旦那様の衝撃
「……ふう」
築の書斎の前で、深呼吸を一つ。
雛姫は、築への挨拶を心の中で練習しつつ、書斎へとつながる扉を開けるための心の準備をする。
――昨夜。
四海堂の屋敷を追い出された雛姫は、結局築の元にしか行く場所がなかったのである。
突然やってきた雛姫に対して築は、特に驚いた顔もせず、家へと招き入れてくれた。
『何とか住み込みにしてくれないか、って人材派遣協会から連絡があったぞ。……あいつら人のことを舐めてンのか。一度生まれてきたことを後悔して泣き喚くまで苦情ぶっこんでやる』
などと、今なら視線だけで人が殺せそうな凶相でのたまいつつ。
『お前、ついに借りてたアパートを追い出されたんだって？』
『……まあ』
追い出された、という一点において、嘘はついていない。
そんな雛姫の返答を、住む場所を失った情けなさ故のものだと築は勘違いしてくれたらしい。
『……フン』
そう鼻で笑いながらも、築は雛姫を二階の空き部屋に案内してくれたのだった。
（住み込みなんて聞いてない、って追い出さなかったあたり、見た目ほど
外道ってわけじゃなさそうだよな）
そんな、本人に聞かれたらしばき倒されそうな感想を心の中で呟いている雛姫である。
そんなわけで、一夜明けて今朝。
雛姫の初仕事が始まる。
（服装、乱れてないよな）
四海堂に渡された執事服を、きっちりと着こなして雛姫は軽く身だしなみを
確認する。
四海堂邸のメイドさんたちは、いつだってきっちりとメイド服を着こなしていた。
タイが歪んでいないか、ボタンはきっちり全部はまっているかを確認。
「……よし」
大丈夫だ。
満足げに頷いて、雛姫は朝の挨拶をするために築の書斎の扉を叩くべく手を
持ち上げる。
基本築は家にいるときは書斎にこもっているのだと言う。
寝室も書斎から繋がった場所にあるらしく、そこは触るなと昨日のうちで厳命されている。
（起きてるならもう書斎にいるだろうし……、まだ寝てるようなら、先に掃除でもしてようかな）
「……って、あ」
ふと、気づいた。
「……俺、あの人のことなんて呼んだらいいんだ……？」
あの人、とは築有志郎のことである。
雛姫の雇い主。
（築様……、有志郎様……）
どれもピンとこない。
ユーゲロイドは数が少ないこともあって、集団生活の中で上下関係が出来にくいのだ。
そのせいで、こういったときの正しい呼称というものが、なかなかしっくり
こない。
「……ぬ」
ドアの前でしばし、停止する雛姫。
「……あ」
考えた結果、行き着いたのはやはり身近な例だった。
そう、四海堂邸のメイドさんたちだ。
彼女らが四海堂のことを果たしてなんと呼んでいたかと記憶をたどり……。
「ああ、そうだ。
――旦那様」
（ああいう感じでいけばいいんだよな、うん）
四海堂という男の特異性をすっかり棚にあげて、雛姫は納得した。
アをノックする。
「入れ」
ドアを開けて。
「おはようございます、旦那様」
「…………」
すでに目覚め、朝食前に軽く一仕事やっつけるか、といった様子で気だるげに机に向かっていた築が硬直した。
己の網膜に結ばれた像やら、鼓膜を震わせた音声が信用できない、というような沈黙の間。
続いて、それが残念ながら現実であることを認めたのか、築は力いっぱいの半眼で雛姫を見やった。
「何のつもりだその格好は」
「仕事着ですが。
何か問題でもありますか、旦那様」
どうやら、「旦那様」という呼び名についても聞き違いではなかったらしい、と顔には出さないままに撃沈する築。
「……なあ」
「はい？」
「これは俺に対する嫌がらせなのか……？
人材派遣協会は俺に喧嘩売ってンのか」
「？」
ブツブツ、と低音の呟きは雛姫の耳にはよく聞き取れない。
が、それでも築の目が泳ぎまくっているのはさすがにわかる。
「えっと……。何かヘンですか？」
（しか……、じゃなかった）
「人材派遣協会の人がこうしろって言ってたんですけど」
「やっぱり嫌がらせだな、よしわかった。
喧嘩売ろうってなら買ってやる」
何やら、地獄の底を這うような低音が呻いた。
「似合わないなら……、着替えますけど。
あ、でもそしたら俺仕事用の服がないんですけど、どうしましょう」
「似合わないとは言わないが――……、むしろ似合うのがどうなんだ、お前」
もっともなツッコミである。
「えっと、どうします？」
「……面倒くさい。
お前の好きにしろ」
結局築は、全てを諦めたよう、面倒くさそうに手をひらりと振って雛姫を
追い払いにかかった。
（この格好でいい、ってことだよな）
別に雛姫自身、この格好にこだわりがあるというわけではないが、他に仕事用に使えそうな服の持ち合わせがない。
「俺、朝食の用意をしてきますね」
「ああ」
そうして。
雛姫の築宅での生活が始まったのだ。
