4.対立
◇
太陽が警戒心を強めて己の造り出した日の輪を確認した。
間違いなく日の輪は正常に働いている。魔女を弾く力は損なわれてなんていないだろう。そうでなければ、絡新婦が蚕を心配してやって来るはずだ。
異常があるとすれば、太陽の放った魔術ではない。
甘ったるい嫌な香りが私の鼻にまで纏わりついてきた。
太陽が日の輪から目を離し、冷たい眼差しで蝶の背後を見つめる。
「なるほど」
太陽が呟くと同時に、蔓より生まれた腕が蝶の身体へと伸びた。逃れようとする蝶を容易く捕まえた時、その姿はようやくはっきりとしたものへととうとう変化してしまった。
食虫花。私の前で、私に見せつけるように、彼女は蝶を背後から抱きしめた。
何故、どうして。
日の輪が彼女を弾かずに通してしまうなんて信じられなかった。太陽の放った魔術が失敗するなんて事があり得るだろうか。
いや、そうではない。
おかしいのは魔術の方ではなく、あの女の方。
太陽が冷めた視線でその女を見つめている。
「私の力を掻い潜り、いつの間にか網目の隙間から忍びこんで来るまでになったのね。そんな事が出来た貴女は、きっともう魔女なんかではないわ」
静かな威嚇を受けて食虫花の目が私の姿から外れ、太陽へと向く。絶対的な女神に対するその眼差しには、どこにも尊敬の意など込められてはいなかった。
ただそこにあるのは、傲慢なほどの敵意のみ。
やがて食虫花の瑞々しい唇がそっと動き、聞きたくもない色気のある声が漏れだす。
「そうかもね」
その声を聞いて、蝶が震え始めた。
存分に震えは伝わっているのだろう。食虫花の手が動き、蝶の身体を弄ぶ。特別に用意した高貴な服の上から、一つ一つの古傷をわざと確かめている。
残虐なる魔女の所業。
愛しい蝶にした事を私は忘れたりしない。
甘ったるい蜜の香りは蝶を惑わすためだろう。あれは胡蝶を狂わせ、逃さぬためのものだと言われている。捕食という残酷な自然の掟を守るためのもの。胡蝶が花を魅了して捕えてしまうように、食虫花の蜜は胡蝶を捕えてしまう。
どっぷりと浸かれば意識は水底へと沈んでいく。
けれど、蝶は必死に身体を力ませ、どうにか意識を保とうとしていた。
――助けてやりたい。
聖剣さえ持っていれば、太陽の制止等聞かずに食虫花に斬りかかることが出来たかもしれない。それが食虫花の狙いであっても、そうせざるを得なかっただろう。
けれど、私は素手のままだ。魔術の一つも満足にこなせない私が、食虫花相手に敵うわけがない。
食虫花は笑みを深めて歌うように言った。
「でも、どうだっていいわ。大切なのは、私が今こうして月の妾の命を手にしていることですもの」
誘うような眼差しが私を見つめている。
ああ、きっとこの眼差しだ。食虫花という人物をよく知らなければ、まるで心優しい人物であるように見えるだろう。
幼い私はきっとあの笑みに騙されてしまったのだ。
「さあ、月。貴女はどうしたい?」
優しさを騙る声が庭中に響き渡る。
あらゆる視線が私を見つめている。私がどう答えるかを見つめている。不安そうな華たち。怯えきっている蝶。冷たく状況を見守る太陽。そして、蜜の香りで虫でもない私さえも虜にしようとする食虫花。
「このまま蝶を見殺しにするの?」
そんな事、出来るわけがない。
私の蝶への想いは、魔女が隷属に思うそれによく似ているのかもしれない。そのくらい、私は蝶という胡蝶の魔性に取り憑かれてしまっている。
太陽の睨みなど、こうなったら怖くもなんともなかった。
ただ、彼女に抵抗できるかというと、それはまた別の問題だった。誘いだされそうになる私の手を掴んだまま、太陽は声を低めた。
「私に従いなさい」
その一言で、私の身体は縛られてしまった。
魔力を存分に含んだ声に、食虫花の視線が再び太陽へと向いた。
「あらあら、太陽の女神様。貴女は本当に残酷な御方ね。自分のものを私に取られるのが嫌だからってこんな鳥かごに閉じ込めた上に、支配してしまわれるなんて。まるで、月の女神に心がある事を忘れているみたいだわ」
皮肉を込めたその言葉に、太陽もまた微笑を浮かべた。
「その心ある女神の自由を奪って、私利私欲のために自分だけのものにしようとしているのは何処のどなただったかしら」
「私利私欲?」
食虫花が首を傾げ、蝶の腹部をなぞる。
「それの何がいけないのか分からないわ。この胡蝶の娘だって私利私欲の為に花を枯らした事がある。この子は許されて、私が許されないのは何故?」
「――簡単な事よ」
太陽が感情の伴わない声で答えた。
「貴女が狙っているのがこの大地の命そのものだから。それだけのことよ」
侮蔑の込められた太陽の視線を受けて、食虫花は何故だか嬉しそうに笑みを深めた。
その手は蝶の衣服へと入り込み、鋭い爪がさっそく地肌を傷つけているようだ。蜜のもたらす酔いと、傷の痛みに耐える蝶は何故だか異様に色気があって、観ているだけで気持ちが落ち着かなかった。
解放して欲しい。
どんなに懇願したところで、食虫花は聞き入れてくれないだろう。
「食虫花」
張り詰めた空気の中で、つんとした太陽の声が響く。
「教えなさい。貴女は誰に力を貰い、誰の助言で動いているの?」
輝かしい太陽の目が何かを捉えかけた。
私には全く分からない揺さ振りが、食虫花を動揺させている。表情を殺した面の下で、確かに食虫花の警戒心が高まっている。
何も言わないまま、その花の魔女は太陽を見つめていた。
「別に」
やがて、長い沈黙を置いて、食虫花はようやく言葉を放った。
「貴女様にお教えする理由もないわ」
その目の色が変わっていく。
太陽に緊張が走り、私の手を掴む力がさらに強まった。食虫花から目を逸らさないまま、彼女はよく通る声で命令を下す。
「そこの胡蝶。花の子達を連れてこの場から離れなさい」
その言葉は蚕に向けられた。
華が焦るように太陽を見つめたが、そんなか弱い視線が太陽の決断を揺るがすわけもない。震えたまま華は太陽と、食虫花を見比べる。そして、食虫花に捕まった蝶を見つめたまま、固まってしまった。
その間に、蚕が太陽の命令通りに動く。
少年も、日精も、戸惑いつつ蚕に従った。
けれど、華は――。
「蝶を返して……」
弱々しい声が食虫花を呪う。
蚕の問いかけも無視して、華は立ちあがった。ふらりと歩きだすその様子に、私は不穏なものを感じた。
食虫花と蝙蝠に近づこうとしている。
「華、止まりなさい!」
私の制止も全く聞いていない。蝶を恋しがるあまり、その身を憐れむあまり、冷静さまで失っているらしい。
食虫花がそんな華の様子を見つめ、そっと微笑んだ。
「おいで、人工花の子。蝶と別れたくないのでしょう?」
片手を伸ばし、手招くように指を動かす。
怪しげなその動きに引っ張られるように、華の足が更に動いた。蚕がすぐさま華を捕まえようと動き出した。だが、その動きはあっさりと封じられた。
「邪魔をしないで」
食虫花が睨んだだけで、蚕の動きは止められてしまった。
一介の胡蝶には抗えないのだ。それくらい、食虫花の魔性は大きくなってしまっている。どうしてだろう。太陽が睨むように、裏で協力している者がいるのか。それとも、数多の魔女を食らううちに化け物になってしまったのか……。
どちらにせよ、華までも取られてしまう。
そんな思いが私を突き動かした。強く握られていたはずの太陽の手を逃れ、制圧するような声色も、私の耳には入らなかった。
ただ、蝶を使って誘き出される華を止めたい一心で、私は前へと飛び出したのだ。
そして、僅かながらにも前進を続ける華をすぐに捕まえようと手を伸ばした時、私とほぼ同時に動き出した者の気配を感じた。
蝙蝠だ。
この時を狙っていたとでも言うのだろうか。私よりも先に華を捕まえようと動いているのに気付き、緊張と震えと焦りが生じた。
あんな獣に華を触れさせてはいけない。
彼は前に人工花を殺しているのだから。
「華!」
やっとの思いで華を捕まえた時、僅かにだが緊張がとけて嫌な汗が噴き出た。この手に伝わってくる温もりは確かなもので、抱きしめるといつも感じる柔らかさが伝わってくる。
それでも、華の視線は動かなかった。
食虫花に捕まる蝶の姿を捉えたまま、魔術にでもかかってしまったように動かない。
「蝶を……」
華がぽつりと声を漏らす。
間近まで迫ってきていた蝙蝠が立ち止まり、私達を嘲笑うように見つめている。だが、それ以上は接近せずに、彼は再び食虫花の元へと戻っていった。
「お見事。でも、残念だわ。せっかくだからその子も頂こうと思ったのに」
食虫花がくすりと笑う。
「恨むならこの子を見捨てる御日様を恨みなさいな」
余裕ある笑みを崩す事もなくそう言うと、食虫花は蝶の全身を撫でつけた。その動きに誘われるように、蝶の瞼に重みがかかる。
必死に耐えてはいたが、そろそろ限界のようだ。
そのくらい蝶は、身体に悪い薬のような蜜を浴びせられている。
「見捨てる?」
煽るような声が響く。
いつの間にか太陽がすぐ横に来ていた。その目は今なお食虫花のみを見つめ、異様な神々しさを湛えていた。
城を取り囲む日の輪が共鳴するように光り輝いた。
その輝きを感じたのか、食虫花の表情が再び険しいものになる。
太陽はそんな彼女の様子を見て、不敵な笑みを強める。
「私がいつ、その子を見捨てるって言ったかしら?」
その強気な声がじわじわと私の身体にも沁み込んできた。
◇
食虫花。
それは本来、月の大地にはいなかった種族らしい。
屋敷を構え、私が幼い頃から月の森に居座っている彼女だけれど、その種族がこの大地に根付いてそんなに長くは無いはずだ。
怪しげな余所者の魔女。
城の者たちが把握していたのはそれくらいで、私は正体すら分からない敵の存在に怯えながら一人の夜を過ごして育った。
食虫花という言葉を知らなかったわけではない。
一般教養として学んだくらいで、それも、外の世界に住まう生き物としての知識しか知らなかった。私を取り囲む者たちも同じだっただろう。
――恐らく太陽を除いて。
我が大地が枯れる事も厭わず、聖剣で斬りつけても死にはしなかった魔女。ただの花の魔女と考えるには歪すぎるその存在。弱点すら分からず、いつだって私よりも優位な立場から攻めてきている気がした。
一年前、止めをさせるチャンスはあった。けれど、私は逃してしまったのだ。あの時、もしも殺せていたら、蝶に、華に、こんな思いをさせることもなかったのに。
そんな後悔と無力感に苛まれていた最中、太陽は私のすぐ横で希望を思わせるような輝きを放ったのだ。
日の輪が煌々と輝き、城壁の中にいるものを逃さないと決めたように目を光らせている。いつもとは違って、魔女でなくとも触れられぬような網目が浮かび上がり、熱気を放ち続けている。
蝙蝠がそれを見上げ、不安そうに己の主人に寄り添った。そしてその主たる食虫花は無表情のまま太陽を見つめていた。
「滑稽ね」
幾度となく虫の血肉で穢れてきたであろうその唇が、苛立ちを込めて言葉を吐き捨てた。
「太陽ともあろう女神様が、他人の……それも自分が支配する無力な他人の妾なんかのために、神通力を惜しみなく使うなんて」
淡々と煽ってはいるが、そこにはもはや先程までの勢いが失われていた。
「別におかしい事なんてないわ」
うっとりとした声で太陽が答えた。
「それに、貴女は勘違いしている。この城の主は……月は、私にとって他人というわけでもないのよ」
そう言って太陽が大地を強く踏みしめた。その響きに共鳴するように日の輪が揺らぎ、鐘を鳴らすような重低音が辺りに響き渡った。
熱気が更に強まった。
食虫花と蝙蝠はもはや逃げられなくなってしまったのだろう。熱気にも関わらず、凍ったようにその場に留まり続けている。
蝶を放してくれそうな気配はまだない。
しかし、それも時間の問題だった。
「さあ、花の御婦人。選択権は貴女にあるわ」
優しげな声色で太陽が訊ねる。
「その胡蝶を月に返すと約束するなら、貴女も、貴女の隷属も、無事にここから出してあげる。今回だけは特別よ」
「断ったらどうするというの?」
食虫花の静かな怒声がただよう。
全ての者を睥睨するかのような血の気の多い視線が、この場でただ一人澄まし顔の太陽を捉えている。
けれど、それは虚しい足掻きに過ぎない。私から見ても、食虫花と太陽のどちらが有利かなんて一目瞭然だった。
太陽が、地べたに生まれては死ぬ全ての哀れな生き物を慈しむような可愛がるような目で、食虫花を見つめている。あんな視線を外面上美しいだけの花の魔女に投げかけられるような者は、彼女しかいないだろう。
「聞いたとして、貴女に何が出来ると言うの?」
優雅なその声が、食虫花の横に控える蝙蝠を震わせた。
食虫花はただじっと口を閉じ、沈黙したまましばらく太陽を眺めていた。音すら発しない彼女の姿には、まるで炎でも宿ったかのような気迫を感じた。
けれど、自分と相手の力量を測り間違えてその炎をこちらに向けるほど、彼女は愚かではないらしい。
やがて、食虫花はそっと微笑みを浮かべると、乱暴に蝶を突き飛ばした。
華奢な身体がまともに受け身も取れぬまま倒されるのを見て、華が駆け寄りそうになるのを腕の中で感じた。
私もまた、同じ気持ちだ。
けれど、まだ油断は出来なかった。
「自分の無力さが忌々しいわ。でも、仕方ない。今回は諦めてあげる」
そう言って、食虫花は震えながら起きあがる蝶を見下した。
「魔女でもない、女神でもない、こんな胡蝶の為に命を危険に曝す事もないもの」
冷たい言葉に背中を押されつつ、蝶は這うようにこちらへと逃れてきたが、途中で倒れてしまった。解放された安心感のせいか、身体に沁み込まされた蜜の毒に呑まれてしまったらしい。
そんな無防備な姿を見つつも、食虫花は動かない。いや、動けない。
「本当に忌々しい。でも、約束よ。その子を月に返してあげる。だから、貴女様もこの哀れな雑草との約束を守ってくださいな」
皮肉のこめられた言葉にはちっとも焦りは感じられない。
しかしこれは食虫花が出来る精一杯の降伏だったのだろう。それを受けて、太陽は目を細めたまま歩きだした。向かうのは、倒れたままピクリとも動かない蝶の元。その軽い身体を抱き上げると同時に、太陽がふと力を抜いた。
その途端、城壁を覆っていた金色の光が水に溶けるように薄らいだ。
「約束は守るわ」
蝶を抱えたまま、太陽は言った。
「だから去りなさい、花の魔女」
強制力を含んだその声に、逆らえる者なんて何処にもいないだろう。




