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「あの都会の、すぐ近くやとは思えへんよなぁ」
「はい」
緑と京平は横に並んで歩いていた。京平の着ているスーツは何だかくたびれている。色なんか、がんばって黒を保っているといったところだ。この人は何をしている人なのだろう。気になってきたが、聞かないことにする。そして緑は珍しく、自分のことを話してみようと思った。
「私、今日髪染めてきたんです」
緑がそう言うと京平は緑の頭を見て、ほうほうと言った。その声がまるで呑気で気が抜けていて、やはり好感が持てた。
「それはー、何色?」
聞かれると緑は肩まである自分の髪に触れ、太陽の光に透かして見る。
「どう見たって茶色でしょう」
「そうか?」
「じゃあ、何色に見えます?」
京平はじっくり緑の髪を見た。
「ぴんく……、いや赤かな」
真剣に考えている。
「そうですね、そうかもしれない。そう見えるなら、その方がいいですね」
緑がそう言うと、京平はまたにやにや笑った。
「かっこええやんその色」
何だかそのとき、その言葉が無性に可笑しくて、緑は笑ってしまった。
「こんにちは」
扉を開けて、まず目に飛び込んできたのはメガネをかけた五十代くらいの男性だった。おかっぱだった。それがとても印象的で、緑は数秒間、見つめたままだった。
「どうも」京平がその男性に言う。
みどりのいえというのはどうやら喫茶店のようだった。壁は緑色ではなかった。どころか店の中も緑色を見つける方が大変だった。むしろ茶色ばっかりの印象である。みどりというのは、この木々の色からきているのだろう。それはとても納得で、とてもいい名前だと緑は思った。
おかっぱの男はカウンターの中にいて、その中にはコーヒーの豆やカップが並べられている。その数はそんなに多くはない。カウンター以外にもテーブルが三組あった。そこは今誰も座っていなかったが、カウンターには人がいた。その人物を見て緑はまた驚く。声には出さなかったが、表情は驚きを表していただろう。
そこにいたのは南谷祥子だったのだ。まぎれもないその人物だった。髪は下ろしたままで、化粧も薄めだったので、一瞬間違いかと思ったが、やはり持っている空気で分かった。そしてとても美しい。
「ん、見ない顔ですね」
カウンターの中のおかっぱ男が緑を見て言った。それを聞いて京平が答える。言いながら緑をカウンターの席に勧めた。
「さっきそこの道で会うたんや」
「そう。初めてのお客さんですね。はじめまして、ここの店主の尾道です」
おかっぱ男は緑を向いて言った。
「どうも、えっと……青木です」
「青木緑ちゃん」京平が手を返して紹介する。
「どうぞごひいきに」
尾道はそう言うと、何が飲みたいかと聞く。
「とは言ってもここにはコーヒーしかないんですけどね」そう言って笑う。
「じゃあコーヒー、何かお勧めのやつをお願いします」
この空間に違和感が何も感じられないことが違和感だった。おかっぱの店主にあやしい男、さらに南谷祥子が自然に溶け込んでいる。緑はしかし何も口に出せないでいた。何でここに南谷祥子がいるのだろうという疑問。いや別に祥子がどこにいようと不思議なことではないのだろう。それでも他の芸能人なら思わないだろうに、祥子だからこそ変に気持ちがそわそわしているのだと思う。
そうするうちに、祥子の方が緑に話しかけてきた。
「あなた確か……」
祥子は緑を見ないで言ったが、そこには四人しかおらず、空気から察して緑に話しかけていることは明らかだった。しかし、次に続く言葉がなかなか出てこない。なんだ? と思って尾道を見るが、コーヒーの準備をしていてこちらを見ない。京平はと言うと興味津々で祥子の言葉の続きを待っている。その京平の姿を見て考えて、話が続くことは明らかだった。そして結論づける。南谷祥子はこういう人なんだろう。
とはいえ待ったのは二分ほどだった。すごく長く感じたが、それは続きが気になるという思いがそう感じさせたのだろう。
「この間……」
このパターンではまた二分待たなくてはいけないかもしれない。それが苦であるわけではないが、緑は先を促した。
「楽屋でお会いしました」
緑がそう言うと、祥子は微笑んで、「そうそう」と言った。
「なに、緑ちゃんも役者さんなん?」京平が聞いた。
「いえ、付き添いで行ったんです」
「そうそう付き添いで……。ええと……」
「石村修の」
「そうそう……」
誠の話が出て、緑の気持ちは少し曇った。しかし、それを晴らすかのように間抜けな声で京平が言う。
「石村修ていうのは?」
その答えに祥子は声を出して笑った。その笑い方が言葉をどう駆使しても表せないほどにかわいらしかった。南谷祥子の笑いなど聞いたことがあるはずなのに、こんな笑い方は絶対知らなかった。それはとてもかわいくて、緑は本当に驚いたし、とても惹かれた。
「京平は本読まないもんね」
最高にかわいい笑顔は京平に向けられていた。緑は咄嗟に聞いた。
「南谷さんは、この辺の人なんですか?」
すると祥子はまだ笑顔のまま答えた。
「そう。すぐ近くに住んでる」
南谷祥子が、自分の家とそんなに遠くないところに住んでいたことにというよりも、この、家の少ない地域に住んでいることに驚いた。
「そう、なんですか」
「あとね……」
祥子は尾道に視線を向けながら、しかし緑に向けて言う。
「私は、秋川美喜」
一瞬何を言っているのか分からなかった。
「え、南谷さんじゃないんですか?」
と、思ったものの、さっき舞台挨拶のときの話をした。では、本名はそうだという話なのだろうか。それならもっと不思議なのが何でそれを緑に言うかなのだ。どうして今それを言うかなのだ。すると祥子はそんな緑の気持ちを察したのか、言った。
「あなた、またここに来るよ。だから私名乗ったの。それに、ここにいるみんな、あなたに名乗ったでしょ?」
先ほどまでに比べると長いセリフを言ってのけた祥子は、テレビで見る人物とは少し違った。
「美喜って呼んで」
そう言って、また笑った。
そのとき、緑の前にコーヒーが静かに出された。
「お待たせしました。どうぞ、ごゆっくり」
そう言った尾道は、おかっぱがとても似合っていて、それが妙になじんでいるこの空間を緑は愛おしく思ったのだった。そして緑はまた、この場所を訪れるのだろう。
相手が大人だからだろうか。緑はすぐにみどりのいえが居やすい場所になった。とてもくつろぐことができた。そこにいるのは紛れもない他人なのに、普段感じているような煩わしさと苦しさを、そこには感じなかった。不思議だと、思う時間もなく緑はそこで過ごしていた。
4
それから一か月が経ち、あそこへは週に一度くらい行っていた。何度行っても緑のきれいさに癒され、尾道のコーヒーはおいしかった。そこに流れる空気はいつもいい感じで、言葉にするならまさに「いい感じ」で、緑はどんどん癒された。
緑は十六だった。毎日通っている高校は電車で十五分のところ。伝統あると言えば聞こえがいいが、古いだけの高校だった。一応進学校ではあるがレベルはそう高くなかった。
季節は夏でこれが終われば夏休みという日、緑はまたあの場所に行こうと思っていた。
「緑ちゃん、あれ、ねぇねぇ! あれさ!」
下校中、一緒にいた白木舞子が突然に騒ぎ出した。大きな声を出して緑に何か伝えようとする。
「なに?」
それは電車を降り駅から少し歩いたところでのことだった。道の右側は電車が通っていて、左側には建物がある。そして舞子は指さす先は道の左端だった。
「えっと……」
そこには見たことのある顔があった。
「佐々木明良だって!」舞子は興奮して言う。
佐々木は緑たちが進む方向と同じ方向の五十メートルほど先を歩いていた。格好はいたって普通なのでおそらくプライベートなのだろう。急ぐでもなく、佐々木は歩いていた。舞子に言われなかったら気付かなかったかもしれないと緑は思った。
「ねぇ、声かける? 声かける? 声かけるぅー?」
「舞子ちゃんがかけたいならかけてもいいよ」
緑がそう言うと、舞子はどうしようどうしようと言う。
そのときになってようやく緑は佐々木明良と喋ったこと思い出した。そういえば話したな、という程度だった。
「あっ、曲った!」
言うと舞子はすぐに小走りに角まで行く。そして「あれぇ?」と言う。
「いなくなったー」
緑が追い付いてその道をのぞいたが、言う通り佐々木はもういなかった。
「まかれたのかなぁ」舞子が言う。冗談で言っているのか緑は一瞬迷った。どちらでもいいと思う。
「そんなわけないじゃん。この辺の家に用事があったんだろうね」
「ねぇもしかしたら、この辺に住んでたりして」舞子は目をキラキラさせて言う。曲ってすぐ近くにはマンションがいくつか並んでいた。
「どうかな」
ははっと笑ってその場は終わった。もうしばらく歩いたところで舞子と別れ、緑は家に着いた。両親は仕事でおらず、家には早く帰ってきていた弟がいた。その弟がドアを開けた瞬間緑を見たと思ったら慌てて電話の受話器に叫んだ。
「ああ、緑! 緑帰ってきた! 今代わる!」
そう言って受話器を差し出す。緑が電話の相手に聞こえないように小声で、「誰?」と聞くと、
「叔父さんだよ」と弟。
瞬間にして緊張と喜びが同時に訪れ、弟から受話器を受け取る。
「もしもし」
『もしもし、緑ちゃん?』
「うん」
『今帰ってきたところ?』
「そう」
『そっかぁ。いや実はさ、今ぼくの家に佐々木さんが来ていて』
「佐々木って?」
『俳優の、佐々木さん。この間たまたま会ってさ、話してたら仲良くなったんだ』
緑はさっきのことを思い出す。佐々木があの道に入って行ったとき、脳裏をよぎらなかったというと嘘になる。佐々木が曲った道、あの先には誠の住んでいるマンションがあったのだ。しかし、佐々木が本当に誠の家に向かっていたとまでは考えていなかった。年が近い故、付き合いが始まるのもおかしな話ではないのだろうか。
「そうなんだ……」
『うんそれで、緑ちゃんも来ないかなぁと思って』
「え?」
誠の声は楽しそうだった。いやそもそも緑は誠の楽しそうな声しか聞いたことがなかった。
『三人で話したらもっと楽しいかもしれないし』
「うん」
誠に会える機会は一度たりとも逃したくない。そう言って今までもやってきたのだが、仕事が絡んでいるときはあまり乗り気がしないというのが正直なところだった。しかし電話口の誠はいつもと同じ調子だったから、会いたいという気持ちが静かに強くなっていく。
『忙しいかな?』
瞬間、みどりのいえに行くはずだったことを思い出す。しかし、やはり誠と話せる方を選んでしまう。そうに違いなかった。
「行くよ、行く」
そう言うと誠は嬉しそうに、「待ってるよ」と言った。
「うん、すぐ行く」
受話器を置いて急いで自分の部屋に向かう。誠に会えることで気分が浮ついているのが自分でも分かった。慌てて制服から着替えて、その辺にあった鞄を持って部屋を出た。気持ちでは走っていたが、体はゆっくり歩いて誠のマンションへ向かっていく。
「どうも」
緑が部屋に入っていくと、佐々木は椅子に座ったまま頭を下げた。相変わらずさわやかだった。しかし嫌な感じはしない。
「こんにちは」緑の挨拶はこの間とは違い、愛想のよいものだった。笑顔ですらあったと思う。
誠は緑の分の紅茶をいれに台所へ向かう。緑もついていこうとしたが、佐々木を見てなんとなくやめておいた。
「一か月くらい前に会ったの、覚えてる?」
佐々木明良は、いつも誠が座る椅子に腰かけていた。
「覚えてますよ。少し話しましたよね」
緑がそう言うと佐々木は嬉しそうに笑って、
「うん。覚えててくれて嬉しいよ。あのときね、君が映画を面白いって言ってくれて本当に嬉しかったんだ。初日だからすごく不安だったし」
また映画の話。
「そうだったんですか」
愛想のない返事になってしまった。緑は少し余裕をなくしそうな自分を感じる。
そこへ紅茶を持って誠がやってきた。自分と佐々木の分も一緒にテーブルに置く。
「佐々木さんね、いろいろな舞台を経験してきたんだって、面白い話を聞かせてもらったよ」誠が言う。そして緑の隣に腰を下ろした。
「劇団純情十者ですよね」よく知っている劇団である。
「知ってるの?」佐々木が聞き返す。
「はい。舞台好きだから、いろいろ観てます」緑は紅茶を一口、佐々木の方にも目をやりながら話す。
「そうなんだー……、それはまた嬉しい……」
そう言う佐々木は本当に嬉しそうな顔をする。きっとこんな顔はたくさんの人に好感をもたれるのだろうな。それに比べて緑の顔はどんな感じだろう。どんな印象を与えるだろうか。
佐々木は本当に喜んでいるようだった。そういう態度をとられるとこちらも何だか嬉しくなってくるもので、緑は舞台の話をいろいろした。とはいえ向こうはプロなのだから、全部控え目だった。
「純情十者のなかでも私が一番好きなのは、『放浪記念』です。あれは最高でした。私、観に行ったんですよ」
ずっと好きだった劇団、初めて見に行ったのがその作品だった。そう遠くない記憶だった。去年、夏休みに一人で劇場に足を向けたのだ。
舞台の話はとても盛り上がった。話しているうちにどんどん楽しくなってきて、思うがままに話している自分に気づく。誠の前で変な自分じゃないだろうかと不安になったが、大好きな舞台の話をするのは自分が思っているよりもずっと楽しいらしい。あまり何も考えずに話し続けていた。そして佐々木は聞き上手なのだろう。緑はすごく気持ちよく話していた。
結局、一時間くらい話していたように思う。時計を見ると、実際それくらいの時間がたっていた。ほとんど緑と佐々木が喋り誠は合いの手を入れるくらいだった。
「いやぁ、映画が好きって聞いたのに、すごいね」
佐々木は熱くなって語った後だからが、少々火照った顔で言った。そう言えばはじめて会った時もこんな感じだったなと緑は思い出す。あのときもまた、終わったばかりの映画のことがそうさせたのだろう。
「映画も好きですよ。でも映画も舞台も、好きな作品しか観ませんけどね」
緑の言葉で佐々木は笑った。
「そりゃ嬉しい一言だ」
笑っている佐々木の顔はすごく気持ちがよさそうだった。ふと佐々木はいくつなのだろうと思った。誠と近いと思っていたが今日話してみて、もうちょっと若い印象を持ったのだった。
「佐々木さんて、いくつなんですか?」
「俺? 今年で三十」
「え!」
思わず声をあげてしまった。しかし、よく考えると何もおかしなことではないのだ。誠が童顔だから、佐々木ももう少し上だと思ったのだ。誠はまだ二十代でも通る顔だった。またも誠を基準に考えていたことに気づいたというわけだ。
「どっちの、え?」
佐々木はまた笑う。
緑も笑った。そして今の自分の顔を見たくなった。今私はどんな顔をしているのか。この瞬間がとても楽しいのはなんでだろう。不思議だった。とても不思議だった。みどりのいえにいる時とは違うどきどきがあったのだ。
話声の中に、急に電話の音が混じった。
「失礼」
誠が席を立ち隣の部屋に行った。
緑はふと鞄の中で光っている携帯に気づき、それを取り出そうと鞄に手を突っ込む。そのとき、携帯がどこかに引っかかっていたのだろう、鞄がひっくり返り中のものがぶちまかれてしまった。その中で一枚の紙がひらりと佐々木の方へ落ちてしまう。
まずい。
そう思いはしたものの落ち着かなければという思いの方が強く、一度目を閉じ開いたときにはゆっくりと手をのばして他のものを鞄にしまう作業に入った。
佐々木はというと、やはり足もとに落ちた紙を拾いこちらに持ってくる。ここで変に慌ててはおかしい。緑は自分に言い聞かせた。
それはある事件についての新聞記事だった。家を出るとき慌てていた緑はみどりのいえに行くのに用意していた鞄をそのまま持ってきていたのだった。
「これ……」
佐々木は新聞記事を見ながら言う。
「あ、はい」緑はそれを佐々木の手から自然に奪う。「趣味なんです」
「調べるのが?」
「いえ、経過だけですよ。どういう事件があるかまとめたりするんです」
苦しいだろうか。分からない。とにかく緑は焦ってしまわないようにするのに必死だった。何で緑が焦るのか。それはいつもと違う行動をするのに慣れていないせいだった。
一応最後まで書いてあるので刻む必要はないのですが、なんとなく刻みつつ……、でもそんなに長くないのでそのうちに終わります。




