でも覚えている。
蝶が囚われ、城の者達の反対を押し切って月が迎えに行った二年前のあの日、わたしは少年について城を抜け出して、その屋敷を目指したのだ。
それは人間が住まうのと同じような豪勢な屋敷だったけれど、見るからに寂しげで、月の城には全くない禍々しささえ感じた。
あの場所に今も食虫花はいるのだ。
蝶がそうだったように、あの場所で今も苦しんでいる虫がいるのかもしれない。そう思うととても恐ろしかった。
『それも食虫花の仕業なの?』
『恐らく、ね』
少年は静かに言った。
消えた魔女がどうなったかなんて考えるまでもない。
一年前、食虫花は絡新婦と直接戦い、勝利した後で弱った絡新婦を連れ去ろうとしたのだ。聖剣を持ってそれを追った月が助けた事があったからこそ、今の絡新婦は月に忠義を尽くすのだ。
食虫花が絡新婦をどうするつもりだったかなんて分かりきっていた。
深手を負った彼女は、とにかく栄養の高いものを食べたいのだから。
けれど、不思議だった。
『でも、どうして』
わたしは疑問をただ口にした。
『どうして、彼女にそんな力が……』
食虫花とはそういうものなのだろうか。
魔女とは言え、他の魔女を騙して捕えることが出来るのはどうしてだろう。魔力に恵まれているのか、知能に恵まれているのか、もっと別の理由があるのか。
『それが分かったら苦労しないよ』
日精が言った。
『だいたいね、本来の食虫花って奴は魔女であったとしても、隷属に囲まれていたとしても、一つの大地の女神に手を出せるほどの力なんてもってないはずなんだよ』
それは以前からも城の者達に言われてきた。
奴はただの食虫花ではない。悪魔のような異質なものだと。
そもそも、女神である月を殺そうだなんて恐ろしい事を考えるわけがない。この大地に住まう者にとって、彼女の命はこの大地の命そのものなのだ。
月が死ねば大地は枯れる。
その未来を恐れる普通の者達は、寧ろ、月が跡継ぎを残さずに死ぬ事を恐れている。だからこそ、月はこんな狭い城の中で幽閉されているのだ。
『もしかしたらあの女には、もっともっと秘密があるのかもしれないね』
日精の言葉にわたしと少年が頷く。
食虫花が月を狙い始めたのは、わたしが生まれるよりもずっと前のことだ。わずか五歳ほどだった月を誘いこみ、あろうことかこの庭で手を出そうとしたのだと当時を知る女中頭は教えてくれた。
幸いにも、その時、食虫花と月の間に割って入った人がいたから月は助かった。
その人の姿は絵で見たことがあった。わたしと同じ始祖を持つ人工花の娘だったらしい。絵はまだ少女のものだったけれど、その時の年齢は二十歳ほどだったらしい。
どんな人だったのだろう。
人知れず、わたしは想像を膨らませた。
その絵の人工花は、月を守った人工花は、この庭にて残酷な方法で枯らされてしまったらしい。その時の事を、女中頭は詳しく語ったりはしない。ただ、その時に見た光景は今も忘れられず、時折夢に出てくるのだと言っていた。
彼女を枯らしたのは、荒々しく節度を知らない蝙蝠だった。
その状況は枯らしたという言葉では生ぬるく、誰もが殺されたと叫んだらしい。そのくらい酷い姿で人工花は見つかった。
犯人は蝙蝠だったけれど、それを指示したのは食虫花だ。月に近づくのに邪魔だと判断したからだ。だが、その一件以来、月は城に幽閉されてしまったから、食虫花は長く指をくわえていたらしい。
城の中に食虫花は忍びこめないのだ。単に警護が厳しいからではなく、どうやらこの城の中に忍びこんで月を襲えない理由があるらしい。
『秘密か……』
わたしは更に不安を感じた。
今はそうだからまだいい。月は不自由かもしれないけれど、城の中にさえいれば食虫花に襲われないというのは十分安心出来ることだ。
でも、この先も食虫花は忍びこめないままだと考えてもいいのだろうか。虫の魔女を喰らい続け、力を蓄えた彼女が城の庭どころか建物の中にまで忍びこむような事は本当にあり得ない事なのか。
考えれば考えるほど、恐ろしい妄想が生まれてきりがない。
見えない脅威にわたしが震えていると、ふと、少年が城門の方角へと視線を移した。次いで日精も見やったので、わたしも釣られて何気なく目をやった。
「あれ……」
思わず口より声が漏れた。
映ったのは、人影。
来客だった。