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最初~2

 犬の散歩中に、犬の散歩以外のことをしようとして結局何もできずに終わることがよくある。例えば、歩きながら何か考え事をしようとしたりすること。しかし、考えることはできるのだが結局それは中途半端に終わり、実際は犬のことを見、考えてその時間は終わるのである。

 その日はしかし、珍しく考えることが優先されていた。私はリードの先の黒い犬を愛おしく見つめながらいつもの散歩道を歩いていた。西の方に山があり、木々で埋め尽くされて何があるのかよく分からないような場所がある。

 ふとその先はどうなっているのだろうと考えた。その場所が視界に入ったことは今までに何度もあると思う。しかし今までに考えたことがないことを私は頭で考えていた。あの先はどうなっているのか。きっとどうもなっていないのだろう。そうは思いながらも私は何だか無性に気になった。その方向は電車で通るはずなのに、何故かどういう景色なのか記憶にない。

 そして私は想像してみる。あそこにはきっと、とても大きな木がある。その木は本当に私が見たこともないほどに大きくて、そして木の上には鳥が住んでいる。その鳥の様子を毎日見に行く人。きっと帽子をかぶっていて優しそうな六十前後の男性。彼は毎日その鳥を見て元気をもらっている。そんな彼をその町の人は微笑ましく見ている。町はとてもいい雰囲気で、そこには犯罪者などは似つかわしくない。

 そんなことを考えるが、次の瞬間私はもう犬の足を見ていた。小さな足。この小さな足が踏みしめている大地と私の足が踏んでいる大地、どちらも同じものなのだ。犬はなんと逞しいのだろう。しっぽをフリフリ愛想も振りまくわが家の犬は、何と素晴らしいのだろう。嫉妬は感じないにしてもすごいなぁとやはり思ってしまう。

 私は前を見る。視線をそらすとそこには変わらず木々で埋め尽くされた場所がある。でもそこに大きな木があるとは思えない。

 理想ばかりを頭にめぐらせて私は生きている。いや、これは理想なのだろうか。私の頭で考えられる物語には他人が他人として出てくることはあまりなかった。それは紛れもない理想である。そこから目をそらす自分が、本当の私だった。私はもうあの木々に視線を向けず、ただ足を動かしていた。

「帰ろうか」

 もう辺りはだんだん暗くなりかけていた。私は犬を追って家に向かった。家までの道には何もない。そんな道をこの犬は毎日通っている。この道は私たちが通ることによって道らしさを感じているのだろうか。私の世界にこの道は間違いなく入っている。そして今、登場人物は私と犬。私は犬を純粋に愛することができる。だから今この瞬間のこの世界を、このくにを愛おしいと思うのは当然と言えば当然なのだろうが、大切に思ってしまう、そんな時間だった。

 しかし今この瞬間を愛おしく思うのは、何かがそうさせているのかもしれない。そう思うのはやはり理想の存在だった。


 1


 それはまだ、茶髪が流行っていたころの話。

 私は電車に乗り、二駅離れた美容院に髪を染めに行った。その帰りのことだった。私はふとあの山の辺りのことを思い出したのだ。電車から見える風景に意味を与えながら私はこの間考えたことを思い出していた。このまま最寄駅を通り越して一つ目の駅があのあたりの地域のはずだった。

 このまま電車に乗り続けてみようか。そう考えはしたものの自分は次の駅で降りるのだろう。だって。だって、あの辺りに何があってもそれは私には関係のないことなのだから。それはまさしくその通りで、気になっていることが不思議なのだ。あそこにはただ私の知らない何かがあるだけなのだ。

 しかし、何故だか行ってみたい気持ちもあった。特に何をするでもない。ただ見てみたいだけなのだ。駅から出ずにただ見るだけでいい。それってものすごく簡単じゃないか。ちょっと時間がいるだけで別に大して特別なことでもない。じゃあ、行ってもいいんじゃないか。大きな木はもちろんないだろう。では本当は何があるのだろう。私はそれが見たいような気がする。

 私は考えた。そして乗り続けることにした。とはいえひと駅のことなのだから三分ほどで電車は次の駅に到着する。電車は私の知っているリズムで停車し、扉を開いた。段階的に開かれたその景色を私はゆっくりと頭に入れていった。

その駅は無人駅で、降りたのは私一人だった。そして私を乗せていた電車は大都会の方へ走って行く。私は改めて駅の周りを眺める。そこに広がっていたのは、見たこともない景色だった。

大きな木はなかった。いいや、正確に言うと大きな木はある。しかしそれは一本でなく、数限りない本数だった。そして一番印象的なのはその色だった。それはまるでフィクションのようにきれいな緑。すぐ近くには山があるし、この辺りも木々でいっぱいだった。何だか視力がよくなりそうだ、私はそう思った。

ここにどんな人がいるか、そんなことではなく私は純粋にこの辺りを歩いてみたかった。とても気持ちがいいのである。

 駅から出て、周辺を少し歩くことにする。駅が無人駅なだけあって周辺にはあまり人の気配がない。ただ木がきれいな色を保って存在していた。両側を木に挟まれた道を少し歩いて行くと人が住んでいるような家が少しずつ見え始めた。とはいえそんなに多くはなかった。五分歩いて、三軒だった。私はどこまで歩いていくつもりだろう。そう思いながらも歩を進めていく。

 緑はどこまでも続いていた。両脇が緑になってしまう。道がそんな風になったとき、前方に不思議なものを見た。道の左端に木の看板があったのだ。それがとても周りになじんでいて、よく見なければ見落としてしまうようなものだった。

そこには、「みどりのいえ」と書かれていた。

「みどりのいえ」

 ここらにある家はみんな緑の家のような気がする。私はそう感じたが、何だか気になって分からないままそちらに足を向けていた。左にまっすぐ、山に向かって延びる道。そこを私は進んでいった。まるでフィクションの世界だった。森の中の道という感じで、でも人が通った跡があることで妙に安心感があった。

そのとき、ふいに後方で音がして、すぐに人の気配がした。私は驚いて瞬間後ろを振り返る。

「お嬢ちゃん、この辺の子とちゃうなぁ」

この声を聞いて私が味わったのは、確かに恐怖だった。自分の中だけで会話をしていたのに、入ることのできない空間に他人がやってきたのだ。

私のすぐ後ろに、男がいた。三十代半ばくらいだろう。針金のように細長く痩せていて、スーツを着ていた。何でスーツを着ているのか。その時はあまり不思議には思わなかった。

「こ、こんにちは」

 私は挨拶をしていた。こんな道でこんなあやしい男に話しかけられ内心では恐怖を感じていたが、この男にそんなことは関係ないのだ。それに自分でここまで来たのだから、少しは普段と違った行動をしたかった。それには勇気がいったが、実際それ以外にとる行動はなかった。私は妙に落ち着いて男と向き合った。

「おお、こんにちは」

 男は妙ににやにやしていて、危ない感じがした。しかし男がとった態度はさらに妙だった。私の正面に立ったまま、帽子をとってぺこりと頭を下げたのだ。

 あまりにもそぐわないその態度に私は呆気にとられていた。

「尾道さんとこに行くん? この先にはみどりのいえしかないよ」男が私に聞いた。

 その声はすごく呑気な声で、私は何故かリラックスした。男は少し猫顔だった。

「おのみち?」

 考えたのは、この先にそのおのみちさんが住んでいるのだろうということ。そしてその家が緑色なのだろう。私は違うと言おうとしたが、男はそれよりも早く口を開く。

「まぁいいや。行こう行こう」

 そしてそう言ってさっさと私を抜かし、ちょっと進んだところで振り返り、手をちょいちょいした。

 このとき私は何故か素直に従った。何が私をそうさせたのかは分からないが、何だか胸がどきどきしていた。こんな風な気持ちになったことが今までにあっただろうか。考えても思いつくことはなかった。

 ふと、男が振り返り言った。

「ぼくは鈴村京平。君は?」

 京平は私を見ている。

「青木、みどりです」

 緑はそう言って男に微笑みかけた。


          2


 叔父さんと映画の舞台挨拶に来た。緑の胸中は複雑だった。そこには大勢の人々がいて、その誰もが今から観る映画を楽しみにしていた。顔を見れば分かるほどに、人々の心は分かりやすかった。

映画が始まって三十分、推理もので、さっき犯人が不思議なことを言った。

『人を殺したの、僕ですから』

どんなセリフだよ。

 緑は、隣に座っている叔父、石村修をちらりと見る。その目は真剣にスクリーンに向けられていた。叔父は今日、石村修という名前である。本名は青木誠。緑の父親の弟である。この映画の原作の著者は石村修、つまりこれは誠の映画なのだった。

 そのセリフを言ったのは佐々木明良という舞台出身の役者だった。最近ドラマにも出てきているらしく、雑誌によく出ていたりして、とても注目されている俳優だった。

 緑は佐々木が好きな方だったが、今日は純粋にその演技を楽しむことはできなさそうだった。隣に誠がいるからだった。

 犯人は佐々木ではない。原作を読んでいる緑は知っていた。犯人はこの男の恋人である。男は彼女をかばっているのだ。頭が切れる男は上手い方法で自分が犯人だということに仕立て上げるのだ。物語は一転二転し、観客はどんどん引き込まれていく。

その恋人の役は南谷祥子という役者だった。どこか不思議な空気を持っている、魅力的な女優だった。

 緑は眠ってしまいたかった。しかし、そうはさせない自分がいた。とても気分が悪い。


 映画が終わり、舞台挨拶が始まった。佐々木や南谷をはじめ、何人かの役者が舞台に出てくる。隣を見ると誠はまだ真剣な顔をして舞台を見ていた。緑はまた複雑な気持ちになる。

 何かを語る。役者監督が、何かを語っている。緑の耳にはあまり入ってこなかった。というかどれもが同じ言葉に聞こえた。

 こんな場に来ることは初めてのことだった。映画が好きな緑であるが、そうまでしたことはなかった。誠はこの場に呼ばれていて、緑を喜ばせようと思って誘ったのだ。そんな気遣いはいらなかった。いらなかったが、それを断ることなど緑には出来ようもない。

 舞台挨拶もやがて終り、客たちは退場し始める。その顔を緑は見るまいと思っていたが、いやでも見てしまう自分がいた。客たちはみないい顔をしていた。

「挨拶に行くけど一緒に行く?」誠が緑に聞いてきた。

 緑は頷いた。挨拶などどうでもいい。誠と一緒にいられる時間が、緑には大切だった。


 楽屋には、先ほど舞台に上がっていた人物が全員集合していた。その中で誠は監督の横に行き挨拶をしている。緑はそれを入口から眺めていた。緑の視界には誠しか入っていなかった。

 一番見たくない日に、一番見ているな。

 誠は父とは年が離れた兄弟で今年三十五になる。身長は高くもなく低くもない。顔は多少童顔ではあるが、そのしっかりした性格をちゃんと表していた。

緑は多分、誠が好きである。尊敬しているし、誠は緑の心の一部分を占めている。そう思うから緑は誠といたかった。誠といる時の自分を大切にしたいと思ったのだった。誠は、他人なのか他人じゃないのか分からない。その微妙な存在が緑には魅力的だったのかもしれない。

ふと視線を感じた。緑は誠から視線を外し周りを見てみる。しかし緑がその視線に気づく前にその男は緑に近づいてきた。

「石村さんの娘さん?」

 佐々木明良だった。背が高く顔は嫌みのようにさわやかで、さらに笑顔だった。そして何故か緊張しているらしい。その顔をよく見たことのある緑はその変化に気がついた。

「姪」緑は答えた。その声がいつもの調子と変わりないことを自分でも確認する。

「姪かぁ」娘などであるはずがない。そう見られたのは、緑が幼く見えるからだろう。

 誠はまだ、監督と話していた。

「映画どうだった?」佐々木はまだ緑に話しかける。

 映画はどうだったか。

 この映画の原作を読んだとき、緑は涙が出そうになったのを覚えている。悔しかったのだ。誠の特別な能力を妬ましく思った。正直、とても面白かったのだ。緑自身、夢中で読んでしまっていた。だから、これだけ人を引き込ませる発想を持てる誠を緑は素直に尊敬もできた。しかし面白い小説を書くことは緑の夢でもあったのだ。それゆえ緑は誠に複雑な感情を抱いていた。純粋に尊敬しつつも、自分を直視する自信を削がれているような気になるのだ。

 緑は落ち着いて答える。

「面白かったですよ。一番魅せるシーンがちゃんと客を引き込んでいたし、一つ一つのセリフがしっかりしていて、私はとてもいい映画だと思いました」

 緑はまだ佐々木を見たまま言った。本当のところ、誠を見ないですんでいるこの時こそ今日ほしかったものだった。それが叶ったのなら、佐々木に感謝しようとすら思う。

「よかったー。嬉しいよ。実はね俺、今度も石村さん原作の映画に出るんだよ。撮影ももうちょっとしたら始まるんだけどね。すごく楽しみなんだ」そう言って佐々木は誠の方を見た。そしてすぐに緑に視線を戻した。

 誠は今注目の作家。立て続けに映画化。

「佐々木さん」緑は言う。

「何?」目をきらきらさせて佐々木は聞く。

「顔、赤いですよ」


 面白かった?

 うん。面白かった。

 当たり障りのない会話をしながら、緑と誠は帰路についた。誠が何か一生懸命に話している。緑はそれに耳を傾けつつも、少し自分についても考えていた。自分はどこに向かっているのだろう。とか、そんなこと。今まで何度も考えたことはあったが、結局答えは出ていなかった。

「叔父さん、私髪染めようかな」緑は横で何か考え込んでしまった誠に言った。

「あ? ああ。いいね、似合うよきっと」

 誠は緑を見て言う。緑はそんなことでも嬉しくなって微笑んだ。誠の声すら大好きだった。

「うん。染める染める。何色にしようかなぁ」

 髪を染める。その変化が私の人生にどれだけ振動を起こすか、どれだけ私は気持ちを変えられるか、そんなことを考える。いつもそうだった。何かが欲しいとき、これさえあれば私は救われる、そう信じて疑わなかった。大げさに聞こえるかもしれないが、本気でそう思っている。しかし、実際手に入れてみるとなんら変りない自分にがっかりするのだ。しかし、その変化後の自分に憧れる気持ちは消えることがなかった。

 髪を染めよう。

 そして世界を染めよう。

 それくらいの気持ちだった。


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