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日の輪  作者: ねこじゃ・じぇねこ
第三部
15/15

5.守護


 城の中はいつも通り息苦しいほどの沈黙が覆っていた。

 私語を慎んでいるのは、変なところで厳粛さを重んじる執事のせいだ。私としては、人間の若い女中や使用人がもっと喋っていたって別にいいのだけれど、年々彼は若い者達の声に敏感になっていくらしい。

 だが、その息苦しいほどの静寂も、今は少しだけ有難かった。

 私一人では大きすぎる――ここ数年は二人で使っている寝台で、蝶がずっと眠り続けているからだ。

 外はまだまだ日の光が照らす昼の世界で、つい先ほどまで我が庭で起こった事態などまったく知らない小鳥たちが何処かで呑気にさえずっている。

 その声を聞き流しながら、華が心配そうに蝶の頬に触れていた。


 少年や日精は別室で華を待っている。蚕は己の主人の元へと戻っていった。

 私はと言うと、太陽に付き添われたまま、華と蝶の様子を廊下より見つめていた。これまで何度、彼女達を失いそうになってきただろう。

 我が娘にも等しいあの二人を己の孤独さゆえに囲っておきながら、確かな守護を与えられて来ていない事を自覚していた。

 先代までの女神ならばどうだっただろう。

 その事ばかりが頭を過ぎる。


 母の愛した人工花が殺されてしまったのは、母が死んでしまったからだ。幼い私に守ることが出来るわけもないが、今の私だったとしても、あの時の人工花を救う事が出来ているだろうとはとても思えなかった。

 華を、そして、蝶を、自由にさせてやれるだけの力量が私にあるのならば、女中頭や執事だってあんなに口煩くはならないのだ。

 聖剣の使い方を教えてくれた師範は、何度か褒めてくれたりもした。

 けれど、褒められたからといって凶悪な相手に勝てるというわけではない。不可思議な魔術を使うあの魔女が、再び本来の力を取り戻した時、そして一対一で戦わなくてはならなくなった時、私は勝てるのだろうか。


「――もっと強くなりたい……」


 思わず口から出た言葉は、部屋の中にいる華には届かなかった。

 その代わり、すぐ傍に居た太陽が表情を一つも変えることなく、その名に反した冷たい声を放った。


「……なってどうするの?」


 たった一言で口籠らされてしまった。

 私もまた母と同じようにこの世を去るのだろうか。希望も責任も何もかも全てを生まれたばかりの幼い娘に託して、全てに別れを告げる日はもうそこまで迫ってきている。


 およそ三年後。

 生まれてくるのが私の生まれ変わりなんかではなく月の姫であるという、そんな甘い幻想を抱くにはもう近過ぎる未来だ。

 その感覚が、食虫花に囚われるという恐れよりも現実的に、じわじわと身体に沁みる。


「太陽……私は……」

「貴女がどんなに恐れようとも、貴女の運命は変わらない。私に訴えたところで、何も変わらないわ。決断の揺らぎを期待しても無駄よ」


 さり気ない声で、太陽はきっぱりと言った。

 鋭い眼差しがこちらを向いているけれど、私はどうしても、その視線を正面から捉えることが出来なかった。


「貴女がもしも自分の立場も分からない愚かで可愛らしい子であるのなら、私は躊躇せずに貴女から自由を奪う。今よりも、もっと。時が来るまでの間、この寝室の中に閉じ込めて、来客も訪れぬように計らう事だって出来るのよ」

「感謝しろとでも言いたいのか……」


 皮肉交じりにそう応えてみたものの、この鋭い視線に対抗出来るような自信はどこにもなかった。

 太陽は私から目を離さぬまま、口ずさむ。


「ええ、そうよ」



 丸一日経ってから、蝶はようやく目を覚ました。

 それまで起きる気配もなく、度々吐息を確認しなければ死んでしまっているのではないかと恐れを抱くほどだった。

 そんな蝶に華は一晩中付き添いたがったけれど、女中頭がそれを反対した。

 理由は華の体調にある。人工花は野生花と違ってとても脆い。特に眠るときは出来るだけ温室に閉じ込めた方が、華の身体には優しいのだ。


 去年、敵対した絡新婦に囚われた際、ようやく一件落着して戻ってきた後、華は高熱を出して少々寝込んでしまった。夜通し森で過ごし、緊張が疲労を蓄積させてしまった為だと女中頭は私を責めた。

 女中頭は恐れているのだ。

 若かりし頃に見た人工花の惨状が忘れられず、華を過保護に囲おうとしてしまう。そして、優しい華がそんな彼女に反抗する事なんて出来るはずもない。

 ただ、温室ではあまり眠れなかったらしい。

 蝶の頬を撫でながら、その顔を心配そうに見つめ、そのままうたた寝をしてしまった。私がその背に毛布をかけてやっても、華は深い眠りについたまま気付きもしない。

 けれど、蝶が目を覚ました時、そんな深い眠りが嘘であったかのように華は飛び起きた。


「……蝶?」


 華が声をかけ、その手を握る。

 蝶の虚ろな目が華を捕え、その手を握り返した。

 私もまたそっと近寄り、目を覚ましたばかりの蝶の頭を撫で、そして華の頭も撫でた。二人の視線がこちらに向いた。けれど、そんな二人に対して、私の口から出てくる優しげな言葉は何も無かった。

 変わりに出たのはこの言葉。


「何かあったら女中にでも言ってくれ」


 華が何かを言おうとしたが、その言葉を待たぬまま廊下に出てしまった。廊下には太陽がいた。私を待っていたらしい。


「太陽、聞きたいことがある」


 正面から捉えることすら難しい高位の女神に向かって、私は訊ねた。


「彼女達は私の下に居ても大丈夫なのだろうか……」


 いつか絡新婦に言われた事が頭を過ぎった。

 その時は拒絶しか浮かばなかったのに、今になって不安ばかりが私を襲い始める。蝶も、そして華も、私と食虫花の争いに巻き込まれてしまっている。

 その事実からは目を背けることが出来ない。

 太陽は静かに私を見つめていたが、やがて私の手を掴んで歩きだした。


 長い廊下の末、私の部屋とは正反対の場所に太陽の部屋はある。何度も何度もここへ呼び出されては心の奥底にわだかまりを残したこの場所。

 けれど今は、そんな気味の悪さすら感じる余裕がなかった。

 太陽は部屋の扉を閉めてから、そっと答えた。


「か弱きあの子達が此処に居たくて、貴女が此処に置きたいと思っている以上、正しいか正しくないかなんて、どうだっていいわ」


 仄かに温かいその言葉に、私は唾を飲んだ。

 昔、幼い私を優しく包みこんだような温もりが、未だ放してくれそうにない太陽の手から伝わってくる。

 じっとその感触を味わっていると、太陽は続けるように言った。


「あの胡蝶も、人工花も、貴女の心を壊さないために現れたのでしょうね。心が折れてしまえば、必ずあの食虫花は付け込もうとする。永久に囚われてしまうような事になれば、貴女の罪は重い。そうやって滅んだ大地を追われた生き物達の嘆き全てを受け止め続けなくてはならなくなるわ」

「けれど、彼女達が食虫花に捕まったら……」


 可能性を口にするだけで身ぶるいが生まれた。

 食虫花に触れられた蝶の姿を思い出すだけで、頭が痛くなってくる。


「不安なら、あの子達を外に出すのをやめなさい。『日の輪』をくぐって見せた食虫花だけれど、そんな彼女に対抗出来ないほど私は無力でも何でもないのよ。貴女がこの城に留まる限り、私は貴女たちを守ってあげられるのだから」

「閉じ込めろと……私と同じように……」


 そんな事をすれば、華はともかく胡蝶である蝶は飢えてしまう。

 痩せ細った蝶の姿が想い起こされる。あんな苦しみは二度と与えたくなかった。


「別に、外に協力者がいるのならその限りではないわ。私はただ、貴女が不安なのならば、そうしたらと言っているだけ」


 あっさりとした言葉と共に太陽がそっと私を椅子に座らせた。

 見下ろされる感覚はあまり好きではない。女神としての無意識の自覚が、思っていたよりも私の自尊心を高めているのだということは、いつだって太陽によって気付かされる。

 肩に触れられ、私は内心この感情が外に漏れだす事を恐れていた。

 けれど、太陽は表情一つ変えず、じっと私を見つめたまま告げた。


「あとほんの三年。貴女の大事な身体を自分本位な魔女に渡すわけにはいかないの。貴女が望むのならば、『日の輪』なんかよりも確かな力を与えてやる事だって可能よ。あらゆる邪悪から可愛い娘達を守ることも出来るような力を」


 思わずその目を見返した。

 それがあれば、蝶や華を怯えさせずに済むというのだろうか。蝶が野生花を誘いに森に出る事だって快く許可できる。

 けれど、すぐには喰いつけなかった。そんな有難い力を太陽が無償で与えてくれるわけがなかったからだ。そんな簡単に得られる力を信用していいはずがない。私はすぐに縋りたい気持ちを抑えて、太陽に向かって訊ねた。


「見返りはなんだ」


 素っ気ない私の言葉に太陽が笑みを零す。


「さすが、話が早いわね。か弱い貴女に与えられる力はとても単純なものよ。貴女の持つ聖剣に、そして貴女が心より愛する者に、食虫花の魔の手を弾くだけの力を与えてあげる。けれど、この力はとても高貴なもの。閉じこもっていればいいだけの貴女にただで貸すわけにはいかないもの」


 私は静かに太陽の言葉を受け止めていた。

 今までどれだけこの女神ひとによって自尊心を傷つけられてきたか。思い返してみると、すぐにはすくい切れないほど膨大な記憶が泡のように浮かび上がってくるようだった。

 けれど、今だけは難なく耐えることが出来る。

 きっとこれは、蝶と華のお陰なのだろう。


「素直な目。よっぽどあの子達の事が好きなのね」


 太陽が優しげな声で言った。

 柔らかな手つきで太陽は私の髪をそっと撫でていく。その感触は、幼い日に何度も夢見た亡き母の幻想によく似ていた。


「簡単な事よ」


 太陽はあっさりと手を引くとそう言った。


「対価は貴女の財産」

「財産……?」

「それも莫大な額よ。そうね、だいたい天馬の血を引くといわれている仔馬一頭分くらいの額が望ましい」

「天馬の――」


 絶句してしまった。

 天馬の血を引く仔馬、というものは、特定の人間達、或いは、人間に化けた狐どもが怪しげに仲介する事でようやく購入できる美しい馬の子供のことだ。

 背中に翼が生えているわけではないが、そのあまりの美しさに大昔の人間達が天馬の血を引く者と信じて血統を守ったという逸話がある。

 私はその実物を数回だけ目にした事がある。

 いずれも来客の従者で、あまりまじまじと見る事は出来なかった。

 約束を取り付けるだけでも大変だが、約束を取り付けてからも大変なものだ。その馬の値は易々と手を出せるものでもなく、女神である私にだって今すぐに用意できるようなものではない。

 唖然とする私に、太陽は優雅に微笑んだ。


「あら、何を驚いているの? そのくらい、貴女には払えるでしょう?」

「……買い被りすぎだ。そんなわけないだろう?」


 少なくとも今この場で、二つ返事で応じられるような値段ではない。

 だが、戸惑いの消えない私を覗きこむと、太陽は小声でこう告げた。


「この城の中で、同じくらいの価値がある者の存在を、私はよく知っているの」


 その言葉に、私はようやく我が城にいる高価なものを思い出した。


「まさか、華の事か? あの子は――」

「いいえ、あの子じゃない」


 きっぱりと太陽は否定した。立ったままじっと私を見下ろすと、そのままその綺麗な両手で私の頬を繊細に覆う。

 目を合わせられたまま逸らす事も出来ず、私はただ太陽に身を任せていた。


「貴女の膝元に居る、自分の居場所を見失っている子の事よ」


 輝かしいその眼差しに見つめられることで、やっと私は約一年この城で保護してきた風変わりな花の娘を思い出すことが出来た。

 その名は恐らくただの種族名。輝かしい金髪と目の覚めるような赤い目が作りだす光のような笑顔は、我が城には眩しすぎるほどの存在感を放っていた。

 ああ、そうだ。

 彼女の名は――。


「日精のことか……」


 私の呟きに太陽の表情が緩んだ。

 絡新婦のもとで囚われていたものを引き取った娘。本人によれば由緒正しき人工花の血を引いているようなのだが、その出自は明らかではない。

 生まれた家も分からない以上、彼女の価格なんて測定も出来ない。


「あの子は私の膝元で咲くべき花よ。生まれた家も、私には分かる。高価なあの子を保護した対価もまた、天馬の子一頭分くらいにはなってもいいはずよ。貴女にして欲しい事は只一つ。日精を私に託す事に同意することだけ。そうしたら、約束してあげる。貴女が守りたいものを守れるような力を与えてあげるわ」


 これは仕組まれていた事なのだろうか。

 日精が此処に来た事なんて偶然も偶然だ。絡新婦と関わらなければ、彼女に蝶が盗まれていなければ、こうして今、太陽に取引を持ちかけられるような事も無かった。

 ただ、今すぐに同意する事は出来なかった。

 その前に確認しておきたいことがあったからだ。


「日精と少し話をさせてくれ……」


 私の願いに太陽は快く頷いてくれた。



 その後、日精と話した結果がどうなったかは語るまでもないことかもしれない。

 あの子は元々、自分でも何処か私の膝元に馴染めない事を実感しているようだった。だからこそ一年経ってもその態度の何処かに遠慮があったのだろう。

 華のようにしていればいいと何度言い聞かせても駄目だったのは、彼女が居るべき場所が此処ではなかったからだろう。

 日精は戸惑いながらこう言った。


「あたしは月様に従うだけです。月様が行けというのなら、行きます。行くなというのなら、行きません」


 でも何処か、偽りを含んだ声だった。

 太陽に不意に触れられた日精の表情は、この城に住んでいる間には見たこともないほど気を緩めたもので、それだけで彼女が日精の種族の血を引いている事を思い知らされるほどだった。

 その姿を確認すると満足げに太陽は手を退けた。

 すると、日精は少しだけ寂しそうな表情を浮かべた。

 一瞬の間ではあったけれど、そんな姿を間近で見せられて、どうして引き渡さない事が出来るだろう。


「そうか。それなら、日精」


 私はじっと日精の目を見つめ、柔らかな金髪を撫でてやった。寂しくないわけがない。この一年、彼女の存在は確かに身近なものだったのだから。

 たとえ、日精と言うものが本当に月の城に相応しくないのだとしても関係ない。

 けれど、これは他ならぬ日精の為にもなりそうなことだと安心して思えることが出来た。だからこそ、私はその言葉を与えることが出来た。


「行くといい。その日からお前は太陽に従いなさい」


 その瞬間の、日精の浮かべた幸せそうな表情が、忘れられそうにない。

 それから数日経ち、太陽の去る日となった。

 城から去るのは太陽だけではない。年を取らぬ女神に手を引かれた愛らしい陽だまりのような金髪の少女は、開け放たれた玄関扉の前で、私と、私の城の者達を名残惜しそうに見つめていた。


 ――日精。その名は恐らく変わるだろう。


 別れる友を取り囲んで見送るのは華と少年。そして、体調がようやく戻ってきた蝶は、私の傍に寄り添ったまま、じっとこの城を去る二人を見つめていた。

 別れを惜しむ花の子達。

 優しく見守る太陽。

 私よりも格上の女神の帰宅を緊張気味に見守る城の者たち。

 その全ての空気を味わっていると、太陽がふと私を見つめて告げた。


「油断はしないように」


 日精の手をしっかりと握りしめて、彼女は言った。


「力は受け取っただけでは使いこなせないのだから」


 その言葉に私は静かに礼を返した。

 太陽。全てを照らし、年を取らぬまま私の生と死を見つめ続けるのだろう絶対的女神。彼女より受け取った力が確かに自分のものとなるまで、努力を怠ってはいけないだろう。それは、力を与えてくれた太陽への礼儀でもあったし、太陽に引き渡される日精への感謝でもあった、そして日精を見送る華や、私の傍で別れを見送る蝶のためでもあった。


 ――そして何より、自分自身の為。


 太陽が優しく促し、日精の手を引いて歩きだす。

 しばし日精は華や少年、そして私や蝶の事を見つめていたが、やがて太陽と同じように歩きだすと、そのまま閉まったままの城門の辺りで、太陽もろとも消えてしまった。

 行ってしまった。

 その言葉が微かな切なさとなって私の心をそっと叩いた。

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