雛姫という存在
「……疲れたぁ」
ぼやいて、雛姫はばふりとベッドへと倒れ込んだ。
四海堂にあてがわれた自室まで帰りついてのことだ。
(あー……、緩む、なあ)
すりすり、と肌触りの良い布団に頬を摺り寄せる。
「…………」
そして、寛ぐと同時に少しだけ、ほんの少しだけ、意地を張りたくもなった。
ここは、雛姫が四海堂に引き取られてすぐにあてがわれた雛姫の部屋だ。
品の良いアンティーク家具をあしらった、実験動物にやるにはもったいないほどに良い部屋だ。
雛姫がもともと暮らしていた家とは、比べものにならない。
そんな部屋を丸ごと一つ四海堂はポンと雛姫に与え、ここは君の部屋なんだから好きにしていいんだよ、と口酸っぱく言っている。
どうも四海堂には、雛姫が与えられたときのまま、部屋を弄ろうとしないことが気になって仕方がないらしい。
(だって、ここは自分の部屋じゃない……、から)
意地なのは、わかっている。
ここは、あくまで雛姫が買われてきた先の、雛姫を置いておくための部屋、なのだ。
雛姫の部屋、ではない。
(……なんて、意地を張っておきながら、こんな風に寛いじゃうんだもんなあ)
「……はあ」
自分の現金さに思わずため息が零れてしまう。
慣れというのは怖い。
最初はふかふかのベッドにも、柔らかく暖かな布団にも慣れなかったし、慣れることもないだろうと思っていたのに。
いつの間にか、外からこの部屋に戻ってくるとこんなにもほっとするように
なってしまった。
「そのうち、もっといろんなものにも慣れるのかなあ……」
ぼんやりと呟く。
花夜国の首都で暮らすにあたり、目立たないように雛姫は髪を染めた。
今は花夜国の大多数の人間と同じ黒に染めているが、本来の雛姫の髪の色は、淡い銀灰色だ。
本当なら薬で目の色も変えたかったのだが、それは四海堂に反対されてしまった。
遊びや、お洒落の範疇として一時的に目の色を変えるぐらいなら問題ないらしいのだが、さすがに常用というわけにはいかないらしい。
目に負担がかかりすぎる、と言われてしまえば、さすがに雛姫としても諦め
ざるを得なかった。
「……あの人、俺のこと外国からの移民だと思ってたな」
都合のいい誤解だったので、あえて解かずにおいたが。
そんな風に勘違いして貰えるなら、もっと外に出て『人』に関わってみても
いいのかもしれない。
(今まで……、四海堂のいないところで人に会うなんてほどんどしたことなかったし)
幼い頃から、雛姫にとって『人』は避ける対象だった。
『人』とは、自分たちを狩るもの。
恐ろしいもの。
そう、思っていた。
だから四海堂によって村を連れ出され、こうして街で暮らすようになっても、あまり一人で外出するようなことはなかった。
そういう意味では、今回のことは雛姫にとっても良いチャンスなのかもしれない。
(社会復帰のチャンス、というかなんというか)
復帰も何も、そもそも最初から雛姫は社会に参加したことなどないのだけれども。
「執事、かぁ」
メイドの仕事を、代わりにやる男。
家政夫だとばかり思っていたが、家政婦がメイドならば家政夫は確かに執事に該当するのかもしれない。
「……執事ってナニする仕事なんだろうな」
とりあえず、家の管理にあたる仕事を手当たり次第やっていけばいいだろうか。
「まあ……、あの家は手入れのし甲斐がありそうだったよな」
あの築有志郎という男は、自分の居住空間以外にはとことん無頓着であるらしかった。
そのあたり、是非綺麗に掃除をして、手を入れていきたい。
ユーゲロイドは家を大事にする種族なのだ。
家族の居場所である家を、如何に居心地良くするかに心を砕くことが苦にならない。
(まずは廊下の蜘蛛の巣を払って……。
埃もはらいちゃって……)
ノックの音がしたのは、そんな風に雛姫がいかに築宅の掃除を進めるか、なんて作戦を練っているときだった。
(四海堂か)
雛姫の部屋にやってくるのは、四海堂しかいない。
「開いてるよ」
声をかけると、すぐさまドアが開いて、人の良さそうな柔和な顔つきの男が
顔を出した。
(……胡散臭い)
そろそろ見慣れてもおかしくはないのだが、毎回四海堂の顔を見るたびに雛姫はそう思ってしまう。
いつでもにこにこ笑ってるような顔をしているが、この男が本当に笑っているのかはどうも怪しい。
そんな胡散臭い男は、雛姫がぐったりとベッドの上にノビているのを見ると、ますます嬉しそうに笑み崩れた。
「ただいま、雛姫ー!」
弾む声でそう言うや否や、四海堂はそのまま勢いをつけて雛姫の上へとダイブ。
「ぐえ……っ」
ノシッと押し潰されて雛姫は呻くが、そんなのを聞いてくれる四海堂ではない。
「どうだった?
雛、ちゃんと僕のお願いした仕事はやれたかな」
ぎゅうぎゅう、とまるでぬいぐるみでも抱くように、強く抱きしめられて息が詰まる。
「放せってば、コラ……っ! おま、それセクハラ……!」
もがもが。
雛姫は四海堂の腕の中から何とか逃れようと抵抗するものの、新手の絞め技か何かなんじゃないだろうか、というほどにきっちりハマってしまって脱け出せない。
「うーん……。
ちゃんと三食ごはんあげてるのに、なかなか肉がつかないよねえ。
これはもう体質なのかなあ」
「くすぐったい……!
人の身体を撫でたくるな……!」
容赦も遠慮もなく、四海堂の大きな手のひらが雛姫の身体を触りまくる。
その手つきは、医者が患者の身体を触診するかのようでもあり。
飼い主がペットを猫可愛がりするかのようでもある。
普段なら、呆れ半分したいようにさせておく雛姫なのだけれども。
(今日は、怒ってるんだからな)
四海堂のしたことを考えれば、当然だ。
雛姫に何も言わず、騙し討ちにするようなやり方で四海堂は雛姫を築の元へとやったのだ。
(……ムカつく)
ふいと視線をそらして、目を合わせない。
「同じ野郎の身体なんか触りたくってナニが楽しいんだか」
声音が尖る。
それに対して四海堂は、おや、というように片眉を跳ね上げた。
そして、その切れ長の双眸をほそりと細めて。
「楽しいよ。
僕は君の身体を触るの。
……もっとも、同じ男、かどうかは疑問が残ると思うけど」
「……ッ!!」
カッと頭に血が上る。
わざとらしく揶揄するようなその口ぶりに、雛姫は反射的に腕を振り上げる。
殴ろうとしたのか、突き飛ばそうとしたのか、それは雛姫自身にもわからない。
が――……。
こみ上げる衝動のままに振り上げた腕は、そのままいとも簡単に抑え込まれて頭上に貼りつけられた。
「……ッ!」
四海堂の片手で、やすやすと雛姫の両手首を抑え込めてしまう事実に、体格差を見せつけられるようで悔しくなる。
腕を頭上で抑え込まれたせいで、自然と胸が浮いて体勢が苦しくなった。
そんな雛姫の眼前で、四海堂はいつも変わらぬにこやかな笑みにその双眸を
細めた。
「築氏ってどんな男だった? 僕より男前?
雛のことを『女』にしてくれそう?」
「……ッ!」
言葉が喉に詰まる。
いろいろ怒鳴りたいのに、叫びたいのに、言葉が音にならない。
全部全部喉でつかえてしまって、無様に喉がひくつくだけに終わってしまう。
言葉にならない激情が、熱に変わってこみあげる。
(情けない……っ)
とっくに整理がついたことだと、思っていたのに。
そう、思っていたいのに。
四海堂は、雛姫の癒えぬ傷口に、ようやく瘡蓋が出来たと思ったそこに柔らかに爪をたてて掻き毟る。
――『女』にする。
四海堂が口にした、そのフレーズこそがユーゲロイドの生態が特殊だと言われる所以だ。
山間での厳しい生活に耐え得るように、ユーゲロイド種の女性は、幼少時に
『男』へと擬態する。
正確には『男』というよりも、『人間の男』によく似た特徴を持つ「無性体」と言うべきだろうか。
そして年頃になり、恋の季節がやってくると、花が綻ぶかのよう艶やかに本来の性へと変性するのだ。
けれど――…、雛姫にはそれが出来なかった。
雛姫は、変性を迎えることのできなかった未発達のユーゲロイドなのだ。
(だから、男として生きていこうと決めたのに……っ)
四海堂は、こうして雛姫に体力差や体格差を見せつけ、「お前はどちらでもないのだ」と突きつける。
好きで中途半端でいるわけではない。
雛姫は女になるはずで、なりたくて、なれなくて、だからもう諦めたのだ。
無性体のまま、男として生きていこうと決めたのだ。
それなのに、こうして本物の男との違いを見せつけられると、悔しくて涙が
出そうになる。
「……苛めすぎたかな」
四海堂がそんな風呟いて、雛姫の腕をそっと解放した。
そのままその手が、くしゃりと雛姫の頭を撫でる。
散々雛姫の心を掻きむしるような言葉を突きつけてきた癖に、その手だけはどこまでも優しい。
「僕はね、雛。
君のことをすごく、気に入っているんだ。
大好きなんだよ?」
「…………」
「それなのに、君が君自身の体のことを、『なんか』なんて馬鹿にするのは、とても面白くない」
「…………」
四海堂は、わかるのだろう。
『同じ野郎の身体なんか』と、そう言った雛姫の言葉の裏に潜む、自虐の色を。
本当は誰よりも、雛姫が変性することの出来なかった自分自身を責め、嫌っていることを知っている。
「まあ、そんなわけだから。
ちょっとぐらい意地悪したくなっても仕方ないと思わない?」
ふ、と四海堂の口調が軽くなる。
張りつめていた空気が緩む。
「…………」
雛姫も、そっと全身に張りつめていた緊張を逃すように息を吐く。
「全ッ然思わない。
……人の弱点遠慮なくつつきまわしやがって」
「弱点を攻撃するのは当たり前だろう?」
「……お前、性格悪い」
「褒め言葉だと思っておくよ」
「まったく、カケラも、褒めてないからな!」
「あはははは」
笑って流された。
「で、僕と築くんどっちが男前?」
「築氏じゃないか?」
「酷い!」
大袈裟に嘆いてみせる四海堂に、雛姫はフンと鼻で笑ってみせる。
これぐらいの仕返しは許容範囲だろう。
(でもまあ、実際のところは個人の趣味、って感じだよな)
四海堂は、一見物腰柔らかな優男だ。
貴公子然とした外見に心惹かれる女性は少なくないだろう。
一方築はといえば、触れれば手が切れるんじゃないかというような硬質で危険な匂いのする男前だ。
どちらがより男前か、を比べるのは正直難しい。
タイプが違いすぎて、お互いが比較対象にならないのだ。
(まあ、そんなことを言ったら、どっちが自分のタイプか、なんて絡まれるに決まってるもんな)
それがわかっているので、あえて築に軍配をあげておくことにする雛姫である。
「あ~あ、雛ってばツレない」
ため息交じりにぼやきながらも、四海堂は雛姫へと手を伸ばす。
先ほどは軽々と雛姫の手首を戒めてみせた大きな手が、今は優しくその頭を撫でる。
(……子供扱い、っていうかペット扱いっていうか)
四海堂の触れたがりはどうかと思いつつも、そうして触れられるのはそんなに悪くはない。
包み込むような体温と、頭を撫でる優しい感触に雛姫はゆっくりと瞼を伏せる。
「で、雛は何を拗ねてたの?
珍しくケンケンしてたけど」
「……お前がそれを聞くか?」
「ぅン?」
「……俺。
何も言わないで利用するみたいなやり方は嫌いだ」
信用されてないみたいじゃないか、なんていうのはさらに小声で呟いておく。
きっと、もしも四海堂が最初から雛姫に理由と目的を告げていたならば、こんな気持ちにはならなかったのだろう。
雛姫はきっとある程度嫌がって、それでも四海堂に頼まれれば断れなくて、
折れたことだろう。
借金があるから断れない、というだけでなく。
四海堂が雛姫に頼むなら、きっと雛姫は最後まで跳ね除けることは出来ない。
「…………」
「……四海堂?」
妙に四海堂が静かなことに違和感を覚えて、雛姫はそっと目を開ける。
そして、
「……ひ」
想像以上の至近距離に四海堂の顔があって、思わず喉が鳴った。
顔の両脇につかれる四海堂の腕。
ゆっくりと覆いかぶさられて、二人の距離がさらに近くなる。
互いの吐息を肌で感じられるほどの距離で、四海堂が甘く囁いた。
「雛ってばちょー可愛い」
「…………」
呆れ果ててもはや言葉もなかった。
この国の経済を牛耳る、とまで言われる薬師協会のトップがこんな男でいいのだろうか。
こんな頭悪そうに「ちょー」とか言っちゃうような男で。
(部外者ながら、薬師協会の未来が心配になるなあ)
「……俺は、男だぞ」
「正確には無性体だろう?
男とは違うよ、人間の男性体に似てるってだけで」
「……それは、そうだけど」
「それなのに雛ってば、どんどん男らしくなっていっちゃうんだもんなあ」
「『俺』とか言い出されたときは、僕、一人娘がグレたような衝撃が……」
「俺は元々『俺』って使ってたんだってば。
ただ……、お前と出会ったころだけ、ちょっと変えてただけで」
ユーゲロイドの子供達は、幼生である間は皆一律で男を装って生きることを教えられる。
変性によって女になるとわかると、人買いや密猟者に狙われやすくなるからだ。
だから、雛姫も昔からずっと、自分のことをさす言葉は「俺」を使ってきていた。
(……でも、変性が近かったから)
年頃になり、自分も当たり前のように変性すると思っていた雛姫は――……、一人称を変えた。
いきなり変えてしまうのはなんだか恥ずかしかったから、まずは「自分」に。
変性が済んだら、ゆっくりと時間をかけて「私」にしていくつもりだった。
(結局、変性出来なかったから、全部無駄だったんだけどな)
雛姫は、変性出来なかった。
心の準備も何もかもが無駄になった。
だから、雛姫は一人称も「俺」に戻したのだ。
男として生きていくのにふさわしい一人称に。
「ね、雛」
「なに?」
「ときめかない?」
ユーゲロイドの変性のきっかけは、異性へのときめきである。
「……正直に言っていいか?」
「?」
「どうぞ?」
「動物的本能で喰われそうで怖い」
「色気がない」
ダメ出しするようにぼやいて、四海堂はあきらめたよう雛姫の鼻頭に一度キスを落とた。
そんな接触に嫌悪感を覚えないのは、なんだかんだ言いつつそれが子供相手にするような他意のないものだからだ。
(……少なくとも、自分にとっては)
四海堂が、雛姫に負担にならないように、と若干手加減してくれている……、ような気がしないでもない。
(その割には、痛いところ平気で突いてくるしなあ)
優しいのだか、そうじゃないのだか、判断に困るところだ。
「あ、そうだ」
四海堂が、何かを思い出したようにそんなことを言いながらふと雛姫の上から体を起こした。
「お使いを無事にやりとげてくれた雛に、ご褒美を用意したんだよね」
「ご褒美?
っていうかお前、俺が築有志郎の家に潜り込めたって知ってたな!?」
「そりゃあ、可愛い雛のことだからね。
僕は何でも知ってるよ?」
「さりげなく怖いこと言うなし!」
何でも、というのがそこはかとなく怖い。
「ご褒美っていうのはね、これ。よいしょ、っと」
四海堂が、こっそり持ち込んでいたらしいスーツケースをベッドの上へと持ち上げた。
それにはつい興味を惹かれて、雛姫も体を起こして覗きこむ。
「じゃじゃーん」
ぱかり、と開かれたスーツケースの中に納まっていたのは、何やら衣装のようだった。
白の立ち襟のシャツに濃い茶のベスト、そして同色のジャケットとスラックス。
グリーンのリボンタイに、ご丁寧なことに白手套までついている。
「………………ナニコレ」
「雛の仕事着」
「はァ?」
もはや何かのコスプレなんじゃなかろうか、というレベルの執事衣装だ。
「あれ? もしかしてメイド服の方が良かった?
雛ならそっちでも似合うと思うけど……」
「そうじゃなくて!
え? 俺、これ着て仕事すんの!?」
「うん。仕事着って大事だよ?
何事も形から入らないと。
ほら、うちのメイドさんたちもちゃんとメイド服着てるでしょ?」
「そ、それはそうだけど」
(絶対あの人は笑うぞ……!)
執事衣装に身を包んだ雛姫を見て、限りなくしらッとした顔をする築を想像するだけで胃が痛む。
「俺にこれを着ろと!?」
「とてもとても似合うと思います」
無駄にキリッとした顔で言い切られた。
「こんな可愛い格好で住み込みだなんて、築くんに雛が押し倒されたりしないかどうか僕はものすごく心配だよ」
「…………」
(今、なんか。
ものすごくコワいことを言わなかった?)
思わず、ぴたりと動きが止まる。
「…………誰が?」
「雛が」
「誰と?」
「築有志郎氏と」
「何をするって?」
「住み込み執事と旦那様のラブロマンス?」
「楽しそうだなオイ」
「雛の嫌がる顔が可愛くてつい」
どこまでも悪趣味な男である。
「雛はね、築くんちで住み込みで働くんだよ」
「そんな話聞いてない!」
「そりゃ僕も言ってなかったからね」
会話の片手間に、四海堂はぱたんとスーツケースを閉じ、逆の手を雛姫の腰裏に回してぐいと引き寄せる。
「わっ!?」
そのままナチュラルなエスコートで、雛姫は立たされてしまった。
「ところで雛姫、キッチンの食材が消えた、ってメイドから報告があったんだけど、心当たりは?」
「……必要経費」
ずるずる、と腰に手をかけエスコートされる風で四海堂に攫われならがの問いかけに、雛姫は開き直って答える。
昼間築宅で作ったスープの材料は、四海堂宅の冷蔵庫にあったものなのである。
人間が科学の発達によって不可能を可能にしていったように、古の種族、ユーゲロイドは魔導を操る。
といっても、魔導には個人の資質が密接に関係してくる。
それもあって、現在では科学に押され、魔導はすっかり衰退してしまっているのだが。
雛姫にしても、空間関係の魔導には滅法強いが、それ以外に関してはそれなりといった感じだ。
その得意分野の空間を弄る魔導の応用によって、雛姫は遠い築宅にいながら、四海堂宅のキッチンにあった食材をちょろまかしたのだ。
「後でメイドさんに謝っておくんだよ?」
「ン」
ぽん、と頭に乗った四海堂の手が、わしわしと雛姫の髪をかき撫でる。
その感触が心地よくてつい目を細めてしまいそうになるが……。
(って、そんな場合じゃなかった……!)
何か、いろんなことが勝手に進行している気がしてならない。
ずるずる、と四海堂にひきずられるまま、雛姫は会話の間にも、玄関先まで
連れ出されてしまっていた。
「ちょ、四海堂……!」
「はい、どうぞ」
笑顔で靴を差し出された。
例によって例のごとく、とてもとても良い笑顔である。
「それじゃあ無事を祈っているよ、僕の可愛い雛。
指示は後から送るから」
「……ッ!
お前お願いだから年に一回ぐらいは人の話をちゃんと聞け……!!」
と、言っても。
その貴重な年に一度のチャンスが、雛姫の望んだタイミングで起こるかどうかはわからないわけなのだが。
それでもまだ、一年に一度ぐらいまともに話を聞いて貰える、という確約があるだけでまだマシだと思ってしまう。
「四海堂……!」
必死になって抵抗する雛姫のことを、まるっきり無視して、四海堂は最後までにこやかなままだった。
にこやかに、屋敷の門扉に手をかけつつ、トン、と雛姫の肩を押した。
「ちょ……ッ!?」
そして雛姫がたたらを踏んで、後に何歩か後ずさったとたん。
重々しい音をたてて、四海堂宅の門扉はそっけないほど簡単に閉まってしまったのだった。
「待てコラ、四海堂……!!」
閑静なお屋敷街に、もの悲しい雛姫の怒声が響きわたった。
★☆★
(……どう、しよう)
雛姫は途方にくれていた。
「どうするよ、俺」
このあたりは治安の良いお屋敷街だ。
おかげで暗くなった今でも、何か犯罪に巻き込まれる心配はないのだが……。
(むしろ自分が不審人物としてしょっぴかれちゃいそうだよなあ)
上品なお屋敷街に不似合いな若い男。
しかも大荷物つき、だなんて確かに見ようによっては怪しい。
(あ、でもその方がいいのかも)
しょっぴかれた先で、四海堂雛姫を名乗るのだ。
そうすれば四海堂のところに連絡が行くだろうし、そうなればいくら四海堂でも無視はできないはずだ。
「…………」
……そのまま養子縁組とかされそうで怖くなった。
「ようやく僕の苗字を名乗ってくれる気になったんだね!」ぐらいは言われそうである。
「却下却下」
首を左右に振って、四海堂を身元引受人にする作戦を頭から追い払う。
目の前には、無常なまでにしっかりとしまった門。
とっくに四海堂の姿は見えなくなっている。
「……はあ」
雛姫は深いため息をついて、のろのろと歩き出した。
行くあてなどないが、いつまでも門の前に立ち尽くしているわけにはいかない。
スーツケースをカラコロと引っ張りつつ、とぼとぼと歩く。
(おうちに帰りたい)
しみじみと、そう思った。
(なんで自分は、こんなところにいるんだろうなあ)
仲間と別れ、名前を捨ててまでして。
変性期を迎えられなかった雛姫を、村の仲間たちは誰も責めたりはしなかった。
本当は――…、ユーゲロイドという種族を守るためにも、雛姫は変性しなくてはならなかったのに。
女として村の男と結ばれ、子を為し、次の世代へと命を繋がなければいけなかった。
それなのに、仲間たちは誰も雛姫を攻めなかった。
(……シオンですら)
シオン。
雛姫の幼馴染であり……、本当なら変性した雛姫の夫となるはずだった青年の名前だ。
幼い頃からずっと一緒にいて、大きくなったら、雛姫が変性したら、結婚しようと幼いながらに約束していた。
雛姫も、きっといつしかシオンを相手にドキドキと胸を高鳴らせ、恋をするときがやってくるのだと思っていたのだ。
――それなのに、雛姫は変性することができなかった。
(……こんなところまで来ちゃったのは、村に残りたくなかったから、なのかな)
こんなにも、おうちに帰りたい、と思っているのに。
その一方で、皆の優しさに息が詰まるような思いをしていたのも本当だ。
だから雛姫は、村を出た。
変性以外の方法で一族を守ることができる可能性にすがり、四海堂に取引を
申し出た。
その時に、もともとのユーゲロイドとしての名前は捨てた。
(変性できなかった自分には、過ぎた名前だ)
男として、『雛姫』として生きていくと決めたのだ。
そうやって自分で選びとってきた様々なことを後悔しているかと言われれば、雛姫は迷わずに首を横に振ることが出来る。
(後悔は、していない)
でも、ただ。
ほんの少しだけ。
もう失われた過去へとの郷愁にかられて、どうしようもなくなる瞬間があるのだ。
おうちに、帰りたくなる。
「……かえりたい」
小声で口にしてみると、その想いはより強くなった。
かえりたい。
かえれない。
雛姫のおうちへと続く道は、もう永遠に途絶えてしまっているのだから。
「……四海堂のばか。変態。サディスト。苛めっこ」
泣言の代わりに、四海堂への悪態をぼやく。
それから、大きく頭を振って。
「元気だせ俺……!」
ぱちん、と軽く両手で頬を叩いて気合いをいれた。
「やるしかないし、頑張るしかないんだから」
仲間のために。
家族のために。
そして何より、自分のために。
(『女』に変性するだけが、幸せになる方法じゃない)
自分に言い聞かせるように、心の中で呟く。
そう信じているから、雛姫はまた歩き出せる。
前に。
前へ。
とりあえずの敵、築宅へと向かって。