3.愛娘
◇
蝶と華に囲まれる生活はまさに夢のように穏やかなものだった。
ずっと寂しかった私の生活が一気に変わってしまったのだから。
太陽の訪問が楽しみどころか苦痛にすらならなくなって暫く、私は何のために自分が生まれてきたのか何度も夜空に向かって問い続けた。
次代の女神を産むためだろうか。
母までの代は森を歩いたり、町に繰り出したりと月の大地をくまなく遊べ、もっと色々出来たと聞いているのに、私はこの広過ぎる城に閉じ込められたままだ。
恨むなら自分を狙っている何者かを恨めというのが大人達の意見だった。
顔も覚えていないような者を相手に恨めと言われても仕方がない。だから、私はいつも夜闇を恨んだ。こうして時を重ねることしか許されず、訪れる客の相手くらいしか退屈しのぎもないような生活に飽き飽きしていた。
それが一変してしまったのだ。
蝶を保護してから、私は何もかも変わったと自覚している。
愛らしい顔立ち。鈴の音のような声。栗色の髪は温かな大地を思わせ、その目は清らかな心そのものが漏れだしているかのよう。
一目で心を奪われ、私は胡蝶の恐ろしさと危うさを知った。
ただ可愛らしいだけではない。この娘には怪しげな雰囲気が取り巻いている。
人間達が胡蝶を奴隷として捕まえる理由がよく分かる。虫たちが食事の範疇を超えて胡蝶を暴行する理由がよく分かる。
それは、今まで感じたことも無いような負の感情だった。
傷だらけで哀れだったというのは表面上の理由に過ぎない。気付かないふりをしてきたが、間違いなくあの時、私はこうも思っていたのだ。
この娘を飼いたい。
介抱して、籠絡して、手懐けてしまいたい。
それは、自分でも驚くくらいの醜い欲望だった。女神としてあるまじき負の感情だとすぐに判断し、私はその欲望を心の片隅に押しやった。
それでも、あの時の感覚は今も私の心の何処かに潜んでいる。
食虫花に攫われた時、そして、絡新婦に攫われた時、私は間違いなく嫉妬に駆られていた。まるで隷属を奪われかけた魔女のよう。
それは華も同じだ。
金で買った華は我が城の所有物として正式に認められている。それでも、不届き者は後を絶たない。多くは月の森に生まれた虫たちだ。蝶だけの為に買い取った高価な花の蜜をなんとか一口だけでもあやかりたいと願う者はやはり現れてしまう。
絶対にそんな事はさせられない。
華が自ら決めた相手ならばまだしも、彼女の尊厳を踏みにじるような輩がその汚らしい手を伸ばしていると思うだけで腸が煮えくりかえりそうだった。
母が愛したと言う人工花。
華はその人工花にそっくりだ。同じ白い花の始祖を持つのだから当然なのだと女中頭は言ったけれど、そんな彼女もまた華の姿には惚けてしまったようだ。
彼女は人工花の死を悼んだらしい。
崇拝していた母の遺した形見が、蝙蝠なんかに穢されてしまうなんて、心底嘆かわしいことだっただろう。
だけど、その女中頭を含めた人間たちが、私の買った華を自分の思い通りに動かそうとすることだけは反発心が芽生えた。
――華の主人は私であって、私以外に彼女を好きに出来るのは蝶だけだ。
そうやって、何度も私は公言した。勿論、蝶が華を枯らしたりしないと信じての言葉だ。そうさせないように私が気をつけなくてはならない。
その上で、私は華の主人であることを強調した。
華も、蝶も、私の許可なく好きにさせたりはしない。
人間の育む家族愛とはだいぶ形が違うだろうが、私にとってこれは最大限の愛情であり、恐ろしく根深い支配欲でもあった。
そんな二人を失うような事があったら、私はどうなるだろう。
残り数年でこの世を去るかもしれないと言われていても、やはり、想像するだけでも辛くて仕方がなかった。
もう少しだけ、甘い夢を見させて欲しい。
そんな思いが願いとなって、常に私の心の中で渦巻いていることを、恐らくあの二人の愛娘は知らないだろう。
◇
どのくらいこうしていただろう。
私は苦手な女に抱きしめられたまま、熱い炎に凍らされているかのような奇妙奇天烈な感覚に混乱していた。
名前の通り身体は熱いのに、刺してくるような視線はとても冷たい。
ともすれば食虫花と同じような目で、彼女は私を見ている。数多くの月を見過ぎた太陽は、もしかしたら個々の月がそれぞれ違う自我を持っているという事を忘れてしまっているのかもしれない。
そんな疑惑を覚えつつじっとしていると、太陽が小さく耳打ちした。
「そろそろ行きましょうか」
低められた声に、私は息を飲んだ。
太陽の指示が入った。
それはつまり、何者かが動き出したと言う事。庭に行った蝶や華に忍び寄る不審者。それはもしや食虫花の手先ではないのだろうか。
「太陽……」
私は小声で懇願した。
「聖剣を取りに行かせてくれ……」
「駄目よ」
心からの言葉は一蹴されてしまった。
太陽の眼差しの色は変わらない。その手が乱暴に私を抑えつけるような事はなかったけれど、太陽の放ったたった一声が、私にとっては重たかった。
「悪い癖がついたわね。その聖剣は万が一の為のもの。守護を破り、城の中にまで魔の手が忍び寄った時に、貴女が貴女自身の身を守るためだけにあるの」
「それなら、念のため持っていっても――」
言いかける私の唇を太陽の人差し指が制する。
「必要ないわ。私の傍を離れなければ、貴女に危害を加えられる者なんていない。まさか貴女、私に逆らって勝手な行動が出来るとでも思っているの?」
威圧的な言葉だった。
けれど、反抗したくてもすることは出来ない。愛する蝶たちの為にも、反抗しなくてはと思うはずなのに、それ以上に太陽の支配には抗えないのだ。
「私に何もするなと……」
「ええ、そうよ。何があっても私の傍を離れるのは許さない。この言葉だけでもう貴女は何も出来ない。私の意に反して勝手に歩きまわれたのも子供の時だけ。十六歳のあの日から、貴女にはもう自由なんてないのよ」
告げられるその言葉に何か返す気力すら浮かばない。
外で何があっても、私は何も出来ない。それがどれだけ不安なものなのか、嫌というほど実感していた。
聖剣を握るあの感触が恋しい。
自らの手で蝶と華を守るという事がどれだけ安心できた事だったのか、今になって痛いほど思い知らされた。
太陽が力不足だなんて決して思わない。
だが、彼女を信用しきって大丈夫なのだろうか。
応接間を抜け、外へと向かう間も、私は不安を押し殺せないままでいた。
蝶を、そして、華を守りとおしたいというのは飽く迄も私の気持ちだ。太陽にとってみればどうでもいい事この上ないだろう。
彼女ならばやりかねない。
この城に仕える人間のように、私の命と蝶や華の命を易々と天秤にかけ、身勝手な判決を下す事をやりかねない。
――だからこそ、聖剣を……。
「月」
固く閉ざされた玄関扉を開ける前に、太陽は冷静な眼差しで私を振り返った。
「この先は絶対に私から離れないのよ」
呪いのような言葉を受けつつ、私は扉が開け放たれる光景を目にした。
◇
庭を剪定するのは人間の庭師だ。
だから美しさの基準は飽く迄も人間のものであったけれど、私は私でそれで満足していた。この庭はとても穏やかで、少なくとも二十年ほどは平穏を保っている。
けれど、それよりも少し前、私がまだ五歳ほどだった頃、この美しい庭が恐ろしい暴力と哀れな花の血で穢された事があった。
私は幼すぎてきちんと聞かされなかった。
殺されたのは人工花。その現場を目撃した者はいない。
魔術をかけられていたせいだ。城の中からは全く見られず、幻術によってその現場は他所から遮断されてしまった。
そんな閉鎖空間の罠にはまった人工花は、逃げ場もないまま蝙蝠に貪られた。
甘い蜜が、血が、肉体が、花弁が、魂が、全てが貪られていく光景を、蝙蝠の主人である食虫花はずっと見つめていたらしい。
報復の為。
彼女はそう言った。
邪なものを見抜けぬ年齢の私を庇い、身を呈して守ろうとしてくれた人工花の存在は、食虫花にとって邪魔以外の何者でもなかった。
その為に、人工花は隷属の玩具にされた。
人間達が人工花を見つけることが出来たのは、暴行の限りを尽くし、満足した蝙蝠がその場を去ってからだいぶ経ってからの事だったらしい。
その光景を私は知らない。だが、女中頭と執事はまだ覚えているそうだ。
そして、食虫花も覚えている。
――思い出せば今でもぞくぞくする。
低俗なその言葉を私は忘れない。命にかえて私を産んでくれた母の、これまで気にも留めなかったはずの想いのようなものが、私の血を滾らせる。
だが、怒りを溜めたところで素手ではどうしようもない。
それに、新たな暴力を目の当たりにすれば、怒りよりも先に衝撃と恐怖が生まれ、私を困惑させてくるものだった。
庭の一角は騒動が起きていた。
城の中からは全く見えなかったその騒動は、決して穏やかなものではない。
蚕と野生花の少年が勇敢にも武器を構え、その様子を華と日精が恐る恐る見つめていた。若き二人が相手にしている者の姿を見て、私は身を乗り出した。黒い衣で身を包む中年男。蝙蝠だ。二年前、そして一年前とあまり変わらない顔が目に焼きつく。
二十年以上前の時みたいに、何かに手を出そうとしていたというのだろうか。
もしかしたら初めは華たちを狙ったのかもしれない。蝙蝠というものもまた蜜を好むと聞いているから。けれど、今、彼の手にいるのは華ではなかった。
「蝶……」
息が詰まりそうになった。
蝶が捕まっているのだ。他ならぬ食虫花の隷属に。
歩みだしそうになるのを太陽に止められる。何も言わず、彼女もまた状況を見守っているようだった。
まだ機会を窺っているのだろうか。
でも、もう沢山だ。こうしている間にも蝙蝠は歩み出し、蝶を連れて城を離れようと試みているというのに。
私の不安と嘆きとは裏腹に、太陽は冷静だった。
「あの壁の向こう」
蝙蝠が向かおうとしている場所を見つめ、太陽は声を潜めた。
「間違いなくいるわ。貴女をもう見つけている。おぞましい欲望が蜜の香りと一緒にこちらまで伝わって来るわ」
「食虫花が……」
待っている。
隷属が蝶を連れて帰って来るのを待っているのだ。
私にとってはかけがえのない愛娘である蝶だけれど、食虫花などから見れば二年前から喰いそびれた生けるご馳走でしかないだろう。
連れて行かれては終わりだ。
血の気が引いていくのが自分でも分かる。そんな私の様子を察してか、太陽はやや笑みを漏らしつつ告げた。
「大丈夫。私に任せなさい」
そう言って彼女は堂々と現場へ近づいて行く。
蝙蝠は気付いていない。華や日精も、蝙蝠と戦おうとする少年や蚕も、そして蝙蝠に捕まっている蝶もまた、太陽が近づいて行くことに気付いてはいなかった。
あんなにも存在感のある太陽が、そんなにもさり気なくにじり寄っていく。
そして、蝶を無理矢理引っ張る蝙蝠が城壁に手を触れようとした時、太陽は溜め息を漏らすようにその力のほんの一部を風に乗せて巡らせた。
眩い光が放たれ、私の目を眩ます。
太陽の命令に従って、金色の光が糸のように巡らされ、網目となって城を覆った。
それは、腐るほど観てきた光景だった。幼い頃から何度もこの糸が檻をつくっていく光景を見せられてきた。
――この中でいい子にしていなさいね。
呪いをかけた後にそう告げられると、子供ながらに反発心が芽生えたものだった。だが、無理もないだろう。その頃は自分を狙っている者がどういう者なのかなんて全く知りもしなかったのだから。
日の輪。そう呼ばれるこの呪いの中に居れば、魔女を始めとした魔力操る者は近づけなくなってしまう。それ以外の者が触れても何も起こらないけれど、魔術に魂を費やす者が触れたならば身を焼かれるほどの苦痛を覚えるのだという。
蝙蝠が息を飲んだ。
触れる直前に囲われた力の源を察して、彼は恐れを顕わに振り返ってきた。蝶もつられてこちらを振り返る。そして、ようやく私の……私達の存在に気付いた。
「残念でした。もう少しで貴方の株が上がったのにね」
太陽が蝙蝠に向かって言い放つ。
蝙蝠はその堂々とした姿に目を奪われたまま、蝶の手を強く握りしめた。
間違いない。太陽の正体をひと目で見抜き、かなり怯えている。その双眸には剣を持つことも許されなかった私の姿等全くはいってはいない。
太陽のみを見つめ、震えた声で呟いた。
「まさか……」
その怯えに太陽がやや緊張を緩める。
「もう逃げ場はないわ、蝙蝠さん。焼け死にたくなかったら、その子を月に返してやってくださらない?」
蝙蝠は黙ったままだ。
決断は出来ない。それも当然だと私には分かる。彼は食虫花の隷属なのだ。一度隷属になってしまえば、主人の命令は絶対のもの。命に代えても遂行すべきという強い強迫観念が彼を縛っているのだろう。
しかし、この状況は決して不利ではない。
どうやら蝙蝠は日の輪に触れるのを恐れている。魔術を使うためだろう。触れた時の苦痛への恐怖もまた、彼の決断を鈍らせているのだ。
さらに、揺さ振りをかけられているのであろう人物がもう一人。
「蝙蝠さん。そろそろ決断なさい」
太陽はあまり待つ気もないらしい。
力をわざと見せつけるように金色の輝きを放ち始める。その熱気に蝶が怯えているのが見えてしまって、私は無意識に一歩踏み出しそうになった。
太陽は振り返りもせずにそんな私の身体を阻む。
蝙蝠の返答を待たずして、太陽はさらに力を強めた。日の輪が輝きを増し、魔女の侵入を拒む力の網がくっきりと浮かび上がる。
ちょうどその時、私の目には奇妙なものが映った。
きっと太陽もまた気付いたことだろう。こんな事はあり得ない。少なくとも、今まではあり得ないはずだった。
けれど、どんなに否定しようとも起こってしまった事実は覆らない。
城壁より蔓は侵入し、蛇のように我が城の庭を踏み躙っている。網目と網目の境を狙いながら、上手くすり抜けてしまったのだろう。そんな技が出来る者なんて、私は知らない。同じ花の魔女がこの森にいたとしても、そんな事は出来ないだろう。
でも、《彼女》は出来てしまった。
蝙蝠が表情を変え、蝶の手をそっと放す。
――蝶……。
今すぐに駆け寄りたかった。けれど、動き出そうとした私の手を、やはり太陽は冷静に捕まえて、無言のまま咎めてきた。
分かっている。行ってはいけないことは分かっている。
それでも、この状況でじっとしていなくてはならないなんて、あまりに残酷に思えた。
哀れな蝶はすぐそこにいるのに、その背後に蛇のような蔓が迫っていくところをただ観ている事しか出来ないなんて、とても辛かった。
魔の手が蝶を狙っている。
その蛇のような蔓がだんだんと女の姿を象る様子を、私は黙って見つめていることしか出来なかった。




