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コンフリクト  作者: 小岩井豊
後日談
64/65

chapter63 デコレーション

 1


 黴臭い図書室の受付内。

 どこから引っ張りだしたのか、原村昭文がこれまた黴臭い将棋盤を持ってきて、どんと長机に置きご満悦に腕組みした。一寸七分の結構しっかりした卓上盤。対面に座る俺は読んでいたあずみ三巻をぱたんと閉じ、視線で将棋盤を指しつつ「なにこれ」と一応言ってみた。

「見りゃ分かるだろう。将棋だよ将棋。一局相手になってくれ、今泉」

「どこから出したのかって聞いてんの。なんかくせえんだけど、それ」

 原村は親指で後ろの壁を指した。

「昨日受付の整理してたらさ、この裏の倉庫部屋で見つけたんだ」

 当たり前のように言われたけど、そんな部屋あったのか。首を伸ばして本棚と本棚の間を覗くと、なるほど、そこには隠されるようにしてドアノブが見え隠れしていた。忍者屋敷みたいだ。

「僕も初めて入ったんだけどさ、もうほんとすごいの。なにがって埃と漫画が。埃と漫画の宮下ワールドだよ」

 俺は長机の上のあずみ三巻を見下ろす。やけに手触りがざらざらすると思えば、よく見れば表紙には薄く砂粒や埃が付着している。

「初めて見る漫画だなと思ったら、そういうことか」

「そういうこと。多分、あの倉庫室のことはこの学校でも宮下先生以外知らないと思うよ。昨日まではね」

 原村は将棋盤の表面を丁寧に撫でつけながら言った。やはりこちらも埃が舞って不快感をあおる。

「宮下、マジで図書室をなんだと思ってんだろうな。司書サボるわ遅刻するわ漫画持ち込むわ。そのくせあいつ、自分のことを棚にあげて、最近俺の遅刻見逃してくれねえんだよ。どう思う原村」

「それは知らないけど、いいじゃん別に。また僕らの秘密基地が増えたってことで。そろそろ屋上と図書室受付だけじゃ持て余していたところだし」

 原村はあごに手を当て窓の外を流し見て、演技がかった悪そうな笑みをたたえた。どうやらあの隠し部屋の使用権を宮下からぶんどるらしい。五頭にチクるとばかり思っていた俺には妙案だった。どうにかしてテレビとWiiを持ち込んでやろう。

 原村が駒を並べ始めた。

「先手はどっちからで行く?」

「俺、将棋やったことないんだけど」

「そうなの?」

 原村は駒を並べる手を止め、受付カウンターを振り返った。そこには、平野依子の定型化されたいつもの後ろ姿があった。

「平野、ちょっとこっちに来て、一勝負相手してくれ」

「おい、受付いなくなるぞ」俺はすかさず口を挟む。

「今泉がやればいい。いつもここに居座ってるんだから、もう貸し出しのやり方だって大体分かるだろ」

 無茶苦茶だな図書委員会。まぁ分からないこともないけど。本と学生証のバーコード読み取ってはいどうぞってやりゃいいだけだ。でも面倒くさいから絶対やりたくない。つーか漫画の続き読みたい。

「ほら、帰りになんか奢るからさ。なにがいい?」

 俺はちょっと考えて、ポケットから煙草の箱を出して中身を確認した。あと三本しか残ってない。

「じゃあ、ハイライト二箱」

 原村は胡乱な目つきで煙草を一瞥し、「非行少年の手助けとは、いよいよ僕も後に戻れなくなってきたな……」などとつぶやいていた。

 俺はパイプ椅子を立って依子に近づく。依子はノートになにやら文章を綴っていた。勉強かと思ったが違うようだ。シャーペンのノックでこめかみを突っつきながら、聞こえるか聞こえないか、小さな呻き声まであげている。

「なぁ依子、原村が将棋の相手しろってさ。その間俺が受付やるから」

 よほど集中しているのか、それともただのシカトか、依子は無言。人差し指で彼女の後頭部を押してみると、依子はやっと気づいて顔をこちらに向けた。鬱陶しそうな眼差し。

「なに」

「原村が将棋したいんだってさ。俺、将棋分かんないし。依子なら出来るだろ」

 なんか将棋好きそうな顔してるし。NHKの高校生将棋選手権に出演していても違和感なさそう。

「やだ」

「なんで」

「いそがしいから」

 珍しく早口で言って、依子はノートに戻る。後ろからノートを覗き込んでみると、そこには一行だけ、『図書だより文案』と記述してある。

「なに、図書だより文案って」

 依子は再びシャーペンのノックでこめかみを突っつく。

「十月から、図書だよりは図書委員が交代でつくることになった。今月はあたしがつくる」

「そっか、今月は平野だっけ」後ろから原村が言う。

 俺は図書だよりなるものの存在を初めて知った。

「どこで配布してんだよ、図書だよりなんて」

 原村は初めて納豆を食った欧米人のような顔をした。

「君の目は一体どこに付いてんだ。学校中の掲示板に貼ってあるだろう。それに、生徒が図書だよりを作るようになって、一部からは面白くなったって結構好評なんだぜ」

「そうなの?」一部ってのが眉唾だ。「ていうか、なんで生徒が作るようになったの」

「言うまでもなく」

 と、原村は親指で背後の倉庫室の隠し扉を指した。やっぱり宮下か。本気で大丈夫かあの教師。

「ま、依子が出来ないなら仕方ないよな。原村、早くそのくっせえ将棋盤片づけろ」

「やだ、僕は今すぐ将棋がしたい!」

 駄々っ子みたいなこと言い出した。でも原村が言うなら割と似合うというか、いや、やっぱきもい。

「他に将棋出来そうな人知らない? 呼んでくる」

「どんだけだよ」

 俺はパイプ椅子に座りなおし、漫画の埃や砂を払いながら記憶を探る。

「そういや、いつかの昼休みに村瀬と吉岡が将棋やってたっけか。マグネットのやつ」

 やつら喧しい女子組は手を変え品変え、昼休みの暇な時間を有意義に潰している。いつだったか、テスト期間に早川沙樹がウノを持ってきて無駄に大盛り上がりして、生徒指導の玉木に見つかってちょっとした騒ぎになったこともあった。どうでもいいけど。

 原村が忙しく椅子を立つ。

「よっしゃ呼んでくる。吉岡……は止めておくとして、村瀬はどこにいる?」

「村瀬なら、さっき屋上で見た」

 あの夏の一件以来、村瀬彩音はちょくちょく屋上に現れては俺と並んで喫煙するようになってしまった。もちろん鍋島には内緒で。絶対怒られるし、俺も喫煙仲間に引き込んだみたいで申し開きが立たない。

「そうか、じゃあちょっと行ってくるよ」

 原村はスラックスに落ちた埃を叩きながら受付を出ていく。俺は漫画を開いて背中を深く椅子に預けた。足を組んでコマを目で追いながら、隠し部屋で煙草吸えねえかなぁとぼんやり考る。

 そのとき、前方からフラッシュが瞬いた。

 ちょっと驚いて顔をあげると、依子が俺に向けてデジカメを構えていた。一度画像を確認し、もう一枚、許可なし撮影。

「なんなの?」

 依子はデジカメをいじりつつ「顔がおかしい」と失礼な発言をして、一切の容赦なくデジカメを俺に向ける。俺は手のひらをかざしてファインダーを遮った。

「やめろって。なんで撮んの? つか、写真撮るなら被写体に了承を得ろよ」

 依子はデジカメを下ろした。俺も手を下ろす。依子は言葉を発しないが、目の色だけで「お前を撮影していいか」と聞いてきた、と思う。なんとなく分かるのが悔しい。

「せめて、なんで撮るのか言えよ」

「図書だよりの記事にする」

「は?」

「図書室のまちがった使い方として、記事にして読者に警鐘する」

 くそうぜえ。

「ざけんな」

「さいきん、純の真似をして漫画をかりにくる生徒がふえてきた。あたし、このまえ鍋島さんに注意された。気をつけないと、そのうち図書室は純みたいなのでいっぱいになるって」

 二人してくそうぜえ。なんだよ俺みたいなのって。

 俺は言い返す言葉を探したが、正当な返し文句が見つからず、「この学校に俺みたいなのがそこまでいるとは思えない」みたいな悲しい反論しか思いつけなくて、諦めて冷静になることにした。漫画を置いて、腕を組んで考える。

「記事のネタ、どれくらい浮かんでんの」

 依子はノートをちら見して、小さく息を吐く。

「なにも」

「なにもってことはないだろ。ほら、十月から生徒が作るようになったんなら、先月先々月のを参考にしてパクればいいし」

 依子は一旦俺の目を見据え、謎の沈黙を残し、カウンターの引き出しから二枚の紙を出した。十月、十一月の図書だよりだった。依子の隣にパイプ椅子を移動させ横から眺める。

 十月号は伊田栄介とかいう男子、十一月号は図書委員長の原村昭文が作ったようだ。

「初めて見る名前だけど、伊田栄介ってのも図書委員か。一年の図書委員が依子で、二年が原村だから、こいつは三年生?」

「うん。受験で忙しいから、めったに来ない」

 原村からは後で意見をあおぐとして、この伊田ってのに手伝わせるのは悪いか。

 二ヶ月分の図書だよりを交互に見る。一枚の紙を半分に折っただけの小冊子形式になっており、記事ごとの見出しは十月十一月ともに同じだった。図書室の行事ごとを伝える『○月の予定』、制作者の自己紹介『今月の顔』、制作者からの書籍紹介と感想文『私のおすすめ』、タイトルそのまんまで『図書委員からのお知らせ』、そして冊子の返し一ページをまるまる使い、『新刊書案内』がスペースを取っている。早くも定型化されているようだった。

「いいじゃん、このまま丸パクりすれば」

 依子は深刻そうな表情で首を振った。

「自分のことを書きたくない」

 俺は、思い悩むような依子の横顔をしばらく眺めて、深くため息を吐いた。

 人は簡単に変われないというが、夏以来、それでも依子は入学時と比べて大きく変わりつつある。あの夜に見た笑顔もそうだし、ここの所はなんとなく、みんなとの交流も積極的になってきている。しかしいかんせん自己表現ってのが苦手なままだった。

 他人からしてみれば些細なことでも、すべての人間がそうであるとは言い切れない。依子に無理をさせてまで、他のやつらの真似をさせることもないだろう。ゆっくりやっていけばいい。

「だから、純みたいな悪いのを記事にして、図書室を正しくつかいましょうって警告して、はんぶん埋める」

 だからってそれは認められない。でも、これ以外になに書かせたらいいかなんて俺に分かるわけないし。というかその前に。

「ぱっと見、この図書だよりってエクセルか何かで作られてるっぽいけど、依子ってパソコン使えんの」

 依子は無言で首を横に振った。

「だめじゃん。もう宮下に丸投げすれば?」

「だいじょうぶ。パソコンは、純におしえてもらうつもりだから」

 なにが大丈夫。

「俺も使ったことねえよ。ワードもエクセルも一太郎も」

 依子は、信じられない、という顔で俺を見返した。自分のことを棚にあげるのはこいつも同じか。携帯の使い方教えたからって調子に乗るな。携帯とパソコンは勝手が違う。

「原村先輩は、ふだん絵に熱中してるから、じゃましたくない。伊田先輩は受験中。宮下先生は面倒くさいのが嫌い。鍋島さんは毎日放課後に塾がある。心結は機械おんち。村瀬さんも機械おんち。早川さんと吉岡さんもたぶん機械おんち。うちにもノートパソコンがあるけど、ママもおばあちゃんもぜったい機械おんち」

「機械おんちばっかじゃねえか」

 原村の理由だけ納得できない。

「暇そうなひとで、たのめるのは純しかいない」

 依子はそこで台詞を切った。無表情ながらも、こいつの言いたいことが分かってきた。要は俺にエクセルの勉強をさせて、その上で分かりやすく自分に教えてくれと、依子はそう言いたいらしい。ざけんな。自分でやれ。

 沈黙の視線攻撃を交わしあっていると、肩を落とした原村が受付に帰ってくる。村瀬は見つからなかったようだ。



 2


 面倒くせえから嫌だ、と依子からの頼みを断ると、どんだけ俺に期待していたのか依子はあり得ないくらい不機嫌になって、「つかえない」と非常に性格の悪い一言を吐き、図書室を放置して一人でエクセル入門書片手に情報処理教室、俗称パソコン室へと向かった。

 そんなことがあってから、二日後。十一月の末だった。

 いい加減着慣れた冬服の上にコートを重ね着て、マフラーで首から口もとまでを覆って学校を出る。一昨日に雨が振り、さらに昨日の晩には気温が今年最低に達した。そのため、通学路のあちこちに固く氷の張った水たまりが多く見られた。

 単刀直入に、ぼうっとしていたため俺は道のど真ん中で一回すっ転んだ。

 転んだ痛みより、誰かに見られていやしないかという羞恥心であたりを見回す。コンビニ前でチキン食ってたリーマンがこちらを見ていたので、大丈夫ですよという意味の笑みをする。超恥ずかしい。

 血は出ていないが、膝に軽くあざが残ってしまった。

 地味に足痛いんだけど、一昨日原村に買ってもらったハイライトも底をつきかけていたので、商店街にある婆さんのたばこ屋に寄り、購入ついでに婆さんから親父の少年時代のどうでもいい話を聞かされて、「大して俺と変わんねえな」という素っ気ない感想を残して商店街を出た。

 商店街前の横断歩道に近づくと、うちの学校の制服を着た背の低い女子が、文庫本を読みながら信号を待っていた。そいつは過剰なほどの防寒具を身にまとっている。黒いタイツに、上は高校指定のコート。ウサギのシルエットが刺繍された耳当て付きのニット帽は高校生にしちゃ幼稚だったが、身長のせいであるべきところに収まっているという感じがする。顔のほとんどを隠すほどにマフラーをぐるぐる巻きにしている。そして手袋着用。本読んでるのに、ページめくり辛そう。

 ぱっと見は雪国の少女、あるいはコロポックルだった。

 その隣に居たおっさんが、タイミングを見計らって信号無視で横断歩道を渡った。

 彼女も文庫本に目を落としたまま、半分無意識に足を前に出した。数歩ずつゆっくり歩いていくその様子を何気なく眺めてると、彼女の斜め右からビッグスクーターが走って来るのに気づき、さっと血の気が引く。

「危ねえぞおいっ!」

 自分でもびっくりなくらいでかい声で叫ぶ。俺の声にびびったそいつは、凍った地面に足を取られてひっくり返り、結構派手に尻もちをついた。間一髪で彼女の目の前をビッグスクーターが通り抜けていく。まじで危なかった。

 俺は久しぶりに叫んだことでちょっと気が高ぶっていた。膝が痛いのも気にならず、足を早めて転んだそいつに近づいていく。彼女は打った尻をさすりながら立ち上がり、びくついた風に俺を振り返った。

 過剰防寒のせいで今まで気づけなかったが、その背の低いコロポックルみたいな女子は城川心結だった。

「本読みながら歩いてんじゃねえよ。轢かれるとこだっただろ」

 乱暴に手招きすると、城川は慌てて歩道に戻ってきた。まだ信号は赤なのだ。

「ご、ごめんなさい……」

「俺に謝ったって変わんないよ」

 もう一つ何か言おうとしたが、さっきまで城川の手にあったものが無くなっていることに気付いた。城川も手袋越しの自分の手のひらを見つめて、焦った表情を浮かべた。

「あれ……本がない……」

 二人ほぼ同時にさっきの場所を見ると、文庫本は開かれた状態で落ちていた。あっちの方はバイクに轢かれたらしく、ページが数枚千切れてアスファルトに散らばっていた。

「どうしよう、図書室で借りた本なのに……」

「あれ、私物じゃなかったんだな」

 普段なら俺の叱責はそこまでだけど、どうしてかこのときは収まらなかった。城川の不注意もそうだけど、依子と軽く喧嘩したことや道中で転んだことも、少しは影響しているのかもしれない。

「まったく、どうすんだよ」

「……ごめんなさい」

「俺に謝るなっての」

 城川は何も言えなくなる。轢かれかけたこともあるのだろう、ほとんど泣きかけだった。俺はさらに苛ついてその顔を見下ろす。ガキ代将に睨まれたいじめられっ子みたい図だ。

 ひとまず呼吸を置いて、怒りをおさえる。

「もう泣かないって言っただろ、城川」

「でも、恐くて……」

「どっちが?」

「も、もちろんバイクがです」

「なんで敬語になんの?」

 城川はいよいよ震え上がって、マフラーを目元まであげた。小さくすすり泣きながら「ごめんなさい」とまた謝ってくる。

 一応、俺ももうだいぶ落ち着いてきているし、もう怒っていないんだけど、どうしても口が悪くなる。あと多分目つきも。この辺は生まれつきだからしょうがないんだけど、どうしよう、これ。また俺、前みたいに城川のこと泣かせちゃってるし。

 謝るか慰めるかどっちが先かと迷ったが、信号が青になったのでとりあえず破れた本の残骸を回収してもとの位置に戻って、顔を隠したままの城川に声をかけようとしたら、横断歩道の先から依子がやってきた。

 ほっとして依子が来るのを待つ。依子は俺らの前で立ち止まり、タータンチェックのマフラーの位置を手で直した。こいつにも事情を説明して、城川をなだめてもらおうと思う。

 依子は最初こそ無表情だったものの、俺の手にある破れた図書室の本を認め、次にマフラーで涙を拭う城川を見て、最後に、依子史上三番目くらいにキレた視線で俺を睨みあげた。半分図星で、半分勘違い。

「違う」

 言い訳をする暇もなく、依子が両手で俺の胸を押した。容赦なく全力で。足場が悪いため俺は簡単に足を滑らせ、本日二度目、痛めた膝からしたたかに転倒した。文庫本の残骸もそばに落ちて散る。

 依子は静かに残骸を拾いあげて学生鞄に入れ、城川を守るように後ろへ隠した。

 その目は、敵愾心に満ちていた。

「心結を、いじめるな」

 地面に手をついたまま、俺は抗議の視線を依子に浴びせた。

「お前さ、ちょっとは人の話聞けよ」

 ていうか膝痛い。無理を押して立ち上がり、弁解すべく二人に近寄ったが、依子がまたしても敵意たっぷりに攻撃してこようとするので、俺は後ずさりを余儀なくされた。

「おい、待てって。違うから」

「ちがわない。泣かせた」

「たしかに泣かせたのは半分俺だけど、でもマジで俺だけのせいじゃないの。話聞けっつの」

「うるさい」

 依子がまた押し出してきた。これがまたうまく体重を乗せてきやがる。

 二度ならず三度目の転倒。しかも俺の背後にはちょうど、古本屋の雑誌のラックが並べられており、そこに思いっきり突っ込んでしまった。派手な音と共に、転んだ俺の頭に雑誌の山が出来る。

 さすがの俺も、これには意気消沈してしばらく動く気になれなかった。

 わずか三十秒後に本屋の店主のいかつい爺さんにつかまり、無理矢理叩き起こされた上、ラックと雑誌をもとの場所に直すよう命じられる。挙げ句の果てに道ばたで正座をさせられ、十五分ばかりの長い説教を食らった。言い返す隙すらないほど波状的に。

 説教が終わって周りを見渡したが、当然のごとく依子と城川はいなかった。



 3


 昨日から膝に違和感がある。そして眠い。

 さっさと登校して机で居眠りしたかったが、待ってましたとばかりにニヤリと笑う鍋島由多加に掴まり、背後からやたらと話しかけられる。ぜんぜん離してくれない。話半分に聞く限りどうやら原村の話らしいが、ぶっちゃけどうでもいいし俺も毎日会ってるわけだから原村の血液型がどうとか仕草や癖がどうとかはあらかた知っているわけで、もし知っていなくても興味はないし、興味のある振りをする元気もない。

 だからシカトして突っ伏そうとするが、肩を掴まれ無理に引き起こされた。俺の態度に、鍋島は気を悪くしていた。

「人が話している最中に寝るのはどうかと思いますけど」

 俺は鍋島の手を振り払って軽く睨みつけた。

「俺を恋愛相談窓口にするな」

 鍋島はきょとんとしてちょっと顔を近づけてくる。

「恋愛……なんですか? ちょっとよく聞こえなかったです」

 死にたい。

「なんでこんな恥ずかしいこと二回も言わせんの?」

「いや、普通に聞こえなかったんですよ。恋愛、なんですか? 今泉くんの口からそんな単語が出るなんて、ちょっと気になるんですけど。ねぇもう一回」

 俺は椅子に横向きに座って、遠くを眺めながら「今日もいい天気だな」と言いながら学生鞄から教科書を出して適当なページを開いた。そういえば、冬休み前の期末試験が近い。

「今泉くん、体調でも悪いんですか?」

 思いのほか失礼なことを言われた。

「俺が勉強しちゃ悪いか。こう見えても家じゃちゃんとやってんだよ。独学派だしな」

「だとしても、学校でもやってる振りくらいはしといた方がいいですよ。ってそうじゃなくて、本当に大丈夫ですか? なんだか顔色が悪いみたいですけど」

「そう?」

 鞄から手鏡を出して確認してみようと思ったが、そもそも俺は手鏡など持ち歩いていなかった。それを察した鍋島が机から折りたたみ式の鏡を出して手渡してくれる。蓋の端っこに原村と鍋島のプリクラが貼られてあったので思わず叩き折ってしまうところだったが、すんでのところで我慢して手鏡を開く。

「普通じゃね」

「ですかね。じゃあもともとなのかな。今泉くんって相当、不健康な生活送っていそうだし」

 それに関して俺は特に言い返さず、黙って鏡を返した。そしてまた鍋島の惚気話が始まる。彼女にとってさっきのやりとりは大した問題にもならないようだ。こっちが疲れているにも関わらず、うだうだと喋り続ける。

 徐々に瞼が降りてきて目が半開きになる。眠い。鍋島は俺にこんな話を聞かせて何が楽しいんだろう。俺の方は面白くもなんともないし、むしろ苛々するだけなのに。そういうオーラ出してるのに。出してるつもりなのに。

「すごいんですよ、そのお好み焼き屋さんが。昭文くんなんか豚玉二つも頼んじゃってね」

 もう自己満足の域だ。気分悪い。ていうか体調悪い。

 教室前方の入り口から城川心結が入ってきて、自分の机に鞄を置いて俺たちの席に近づいてきた。いつもより歩幅が狭く、そして浮かない顔をしていた。

「おはゃ、おはよう」

 噛んでるし。

「おはようございます城川さん」

 空気を読めない乙女モードの鍋島が笑顔で迎えた。俺はうなだれたまま低く手をあげる。

「昨日、ごめんね今泉くん。あの後、わたしちゃんと依ちゃんに説明したから。そしたら、依ちゃんね」

「いいよ、もうその話」

 うんざりだし、身体のあちこちが痛くてそれどころじゃない。主に膝。

「なんですか、なんの話?」

 KY鍋島が興味を惹かれたように身を乗り出して俺らの顔を交互に見てきた。俺は非難混じりの目を城川に向けたが、城川は全く気づいていないようで、困り顔を鍋島に見せた。

「依ちゃんと今泉くん、また喧嘩しちゃって……」

「またですか!」

 うっせえ。

「今回は何が原因なんですか。また今泉くん?」

「うんとね、今回はどっちがってわけじゃなくて、わたしがへましちゃったからで、ちょっとごちゃごちゃしてるんだけどね、ええと……」

「焦らなくていいですよ。たまには私が仲裁してあげるので、ゆっくり順を追って教えてください」

 俺はため息を吐き、勢いよく教科書を閉じた。それに合わせて城川の肩が跳ねる。鍋島が不快感をあらわに眉をひそめた。

「さっきから、なに怒ってるんですか?」

 俺はこれ以上こいつらと話したくなかったので、教科書を机に入れる。前に向き直ろうとするが、鍋島が俺の制服を引いた。

「無視しないでくださいよ。ねえ、そんなに知られたくないことだったんですか。いいじゃないですか、私だって全部自分のこと話してるんだから」

「別に聞きたくもないのに、そっちが勝手に話してくるだけだろ。うぜえんだよいい加減」

「うざいって……なにその酷い言い方。そんなんだから平野さんに嫌われるんじゃないんですか」

 俺はいよいよ本腰入れた睥睨を飛ばした。鍋島も負けじと睨み返してくる。

「お前が俺らのなにを知ってんの?」

「お前じゃないです、鍋島由多加です。その口の悪さ、そろそろ直した方がいいですよ」

「これが俺なの。つーかさ、事情も知らないくせに俺が悪いって決めつけんのやめてくんない?」

 城川がテンプレートにきょどりだすのを尻目に、鍋島は反論すべく口を開きかけたが、はたと閉ざし、まじまじと俺の顔を眺めて一拍置いた。冷静になろうとしているのか。

「わかりました。訳も聞かずに悪者扱いして、すみません」

 精神年齢の差を見せつけられたみたいで無性に悔しい。

「それじゃあ、今泉くんが話してくださいよ、その事情ってやつを。友達なんだから話を聞くぐらいいいですよね?」

「男女の友情は成立しないってこの前テレビでやってたけど」

「はぐらかすなバカ泉」口調崩れてる。「それともなんですか、私が入ってこなくても二人は仲直り出来るんですか?」

「出来んじゃね」

 あんまり考えずに即答すると鍋島が今にも飛びかかってこんばかりの剣呑な目つきをたたえるので、俺は正直に「たぶん出来ない」と訂正した。今さらだけど、教室中の視線がちらほら俺らに投げかけられているような気がする。耐えられそうにないから、俺は誤魔化し笑いをした。

「まぁ、でもいいじゃん。俺と依子って昔からこんな感じだし。喧嘩してるのがデフォルトみたいな。時間が経てばいつもみたいにうやむやになんだろ」

 鍋島は俺の言葉に一切の信憑性を見い出せないようで、無言で城川と目配せを始めた。結構長めに。ややあって城川が首を横に振ると、鍋島が、やっぱり、みたいに頭を抱える仕草をした。なんだこれ。

「そこが駄目なんですよ今泉くん。ぜんぜん駄目。いいですか、平野さんがこの学校で一番仲がいいのって、あなたなんですよ。親戚だからってわけじゃない。信頼できる、最後の城なんです。この前の夏を見てわかる通り。平野さんにとって、最もたよりになる人があなたなんですよ。そんなこともわからないなんて、今泉くんって人は、ほんと駄目」

 たよりとか言われるとちょっと弱い。それはいいけど、いま何回駄目っつったこいつ。しかし俺は何も言い返せなくなり、鼻を掻いて口ごもってしまった。城川が何か言いかけたが、また鍋島に先を越される。

「すぐにでも平野さんと仲直りした方がいいです。もうすぐ冬休みだし、早くしないと手遅れになりますよ」

 別にいい、そう言おうとして、俺は思いとどまる。そうか、もうすぐ冬休みなんだよな。

「たしかに、仲直りした方がいいかもな」

「うん……なんですか、今の間」

「いや。もう一、二週間したら正月じゃん」

 鍋島は首を傾げる。

「それがどうしたんですか」

「たぶん俺、正月は依子んとこで過ごすだろうし。喧嘩引きずったままじゃ絶対気まずいだろ。あんまり雰囲気おかしくすると、また叔母さんや母ちゃんからいじられる」

 今度はジェスチャーではなく、鍋島は本格的に頭を抱えた。

「やっぱり、駄目な人ですね」



 4


 ああだこうだとへそを曲げても、鍋島の言う通り俺は駄目なままなんだと思う。色々あって反省したり自戒したつもりでいたけど結局こうして同じ道の上をぐるぐる旋回し続けているような、何にしても、人は簡単に変わらないというのは依子だけじゃなくて、俺も同じだったってことだ。

 それでも一応改心した体裁を保つべく、放課後に図書室に行って一言謝って図書だより制作に付き合ってあげようと気持ちを入れていったのだが、受付に依子はいなかった。ついでに原村も。

 カウンターに涎を垂らしながら居眠りぶっこく宮下を叩き起こして、依子と原村の所在を聞いた。

「えー、なに? 分かんなぁい」

 俺は生まれて初めて教師の顔をひっぱたきかけた。

「ねぇこれ誰の真似か分かる? ヒントは君のクラスのいつも不機嫌そうなあの人です」

「吉岡。そういうのいいから、早く教えてくんない」

 宮下は短髪を掻きむしりつつあくびをした。銀歯が両奥に二つ。

「本当に分かんない。なんだか知らないけど、二人が職員室にやってきてね、『なんとかを作るので、今日は先生、受付お願いします』って、押しつけられちゃった」

 なんとかて。

「図書だより?」

「あーそれそれ、図書なんとか」

 五頭はまだ職員室にいるだろうかと俺は考えた。だけど彼をここに連れてくるのは面倒だし時間がもったいないしどうせ宮下だし、二人の居場所は大体分かったので、俺は図書室を後にした。



 5


 情報処理室の扉が数センチほど空いていた。足音を立てないように近寄り、その隙間から中を覗く。

 長く延びる二列のパソコン台。教卓側からカーテンが奥まで八割ほど開き、その先に薄暗くなった空が見えた。

 原村は室内で無作為に足を動かし、スケッチブック片手に、一台のパソコンとその周辺機器類を眺めていた。ときおり足を止め、紙に鉛筆を走らせる。

 その二つ隣の奥の席で、依子はパソコンに向かっていた。これでもかというほどに画面へ顔を近づけ、たまにキーボードを見下ろし、拙いタイピングをしている。文章を作成しているというより、ローマ字打ちをするので精一杯という感じだった。

 やがて、原村が脱力してデスクチェアに腰掛けた。背もたれに頭を預け、顔を逆さまにさせる。

「なぁ平野ー」

 依子が険しい目つきのまま、原村を一瞥する。

「僕、もう帰っていい? そろそろ今泉来ると思うけどなぁ」

 依子は強く首を振った。

「ぜったい、こないです」

「でもさ、僕だってちんぷんかんぷんだし、文章作り苦手だし、根っからのアナログ人間なんだよ。ぶっちゃけ、僕の号も鍋島に手伝ってもらったわけでさ。よっぽど今泉の方があてになると思うけどなぁ」

「こないなら、意味ないです」

「だけどさぁ」

 原村はデスクチェアで反っくり返った意味不明な体勢のまま回転した。チェアの根本がぎしぎしいってる。

「機械の絵描いてもおもしろくないんだよなあ。暇だなー、あー」

 依子はディスプレイに目を戻した。ぶつぶつと唇がうごめいているが、ここからじゃなんと言っているのか聞こえない。

 俺は、もう帰ってしまおうかと思った。俺ぜったい来ないってあいつ思い込んじゃってるし、ならそのままでいいじゃねえかって、そういう器のちっちゃい反抗心が沸いた。

 そんなむかむかのせいで気づくのが遅れた。反転顔の原村が、瞼をしばたかせながら俺を見ていることに。

 俺はとっさに唇に人差し指を当てた。何も言うな、と口を動かして伝えた。鈍い原村でもさすがに伝わるらしく、逆立ち頭が小刻みに揺れた。

 幸い、依子は彼の挙動に気づいた様子はない。

 しばらくして、原村がばっと頭を前に戻した。

「平野、やっぱ僕帰るよ」

 依子はじっと画面を睨んだまま、小さくうなずいた。

「つきあってくれて、ありがとうございました」

「いいよ。こっちこそ悪かったね、なにも出来なくて」

 依子は語尾を低くして「いいんです」と答える。

 原村はスケッチブックを脇に挟み、ポケットに両手を入れて俺の隠れている扉に歩いてくる。俺は慌てて廊下の脇に下がった。壁に背中を預け、原村が出てくるのを待つ。

 原村は扉を引いて閉じ、俺のそばにやってきて、一番に「素直じゃないね」と声をひそめて言った。俺は前髪を触りながら、同じように声を小さくする。

「まじでそうだよ。大体あいつってさ、」

「平野も、今泉もね」

 俺は長いこと閉口し、やがて観念して「わかってるよ」とつぶやいた。なんていうか、本当に色々と駄目だ。

 原村は俺の隣の壁にもたれ、流し目に俺を観察して、小さく笑う。

「さっきの会話聞いてたと思うけど、実は僕、そこまでパソコン苦手ってわけじゃないよ。鍋島に手伝ってもらったっていうのも嘘。あんなの、三十分もあればちょろちょろぱっぱ」

 謎の擬音。

「原村って、相変わらずやり方が回りくどいよな」

「君が来ると信じていたから、僕も安心して回りくどく出来た」

 自分で言ってて恥ずかしくないのかよ。って突っ込みたかったんだけど、羞恥心から上手く言えなかった。風邪気味なのはもう確定みたいで、鼻がつまるから音をなるだけ立てないようにすすった。

「そういうことだから、バトンタッチ」

「いい、俺帰る」

「いいからいいから」

 逃げ帰ろうとする俺の腕をつかみ、原村は結構な力で後ろへと引っ張った。「おいっ」と俺は小声で言ったが、そんな勢いのまま背中から扉にぶつかった。どしゃん、みたいな激しい音。当然だがこのままじゃ依子に見つかる。しかし、俺はちょっとすぐには動けそうになかった。今の衝撃で、痛めた膝に響いたらしかった。

 そんなことはつゆ知らず、原村は声もなくにやにや笑って一目散に廊下を駆けていった。あの野郎。追いかけたかったけど、やっぱ動けねえ。

 扉一枚の奥、タイルカーペットを踏む足音が近くなってきていた。俺は諦めてその場に座り込み、とりあえず膝を伸ばしてさすった。

 ゆっくりと扉が開き、依子が眼前に現れた。ばっちり俺と目を合わせる。この冷えた廊下よりもずっと、冷ややかな瞳をたたえていた。

「いつから」

 もういいか、という投げやりな心持ちで俺は答える。

「絶対来ない、ってお前が言ったあたり」

 依子がそっと唇を噛むのを見て、俺もいい加減性格悪いなって思った。右膝をさする。

「あのさ」

 依子はスカートを抑えてしゃがみ込み、平行に俺を見据えてくる。

「手伝ってやりたいのは山々なんだけど、なんていうか」

 依子はうなずく。黙って俺の言葉を待つ。空気を壊しやしないかと俺はひやひやする。でも、こればっかりは仕方ない。額に浮かぶ脂汗を拭う。

「手伝う前に、膝痛いから病院行っていい?」

 しばらく漂う無言空間。切実に訴えかけるように依子を見るが、その表情は相変わらず感情というものを読ませてくれない。原村によってついに止めを刺された俺は、もう依子の心理状態を推し測る気力もなくなっていた。

 その日、俺は初めて、依子との自転車二人乗りで荷台に座った。



 6


 結果から言うと俺の右膝はそれなりに酷い状態だったみたいで、もっと言うと膝頭と臑の一部にそれぞれヒビが入っていたという、どうして今まで耐えてこれたのか自分でも不思議なくらいだったのだがとにかくそういった具合で、しかも軽く風邪気味でもあったんだけど、運のいいことに二日入院しただけで学校に復帰することができた。

 校門までは親父の車で送ってもらった。松葉杖での歩行は一向に慣れない。初日だから仕方ないかもしれないが、それにしたってもう一日二日くらいは休ませてほしいものだ。普段は放任主義のくせに、うちの両親は変なところで冷徹である。

 今日一日、いじられ半分に色んな奴らから心配されたり怪我の原因を聞かれたりしたが、俺は適当に受け流し、また怪我の理由は決して答えなかった。転ばされたからとか、大人げない。

 そんな中、ただ一人だけ俺に声をかけてこない者がいた。言うまでもなく依子。もはや風景の一部と化した教室中央での着座姿を、まるでそれが自分の仕事なのだとでも言うように今日も維持し、さらに、ただの一度も俺を見ようとしない。

 三日前のあの夜からそうだ。「病院行きたい」と言う俺に対して、依子が口にしたのは「もう純には、パソコン教えてもらわなくていい」という謎の返答だった。会話が噛み合っていない。それを最後に依子は口を閉ざしてしまった。そのあとの病院の受付も、何故か俺がやったし。

 城川や鍋島にもその一部始終を話した。別に俺ももう謝ってもらうつもりもないのだが、それにしてもあんまりじゃないかと。まぁ、病院までは一応自転車で送ってくれたから手打ちにしてもいいんだけど、どうしてあのタイミングで俺を拒絶するのか気になって仕方がない。

「実は平野さん、とっくに図書だより作り上げているみたいですよ」

 どうしてなのか、鍋島はいくらか勝ち誇ったように言った。

「じゃあなんで……」

「さてね。今じゃ、私たちの方が事情通ですから」

 それから二人は顔を見合わせてにやにや笑い合っていた。



 7


 翌日の昼休み、学校中の掲示板に今月号の図書だよりが貼られた。放課後、松葉杖をついて生徒玄関に向かう途中、保健室前に貼られた図書だよりを見かける。自己紹介は省いたらしくて、代わりに書籍紹介の欄が二枠に増えている。江國香織の『冷静と情熱のあいだ』と、藤沢周平の『隠し剣シリーズ』。なんだこのチョイス。

 あれだけ悩んでいたのに案外上手く書けている。ていうか、これ本当に依子が書いたの? ってくらい文体が熱い。俺でも知らない意外な一面ってことか。

 携帯に着信があった。しばらくは車で送り迎えしてもらうため、親父からだろうと踏む。靴箱に半身を支えてメールを開くと、案に相違して送信者は平野依子だった。最初のコンタクトがメールとは、あいつも意地っ張りが治らない。

 文頭には健気にも『けがさせてごめんなさい』。二行目に『仲なおりしましょう』とある。短いメールなのに不意打ちで涙腺にきてしまいそうになる。というのは冗談としても、俺はいささか驚愕してしまうのだった。二行目の文末で、何やらもぞもぞとうごめく絵が添えられている。

 動揺を抑えられず、慌てて来た道を戻る。松葉杖をつき始めて以来、ここまでやる気出して前に進むのは初めてだった。あんまり乱暴に進んだため膝に響いたが、そんなことを気にしていられるほど俺は冷静でいられなかった。

 図書室のドアを体当たりするみたいに押し開いて、受付に依子がいることを認める。彼女の握りしめる携帯がカウンターの上から見え隠れしている。

「依子、お前」

 息切れが激しい。自分の体力のなさを嘆きながら、一歩一歩カウンターに歩み寄っていく。珍しいくらい図書室は閑散としていた。受付の奥から原村が顔を出し、「やっと来たか」みたいな笑みを見せた。

「デコメ使えるようになったのか」

 女の顔らしきデコメで、どことなく依子に似てる。自然体の表情から笑顔へと変わっていく、いわゆる動くデコメ絵文字。

 依子は口の動きを最小限に、「しかも、あたしの手づくり」とひかえめに言った。照れているのかもしれない。

「すげえなおい」

 依子は照れてるんだか何なのかよく分からない顔をして、ピースサインを作った。

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