chapter62 笑顔
とある土曜の午後。喫茶店ソレイユにて。
注文のパンケーキとチャイ・ラテをテラス席の癇癪爺さんのテーブルまで運びに行くと、爺さんが剣呑な面もちで手招きした。
「ちょっとここ座れ」
爺さんの言うがままに隣の藤椅子に座らせられる。他に客いないからいいけど、このじじいは業務中の店員をなんだと思っているんだろう。
爺さんがショートホープのどぎつい煙草を俺に寄越してきた。
「お前、これ吸え」
本当になんだと思ってんだ。そしていまだに名前を覚えてもらっていない。振り返って、レジカウンターで休めの姿勢で待機する浅海さんを見た。浅海さんは親指を立ててゴーサインを送った。
エプロンの前ポケットからライターを出して、おっかなびっくり火を点ける。道子叔母さんに見つかったら問答無用で叱られる。
癇癪爺さんは俺の喫煙姿をまじまじと睨み据えて、一言、「ふざけるなよお前」と凄んだ。
「え、なにがっすか」
爺さんはソレイユの入り口を指さした。
「表の看板はなんだ」
俺は店先に設置した立て看板のことを思い出した。今朝、その黒板式の看板に向かい、自分の字の下手くそさ加減に絶望しながらチョークであくせく書いた短い文。
『本日、十八時より貸し切り予約のため、まことに勝手ながら十七時をもって閉店とさせていただきます』
俺はおそるおそる答える。
「なんだと言われても、あれに書いてある通りですけど」
「おれは閉店まで居るぞ」
「居ればいいじゃないですか。午後五時までだけど」
爺さんはテーブルをどんと叩いた。皿に乗ったパンケーキが一瞬宙に浮いた。
「おれは通常営業の二十時まで居るっ」
俺は爺さんをぶっ飛ばしたくなる気持ちをぐっとこらえた。
「いや、だから十八時から貸し切りですって。予約ももう取ってあるんですけど」
「それで、何をするつもりだ」
「貸し切りライブと、あと個人的な誕生日パーティみたいなものですけど」
「誰だ、その予約を取ったやつは。今すぐここに呼べ。止めさせてやる」
二口だけ吸ったショートホープを灰皿に押しつけて、どう答えたものかと俺は悩んだ。しかし即座に浮かんでくるような言い訳は思いつかないし、嘘をついたらついたで後が面倒なので、俺は正直に答えることにした。
「俺です」
爺さんの顔色が変わった。悪い風ではなく、なんとなく良い方向で。
「誕生日とは、誰の誕生日だ」
「俺の親戚のですが」
俺は厨房の陰から心配そうに見てくる道子叔母さんをそれとなく顎で指して言った。
「あの人の娘の誕生日」
爺さんが俺の腕をつかんできた。意外と握力があって痛い。
「道子さんの娘っこか」
「だから、そう言ってんじゃないすか」俺はかなりうんざりしていた。
「じゃあ俺も祝ってやる。参加していいな」
テラスのたもとで鳩が「ぽっぽ」とか言いながら餌を期待している。その鳴き声がよく聞こえた。それくらいの重たい沈黙が俺と爺さんとの間に流れていた。
俺は振り返り、浅海さんの反応を期待した。また親指を立てられた。
癇癪爺さんは息子の嫁を嫌っている、というか恐れているらしい。だから連日連夜ソレイユで時間をつぶし、出来るだけ家には帰るまいとしているそうだ。まぁそんなことはどうでもいいんだけど。
十七時の閉店を見計らったように、まず鍋島と村瀬と城川のかしまし三姉妹がやってきた。彼女らはイベントの準備を手伝おうと厨房にやってきたが、一応ゲストなので、適当なテーブルにオレンジジュースを出して着座させた。
それから浅海さんがセダンを出し、どこぞでぶらついているはずの早川と吉岡を迎えに行った。
待っている間、村瀬が手提げバッグからクラッカーを取り出した。
「平野が来たときに備えて、今から作戦考えとこうぜ」
彼女はどうも誕生日ドッキリ的なものをやりたいらしい。それはいいが、そもそも依子は最初からこの会の開催を知っているわけで、依子が気を使ってクラッカーに驚くふりでもしてくれない限り、ドッキリもくそもないわけだ。しかしそれはありえない。依子は空気を読むということを基本的にしない。
次にやって来たのは宮下と五頭の教師二人。五頭は小学生の娘を連れてきていた。いつか、プールサイドで俺に水鉄砲を食らわたのちに弟を羽交い締めにして溺れさせようとしたあのガキだ。
というか俺、宮下は誘ったけど、五頭は誘った覚えがない。盛り上がった勢いで誰かが酒呑むかもしれなかったし。ていうか俺、このバイトも無断なんだけど。
五頭が近くに寄ってきて、周りに聞こえないようにぼそりと言う。
「この件は月曜に改めて聞く」
やはりぬかりはない。話を聞けば、どうやら宮下経由で伝わってしまったのだという。
店の奥から店長がやってきた。店長は五頭を見た瞬間、普段絶対崩さないはずの無表情を破顔し、彼を歓迎した。
宮下がそっと俺に耳打ちした。
「店長さん、高校時代の同窓生みたいですよ。五頭先生ね、お店の名前出した途端、急に『私も行きます』って聞かなくなって」
浅海さんのセダンがソレイユの駐車場に停まった。早川と、他二名の女子が降車してくる。彼女らを降ろすと、浅海さんはまたどこかへと車を走らせた。どうやら数が多いため二グループに分けて送迎するという。予想外に人が増えてしまったようだ。
十分ほどで吉岡の女子グループがやってきた。二グループ合わせて合計七名。彼女らはしばらく店先で話し込み、ぞろぞろと店内に入ってきた。
その中にしれっと依子が混じっていて、村瀬はしばらくそれに気づかず、やがて依子を見つけて慌ててクラッカーを鳴らした。
「いるならいるって言えよっ」
逆ギレして、使用済みのクラッカーで椅子の端を叩いていた。
親父と母ちゃんは残念ながら仕事を抜けられないようだったが、弟は十八時四十分ほどにやってきた。すぐに五頭の娘に絡まれていた。
続々と客が入店してくる。たぶん誰かの友達や知り合いなのだろうが、ほとんど俺の知らない人ばかりだった。
その間、店長はライブの準備を始めていた。道子叔母さんだけでは厨房が回らなくなってきたので、浅海さんもその手伝いをした。俺ひとりで来客名簿と入店料を管理するのはなかなか骨が折れたが、不思議と今ばかりは忙しければ忙しいほど楽しいと感じる。
入店もまばらになり、客もほとんど揃い踏みになった頃。見覚えのある中学生風の男子がギターケースを提げ、店に入ってきた。
「ようお兄ちゃん。夏休みぶりだな」
男子中学生の後ろには、彼と同い年くらいの少女が居た。彼の背中に半分隠れていて、いかにも控えめそうな城川みたいな女の子だった。男子中学生は彼女を指し、「これ、いつか話したオレの彼女」と若干にやけて言った。
ノーコメントで名簿を差し出す。男子中学生は名前を書き込む。『花田和人』。案外普通の名前。
最後にやってきたのは原村だった。彼はでかいキャンパスを脇に抱え、息を切らしながら店に入ってきた。
「いやー、間に合った間に合った。タイヤがパンクしちゃってさ。自転車そのへんに放置して走ってきたよ」
「相変わらずすげえ根性してるな」
店内はすでに人で混雑していた。テーブルのキャパシティなど軽くオーバーし、立ったままライブ開始を待つ人も多数だった。
十九時になったところで、俺はいったん来場を締め切った。
「ていうか原村、絵完成したんだな」
「もちろん。見せてあげよう」
原村はキャンパスのカバーに手をかける。俺はそれに待ったをかけ、厨房の道子叔母さんと浅海さんと依子、そしてギターの調律をしていた店長を呼んだ。
レジカウンターの壁が広く空いていた。飾るならそこがいいだろうと思い、前々からスポンサーなどの広告は控えてもらうよう頼んでおいたのだ。
店内中の視線がにわかに集まる。原村はキャンパスに掛けられたブルーのカバーを外した。
「この絵にタイトルをつけるとすれば、『ソレイユの皆さまへ』でいいかな」
あらかじめ壁に打っておいた釘にキャンパスを掛ける。軽く揺らし、角度を直す。俺は改めて絵を眺めた。
そこにはソレイユの洋風一軒家ような外観が斜めから描かれている。空は巻層雲を含んだ快晴。壁沿いに設置されたベンチや、ドーム状の灰皿、店看板、その端からのぞく菜園などが細かく描き込まれていた。人物は五人。皆思い思いの自然体で描かれ、それぞれ特徴を捉えた笑みを浮かべている。触れるか否かという加減でキャンパスの表面を指でなぞる。俺、浅海さん、店長、道子叔母さん。
「これ、依子?」
俺の指はそこで止まった。
「そう。ちょうど平野の誕生日だし、このお店とも関わり深いと思って」
他四人は店オリジナルの胡桃色エプロンを着用しているが、依子は従業員ではないので制服姿。依子は俺の右隣、店の壁に背を預ける形で腰を屈め、快晴の空を見上げるようにして微笑んでいた。
「笑ってるな、依子」
見たまんまの感想を述べると、原村はマッシュルームカットを掻いて笑った。
「僕の想像だけどね。実際とは違うかもしれない」
「いや、でも自然だな。たぶん笑ったらこんな感じだろ」
道子叔母さんに背中を押され、依子は絵の前に立った。じっとそれを見つめる。数十秒たっぷりかけて眺め、少しうつむぎがちにうなずいた。
「きっと、こんなかんじ」そうつぶやいた。
俺もきっとそうだと思う。原村が描いた時価五万相当の絵。ここのバイトで稼ぎ、そしてこの店に飾るわけだから、なんだか上手いこと循環している気がする。
店長から握手を求められ、俺と原村は順番にそれに応えた。「ありがとう。大切に飾らせてもらう」幾度か繰り返し、店長は俺たちと握手を交わした。
拍手が巻き起こる。純粋な祝福が込められた拍手だった。
店貸し切りの一夜ライブが始まった。カウンターのそばにテーブルを出し、店長がリーダーのインディーズバンドCDを並べた。一枚千円。無事売り切れるといいけど。
舞台はオープンテラスである。満席御礼で立ち見客もごった返している。メインはもちろん店長のバンドだが、いつの間に打ち合わせたのか、男子中学生こと花田和人少年が前座演奏を受け持つことになっているらしい。
「えーと、平野先輩の中学時代の後輩ということで、隣県の田舎から呼ばれてまいりました。今回、センエツながら前座をつとめさせていただきます、花田和人です」
花田和人はがちがちに緊張していた。無理もない。路上の梨売り兼、詐欺演奏師からこの昇格っぷりなのだから。
俺はレジカウンターでジンジャーエールを飲みながら、ひやひやしつつ見守った。あら可愛い、とか道子叔母さんが隣でこぼしている。
「ご来場の方で、今日誕生日のひとはいますか?」
依子と他二名が挙手する。十月十五日生まれ意外と多い。花田和人がハッピーバースデーの演奏をかけ、客とともに合唱する。俺はショートケーキを用意してさりげなく配っていった。
「それでは、演奏させていただきます」
彼はギターを担ぎなおす。
「オリジナル曲も一応あるけど、やっぱりオレはこれを弾きたいなって思ってました。世界平和を謳った有名な一曲です」
花田和人は視線を二度動かせた。初めに依子、次に俺である。ちょっと目が笑ってる。あの曲だな、と俺は確信した。
◆
二時間後。ライブは終了し、来場客がぽつぽつと店をあとにしていく。店長のCDは見事完売、彼らの演奏もかなり盛り上がっていた。
店内もまばらになってくると、花田和人が彼女を連れて俺のもとまで来た。
「どうだったかな、オレの演奏。変じゃなかった?」
「いや全然。むしろお前、あのときよりも断然上手くなってたよ」
素直にそう感じたので俺はそう答えた。花田和人ははにかんで笑い、そりゃよかった、と言って彼女の手を引いた。海辺の町では常に自信満々な彼だったが、さすがに今回はプレッシャーが大きかったのだろう。
「お疲れ。ありがとな、来てくれて」
店を出ていく花田和人の背中に声をかけると、彼は背中越しにきざっぽく片手を振った。
夜十時を越え、片づけと店仕舞いもなんとか終えた。駐車場ではいまだ女子数人がたむろしていた。俺は店長や浅海さんと一緒に店先で煙草を吸った。終始動きっぱなしだった身体はひどく汗ばんでおり、シャツが背中にへばりついていた。初秋の夜風が吹き、少しずつ肌を冷やしていく。空では黄金色が黒の下地を丸く切り取っていた。
夏はもう終わったんだな、ふとそう思った。
「帰るぞ、美野里」
浅海さんが呼びかける。女子集団の中から吉岡が抜け出てくる。
「じゃあな純一。明日も遅刻すんなよ」
浅海さんは吉岡を携えて歩き出す。そういえば、あの二人ってもう付き合ってることになっているのかな。相変わらず微妙なラインを均衡し続けている。
ふいに吉岡が立ち止まった。俺の方を向くと、「今泉」と呼びかけてきた。
「なんだよ」
少し沈黙が流れる。くすぐったいような、しかも煮えきらない沈黙。薄暗いので、彼女の顔は表情が読めるか読めないかという程度だった。
「楽しかったよ」
吉岡は手を軽く振って、すぐさま浅海さんの背中を追いかけた。
店長も店を出てゆき、やっと一人になったところで俺も帰ることにした。
一般歩道に出て、駅方面に向けて数十メートル歩くと、そこにはコンビニがあった。そこを通りかかるとき、また騒がしいグループに呼び止められた。鍋島三姉妹、原村と早川兄妹、そして依子。これがまた変な空気がそいつらの間に流れていた。鍋島は何故か赤面し、そわそわしていて見るから挙動不審である。それをにやにやしながら見る村瀬と早川。原村が俺に近づいてくる。俺に両肩に手を置き、意味深にうなずいた。
「お前、もしかして告った?」
原村は答えなかったが、場の雰囲気でもう丸分かりである。俺は原村と鍋島の顔を交互に確認して、なんと言っていいものか分からず、とりあえず「俺の居ないときにすんな」と原村の腹を小突いて、ついでに鍋島の肩もひっ叩いた。
「よかったじゃん」
鍋島は叩かれた肩をおさえて、動転して目を白黒させた。この反応。ぶっちゃけこの二人は出来レースだ。いつかこんな風になると思っていたし、そこまで驚くものだろうか。彼女は一、二歩後ずさり、しばらく口をぱくぱくさせていたが、結局なにも言えずに黙り込んでしまった。村瀬がぽつりと言う。
「今泉、興奮し過ぎ」
もっとからかってやりたかったけど、これ以上は可哀想なのでやめた。
◆
原村と早川は俺たちの二つ先の駅で降りる。電車内は座席が埋まりきり、俺たち四人はつり革に掴まって立っていた。早川はつり革一個分奥にずれて、依子を引っ張った。彼女らは二人、俺たちから離れてひそひそ話を始めた。どうやら聞かれたくない話らしい。
「なぁ今泉」
女子側に対抗するように、原村も声をひそめた。
「君さ、最近やけに平野と距離近くない? 物理的な意味じゃなくて」
物理的な意味だと勘違いしてボケでもかまそうと思ってたのに、先回りされた。寝たふりでもして誤魔化したかった。俺は視線を斜め上にあげて、荷台の一点を見つめた。あの日、夜の公園で依子と交わした言葉を一つ一つ思い返していた。
「俺が正直に伝えたから」
「正直に伝えた? 好きだって?」
「お前と一緒にすんな」
俺は誰の顔も見ないように心がけた。しかし、原村が隣でいやらしく笑っている様が目に浮かぶようだった。
「お前のこと好きかもしれないって思ったけど、やっぱり錯覚だったって、そう伝えた」
原村はなにも言わなかった。ただ、彼の熱すぎる抗議の視線だけは横っ面にびりびりと感じた。
正直に伝えたなんて、もちろん嘘だ。錯覚だった、なんていうのも。
でも、俺は言わないようにしたのだ。やっぱり柄じゃないし、俺と依子はこのままがベストなのだから。今はそう思う。
降車駅に着く。早川が依子を解放した。俺たちは余裕を持って降り、電車内の兄妹を振り返る。原村の未練がましい視線は無視しておく。早川は笑顔で手を振っていた。
「早川、なんて言ってたの」
ふと気になって尋ねる。早川に愛想笑いを返していると、依子が小さく言った。
「今泉はシャイだから、平野から手をつないでみたら、って」
俺は振り返そうとした手を止める。動き出す電車の窓の奥へと、かたく目をこらした。
その瞬間、早川の目に浮かんだ微かな涙を、俺はたしかに見ていた。
◆
自転車を漕いでしばらく進む。突然、どうしてだか歩きたい衝動に駆られて俺は自転車から降りた。依子もそれに気付き、少し先で自転車を止めた。相変わらず、お互い無言で黙々と。そして俺のわがままのせいで二人して自転車を押して歩くことに。
そもそも俺の家は駅から十分の距離だからそのまま帰ってもよかったんだけど、依子にはまだ渡す物が残っていたし、その渡すタイミングもなかなかつかめなかった。だから送ってあげることにしたのだ。
神社の前で立ち止まって、俺は自転車のかごに入れたバッグを探った。依子は不思議そうに俺の行動を見つめた。
俺が取り出したベルーガまりもっこりに気付くと、彼女は驚愕、とまではいかないものの多少の驚きを見せた。手渡しながら俺は言う。
「これ、駅前のアクセサリーショップでたまたま見つけたんだよな。ご当地コーナーみたいな所。ほんとはシーパラで買いたかったんだけど、中々すぐにはいけないし、お前もう誕生日だし……」
依子はベルーガを手のひらに乗せて、長い時間をかけて眺めた。いちいち彼女の反応を待つのも面倒だし、ていうか照れ臭いので俺はすぐに歩き出した。依子は自転車を片手で押しながら、もう片方の手にあるストラップを気にし続けた。
「あんまり見られても困るんだけど」
それでも依子は見るのをやめない。その目はクリスマス直前の五歳児のよう。
今にも壊れそうな古い自販機を通り過ぎる。たしか依子はこの辺りで泣き崩れて、俺に初めて助けを求めた。俺は清志叔父さんのことを思い出した。叔父さんとの約束は守れただろうか。胸のうちから、薄い灰色のもやが消えてくれない。これはいったいどういうわけだろう。
祖母ちゃんの家へと続くあぜ道の前で、依子と別れることにした。
「じゃあ、また明後日」
彼女はいまだに右手にストラップを握りしめている。これじゃ逆に俺の方が気になってしまう。
「ばいばい」
別れの言葉を聞き届けると、俺はさっさと踵を返して来た道を戻った。
何も考えまいと思った。寂しいとか、もうちょっとだけとかいう考えは、今の俺には毒にしかならない。
そういや、なんでまだ歩いてるんだろう。自転車あるんだからもう普通に乗ればいいじゃん。そう思い、ペダルに足をかけようとしたそのとき、遠く後方から声が聞こえた。
「純」
依子っぽくない妙に生き生きとした声。俺は無意識に振り返る。
「これ、ありがとう」
依子は軽く右手を浮かせた。そこから下がるベルーガまりもっこりも同時に揺れていた。そうして俺は息を止める。
照れ臭いだとか、寂しいだとか、薄い灰色のもやだとか、そんな愚にもつかないような不安は、全部そこで吹き飛んでいた。
しだいに握力が緩んでいく。ハンドルはいつの間にか指からすり抜けた。自転車が横倒しになり、バッグが地面に転がる。
俺は一回つんのめって小走りに依子へと駆け寄った。徐々に近づいていくにつれ、月明かりに照射された彼女の顔がより明確になっていった。
「依子」
彼女のそばに来る。少しだけ走っただけなのに心臓が痛いほど高鳴っていた。
「お前、笑ってんのか」
口から出た言葉を確認するように、俺は依子を見た。依子は恥ずかしそうに唇を噛み、それでも口元を緩ませていた。数秒見ただけで喉の奥からこみ上げてくる。決壊し出したものはもう戻ってはくれなかった。
「原村先輩の絵、真似した」
まじまじと見つめて、俺は改めて原村の想像力に感心した。たしかにそっくりだ。
「お前、そうやって笑ってた方が、絶対いいっていうか……」
もっと上手いこと褒めたかったけど、喉がつまってそれどころじゃないし、もう声が出なかった。途端に力が抜けてその場に膝をついた。舌の奥が震えて仕方ないので俺はついに嗚咽を漏らした。
俺の頭に手のひらが乗る。今度こそ叔父さんの手じゃない。間違いなく依子の手。
こうして笑顔を見せる依子は、まさに別人のようだった。詰まるところ俺はこれが欲しかったんだなと思う。こういう具体的な見返り欲しさに、俺は今までやってきたんだ。そう考えたら笑えてきた。やっぱ俺、小さいなって。
「そんなにうれしい?」
「うん」
「じゃあ、もっと笑えるようにがんばる」
「そうしてくれ」
依子は目元を指でこすって、もう一度笑った。
まず、この長い長い物語に最後まで付き合ってくださった方へ大きな感謝を送りたいと思います。本当にありがとうございました。
作品の出来・問題点は掘り返せば山ほど出てきそうですが、まず完結させたことで作者は新たなステップを踏めたと感じています。原稿用紙1000枚以上、文庫本なら二冊半? 正直これ終わらない話なんじゃないかって思ってました。
笑顔は武器でありたいなぁ、とかクサい台詞までつぶやいてしまいそうなあられもない状態です。恥ずかしいのであんまり見ないでください。
なにはともあれ、ここまでお付き合いいただき真にありがとうございました。また次回作でお会いできればうれしいです。
2011/10/7 素敵なイラストをありがとうございます。