過去の夢
ふわ。
ふわり。
白いドレスが泳ぐ。
柔らかに、優雅に、質素ながら繊細なラインを描く美しいドレープが、ひらひらと舞う。
酷く幻想的で美しい光景なのに、胸を締め付けられて仕方がないのは、それが誰のものなのかを知っているからだ。
(あれは、姉さんのドレス)
雛姫の、年の離れた姉のドレスだ。
恋をして、変性を果たしたことを祝う宴の晩に姉が身に着けていたドレスだ。
優美な曲線を描く女性ならではのラインを、どこまでも美しく見せることだけに拘った、質素ながら可憐なドレスだった。
(すごく、綺麗だった)
美しいドレスを纏い、恋に頬を染めて笑う姉は、世界で一番綺麗な少女だと
雛姫は思った。
そして、いつかは自分もああなるのだと。
(姉さんみたいになれるって、そう思ってた)
「ええそうよ。次はあなたの番」
耳に蘇る、姉の声。
やわらかに、幸福に満ちた笑みを雛姫に向けて彼女はそう言った。
(大好きだった。ずっと、憧れてた)
村の中の誰よりも美しい自慢の姉。
年頃になり、恋をして変性を迎え。
そして、恋をした誰かと質素ながら幸せな家庭を築く。
姉こそが雛姫の人生の手本であり、姉のようになりたかった。
姉のように、生きたかった。
(あぁ)
『姉のように生きたかった』
それが過去形になってしまったことの意味を、雛姫は痛いほどに知っている。
これはもう何度となく見た悪夢だ。
何度も、何度も、何度も繰り返し、見た。
めら、り。
雛姫が憧れた純白のドレスが紅蓮に包まれ、黒煙に蝕まれるようにして捩れる。
焔の中、煤で汚れてもなお、雛姫の姉は綺麗だった。
煤けた普段着でしかなかったとしても、それでも彼女は美しかった。
「母さんをお願いね」
それが、姉の最期の言葉になった。
彼女は幼い雛姫にそう言い残して、焔の中を踊るように駆け抜けていった。
めら。
めらり。
純白のドレスが燃える。
それは、雛姫が見ることのなかった姉の最期を象徴する光景だ。
姉は、そして戻らぬ人となった。
誰よりも美しく、どんな人ごみの中にあっても一際目立ったであろう彼女を、雛姫は見つけられなかった。
逃げ遅れた村人たちは、皆そろって焼け落ちた村の中で真っ黒になってしまっていたから。
あんなに大好きだった姉のことすら、雛姫は見分けることが出来なかった。
何が起こったのかすらわからなかった、悪夢のような一夜。
後から、襲われたのだと知った。
雛姫の村は、密猟者たちに襲われたのだ。
彼らの狙いは、まだ変性を迎える前の若い子供たち。
そう、雛姫のような子供だった。
美しいだけの大人よりも、変性という一大イベントを控えた子供の方が高値で取引されるのだ。
雛姫の姉は、子供たちを守るために走った。
捕獲者たちの目の前を駆けぬけ、その美貌で引きつけ、変性前の子供のふりをしては惑わせた。
そうして姉は、命と引き換えにして雛姫を救った。
(姉さん。
あなただって、まだ子供だったのに)
ユーゲロイドはもともと、有事の際には子供を守ろうとする種族だ。
すでに数を減らしていることもあってか、大人たちは皆自分たちの種族を未来に繋げるために子供を大事にする。
(けれど、それはもう子供を産んだ大人のすることなんだよ、姉さん)
まだ結婚もせず、子供も産んでいなかった姉は、立場的にはまだ守られる側だったはずなのだ。
それなのに、彼女は幼い妹を……、雛姫を守るために命を賭した。
(それなのに……、ごめんなさい。
約束、守れなかった)
彼女の最期の言葉。
「母さんをお願いね」と雛姫は姉に母を託されたというのに。
その願いすら、叶えることができなかった。
雛姫の母親は、姉の喪失に心を病んでしまった。
雛姫が生まれてすぐに夫である雛姫の父を事故で亡くし、彼女の心はこれ以上家族を失うことに耐えられなかったのだろう。
彼女は、雛姫を見てくれなくなった。
いつだって彼女は、いなくなった姉を探し続けた。
姉の名だけを、呼び続けた。
そしていつしか、母親は雛姫のことを姉の名で呼ぶようになった。
(……名前を呼んで貰えなくなったのは、確かに哀しかったけれど。
母さんが幸せなら、自分はそれで良かったんだよ)
母親の中で、雛姫の存在は消えた。
それでも、なんとか周囲に助けられながら、母子二人で生きていけたのだ。
――あの夜までは。
やけに月が大きく見える、綺麗な月夜の晩。
雛姫がそろそろ変性を迎えてもおかしくない年齢になった頃。
母親は、雛姫を縊り殺そうとした。
細く頼りない優しい指先が、ギリギリと喉に絡みついて締め上げた。
ぽたぽた、と雛姫の頬に落ちたのは、母親の涙だった。
「大人になんてならないで、いなくならないで、お願いよ。
子を守ろうだなんて思わないで、女になってしまわないで」
そう泣きながら、母親は雛姫のこれ以上の成長を――、いや、雛姫の姉が大人になることを止めようとしていた。
もう二度と彼女が、大人としての義務感に駆られ、子供を守るために命を賭してしまったりなどしないように。
心を病んでしまった母親は、成長を止めるなんて方法で姉を守ろうとしたのだ。
(かあさん)
雛姫を産み、育て、そして守るために殺そうとしたひと。
姉の代わりに、死んだのが自分だったのなら、母親は心を病まずに済んだのだろうか。
(かあさん)
雛姫が死んでも、同じように泣いてくれただろうか。
(かあさん)
――雛姫は、死ななかった。
ずっと一緒にいてくれた幼馴染の青年が、様子がおかしいことに気付いて駆けつけてくれたのだ。
そして、次に雛姫が気づいたときには、もう全てが終わっていた。
母親は、皆が雛姫を助けようとしている騒動の最中、ふらりといなくなって
しまったのだそうだ。
翌日、母親は父親が事故で死んだのと同じ崖の下から遺体で見つかったと、
雛姫は聞かされた。
雛姫が目を覚ました時には、母親の葬儀は終わっていた。
母親は、夫と姉を追って逝ってしまったのだ。
雛姫は――……、やっぱり、姉のようにはなれなかった。
★☆★
「――……」
つぅ、と熱い雫がこめかみへと滑る感覚に引きずられるようにして、雛姫はそっと目を開けた。
(嫌な夢見たな。
……って、言えたらよかったんだけど)
とっておきの悪夢でありながら、同時に懐かしく愛しい家族の夢でもある。
忘れたい。
忘れたくない。
相反する二つの気持ちに、雛姫はただただため息をつくしかない。
(……って、ここどこだ?)
ぼんやりと瞬いた先、視界に映る天井に見覚えがない。
(どれくらい寝てたんだろ……。
すっかり暗くなってる)
見渡した薄暗い室内には、すでに夜の気配が色濃く漂っている。
(自分は確か……、庭で倒れちゃったと思ったんだけど……)
築が帰ってくるのを見て。
立ち上がった瞬間に、くらりと来たのだ。
状況を確認すべく、ベッドの上に身を起こす。
その拍子に、ぼとりと何かが落ちた。
「タオル……?」
どうやら、眠っている雛姫の額にはタオルが乗せられていたらしい。
まだそんなに熱を持たない、冷えたタオル。
冷たい水にくぐらせて、固く絞ってある。
「…………」
すん、と鼻を鳴らしてみると、甘さと苦みの混じった、紅茶の匂いが残り香のように漂った。
(……まさか)
一つ、思いついてしまったことを脳内で否定しながら、雛姫はもう一度周囲を見渡す。
(見覚えは、ナシ)
雛姫は、この家にきて最初に大掃除をした。
この家のことならば、入ることを許されている範囲に限れば築と同程度には知っているつもりだ。
そんな雛姫の知らない部屋。
それはすなわち。
(ここってまさか――……。
だ、旦那様の寝室、だったり……?)
そうとしか考えられない。
「え。
ええええ。
ええええー?」
思わずそんな声が出た。
ここが築の寝室であるのならば、こうして雛姫の看病をしてくれたのも築有志郎その人ということになってしまう。
(と、とんでもないことに……)
一瞬、いっそ目覚めなければよかった、なんて考えてしまった。
(いやだってそれって……。
旦那様にここまで運ばせちゃって、ついでに世話までさせちゃったってことだし……)
何を言われるかと思えば、今すぐ全力で逃げ出したくなってくる。
「…………」
思うだけでなく、つい視線が逃げ場を求めてドアを見てしまった。
(いや、ドアは駄目だ。
書斎に旦那様がいる可能性が高いし……。
そうなると窓から逃げるしか……)
そんなとりとめのないことを、わりと本気で思案する雛姫である。
……と。
まるで雛姫の思考を読みでもしたように、がちゃりと音がして扉が開いた。
「…………」
「…………」
築は、ベッドの上に身を起こしている雛姫に、一瞬驚いたように足を止める。
「…………」
(旦那様……?)
築は何故か、一瞬「しまった」とでも言いたげな顔をした。
が、すぐにそんな表情を取り繕って、すたすたとベッドサイドまで歩み寄ってくる。
その手には、洗面器。
(もしかして……、
水を取り替えてきてくれた……?)
それはもしかしなくとも、雛姫が倒れてから、築がずっと傍で看病していてくれたということなのだろう。
そして、出来ればそのことを雛姫自身に知られたくはなかったのだ。
どことなく気まずげな仏頂面で、築はベッドサイドにあった椅子を引き寄せて腰掛ける。
「――…気分はどうだ」
ぶっきらぼうながら、優しい声音だった。
無愛想なのに、どこかそのそっけない声音には照れ隠しめいた色が潜んでいる。
築が現れるまでは、築に何を言われるかと怯えていた雛姫だけに、彼の見せる予想外の優しさに、うまく答えることが出来ずにぼんやりと瞬いてしまう。
(怒ってない……、のかな?)
ちょろりと視線を持ち上げ、築の様子を伺ってみる。
「…………」
視線を伏せがちにしている築は、あまり怒っているようには見えない。
そのことにほっと息を吐き出して、一拍置いてから、雛姫は口を開いた。
「もう、大丈夫です。
ありがとうございました」
倒れるまでの、あのぐらぐらと脳みそが煮詰まるような鈍痛はもうどこかに
行ってしまっている。
「迷惑をかけてしまって、すいませんですいた」
「…………」
(……う)
怒っている、というわけではないようなのだが、築のリアクションは薄い。
雛姫の謝罪に対しても、無言のままだ。
「…………」
「…………」
(な、何か言ってくれないかな)
沈黙が居たたまれない。
ちょろ、と伺った築の眉間には、深々とした皺がくっきりと寄せられている。
(何か難しいことでも考えてるのかな)
それならば、邪魔せずにそっと抜け出してしまった方がお互いの心の平穏のためにもいいような気がしてきた。
「えっと、俺、部屋に戻って休みますね。
明日はちゃんと仕事しますから……って、え?」
もそりと布団から抜け出そうと身じろいだ雛姫の肩を、築が指先だけでトンと押しやる。
未だ力の入らぬ体は、たったそれだけの圧に負けてぺふん、と再びベッドに沈んだ。
その意味は、まだ寝てろ、というあたりだろうか。
(ええええええ。無言なのが怖い……っ。怖いです旦那様……!)
雛姫は怯えつつも、築の無言の指示には逆らいきれず、それ以上ベッドから起き上がろうとはしないまま、おとなしくする。
そっと、雛姫の肩を押した築の掌が、今度は額の上に乗った。
「……っ」
素肌の接触に、びくりと体が跳ねる。
(び、びっくりした)
こういう接触を嫌う人だとばかり思っていたのだ。
先ほどから築の予想外の態度や行動に、雛姫は驚かされてばかりだ。
「……熱はだいぶ下がったな」
「俺……、熱もあったんですか?」
「結構な」
会話の合間に、築がベッドの上に落ちていたタオルを拾いあげると、そこに用意されていた洗面器の中へと潜らせる。
きゅ、とキツく絞られた冷たいタオルが、再び雛姫の額の上に乗せられた。
(……あ、きもちい)
特に熱があるなんて意識していなかったはずなのに、こうして冷たいタオルを乗せられると酷く気持ちがいい。
状況的には緊張しているものの、そのひんやりとした感触の心地よさに口元が緩んでしまう。
そんな雛姫の様子に何か思うところがあったのか、築の眉間にますます深く、ぎゅぅと皺が寄り。
「…………」
雛姫には聞こえない程度に抑えた声音で、何やら低く毒づいたようだった。
(ひい)
(や、やっぱり怒ってる?
怒ってるの?)
「この――…、阿呆が」
罵られてしまった。
「あのえっとその旦那様……?」
「煩い、黙ってろ」
「…………」
(怒っているのかいないのか……。
これはどっちなんだ……?)
状況はわからないが、とりあえず命令厳守で黙っておく雛姫である。
寝かしつけてくれたり、額に冷えたタオルを乗せてくれたりと、していることは優しいのだが……。
なにぶん顔が怖い。
そして発言が怖い。
(お邪魔なら部屋に戻ります……、って言いたいところなんだけど)
黙れと言われてしまっているので、その代わりのよう、そっと築の様子を
伺った。
(旦那様がこんな近くにいるのって、初めてかもしれないなあ)
いつもは、書斎のデスク越しに顔を合わせるぐらいだ。
「…………」
(迫力あるし、凄むし、怖いけど……。
基本的に顔は悪くないんだよな)
身にまとう空気こそ凶悪なれど、元が悪いわけでは決してないのだ。
むしろ、綺麗な男である。
雛姫の視線に気づいているのかいないのか、築はしばらく悩むように眉間に皺を寄せたまま黙りこんでいたが……。
やがて築自身の中で、何やら決着がついたのか、深々とした溜息を一つ吐き出した。
「……はあ」
そして。
伸びてきた腕が、何故か雛姫の頭に乗った。
(な? ななな? 何事?)
よくわからないまま、ぐしゃぐしゃと頭を撫でたくられた。
「お前、北の人間か」
「……へ?」
「髪、染めているだろう。
本来はもっと色素の薄い色をしてるんじゃないのか」
「え」
図星だ。
雛姫の本来の髪色は、淡い銀灰色だ。
それを、花夜国の人間に多い濃い色に染めて今の色になっているのだ。
「どうしてわかったんですか?」
「お前は目の色が明るいからな。
髪だけ色素が濃いってことも……、まあないと言わないが珍しいだろう」
「……確かに」
「北の人間は色素が薄い分、俺らよりも日光への耐性もないからな。
それに……」
そこで一度、築は言葉を切った。
言うべきか言わないでおくべきかを迷うよう、一度深い息を吐き出して。
結局は言うことに決めたのか、ひそやかに呟く。
「……北はまだ、荒れてるんだろう」
(……ああ。
何か……、言ったんだ。
――夢の中で泣いた気も、する)
築はきっと、雛姫が悪夢にうなされる様を見てしまったのだろう。
花夜国の北にある大国では、未だ戦乱が止まぬという。
色素が薄く、陽に弱い、何かわけありの雛姫を北の人間だと考えるのは、もっともな推理だ。
実際、変性という特殊な生態を除けば、北の人間とユーゲロイドはとてもよく似た特徴を持っている。
「金に困っているのは、仕送りのせいか」
築はどうやら、雛姫のことを戦争孤児か何かだと見当をつけているようだった。
「…………」
(旦那様に、本当のことを言うわけにはいかない)
それはわかっている。
雛姫がユーゲロイドであるということを、告げるわけにはいかない。
(でも……、嘘はつきたくないな。
隠さなくていいことは、隠したくない)
「俺には、姉がいたんです。
俺の暮らしてた村では、重要な役割を持つ姉だった」
とつとつと、雛姫は語る。
「だけど、姉は死にました。
村が襲われたときに、俺を守って死んだんです」
「…………」
築は、口を挟まずに静かに聞く。
けれど、しっかりと雛姫を見つめる深い色を浮かべた双眸が、話を聞いてくれているのだと告げていた。
「俺は姉の代わりをしようと思ったけど……、俺は女じゃないから、姉の代わりにはなれなかった」
(なれたはずなのに。
ならなければ、いけなかったのに。
自分は――…、変性できなかった)
「だから、姉とは違う方法で村を助けようと思ったんです」
「……それで、出稼ぎか」
「……はい」
「家族は」
(……母さんのことも、何か言っちゃったんだろうな)
「いません。
姉が死んだ後に、母親は姉の後を追ってしまったんです。
俺とは比べものにならないぐらい、良くできた姉でしたから。
母親は俺も一緒に連れて逝こうとはしたみたいなんですけど……。
……俺だけ、生き残っちゃいました」
へにゃり、と雛姫は眉尻を下げて笑う。
「……そうか」
相槌は短かった。
同情するでもなく、ただあるがままを受け入れるというような、短い声だった。
「同じだな」
「え……?」
「俺も家族はいない。
ガキの頃にまとめて事故で死んだ」
「……っ!」
そっけなく、まるで何でもないことを言うかのような口調で築は言う。
「その日は早く帰って来いと言われていたんだがな。
遊び呆けて、俺は帰らなかった。
俺を待ちきれず、出かけた先で事故にあって――…、そのまま誰も帰ってこなかった」
「――…」
(胸が、痛い)
いつも通りの家。
家族さえ帰ってきたならば、何も変わらず「家」であったであろう場所で、築は帰らぬ家族を待っていたのだろう。
彼はいつ気づいたのだろう。
いくら待っても、家族はもう二度と帰ってくることがないということに、
彼はいつ気づいてしまったのだろう。
「この家は――、母親の家だ。
母親がずっと、子供みたいにこんな家に住みたい、って言い続けてた家だ」
(……ああ、だから)
「お前も、俺には似合わない家だと思ってただろう」
「…………」
「借り物の、家だ」
「……っ」
呼気が震える。
かつて母親が住んでみたいと夢見た、可愛らしい家。
築は大人になり、富を手に入れて、その母親の夢を叶えた。
(昔、お母さんが住んでみたいと言ったから、あなたはこの家を買ったんですか?)
築有志郎という男には不似合いな、可愛らしい小さなおうち。
拘って手に入れたのだろう、と思わせる作りの家なのに、無関心とばかりに
放置されている家の中。
唯一手を入れられているのは、彼が自らの部屋と定めた書斎と寝室だけで。
それ以外の部屋は、いつか彼の母親が夢見た状態で、放っておかれていた。
(それとも――……、あなたはいなくなった家族が戻ってくることを、ちらっとでも夢見てこの家を……?)
帰るはずのない家族のために、いつかその家族が住んでみたいと口にした夢の家を手に入れたのだろうか。
「あなたが……、旦那様が家に帰って来ないのは、俺のせいですか……?」
(自分が……、家に手を入れてしまったから?)
変わり行く家を、見たくないと思ったから彼は家に戻らなくなってしまったのだろうか。
口にしてみれば、それはとても正当な理由であるような気がした。
かつて母親が憧れたその家は、築にとっては形見のようなものでもあるはずだ。
雛姫という執事に、その家の管理を任せると決めたのも築だが……。
実際に起こった屋敷の変化を、認めることが出来なかったのかもしれない。
「俺は――……、邪魔ですか?」
ぽつり、とそんな疑問が口をついて出る。
(どうして、かな)
雛姫はもともと好きでこの家にやってきたわけではないし、自ら志願して築有志郎という男の執事になったわけでもない。
それなのに、不思議と。
(この人に、厭われたくない)
そんな風に、思った。
きっと、互いの傷が共鳴しているから、なのだろう。
雛姫と築は、どちらも幼い頃に家族を失った。
雛姫は失われたそれを想い、今でもそれに焦がれながらも、代わりを得る術すら持たない。
築は、失ったものを愛おしむが故に、代わりを得ようとすら思わない。
(もしも、邪魔だってはっきり言われたら……。
……どうしたら、いいんだろう)
築の嫌がることをしたくない、とは思う。
けれどそれとは別に、雛姫は四海堂の命令に逆らうことも出来ないのだ。
雛姫は手をぎゅ、と握りしめて築の返事を待つ。
築は言葉を飾るようなことはしない男だ。
邪魔ならば邪魔だと、はっきりと言うだろう。
「邪魔だな」
「……っ!」
はっきりと言われた言葉に、肩が震える。
「主人の目の前で卒倒する執事なんぞ、屑だな。阿呆だな。まったくもって
救いようがない」
これ以上ない、というほどにはっきりきっぱりと屑だの阿呆だの救いようがない、など、ボロクソに言われてしまった。
だけれども。
「旦那様……?」
伸ばされた腕が、あんまりにも優しく雛姫の頭を撫でるもので。
すっかり嘆くタイミングをなくしてしまった。
素性を隠すために、色を変え、今は黒く染まる雛姫の髪を、築の手指が柔らかに梳きとかす。
(言ってることは酷いけど……、頭を撫でてくれる手は、すごく優しい。
……どっちが、本当なんだろ?)
ちょろ、と視線を持ち上げてみる。
雛姫の頭を撫でる手の向こう、っと窺った築は、雛姫が拍子抜けしてしまうほどに穏やかだった。
普段は「へ」の字か、嫌味っぽい笑みに吊り上っている唇が、今は優しげな笑みを浮かべている。
が、築は雛姫が自分を見ていることに気づくと、すぐにニィっと口角を吊り上げていつものように意地悪く笑った。
「なので――…、まァ、ペットだと思えばなんとか」
「ちょ」
執事からペットとは、とんでもない降格である。
「それはちょっとさすがに……っ」
「寝てろと言ってる」
「だっ」
苦情を言いかけてがばりと体を起こしかけた雛姫だが……。
頭を撫でてくれていたはずの大きな手に、半ばアイアンクロー気味に頭を鷲掴まれてばふんと枕に沈められた。
「お前みたいな阿呆はペットぐらいで丁度いい。
お前、なんで倒れたかわかってンのか」
「えーと……、日射病、ですか?」
「それもあるが、一番の原因は貧血だ、貧血」
「……あー」
思わず納得の声をあげてしまった。
何せいくら色素が薄く、日光に強くないとはいっても、数時間の草むしり程度で倒れるほどではなかったはずなのだ。
(しばらく節制生活を続けてたからなあ)
貧乏暮らしの間に、すっかり血が薄くなってしまっていたのだろう。
(って、そういえば……)
「あの、旦那様。
俺が抜いてた雑草ってどうなりました?」
「捨てた」
「うああああああ」
いともあっさりと言い切られて、すでにベッドの住人ながら、雛姫はしおしおと崩折れてしまいたくなった。
(あれだけあれば、しばらくは食い繋げたのに……っ!)
いろいろと調理法を考えながら草抜きをしていた分、それが全てパーになったと思うとしょんぼりしてしまう。
「…………」
築はそんな雛姫の様子を気持ち悪そうに見ていたわけだが……。
「おい、まさか」
途中で何かに気づいたようだった。
日ごろからただでさえよろしくない人相が、三割り増しぐらいでさらなる凶相へとレベルアップしている。
(子供が見たら絶対泣く。
自分、子供じゃないけど目があったら仕留められそう)
「おい」
「はい」
低く、呪詛めいた恫喝には、思わず素直に返事をしてしまった。
「お前――…アレを喰う気だったのか。
っていうか喰ってたのか」
「……!!」
(これはもしや、
一番恐れてた横領容疑……!?)
「庭の雑草なら食べても怒られないんじゃないかなとか思ったのは今日が初めてでこれまではちゃんと超節約してました! 業務上横領的なことは一切してないです! ちゃんと旦那様の食費等全部記録してあって収支あいますから……!!」
雛姫、必死。
庭の草も、一応築の所有物である。
それを勝手に食べようとしていたのだから、正確にはそれもまた横領になってしまう。
だが未遂だ。
(庭の草だし未遂だし見逃してください……!!)
一方築は、雛姫の言葉を聞くにつれ、だんだん表情が胡乱になっていく。
(ひ、ひい。
悪鬼のよーな顔をしてらっしゃる!)
そして最終的に。
「もうお前しねばいいのに」
「!!」
なんだかとんでもないことを言われた。
が、暴言を吐いた築の方がよっぽど悲壮な空気を漂わせている。
(なんだか自分の方が、悪いことをしちゃったような気が……)
「えとその……、旦那様?」
そっと呼びかけてみる。
「…………」
ゆらり、と築の顔が持ち上がった。
幽鬼じみている。
(こわい)
「いいか。飯を食え。
今度妙な遠慮をしてみろ、口の中に漏斗突っ込んで食材直接胃にぶち込むぞ」
(それっていわゆるフォアグラじゃ)
「普通住み込みの使用人に渡す必要経費には、そいつの生活費も含まれてる
もんじゃないのか」
「だって俺、月に50万も貰っておいて、生活費まで出してもらうなんて貰いすぎだと思って」
「それを判断するのは俺の仕事だ」
「……はい」
(せめて、給料の前借が出来るかどうか、はもうちょっと早く相談すべきだったのかも)
そうしたら、築だって雛姫がどういう状態にあるのかをもっと早く把握することが出来たはずだ。
こんな風に、目の前で倒れて看病されてしまう、なんてことにはならなかったはずなのだ。
「……まあ、家にいなかったのは俺だしな」
「え?」
「……お前が相談しようにも、俺は家を空けてることの方が多かった」
「……あ、あの」
(勇気を振り絞るのなら、今だ。
今なら……、言える)
「……なんだ」
「俺もごはん、ちゃんと食べますから。
旦那様も――…、一緒に食べてくれますか?」
(別に旦那様が頷いてくれなくたって、それでいい。
自分が一緒にご飯を食べたい、と思ってることが、伝わったならそれだけで)
「――……」
築は、雛姫の問いに面食らったようだった。
黙ったまま、数度の瞬きを挟んで。
そして、諦めたように築は深々と息を吐き出した。
「……わかった。
帰るときには連絡する」
「……!
ありがとうございます!」
それは決して、一緒に食事をとるという確約ではなかったけれど。
気まぐれで、必要最低限以外の予定で己を縛ることすら厭う築にしては、
最大の譲歩だ。
(これで、少しは自分の作った食事を旦那様に食べてもらえるようになるかな)
そう思うと、どうしたって表情が緩んでしまう。
「……そんなに喜ぶな、阿呆」
今まで雛姫をスルーし続けてきたことに、ほんの少しの良心の呵責を覚えたのか、築の視線がうろりとさ迷う。
ぺち、と軽く額に乗ったタオルの上から築に軽く小突かれるものの、そんな仕草にすら嬉しくなってしまう。
「えへへ。……嬉しいです」
「…………」
小突かれてもにこにこ顔の雛姫に、築はやっぱり諦めたようにため息を深く
吐き出して。
「……寝ろ」
わしゃわしゃと頭を撫でて、
そのまま寝かしつけられてしまった。




