1.手紙
◇
その手紙が来た時、私は時の流れの速さを呪った。
あと三年。未知であるのは確かだけれど、さほど遠い未来ではない。美しい文字で綴られたその手紙は、私にとっては死へのカウントダウンのようなものだった。
太陽。あの女神がまた来ようとしている。
月として、或いは、月の姫として生まれた者ならば、太陽という絶対的な女神の存在から逃れられない。
それは私も同じ事。覚悟も納得も足りているつもりだった。
だが、前に太陽が現れた時とは大きく状況が違う。
我が城には月の血筋の流れを組まない娘がいる。可憐な華に愛らしい蝶。孤独な私に寄り添い、共に時を過ごしてくれると約束してくれたか弱く心優しい者達。
窓からの月光を浴びて、そっと身を寄せてくる蝶の温もりを感じていると、私はますます太陽の訪れが恐ろしいものに思えてきた。
前回来た時は、ちょうど三年前。
我が城を魔性の類から保護するための「日の輪」の効果を強める為にやってきた。もちろん、彼女の目的はそれだけには留まらないが、私にとって大きな意味を成すのはそちらの方に違いない。
太陽は七日ほど滞在し、私に覚悟と運命をと刷り込んでいった。
その時は、言われずとも分かっていると内心思っていたのだ。数年後に子を孕むという確実な未来を受け入れない理由なんて何処にもなかったし、受け入れないという選択肢が用意されているわけではない事もよく分かっていた。
太陽は老いず、私は老いるという違いもどうだってよかった。
けれど、あの後、私は死にかけていた蝶を見つけ、保護したのだ。
自分を狙っている魔性の正体すら知らなかったあの頃。太陽と彼女が残した絶対安全の殻の中で時が来るまで身を潜めていることしか知らなかったあの頃。
あの頃の感覚をどうしても思い出せない。
今は何もかもが変わってしまった。
太陽はどうせ全てを知っているのだろう。
彼女は何か言うだろうか。私が食虫花に間近まで接近し、囚われそうになった事に関して、何か告げるのだろうか。
考えただけでも頭が痛くなってきた。
「太陽」
寝台の中にて、さきほど私の告げた名を蝶が繰り返す。
時刻は夜更け。いつもは怯えている蝶を私が宥めるものだったのに、この日ばかりは逆だった。そのくらい、私はこの手紙が届くのを恐れていたらしい。
寄り添って来る蝶の背中をそっと撫でると、蝶は更に身を寄せてきた。
いつものように怯えのあまり縋りついているわけではない。その内面にあるのは、ただ私への慰めと慈愛だけのようだった。
「その人は、月が生まれた時も知っているの?」
蝶のか細い問いに、私は頷いた。
「知っている、と自分で言っていた」
他ならぬ太陽自身より幼い頃から言い聞かせられていた言葉を思い出す。
――貴女が生まれてきた時、最初に抱いたのは私よ。
度々訪れ、優しく包みこむような太陽は、子供の頃の私にとって母親の代わりとなり得る期待を抱かされてしまうような女神だった。無論、そんな事は儚い幻想に過ぎなかったとすぐに思い知らされたのだけれど。
「母が私を孕み、出産で息絶えるまで、太陽はこの城に滞在し続けたらしい。生まれてからの世話は人間達が引き受けたと聞いている。それからしばしば太陽は私の様子を度々見に来た。物心ついた頃から、太陽の事は知っていたんだ」
蝶の手がそっと私の手に触れる。
その感触だけでも愛おしい。
母もまたそんな存在がいたと聞いている。食虫花の魔の手から幼い私の命を守ったという可憐で勇敢な人工花の女性。
彼女を愛し、残して死ななければならなかった母は、どんな思いでいたのだろう。
また、残された人工花は、どんな思いで母の死を見つめたのだろう。
二人が死んでしまった今となっては、正しい答えは得られない。
――ただ、私だったら。
私だったら、蝶と華の二人を残して死ぬ事は恐ろしくて仕方なかった。
二人が安全に余生を過ごせるように取り計らった後は、全てを人間達と私の魂を継ぐ娘の成長に期待してこの世を去らねばならないなんて。
――月の姫……。
娘を産んでも私が死ななければ、娘は月の姫として大切に育てられる。蝶と華と別れる事もなく、生きたままで娘の成長を共に見守ることが出来る。
そんな前例が幾つかあるのは知っている。
けれど、決して頻繁なことではないし、どんなに願ったところで、結局は運でしかないことも知っていた。
私はかつて月の姫でなかった自分の身の上を恨んだ。
恐らくこれは、これまでの多くの月が幼少期に思い抱えた感情なのだと思う。未だ取り外されることのない母の肖像画の下で、私はよく泣いていた。
どうして月の姫として生んでくれなかったのか。
どうして自分を残して死んでしまったのか。
女中頭や執事に些細な事で叱られる度に、私は死んでしまった母に思いを募らせてきた。そんな私の様子を見て、かつて太陽は言ったのだ。
――貴女に母は必要ない。貴女は姫ではなく月なのだから。
その言葉が今でも重たく心の底に沈んでいる。
「月……」
蝶がふと私の目を見つめてきた。
そっと私の頬へと手を伸ばし、温かな手で何かを拭う。その時ようやく私は涙が流れていた事に気付いた。
◇
手紙が来た事を執事達に伝えると、彼らは彼らで各々が各々の反応を見せた。
この三年ほどで太陽を知らぬ者も確実にいるし、知っている者もまた太陽に対しては緊張を見せるものだ。
彼女は女神として私よりも格が高い存在なのだ。そんな女神が七日間も我が城に滞在するのだから、ただの人間達が緊張しないわけがない。
太陽の部屋は私の部屋の正反対の位置にある。
しばしば現れ、滞在する事が決まっている女神の部屋なので、普段は閉ざされていても小まめに清掃され、清潔さを保っている。
蝶や華さえも気軽に入り込めないものならば、城の主である私だって用もなく入ることの出来ない場所だった。
そもそも、許されたってあの場所には入りたくもない。
あの場所には嫌な思い出ばかりが残っている。
十六歳以降、太陽は滞在する度に自分の部屋に私を呼んだ。時刻はまちまちで、私に断る権限もなかった。
太陽は私の成長を確認しながら、月として生まれた者の覚悟を嫌になるほど植えつけていった。
彼女から感じるのは厳しさばかりで、幼い頃に辛うじて感じられた優しさは全く含まれない。
この大地を守るためには、私は恐れを捨てなくてはならない。子を宿すこと、生むこと、その結果により死んでしまうかもしれないことを受け入れなくてはならないらしい。
それが月に生まれてしまった自分の宿命なのだと分かっていても、腑に落ちない瞬間はやはりあった。
ならばいっそ、自我なんてない方がよかったと思ってしまったことさえあった。
これまでの月も同じ思いをしてきたと太陽が口走った事はある。
だが、太陽は多くを語らない。
彼女が語るのは飽く迄も今の私に必要なことのみで、それ以上のことは決して口を滑らしたりしなかった。
私は未だに知らないままだ。
時が来て、子を孕む時、私の身に何が起こるのかということを。
だが、別に知りたいとも思わない。
ただでさえもあの部屋に拘束される時間は長い。太陽の幼子を慈しむような優しさは、年を経るごとに消えていく。年頃になって以降の私に向けられるのは、来るべき日に備えるための準備ばかり。
それが十六歳以降、ずっと。
太陽は私を愛おしいというが、きっと死んでも深くは悲しまないのだろう。
別に毎日居るわけでも、毎年来るわけでもないのだからマシなのだろうけれど、それでもやっぱり太陽が来るとなると気持ちは沈んでしまう。
私の母も、その母も、やはり同じような思いをしたのだろうか。そして、私がいつか産む娘もまた、私のように劣等感に苛まれるのだろうか。
蝶や華はどうだろう。
彼女たちは客人にどんな印象を抱くだろうか。
――可愛らしい貴女の妹達をこの目で見る日を楽しみにしている。
手紙にはそう書かれていた。
蝶と華の存在を、もう彼女も把握しているのだ。
私からの返事は飽く迄も事務的なものばかりだ。返さないなんて事は出来ないけれど、その内容は決して深くは無い。それでも、太陽は私の近況を何故だか把握している。
つまり、食虫花に肩を抉られた事も知っているようだった。
女中頭や執事の小言は何度でも聞き流せるくらいだけれど、太陽からの静かな叱責はいつも怖いと思ってしまう。
蝶と華に会わせなくてはならないらしい事もまた、私にとっては恐怖でもあった。愛する蝶をあの太陽に見せるなんて。
それに不安な事もあった。これまで太陽はしばしば私の身辺を整理していた。人間の客に奉納され、何気なく使っていた物品が太陽に没収される事もあったし、物だけでなく城に仕える人間もまた審査される事があった。
それもまた、城や私を守る為に必要な事なのだと主張する。
では、蝶や華を見るのもその為なのだろうか。
それで、もしも不適当とされてしまったら彼女達はどうなってしまうというのだろう。その事もまた不安で恐ろしい事柄だった。
蝶や華の存在は大きい。
特に死にかけていた蝶を保護してからのここ数年の時間は、私にとって非常に濃いものとなっていた。
毎夜、同じ寝台で身を寄せ合ううちに、悲しいほどに情が移ってしまったのだ。
最初は単なる憐れみから保護しただけだったのに、いつの間にかそれ以上の想いが蝶に対して浮かぶようになっていた。
蝶が幸せそうに微笑む瞬間を見たい。
そんな感情が時に私を混乱させている気がした。
勿論、それを表に出してはいけない事等分かりきっていた。蝶や華の前では、確かな女神でいたいとも思っていた。
けれど、まだ幼い華はともかくとして、常に共にいて十分大人になっている蝶には、私の弱さはどうしても伝わってしまうのだ。
どうしたものか。
一人暇を持て余した時、私はそっと肖像画のかけられている場所へと向かった。誰ともすれ違わず、蝶や華でさえも見かけない。静かすぎる時間だけが私を誘ってくれる中、暗がりのなかで寄り添い合う二つの肖像画を前に、私は立ち止まった。
今の私よりも若き日の母と母の愛した人工花の少女時代の姿。
人間の繊細な手で描かれたその絵画は、まるで魂が宿っているかのようだ。
幼い頃より見上げたこの絵に対して、私は再び声なく問いかける。孤独から生まれた恨みでもなければ、醜いほどの愛情の懇願でもない。
ただただ、私は母に問いたかった。私の命を救った人工花に問いたかった。
私はどうあるべきなのか。
強くなるにはどうしたらいいのか。
◇
「御日様がお越しになる旨を人間共の噂よりお聞きしましたが……」
手紙が届いて数日後。
城の片隅の窓辺にて、私はそっと外の者と会話をしていた。
女中頭や執事は勿論の事、単なる女中や使用人にでも見つかれば面倒だが、無視出来るような相手ではない。城の壁に寄り添って他所を窺いつつ私と会話をするその青年は、決して捨て置いていいような者ではなかった。
胡蝶。
蝶と同じ種族の青年。美しい外見は蝶と同じだが、男と女という印象の違いは大きい。だが、冷静に見つめれば、違うのはやはり性別のみであって、彼もまた我が名を持つ森の中ではあらゆる捕食者につけ狙われる憐れむべき存在に過ぎない。
蚕というのが彼の名前だ。
彼の命を預かっているのは絡新婦という蜘蛛の魔女。
一年前、図らずとも私は彼らを救う結果を招いた。蝶を奪われそうになったのは腹立たしいことだったが、それよりも彼らが食虫花の糧になることは、見逃すことの出来ない事態だったためだ。
つまり、私は私の為だけに彼らを助けた。
けれど、あれ以来、彼らは頑固にも私に忠義を尽くそうとしてくれるようになったのだ。虫というものは、もしかしたら恐ろしく純粋な者たちなのかもしれない。
そんな事を想いつつも、彼らの手助けは私にとっても有難いものに違いなかった。
「ああ、その通りだ。この城にかけられている呪いを強めに来る」
私が答えると、青年の双眸がちらりとこちらを向いた。
「呪い……ですか」
やや腑に落ちないようだが、訂正する気は更々なかった。
これは呪いに違いない。絡新婦本人がここに入れず、こうして自らの隷属である蚕を送り込んでいるのもそれが理由だろう。
いや、そもそも絡新婦がここに来られない理由はそれ以前にもいくつもあった。
「絡新婦の具合はどうだ」
私の問いに青年が軽く頭を垂れた。
「お陰さまで、もう殆ど回復しております。ただ、食虫花の隷属が、いまだに絡新婦様の付近をうろついて来るので油断なりません」
「――蝙蝠か」
食虫花の隷属は数多くいるらしい。
けれど、その多くは姿を見せず、食虫花の屋敷の何処かにて普段は息を潜めていると噂されている。食虫花の右腕として唯一頻繁に姿を見せるのは蝙蝠の中年男のみ。若き日より食虫花の蜜に酔いしれ、隷属となったのだろうあの男だけだ。
蝙蝠はこれまで何度も私の前に現れた。
手を出してくる事は無く、それでも、己の主に全ての利が向くように計らい続けている。私の動向を主に伝えているのも彼だろう。絡新婦にとっての蚕のように。
「御日様はこの事態を御存じなのでしょうか」
蚕の問いに、私は静かに笑んだ。
「あの女神は知っているだろうさ。何もかも」
思わず気だるさを含んでしまったその言葉に、やや怪訝そうな様子の蚕の視線がこちらに向いてくるのが伝わってきた。




