2.太陽
◇
あっという間に月日は流れ、その日はやってきた。
嫌だろうとも女神は訪れる。
手紙には昼過ぎと書いてあったが、それ以前に現れる可能性も高いだろう。人間達は大忙しだった。昨日の段階でもう殆ど準備は終わっているようにも思えたけれど、見つけようと思えば粗は沢山見つかるらしい。
そうしている内に時刻は訪れ、女中の一人がふと私にその報告をしたのだった。
「華がいない?」
まだ太陽は来ていない。
だが、既に着替えている蝶を連れて私は応接間に移動していた。着替える必要のない華を呼びに行かせた結果、返ってきた答えに私も蝶も顔を見合わせた。
今朝、蝶は華の蜜を吸いにいった。
日課であり、大切な食事でもある。その際、眠りに落ち行く華に遠出はしないようにと告げたらしい。
「庭で遊んでいるんじゃないのか? ともかく、もう少し捜してくれ」
「ただいま……」
若い女中が頭を下げて出て行くのを、応接間にいた執事がやや紅潮した顔で見送る。
非常に何か言いたげだ。
だが、女中が出て言った後も、彼はぐっと堪えつつ身を正した。蝶がいるためだろう。彼は蝶や華の前では私にがみがみ言ったりする方ではない。それでも、蝶によれば十分口煩いらしいけれど。
「私も庭を見て参りましょう」
咳払いと共に彼もまた退室した。
蝶が不安げに私を見つめた。椅子に座る事は無く、応接間の入口付近で立ち尽くしている。私はと言うと、客をもてなすというのに呑気に椅子に座っていた。客であり、格上の相手と言っても、相手が太陽だと何故だかやる気が出ない。
「華は何処へ行ったのかしら……」
不安げに蝶が呟く。
彼女が恐れるのも無理はない。月の森では野蛮な虫どもが何度も華のことを欲望に忠実な眼差しで見つめているのだ。
執事や女中頭にはもう何度も忠告を受けている。
一年前からぱったりと森遊びをしなくなった華だが、庭に出している事すら彼らは恐れているのだ。華の身を按じている事もあるが、彼らが気にしているのは恐らく私の命を狙っている者の存在だろう。
「あたしも、ちょっと捜して来ても……」
蝶がそう言いかけた時、応接間の扉が開かれた。
入ってきたのは女中頭だった。慌てたようなその様子に、ふと視線が捕まる。次いで、その口から出てきた言葉によって、彼女の様子の理由が分かった。
「御日様が御着きです」
来てしまった。華よりも先に。
通すように目配せするや否や、執事が太陽を連れて現れてしまった。
その姿が応接間に現れた瞬間、私の身はやはり強張ってしまった。彼女より感じる強すぎる光は、やはり慣れそうにないものだ。
「しばらくぶりね、月」
部屋に入るなり、太陽はそう言った。
◇
やはり、と私は納得してしまった。
蝶を太陽に引き合わせるのはなんとなく嫌だった。それは、太陽という女神に自分が何をされて来たかを思えば当然のことかもしれないが、そうでなくとも、彼女に対して自分の弱みを見せたくないと思ってしまうためのようだ。
蝶の事を確認するとのたまって遠慮なく触れる姿を見つつ、私は内心穏やかではなかった。そうであるのを言いあてられると、更に機嫌が悪くなった。
だいたい、華の行方がまだ分からないのだ。
女中や使用人が複数探しても見つからないなんて、どう考えてもおかしい。想像を巡らせてしまうと居ても立ってもいられなくなるというのに、太陽が居ては捜しに行くことも出来ない。
そんな私達の事情を何処まで見通しているのか、太陽はさらりと告げたのだ。
「華、という子だったわね。さっき庭で見たわ。月下美人のような白い花の子孫。野生花の子や、面白いお友達と一緒に居たわね」
「庭に……?」
その瞬間、今さっきまでの意地の全てが吹き飛んでしまった。
あんなに捜しているのに、庭で見たとはどういう事だろう。庭でただ遊んでいるだけなら、誰かが見つけて声をかけることも出来そうなものなのに。
蝶が私をちらりと見つめ、その口から言葉を零した。
「あたし、様子を見てきます」
たどたどしい声に頷いてやると、蝶はすぐに退室した。
私も行きたいところだが、どうもそうはいかない。退室する蝶を見送り、その扉がしっかりと閉められてから、太陽は小さな声を放った。
「悪い空気が立ち込めてきているようよ」
ふと太陽へと視線を移すと、彼女の眼差しは応接間の窓の外へと向いていた。
「このお城を取り囲むように深い魔術がかけられていたわ。庭で遊ぶ花の子たちを監視して、ゆっくりと機会を窺っているようね」
「……機会?」
問い返す私の手を、太陽がそっと掴んだ。
「貴女はまだ行っては駄目。誘き出してからは私に任せなさい」
誘き出す。
その言葉に私はようやく悟った。思わず立ち上がりそうになった私の手を、太陽が強く引っ張った。
「聞こえなかった? 貴女はまだ行っては駄目よ」
「不審者がいるんだな?」
「あら、よく分かっているじゃない。分かったのなら、大人しく私の言う事を聞きなさい」
「蝶や華を囮にするつもりか? 絶対に駄目だ!」
必死に訴えたところで、太陽の表情は少しも変わらない。
寧ろ、掴まれている手に力が込められるばかりだった。
「少しは落ち着きなさい。囮だなんて人聞きが悪いわね。私はただ、様子を見ましょうと言っているの。私が信用出来ないのかしら?」
やや脅すような口調を受け、私は目を逸らした。
目を逸らすのはここに太陽が来てからもう何度目かも分からない。彼女の視線は年々強さを増していき、私には捉えきれないものになっていく。子供の頃は何ともなかったのに、十六歳のあの日以降、彼女の眼差しはどうしても恐ろしいものに思えてしまうのだ。
私が力を抜いても、手は掴まれたままだった。
どうやら放す気は起こらないらしい。
「それでいいわ。分かってくれてよかった。最近は聖剣を使って火遊びをしているようだから心配していたのよ」
黙ったまま私は聞き流した。
相手が女中頭や執事だったら、逆らうのなんて簡単だ。他の客人だったらそもそも私に命令なんて下さない。だが、太陽だけは、どうにもならない。この女神にだけは逆らうことがどうしても出来ない。
けれど、落ち着けなんて無理なことだ。
何者かの魔の手が伸びようとしているというのに、華も蝶も庭にいるなんて。
「月」
名を呼ばれ、しぶしぶその顔へと目をやった。
幼い頃に見た時のままの顔で、太陽は怪しげな笑みを浮かべた。
「まずは傷を見せて」
その言葉にも、逆らう事は出来なかった。
◇
太陽。
その名前を初めて聞いた時の事はあまり覚えていない。気付けば私の常識として太陽は存在していた。
幼い私は確か、記憶の片隅に辛うじて留まっている母の愛した人工花の笑みに似たものを、あろうことか太陽に対して期待していたのだ。
子供ながらに愚かだった。愚かなくらい寂しかった。
幼い私を可愛がってくれる女中や使用人はいつの年も必ずいたはずなのだけれど、どういうわけか皆、公には構ってくれないのだ。後になって気付いた。誰もが女中頭と執事に逆らえなかった為だ。
記憶を辿れば叱責の声ばかりが聞こえてくる。
まだ子供で、発達も未熟である事なんて考慮されず、二人はいつも幼い私に声も知らない母のように振る舞うことを強要した。
そんな中、度々訪れては七日間滞在する太陽は堂々と私を可愛がってくれたのだ。
これで懐かないわけがない。
十歳にも満たない頃、私は太陽の訪れをいつも楽しみにしていた。太陽から私の知らない母の話を聞くのが楽しみだった。
ただ、ある一点で、彼女はとても厳しかった。
それは、母の肖像画の下で人知れず泣いている所を見られてしまった時の事だ。
そっと接近する太陽に抱きつくと、彼女は繊細な動作でその手を私の背中にまわした。
いつもは優しいはずの太陽。その端麗な顔を見上げてみれば、彼女の眼差しは日の当たらない影のように冷めた色をしていた。
「貴女に母親は必要ないわ」
「どうして?」
「だって、貴女は姫ではなく月でしょう?」
語りかけるような目は、やはり気のせいではなく冷たい色をしている。
幼い私は太陽に抱かれたまま、その言葉の意味を探った。けれど、十歳にも満たない私には納得出来ず、ただただ太陽に咎められた事に不満を抱くことしか出来なかった。
それから数年。
子供にとっては長い時が流れていき、私は太陽の本質を知る事となった。
◇
城の者達は決して応接間を訪れようとしない。
他の客ならば茶でも持って来るというのに、太陽が相手だと呼ばれない限り来ようともしないのだ。
きっと執事や女中頭、もしくは彼らと同じくらい長くここで働く者たちが、そうするように忠告しているのだろう。
――全く余計な御世話だ。
私としてはこの息の詰まりそうな時間と空気を誰でもいいから壊して欲しいものだった。けれど、どんなにそう願っても応接間の扉は閉まったままで、私と太陽の間に割って入る者など存在しなかった。
お陰で、私は誰にも邪魔されずに身体に残った傷を太陽の前に曝す羽目となった。
食虫花に貫かれた古傷。
女神であるはずの私の身体に今もくっきりと残っている。肩の違和感は少しばかりマシになったけれど、マシになったという程度に留まっている。
そこに太陽の艶めかしい指が触れると、全身を震わせるほどの電撃が走った。
刺激の強すぎる薬でも塗られているようだった。しかし、太陽は遠慮を見せない。むしろ、痛がる私を面白がっているかのように、彼女は目を細めた。
「食虫花ね……」
溜め息混じりに太陽は呟く。
「ただの花の魔女にしては随分と変わった力を持っているわ」
太陽の手が止まり、痛みが引いた。
「噂だと、森で他の魔女を捕えて喰い殺しているらしい。そうやって、聖剣にやられた身体の傷を癒し、力を溜めているんだとか……」
健気に我が城を訪れる蚕が持ってきた噂だ。
無論、彼の話を一方的に信じているわけではないが、少年や日精も同じような噂を耳にした事があると言っていた。
蝶がかつて囚われた事のある屋敷。
おぞましいその住まいで、彼女は今もある程度力のある魔女の血肉を手に入れ、ひっそりと機会を窺っているらしい。
「確かにそのようね。町の人間達は噂をしているの。彼女、おそらくは魔女だけではなく人間や獣たちも誘いこんで食べているようよ」
「人間や獣も……」
傍から見れば食虫花も胡蝶も人間によく似ている。けれど、食虫花というものは、その名の通り、決して人間を餌として見ないものだ。
ああ、でも、そんな常識もあの女の前で何の意味を成すだろうか。
あの女は人間どころか私すらも食べようとしているのに。
「人間達にもすでに食虫花の存在は知られているわ。不審で強力な力を持つ魔女が、大地の女神の命を狙っていることが、徐々に大きな噂となっているのよ」
月の大地に生まれた者が恐れるという未来。
私が子を成さずに死ねば、大地は枯れ果てて全てが無に呑まれていく。そうして死んだ大地が再び命溢れるものに戻る可能性は本当に低いらしい。
緑だけではなく、水すらも枯れてしまう世界。
私の名のつく大地の全てがそうなってしまうと言われている以上、人々はそれを恐れて手を出そうだなんて思ったりしない。
それなのに不届き者は現れたのだ。母の代までいなかったのに、私の代になって。
「この魔女はどうしたいのでしょうね」
古傷を指で突きながら太陽は小声で言った。
「貴女を喰い殺して、自分だけのものにして、その後はどうするつもりなのだろう。大きすぎる力を得た後は、自分が神にでもなるつもりなのかしら」
熱い吐息が露出した私の肩にかかる。
逃げたい気持ちを抑え込んで、私は静かに両目を閉じた。太陽と向き合っている以上、彼女に身を任せる他ない。
彼女の唇が古傷に軽く触れるのを感じながら、私は必死に耐えた。
身体が熱くなり、無意識に力んでしまう。特に触れられている古傷が痺れるように痛む。ぐっと堪え、私は時が過ぎるのを待った。
やがて、太陽が唇を離すとふと身体が軽くなったような気がした。
「強情な子ね。でも、これで楽になったでしょう?」
言われた通り、痛みはもう全くなかった。
目を開けて肩を見てみれば、そこにはもう傷なんて一つもなかった。さすがに怖気づいてしまった。女神としての格は違うと知ってはいたけれど、あの傷を一瞬で無くしてしまうなんて思いもしなかった。
驚く私の頭を太陽がそっと撫でる。幼い頃に同じ事をよくされていた。懐かしいその感触が甦り、私はしばし惚けてしまった。
「貴女の身体を整える事も私の仕事の一つ。けれど、私は万能ではないから、貴女自身が気を付けてくれないと困るのよ」
語りかけるように太陽は私の目を見つめていた。
かつてこの眼差しに母親代わりを求めたことがあった。私にとっては遥か昔だけれど、太陽にとってはつい最近の事かも知れない。
老いもせず、寿命も無い彼女にとって、たった三十年で生まれては死ぬ事を繰り返す月というものはあまりに儚いものらしい。
憐れむような目。
その目から離れることが出来ないまま、窮屈さに眉をひそめる。
「説教なら後で聞く。傷を治してくれた礼も後だ。ともかく、今すぐ蝶と華のところに行かせてくれないか」
「今は駄目だと何度言ったら分かるの? 心配せずとも連れて行ってあげるわ。でも、今はまだよ。もう少し待ちなさい」
「本当に信じていいんだな? 二人に何かあったら、幾ら貴女でも絶対に許さない」
敬意や畏れを忘れ、私は太陽を睨んだ。
私にとってあの二人は既に家族に等しかった。私の傍にいる事を自ら約束してくれた蝶も、有無を言わさず金で買われた身である華も、我が城にとっては可愛い娘に他ならない。
だが、太陽はそんな私の睨みを艶やかな笑みで受け止めると、さり気ない動作で私の身体を抱きしめた。
太陽の熱過ぎるほどの温もりが私を包む。
「例え許されないような事が起きても、貴女は私に逆らえないのよ」
耳に直接入れ込まれた声は、恐ろしく冷たいものだった。
分かっている。そんな事はもう随分と前から分からされてしまっている。太陽がいなければ此処まで生き長らえなかっただろうという事も理解しているつもりだ。だから感謝しろと言われたとすれば、そうせざるを得ないだろう。
それでも、私はこの時だけは抗いたかった。
太陽の言葉はそのくらい残酷だった。
蝶にもし何があったとしても、太陽にすら予測不能な事故が起こったとしても、恨むなと言われて納得できるだろうか。
恨めしい。
太陽の事ではない。
この女に逆らえず、従うしかない自分がとても恨めしい。
内心乱れる私の頭を、柔らかな表情で太陽はまた撫でた。いつだってそう。彼女から見れば、私なんて赤子同然なのだろう。
「弱い自分を責めないことね」
その声が頭上に落ちた時、私はその事を実感していた。




