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11~12


          11


 さっきから携帯電話がずっと鳴りっぱなしだった。それがとてもうるさくて、気持ちが悪かった。どうして私の邪魔をするのだろう。他人の介入は邪魔で仕方がなかった。だけど、自分が一番求めているものが、それそのものであるということにも気づいていた。

 手に入れたはずだったものはすぐに崩れていく。自信に満ちたのは十のうち五まで。五を過ぎれば後はただ黒い道が続くだけだった。だから、いかに五までを楽しむか、十までいけるという夢をいつまで見続けられるか。それを頭の中でいつも考えていた。

 いい気になっていた。それがその証拠で、それはまさに一から五までの道程だったのだった。また、他人を遮断したくなる。

 携帯電話はずっと光っていた。何がそうさせているのか実に不思議である。誰の意思でこの物体は光を発しているのだろう。面倒だとは思わないのだろうか。自分だったら面倒だろうな、そんな風に考える。

 緑というのは、本名ではないのではないか。時々考える。本当の名前と言うのは一体何なのだろう。緑緑緑。誰かが私をそう呼ぶ。それだけのもの。緑は緑。それはそれでいい。では他人は何だ。

 携帯電話を手に持つ。開いてみるとちょうど画面は着信を示していた。

 ――佐々木明良

 誰? そう一瞬思ったが、やんわりと思いだす。思い出すが、自分が彼に対して抱いた印象はすべて嘘だったかのような気がしてくる。だからこれは見ず知らずの他人なのだ。

「もしもし」

 本当に電話に出ているのかが自分でもはっきりしていない声で言った。

「もしもし、緑ちゃん?」

 聞こえてきた声が、妙に安心感を抱かせた。私は、緑はこの声を知っている。いつも舞台で聞く、あの声だった。

「ああ、あなたね」

 相手は何だか急いでいるような、焦っているような声を出す。

「緑ちゃん、今何してるの?」

「今? 今あなたと話してるよ」

 何でそんな当たり前のことを聞くのだろうと疑問に思った。他でもないあなただけは分かるはずなのに。

「南谷さんに聞いたんだ。連絡が取れないって。ねぇ、今どこにいる? 会いたいんだけど大丈夫かな」

 佐々木明良。

「いいよ」

「どこにいる?」

「ここ」


「頭がおかしくなったふりをしているのです」

 緑は佐々木に言った。場所は、佐々木明良の家らしい。佐々木の車に乗って緑はここまでやってきたのだった。

「ふり?」

 佐々木が聞く。とても優しい顔をしていた。緑はその顔を見てとても安心して、気持ちが少しだけ楽になる。

「うん。それが楽だから」

 カーペットの敷かれた床に腰を下ろし、カーペットとフローリングの間に手を出し入れしながら緑は答えた。そんな緑を佐々木は責めることなくずっと見ていてくれている。

「あなたが他人であることが怖い。そして他人が嫌い」

 緑は思うがまま口に出す。誰かに聞いてもらいたいのだろう。適当に言っているわけでは決してなかった。

「今そこに、優しそうに座っているけれど、頭では、私の理解できないことをたくさん考えていて……」

「緑ちゃん」

「え?」

「緑ちゃん、いいよ。この間の君は普通だった」

「あれが普通なの?」

「普通というか、おかしくはなかったという意味」

 佐々木は、まだ優しい。

「私ね、佐々木さん……」

「俺、本名桜田司って言うんだ。そう呼んでくれない?」

「つかさ?」

「そう」

「司……」

 そこで緑は、みんなのいえであったことを一部始終司に話した。どうしてこの人にこんな話をしているのかという疑問を持つのは、この先十年後くらいではないだろうか。何だかそう思った。

 みどりのいえに初めていったときの話や、宮城の話。それらはすべて夢の中で体験したようなことだった。だから緑は、このことは夢なのかもしれないということを何度も口走っていた。しかし、この、今話している瞬間だけは現実なのだと思わせる力が司の声にはあった。宙に浮いていた緑は、少しずつではあるが地上に近いところへ向かっているような気がした。

「それはいつのこと?」

「え?」

 そう言えば、もうだいぶ昔のことなのかもしれない。夢なのだから分からないのも当然だった。

「南谷さんは、一週間君と連絡が取れないって言っていたからきっと一週間前かな」

「南谷さんっていうのは?」

 女優の南谷祥子のことか。

「友達だって言ってたよ」

 司が言っていることを頭の中で繰り返す。

「美喜さん……。美喜さんのこと……」

 抵抗があった。思い出したくない。

「友達だって」

 いつの間にか、司は緑の手を握っていた。気づき緑は手をはなそうとするが、自分の手に力が入らなかった。

「そう……」

「知ってるでしょ?」

「うん。知ってる。美喜さんは大人だから、嘘はつかないの?」

 司はその問に、笑って答える。

「さぁ、どうだろうね。分からない。それを決めるのは緑ちゃんかもしれないね」

 私が?

「司は、嘘をつくの?」

 言葉にできるということがとても愛おしいのである。

 そう言うと司は笑って、そして手を放して、言った。

「つくよ。嘘はつく。でも、緑ちゃんは俺を信じても大丈夫だよ」

 その言葉に、救われた思いになる。


 誰でもよかったのかもしれない。それでも緑は司に対して気持ちが傾いていった。安心して接することができた。

 誠だったら、どうだったろう。誠は他人なのだろうか。

 結局よく分からない。

 よく分からないまま、夜だけは何度も明けた。


          12


 みどりのいえは本当にある。そんなことははっきりと分かっていた。しかし緑はもう一度あそこに行く気にはなれず、ただ勉強をして一日を過ごしていた。その間一日に一度は京平から電話がかかってきたが、一度も出たことはない。しかしだからと言って電話番号を変える気まではなかった。またあそこに行きたい気持ちがないのかどうか、はっきりとは分からないが、宮城の顔を思い出すとどうしても不安になって家から出たくはなかった。

 夏休みもあと数日で終わりという頃、緑はまた司と会っていた。司は最近撮影が終わったばかりなんだと言って、緑に会ってくれていたが、何となく無理をしているだろうことは緑にも分かっていた。

「はじめまして」

 今日は司の家に先客がいた。事前に行くことを知らせてあったので、偶然ではなかった。そこには変な男がいた。

「どうも、青木です」

 決して愛想よくない返事をする。

 男は山崎幸祐と名乗り、司の高校からの友人だと言った。背はそう高くなく顔も地味で、特に特徴もない。司と並ぶと何だか迫力がなくて貧相だった。

「俺の友達を紹介しようと思って……」

 司はそう言いながら緑にソファーをすすめる。机にはもうお茶が用意されていた。何度か座ったことのあるソファーだったかが、向かいに座っているのが司だけではないことが一ついつもとの違いだった。

「こいつ、刑事なんだ」

 司が山崎を指して言った。このとき緑は一体どんな顔をしただろう。きっと、無反応であるように見えただろう。しかし、心の中はあわただしく焦り始めた。

「本当に?」

 緑は司に向けて聞く。山崎という男は本当に地味で、力も弱そうなのだ。警察にこんなに頼りなさそうな男がいていいのだろうか。緑のそう言った思いを察したのかもしれない、山崎は「まいったなぁ」と言って笑う。

「見えないよね。よく言われる」

 そう言った山崎はやっぱり頼りなさそうだった。糸目だった。

「司、もしかして話したの?」緑は咄嗟に言った。もちろん、宮城のことである。宮城の話を司にしたとき、司が第三者にその話をするなど考えもしなかったのだ。緑は信じられないといった顔で司を見ていただろう。

 しかし司は首を横に振った。

「話してないよ。俺はただ、友達に君を紹介しようと思っただけだ」

 その言葉の内容は明らかに嘘なのに、緑は何故か信じようとしていた。黙ってソファーに座り続ける。視線はテーブルに落とした。

「でも君が話したいと思うなら、話せばいいと思う」司はそう言った。

「え? 嫌、でも……やだ……そんな風に言わないで」

 緑の手は膝の上でかたく握りしめられていた。そしてゆっくりと視線を上げ、山崎を見る。山崎は緑を見ていた。その顔は特に険しい顔をしているわけでもない、気の抜けた顔だった。

「本当に刑事なの?」 

 緑は司に聞く。

「ああ、そうだよ」

 それには司ではなく山崎が答える。

「今日は私服だし、手帳も持ってないけどね」

 緑は迷った。司が信頼を置いているらしい人物にその話をすることに抵抗はなかった。だからこそ、こうして決められないでいた。話せばみどりのいえの人たちも何らかの罪になるかもしれない。緑だってそうだ。でも、司は知っている。それに、刑事の前で嘘をつく自信がない。でも守りたい。あの人たちのことは絶対に守りたかった。

 しかし、話したいという気持ちもあった。それは、このままではいけないという気持ちともう一つ、もう一つは同じくみどりのいえの人たちのために、というものだった。犯罪は決して許されることではない。緑はそう思っているつもりだった。緑が宮城のことを警察に言わなかったのは、宮城が犯人ではないと思ったからだ。今でもそう思っている。しかし宮城は違うと言う。もし違ったら……。もし違ったら、それは警察に言うべきことなのだった。

「何か話すことがあるの?」

 司とのやりとりを聞いて山崎が緑に聞く。そうなるのは当然だった。

 緑は迷った。しかし、本当のことは明らかにされるべきだという気持ちはいつも持っている。だからあの時も宮城相手にあんなことを言ったのだ。

「山崎さん、私……」緑は決意をして口を開く。

「うん」

「私、あの赤羽の通り魔事件の犯人に会ったんです」

 緑がそう言うと、山崎は「え?」と言い、驚いた顔をした。

「何を言い出すかと思ったら、え? 本当に?」

 そう言って山崎は固まった。そう、本当に固まったのだ。静止している。その時間、多分数秒だろう。しかしそれがとても印象的だった。あとから分かったのだが、山崎には何かを考える時に静止するという性質があるらしい。緑はこのとき少し驚いたが、話を続けた。

「正確には、犯人だと名乗っている人に会ったんです。その人は、宮城功輔と名乗りました」

「宮城功輔……」

 山崎は固まったまま口を開く。何を考えているのか、見ているだけでは全然分からなかった。

「殺された人は、木村和也という人ですよね。宮城さんは、その木村さんに殺された伊藤千草さんの友人だそうです。それで、千草さんの敵を取るために木村さんを殺したのです」

 緑はそこまで一気に話す。山崎を観ると、緑をまっすぐと見ていた。その目に少し圧倒されたが、話を続ける。

「木村さんの仕事帰りに襲ったらしいです。はじめから殺すつもりで。あの、警察も知ってるんですよね、宮城さんのことは」

「例えばどういうことを?」

山崎は逆に問い返してくる。警察の人間が自分から捜査の内容を言うはずがない。それは分かっている。

 緑は静かに息をのんだ。自分が考えていうることを言おうと思ったのだ。

「宮城さんが犯人を装ってわざと目撃されたことや、誰かをかばっているということをです」

 緑は、かつてないほどに緊張していた。鼓動の音が会話をかき消しそうだった。

 山崎はそこで、驚いた顔をして緑の方へ身を乗り出した。

「え、どういうこと?」

 そうやってまた、聞き返してくる。

「私が、聞いてるんです」

 緑はしかし、それには答えず山崎にはっきりと言った。

「宮城さんは自分が犯人だと言いました。でも私はそうは思わない。それが、正しいんですよね?」

 そうだと言ってほしくてたまらなかった。緑の視線はそんな意味も含めて山崎に送られていた。そして山崎はそれを確かに受け止めた。それが緑にも分かり、その瞬間山崎が本当に刑事であることが分かった。

「緑ちゃん」

「はい」

「もう少し落ち着いて話をしよう。君は結論を急いでいる。ぼくもちゃんと話をするから、一つずつ順を追って話していかない?」

 そう言って山崎は緑にお茶を勧めた。緑は言われるがままにお茶を一口飲む。その味はもう知っているものだった。

「あの……」

「ぼくから話すよ」山崎もお茶を一口飲んでから言う。

「はじめに言っておくけど、ぼくはその通り魔事件の担当者ではない。だから今から話すことはぼくが直接調べたことではないんだ。でも、ぼくは事件の大体の動きは分かっていると思う。あっちにはぼくの知り合いもいるし、それに……犯人がこの辺りに逃げてきたということもある」

「ええ」緑が相槌を打つ。

「事件の日、被害者の木村和也は午前零時に仕事を終え帰路に着いた。その途中、何者かによって襲われ命を落とす。このとき、近くの道を歩いていた男性が犯人の後ろ姿を見ている。その男性は犯人の顔は見ていなかったが、服装などの特徴を覚えていた。そしてそのままその男性により救急車が呼ばれ、警察が呼ばれた。そのときすでに木村は死んでいた。財布はとられていたが争った形跡はない。それはどういうことか。考えられたのは、犯人が顔見知りであるか、またははじめから殺すつもりで近づいて、殺した後に財布を抜き取ったかだ。だからその両方を考えて捜査は始まった」

「その目撃者はそこまで見ていなかったのか?」司が聞いた。

「ああ、男性が見たのは犯人の走っていく後ろ姿だけなんだ」

「そうか……」

「木村という人物はあまり柄のいいやつではなくてね、怨恨の線を考えた場合、あやしい人物が山ほどいたんだ。もちろん今でもそれは捜査しているのだが、しかし初めの捜査の段階で木村自身のことで驚く事実が判明した」

「木村が、以前の通り魔殺人の犯人だっていうことですね?」

「ああ、そうだ。木村の自宅からその証拠が発見され、間違いないということだ。そこで、被害者の関係者も洗うことになった。この時すでに、赤羽の駅とこの近くの駅で犯人と同じ格好をした人物が目撃されている。そして、もう少し調べていくと通り魔殺人の被害者である伊藤千草の友人である宮地功輔が姿を消していた」

「そこで、警察は宮地さんを疑ったのですか?」

「少なくとも、重要参考人ではあった。会社も無断で休んでいる。そして……」

「二つの駅での目撃証言による犯人の特徴とも一致していた」緑がその続きを言った。

「顔も確認しているんだ」山崎はそれに答えるように言う。

「駅にいたのは間違いなく、宮地功輔……」司が言う。

 緑は静かに息を洩らす。ここまでの事実は、宮地自身が口にしていたことだった。しかし、それが一つ一つ確かめられていくことで何かが埋まっていくようであった。

「それで警察は宮地さんを犯人だと思っているのですか?」緑は改めて聞く。

「いや、何と言うか……」

 そこで山崎は初めて言葉を濁した。

「はっきり、犯人であるという証拠は何一つないんだ。というのは、目撃証言が、君も言っていたけど、少しわざとらしいからね。犯人が犯行後次の日に同じ格好をして人前に現れて移動するというのはどうもおかしいように思える。しかし失踪したタイミングが良すぎるんだ。警察はもちろん、宮城の居所を探している。それで……」

 山崎は改めて緑を見て言う。

「さっきの話、詳しく教えてくれないかな」

 緑は頷いた。緑はもう、迷っていなかった。司にした同じ話を緑は山崎にする。長いはずの話はしかし、ものの五分で済んでしまった。

「それで」緑は山崎は何か言う前に言う。

「私は、宮城さんが犯人ではないと思うんです」

「さっきもそう言っていたね。それは何で?」山崎は聞く。

「さっき、山崎さんも言ってたでしょう? 犯人の取る行動ではないんです。おかしいんです。宮城さんは私たちに、ばれないかもしれないからここにいると言いました。近いところという意味です。でもそれはどう考えたっておかしいんです」

 緑はそう、みどりのいえで言ったことを繰り返し言う。しかし気持ちはあのときとは全然違っていた。

「私たちは、半信半疑でした。本当の犯罪者になど会ったことがなかったからです。それで私、今言った話を宮城さんにしたんです。みんなもいました」緑の声は気付かないうちに音量を落としていた。司が心配そうな顔をして見ている。

「そしたら……」

「うん」司が言う。

「違うって、言ったんです」

 緑はまたも自信がなくなってきた。あの気持ちに戻ったように心が落ち着かないような気がした。そのまま、あの時宮城が言った言葉を山崎に伝える。司にも細かい内容は言っていなかったので、司も真剣に耳を傾けていた。

「そうか。なるほどね……」

 山崎はそう言って緑に笑いかけた。

 笑った。予想していなかった反応に緑は戸惑う。

「私は、何かの罪になりますか?」緑は聞いた。

「いや、君は半信半疑だったんだし、その人たちもそうだったんだろう。じゃあ、大丈夫だと思うよ。でも、事情は聞きたいね」

「……行くんですか?」みどりのいえに、という意味だ。

「うん」

 山崎は迷いなく言った。

「緑ちゃん。君のやってることは正しいよ。何も迷うことはない。それに君の考えている通りなら宮城は犯人じゃない。じゃあ、警察に見つかっても大丈夫じゃないか。そうだろう?」

「ええ、それはそう思います」

 自信が、自信というものが少しずつ自分の体の中に戻ってくるのが分かった。緑は少しずつ、元気を取り戻していった。司を見ると、いつもの優しい顔で緑を見ていた。

 今ならまたあの場所に行ける。緑はそう思った。

「それで、宮城は誰をかばっているんだろうね」山崎が窓の外を見て言った。つられて窓の外を見る。日はまだ高い所にあった。

「伊藤千草さんの関係者じゃないのか?」

「家族とか?」

 家族。

「そうそう」

 そのとき、携帯電話の音がした。司のものだった。司はすぐに出て、そして二言三言話したかと思うとそれを緑の方へ押しやってきた。

「緑ちゃんにって」

 相手が誰か、考える時間もないままに緑は電話に出る。そこから聞こえてきたのは、ある女優の声だった。

「緑ちゃん?」

「はい」

 美喜だった。瞬間緑はその美しい姿を思い出す。夢などではない。

「もう、大丈夫だから、また会いたい……」

 美喜の声は透き通るようにきれいだ。緑はそんな声が自分に向けられていることに驚く。

「はい。また行きます」

 緑はそれだけ言って電話を切った。美喜は仕事場から電話をしてきたらしい。電話の向こう側は何だか騒がしかった。

 この気持ちはなんだろう。


次は8日以降

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