chapter64 祖母の家
膝もほどほどに治り、冬休み初日の喫茶店ソレイユのバイトを夕方に終えて帰宅すると、依子がなぜか家にいて親父と並んで台所に立っていた。俺は首に巻いたマフラーを解きながら「よう」と声をかける。
親父と依子がゆっくり振り返る。両者ともにエプロン姿。エプロンの端にクリームの跡などをつけているところを見ると、依子が親父にケーキの作り方を教えていたのだろうと思われる、というか親父が以前そういう約束を依子としていたので想像に難くないが、しかしこの二人、相も変わらず表情が固いものだから全く楽しそうじゃない。
「遅かったな純一」
親父は台所に向きなおり、パウダーまみれのボウルを洗った。
「依子にケーキの作り方を教えてもらった。冷蔵庫にいっぱいあるからな。あとで食え」
俺は依子と親父の間を縫って冷蔵庫の前に立ち、中を改めた。ラッピングされた大皿が一つに、小皿が二、三。親父にしてはどれも形がいい。依子に手伝ってもらったから当然か。それを踏まえた上でも、三皿ともチョコレートケーキとはいかがなものだろう。
実を言うと、俺はさっきソレイユで売れ物のデザートを嫌というほど処分させられ、もとい食わせられたので胃がもたれており、今は甘い物を見るだけで頭が痛かった。無言で冷蔵庫の扉を閉じる。
「健一叔父さんは、手先が器用。筋がいい」と依子がエプロンをほどきながら言う。親父は照れもせずに「だろうな」と偉そうに返す。この自信は一体どこから来るんだ。
「純も、健一叔父さんみたいに、料理してみればいい」
「俺が教えてやる」親父が熊みたいな低い声で言った。
「あたしもおしえる」
なんだこの勧められよう。
「俺はお前らが作ったの食うだけで忙しいよ。ていうか、母ちゃんと雄二は?」
「あたしの家にいる。これから作ったケーキ持って、あたしんち行って、みんなで食べる」
あとで食えって、そういうことか。
「これ、クリスマス用じゃなかったの?」
それについては、親父が洗い物をしながら振り返らずに答えた。
「これは練習用だ。クリスマスは俺が一人で作るから、楽しみにしてろ」
ぜんぜん楽しみじゃない。
俺はもう疲れて動きたくなかったので「留守番してる」と言ってみたが無口な二人組にシカトされた。ケーキを切り分けてタッパーに詰め込む作業を手伝わされ、それこそ煙草を吸ういとまも与えられず、蹴り出されるみたいにして親父の車に乗り、依子の家に向かった。
親父が依子に手伝ってもらい作ったケーキはお世辞混じりの大好評で、夕餉のおかずにケーキなんて異常な光景に他ならないはずだが祖母ちゃんも道子叔母さんも親父の顔を立てるので大変だ。苦労してるって感じじゃないからいいけど。
ケーキには手をつけず唐揚げとエビフライをたいらげて離席し、表の寒い中で煙草を吸う。この家は灰皿が置いていない上、喫煙者が俺だけなので外で吸うしかない。吸い殻の行き先も錆びきった桃缶である。
山々の裾野から煙が立ち上がるのが見えた。この山を隔て、向こう側には市街地がある。ほの暗く発光する赤い火の色は、停電時の蝋燭の灯火を思い出させた。耳を凝らすと、かすかに消防車のサイレンが聞こえてくる。
「なになに、火事?」
後ろから弟の声が聞こえた。弟は祖母ちゃんの半纏を羽織っていて、寒そうに玄関の隙間から遠くを眺めている。
「雄二、あの方角って一原だよな。お前の小学校大丈夫?」
「うん、たぶん。でもあの辺りって理香ちゃんちとか近いかも。やべえ」
「やべえな」
理香ちゃんって、五頭の娘か。俺の顔に水鉄砲浴びせやがったガキ。あと、鍋島や浅海さんもあの辺に住んでいたような。
弟は一旦家に引っ込んでいく。縁側のカーテンを開けて祖母ちゃんや母ちゃんが心配そうに山の方を見やっていた。五分ほどして、弟が戻ってくる。いくらかほっとした表情で、
「一原の二丁目あたりの空き地で、ぼやだって。林とかにもちょっと火移ってるけど、もうすぐ消し止めますよって、テレビでやってた」
俺は胸を撫でおろし、煙を見るのに集中してほとんど吸えなかった煙草を缶に捨てた。びびらせやがって。
弟が俺の服の裾を引いた。
「ねえ、それより依子姉ちゃんの部屋でポケモン見よう」
「いいけど、なんでポケモン?」
「途中のゲオで借りてきた。大人たちはこれから会議だってさ。つまんないから、ぼくらはポケモン見よう」
正直、俺はもっとぱっとした物が観たかった。毎回弟の好みに合わせるのも一苦労だ。
広間に行って、大人連中に混ざって退屈そうにお茶をすする依子に、「依子、ポケモン」と短く告げる。俺の後ろに弟がいるためか、彼女にはそれだけで意味が伝わったらしく、黙って俺らのあとについてきた。
依子の部屋で『ミュウツーの逆襲』を観る。弟なんてまだ生まれていない頃の映画なはずだが。
思えば依子の部屋に入るのは小学生以来のことで、内心どんな風に変わったのかいささか興味があったが、本棚の数と蔵書が増えていることを除けばさほど代わり映えしない。学習机などの家具類は以前のままで、テレビも箱型。
唯一の変化といえば、意外にもスーパーファミコンがテレビ台の脇に置かれていたことぐらいか。ミュウツーの逆襲といいスーファミといい、妙にレトロな雰囲気ただよう。
「依子ってゲームするの?」
「たまに。雄がくれた」
弟はカーペットに雑魚寝しながらテレビ画面を見上げた。冒頭のミュウツーの荒れっぷりが子供映画らしくない。
「うん、ぼくがあげた。だって姉ちゃん、ゲーム下手くそ過ぎるもん。ちょっとは練習しなきゃだめだよ」
依子はベッドに腰掛け、俺は学習机の椅子を確保する。煙草の箱を出窓に置いた。
「この部屋って煙草吸っていいの?」
冗談半分で訊いてみると、依子は数分たっぷりかけてじっと画面を眺めた。てっきり「だめ」と即答されると構えていただけに、この沈黙は痛かった。
「いや、冗談なんだけど」
「吸ってもいいけど、窓あけて」
ここで本当に吸ったら二つの意味で空気が悪くなる気がする。窓に手をかける演技をしてみせたら、弟が横目に「マジで吸うのかよ空気読め」みたいな視線を浴びせてくるので、こいつも大人になったんだなって虚しい所感を抱きつつ俺は窓から手を離した。
三十分ほどして弟が口を開く。
「依子姉ちゃん、ポケモンなにが好き?」
依子は数秒ほど固まって、「ギャラドス」とシュールに言った。俺は吹き出しそうだった。
「他には?」
「ハガネール」
「あとは?」
「レックウザ」
「なんでさっきからそんなに細長いのばっかり?」
「巻きついて攻撃するから、つよい」
弟は納得いかないように首をひねり、映画に目を戻した。なにかのネタだろうと弟は思っていそうだが、実際、ギャラドスがミュウツーにあっさりやられたシーンで依子は眉をひそめていた。マジなのだろう。よく分からない感性だ。
「じゃあ、兄ちゃんは?」
「俺? 俺は……ピカチュウ」
「てきとーに言ってるだろそれ」
なんでバレるかな。
映画もエンドロールを迎えると、俺は椅子を立ち、寝息を立てる弟を避けて部屋を出た。
冷えた暗い廊下を歩いていると、和室から出てきた祖母ちゃんから「待たんね」と呼び止められる。一度和室の奥に下がり、再度出てきた祖母ちゃんの手には、さっき弟が着ていた半纏があった。
「そない薄着して。着んしゃい」
無理矢理着せようとして、祖母ちゃんは俺の顔面の異変に気づく。
「純一、いじめられたか? 依子に」
もう小学生じゃあるまいし、いつの感覚だ。俺は鼻水をすすって大人しく半纏を羽織り「気にしなくていいから」と残して祖母ちゃんから逃げた。
玄関前でしゃがみながら煙草に火を点ける。広間の方から親父の暢気ないびきが聞こえてくるので、ますます今泣いてる俺が馬鹿みたいだった。
依子が玄関を開けて出てきたのはそれからすぐのことで、俺は激しく動揺すると共に、彼女もまた半纏を着せられていることで少し可笑しくなってしまった。祖母ちゃん、この家に居る未成年全員にこれを着せようとするらしい。ていうか何着あんだよ半纏。
依子は膝を折って俺の隣に並び、手にしたティッシュ箱を差し出す。いらねえ、と遠慮したいところだったが、もう泣き顔は見られてしまっているので素直に受け取る。
「さっき、おばあちゃんに怒られた。純にやさしくしろって」
俺は無言で目元を拭い、鼻をすすった。
「あたしは、純はポケモンで泣いたんだよ、っていった。合ってる?」
「合ってる」
認めたくないけど。
「どこで泣いた?」
「ニセピカチュウがピカチュウにビンタするあたり」
自分でもよく分からない。
「でも、あたしは、泣けなかった」
頬をひりひりと触るそよ風の中、依子がぽつりと言う。なんの張り合いかと思いながら隣を見ると、しかし彼女は割合神妙な瞳で俺を捉えていた。
「そういうところ、もっとみんなの前で見せた方がいい」
「なんだよ、そういうところって」
「じつは、純粋なところ」
俺の羞恥心は峠に達した。だがここでむきになって反発するのも余計恥ずかしいだけなので、あくまで抑えて微笑む。
「男が人前で泣いたって、気持ち悪いだけだろ」
依子は中空に視線を投げて少し考え、
「たしかに」
とかなり失礼な同意をした。俺の微笑みは一瞬で引っ込んだ。