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日の輪  作者: ねこじゃ・じぇねこ
第一部
1/15

1.噂

『濡れ翅』から1年と少し経った後の話です。


 早朝、まだ星の光も天高くにて輝いているというのに、日の光が城の庭の緑を照らし始めていた。

 わたしの植物としての本能が好む光が、世界を温めようとしている。

 そんな光景を温室のガラス張りの窓から見つめていると、段々と夢の彼方まで誘われていくかのような感覚に陥った。うとうととした眠気をじわりじわりと感じられるのは、この場所が世界で一番安全な場所だからかもしれない。


 ここは月の城。

 月の女神が住まう、この大地で最も神聖な場所。

 二年前に金で買われたわたしが、一生を過ごす事となっている住まい。

 身体に刺青を入れた時から、わたしはこの城の財産だった。そんな身の上は、人の為に生まれ、人の為に育てられた人工花ならば当然の事。むしろ、誇らしいことだった。わたしの仕事は人々に癒しを与える事。そして、この城で飼われている胡蝶という種族の妖精の娘――蝶に蜜を与えることだけ。


 わたしがやるべき事は少なかったけれど、日々の暮らしはちっとも退屈ではなかった。

 蝶をひと目見るだけでも幸せだったし、そんな彼女と戯れるのは、至福のひと時に違いなかった。

 蜜吸い。朝と夕に必ず行われる儀式。蝶にとっては栄養を得るための大事な食事の儀式で、わたしにとっては快楽を伴うコミュニケーションのようなものだった。

 わたしは込み上げる眠気を抑えて、蝶の訪れを待っていた。

 やがて、静寂を打ち破るように、その足音は近づいてきた。


「華、起きている?」


 綺麗な声がわたしの名を呼ぶ。その瞬間、眠気なんて吹っ飛んでしまった。

 わたしが返事をするより先に、温室の扉は開かれ、目が覚めるほど愛らしいその娘は現れた。彼女こそ蝶。短めの栗色の髪を輝かせながら、妖艶な眼差しをわたしに送る。

 月の妾。そう呼ばれる彼女は、わたしの主人でもある月は勿論、様々な種族の者を魅了する。元々胡蝶には弱いわたしのような花にとっては、全てを支配されてしまっても仕方がないほどの魅力を兼ね備えた娘だった。

 蝶によって扉が閉められ、しっかりと施錠される。

 その瞬間、彼女が私を訪ねる理由を思い出し、身体が火照った。意識も身体も既に、蜜吸いという儀式に備え始めているのが自覚できた。


「おはよう、華」


 柔らかな笑みを向けられて、わたしは思わず唾を飲んだ。


「おはよう……蝶」


 どうにか返事をして、わたしは蝶の接近を待った。


 わたしが蝶を抱きしめる以上に、蝶はわたしを抱きしめてくれる。

 それだけで嬉しかった。

 蝶に抱かれながらゆっくりと床に寝かされる。この先は、いつだって全部、信頼している蝶に身体を任せている。他の虫には決して許さない身体。蝶の為だけに溜めた蜜を、全て渡してしまったっていい。

 蜜吸いは、花にとっては時に枯れる可能性も伴う危険なものだ。枯れると言うことは死んでしまう事。でも、蝶に抱かれながら死ぬのならば、恐くもなんともない。

 本心からわたしはそう思っていた。

 愛らしい彼女にならば何をされたって恨まない。


「華」


 呼びかけられて、沈みかけていたわたしの意識が掬いあげられる。

 蝶は滑らかな手つきでわたしの皮膚を直になぞっていく。その動きに合わせて、身体の内部に流れる目に見えない蜜が動いて行くのを感じて、声があがりそうになった。

 蝶は蜜の流れをかき乱すだけかき乱して、一向に吸おうとしない。焦らされれば焦らされるほど、蜜は濃厚なものになっていく。虫を狂わせ酔わせる危ない秘薬のようになっていってしまうらしい。

 わたしと蝶が蜜吸いに酔いしれていられるのも、絶対安全の城の、絶対安全の温室の中に引きこもることが出来るからだ。

 もしも屋外でこんなことをしていれば、わたしだけではなく蝶だって危険な目にあうだろう。外の世界には胡蝶を捕食する恐ろしい存在が溢れるほどにいるのだから。


 ――けれど、蝶は最近、外でも蜜吸いをするようになった。


 特別な事ではない。蝶はそもそも月の森と呼ばれるこの城の外で卵から孵り、蛹になって羽化して大人になる事の出来た幸運な胡蝶なのだ。月の膝元に保護されるまでは、自分の力と運の良さだけで花を探し、何の庇護も無い状況で蜜吸いをしていたのだし、保護されてからもしばらくはそうしていたのだ。

 それでもやっぱり、わたしは心配だった。

 蜜が足りないと胡蝶は死んでしまう。成長途中のわたしの身体では満足な蜜を与えられないのは仕方がない事なのだと月は言ってくれた。けれど、そう慰められても、蝶が城門を越えてしまう限りわたしの心は晴れなかった。


 一応、蝶は月に約束しているらしい。城の周りを散歩する程度に留め、蜜が足りない時は極力、月の与えてくれる蜜飴という人間のつくった菓子で補うことを。

 それなのに蝶は度々城から少しばかり離れ、野生花を誘って蜜吸いをするらしい。本人は決して言わない事だけれど、そういう目撃談はどうしても耳に入る。

 栄養が足りないのか訊ねてみたけれど、蝶は笑って誤魔化すばかりだった。


 その笑みを見る度に、わたしは心細さを感じていた。



「ねえ、蝶」


 どのくらい時間が経った頃だろう。

 胸元に口づけをされながら、わたしはぽつりと声を漏らした。


「今日も森に行くの?」


 蝶の手は止まらない。

 繊細な手つきで触れてから、蝶はその柔らかな唇でわたしの口を塞いだ。

 掻きまわされた蜜が一気に吸いあげられる官能的な感覚が生まれ、快楽と共に痙攣が生まれる。直後、視界が眩んで身体が熱くなった。答えの代わりに悦びを与えられて、わたしはただ泣きながら蝶にしがみついていることしか出来なかった。

 わたしの息が上がりきってしまわぬうちに、蝶は唇を放した。

 その途端、全身の力が抜けた。倒れそうになるところを蝶に支えられて、安心する蝶の香りを思い切り吸うと、今度は眠気が襲ってきた。

 その眠気に抗いながら、わたしはもう一度訊ねた。


「森に行くの?」


 わたしの背を撫でる蝶の手が止まる。

 じっとわたしの姿を見据えているのが分かる。雰囲気は全く変わらないけれど、言葉を選んでいるようにも思えた。


「今日は多分、行かないわ」


 ややあって蝶はようやく答えてくれた。

 行かない。その言葉は思ってもいなかったものだったものだから、途端に晴れやかな気持ちになった。この内心が表情に出ていないといいのだけれど。

 幸い、蝶は顔色一つ変えることなく続けた。


「月にお客様が来るから」

「お客様?」


 それはいつもの事ではないのだろうか。

 少なくともわたしは、この城に飼われて以来、月を訪ねに来たと思われる来客を散々目撃してきた。人間らしき者も、そうでない者も、皆、用があるのは月だけで、わたしどころか蝶にさえも興味を抱く者は少ない。だから、これまでお客様なんてその殆どは気に留めるべき存在でもなかった。それは蝶だって同じだったはず。

 けれど、蝶はやや不安げな表情を見せるのだ。


「どんな人かはあたしもよく知らないの」


 でも、と蝶は視線を揺るがす。


「前々から聞いてはいたの。会いたくない人がいるって。その人が今日、この城にいらっしゃって、しばらく滞在するらしくて……」


 ようやくわたしにも蝶の表情の意味が分かった。

 月を心配してのことだったのだ。


 月はわたしや蝶にとっては主人であって、そうではなくてもこの広大な大地の命そのものとして崇められている女神である。三十年という定められた時間で娘を生み落とし、多くの場合はそのまま死んでしまう恐ろしい宿命を背負っているけれど、月はいつだって堂々と振る舞い、悪しき者に自身も命を狙われている中でも、わたしや蝶をしっかりと守ろうとしてくれる。

 そんな月のことを、蝶はわたしよりもずっと敬愛している。


 わたしが月を慕っているのは、主人として忠誠を誓うようにと花売りに教育されてきたからだ。花のなかでも、金で取引されるべく人間達に保護され、育てられた人工花の一人であるわたしにとって、主人である月に従い、その役目に誠実であろうとすることは、人工花としての自尊心でもあった。

 一方、蝶は金で買われたわけではない。虫を食べる恐ろしい魔女に傷つけられ、死にかけていたところを月に保護されただけだ。森で生まれ、自分の意思と力だけで生きてきた彼女は、そのまま自分の意思で月の傍に居る事を決めた。その違いはきっと、とても大きいものだろう。わたしと月では芽生えない関係が、蝶と月の間では芽生えている。そもそも、わたしがここに買われた理由だって蝶の為なのだから。


 月と蝶のことを考えれば考えるほど、思考は巡り、止まることがない。


 ガラスの壁を介した日光が、カーテン越しに部屋へと射しこんで来ている。

 その温かみと強みが段々と歪んでいく錯覚と共に、わたしは無意識のうちに、暗い海の底へと引きずり込まれるような感覚に身を任せていた。


「華?」


 蝶の声が聞こえてきた時、わたしは自分の瞼が閉じかかっている事にようやく気付けた。

 蜜を吸う行為が止まる。

 わたしは慌てて蝶に抱きつき直し、唇を奪って自ら蜜を流し込んだ。

 蜜吸いは危険なのだ。それを一番よく知っているのは、わたしではなく、蝶の方だ。蝶は昔、森に暮らす野生花を枯らしてしまった事があるらしい。だからこそ、わたしの命を守るべく、蝶は配慮を怠らない。

 しばらくそうして、やがて、蝶が唇を放した。


「もういいわ。十分よ」

「駄目」


 疲れていないなんて言わない。

 それでも、どうしてもわたしは反抗したかった。外に出て野生花に会わないつもりなら、蝶にとって足りな過ぎるのは明らかだった。

 そんなわたしの内心を悟ったのだろうか、蝶は怪しげに眼を細め、わたしの頭を撫でた。


「後は日精にでも貰うわ」


 日精とは、一年ほど前からこの城に住みついた花の少女のことだ。

 わたし達にとっては恩人でもあるか弱い花だけれど、わたしと違って金で買われているわけではないから、勝手気ままに暮らしている。

 城の庭や周辺の森で過ごす事も多いせいか、その蜜はいつも蝶以外の誰かに奪われていて、大した量を残してはいない。

 いや、そもそも、日精の名前を出されて黙ってはいられなかった。


「駄目。お願い、わたしの蜜を吸ってよ」


 嫉妬で間違いなかった。

 本当の事を言えば、他所の花と蝶が蜜吸いをしている事を想像するのは辛い。それは独占欲とかいう、汚らわしい我が侭で出来た鎖で蝶の自由を奪いたいという、恐ろしいわたしの本性なのかもしれない。そうだとすれば、直ちに身を正すのがこの城に買われた人工花としての在るべき姿なのかもしれないだろうし、そうすべきだとわたしだって思う。

 けれど、既にこの口から出た言葉を取り消す事は出来なかった。


「華、分かって頂戴」


 急に、蝶の柔らかな声がわたしを包みこんだ。頬にそっと口づけをされたけれど、蜜を吸われる事は一切なかった。蝶はそのまま、わたしの耳元で告げた。


「貴女の心を傷つけるよりも、貴女の身体を弱らせたり、枯らしてしまったりする方がずっと怖いの。もしも貴女を枯らしてしまう事になれば、あたしの心も死んでしまうわ」

「蝶……」


 言いかけたわたしの口を蝶の人差し指が制す。


「今日のお客様は特別なのよ。多分、貴女も、女中辺りに声をかけられるはずよ」


 それってつまり、と目が覚めるような気分になった。

 そういう時は無いわけではないが、滅多にあるわけでもない。ただの人間の訪問者ならば、わたしも蝶も蚊帳の外で終わってしまうが、たまに人間ではない客がある時、場合によっては女中に呼ばれ、引きあわされることがある。

 月の城の娘。

 そういう肩書きで、わたし達が挨拶させられたのは、この世界にとって月によく似た存在である人物と、わたし達のようにその人物に侍っている者たちだ。

 遠くの大地を治める生き神。それも、月とは違って自由に旅する事を許されるほどの確かな力を持つ神々。そんな者に会う時の月は、いつもよりも落ち着いて見えたし、わたしもまた息がつまりそうなくらい緊張した。


「華、そんな顔をしないの」


 蝶に軽く窘められて、わたしは慌てて目をそらした。

 不安が無意識に顔に出ていたのだろうか。そうだとしたら気をつけなければ。

 わたしはしっかりと自分に言い聞かせた上で、無言で蝶に抱きついた。不意をつかれた蝶は驚いたけれど、抵抗したりはしない。

 ただ、わたしの背中を撫でながら、諭すように語りかけてきた。


「大事なお客様の前でうとうとしてはいけないでしょう? だから、今日の蜜吸いは夕暮れまでお預けよ」


 優しげな声。手つき。そして蝶の香り。

 それらがもたらす心地よさは、蜜吸いで得られる快楽とは比べられないほど深くて温かなものに違いなかった。


「分かった。蝶がそれでいいのなら、それでいい」


 わたしがそう言うと、蝶は小さく笑って、わたしに軽く口づけをしてくれた。

 柔らかく、甘い口づけ。それらをもたらす蝶の全てが愛おしかった。


 初めて会った時から変わらない愛らしさ。花に対して気遣う、胡蝶としてもかなり優しいその性格。聞く者をうっとりさせるような声。見る者の心を捕える不思議な力を持った瞳。全てが愛おしくて狂おしいほど。

 花の中でも大した力を持たないわたしでさえも、そんな独占欲を有してしまうのだから、力に自信があり、欲望のままに生きるような者が蝶に目を付けても、何もおかしくはない。

 そんな可能性を実感するだけで、わたしは恐くなってしまう。


 今は当り前のように得ているこの感覚も、かつて失いかけたことが二度ほどあった。わたしが蝶の事を知らなかった時期を合わせれば、もう数え切れないくらい危険な事はあっただろうと思うと、ますます蝶を掴んだ手を離したくなくなってしまう。

 あらゆる捕食者にとって獲物となってしまう胡蝶。その中でも一際魅力的な蝶は、月の妾という安全なはずの身分にあっても、やはり捕食者の脅威から逃れられない。

 考えても仕方のないことだけれど、今まで訪れた危険の事を思い出すだけで今でも恐くなる。

 もしも蝶が悪魔のような人にまた捕まってしまったらと思うと、見たくもない未来が見えてしまいそうだった。

 こんなに美しく、優しくて、温かな人が、食べられてしまっていいわけがない。

 幾らそう思ったところで、力のないわたしは蝶を守ることも出来ないのだ。


「華」


 わたしの銀髪を撫でながら、蝶は言った。

 その顔を見上げると、魔性を宿したような瞳と直にぶつかった。


「そろそろ戻るわ。華もきっと女中に呼ばれるはずだから、今日は遠出をしては駄目よ」


 見つめられながら、わたしはぎこちなく頷くことしか出来なかった。

 どうしてなのか分からないけれど、瞼が少し重たかった。

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