chapter61 絵の価値、涙の意味
九月二十四日、文化祭一日目。
季節の変わり目など関係なく、文化祭は馬鹿みたいに照りつける太陽の下で行われた。あとで聞いた話だと、熱射病で一般客が一人倒れたらしい。
生徒会その他委員会主催の飲食出店の一つ、お好み焼き屋台を俺は手伝わされ、一日目のほとんどはそこでこき使われた。ふつう、一年生は文化部や委員会にでも入っていない限り、クラス展示などを無事完成させれば初の文化祭を思う存分楽しめる手筈になっているが、俺は作業中のサボりがたたってこのざまである。
お好み焼き屋台は生徒玄関のちょうど前に配置されている。太陽はいよいよ真上を越え、直射光がテントからはみ出て俺の顔面を蜂みたいにちくちくと刺してきた。頭に巻いたタオルが汗で重くなる。
隣で黙々と売り上げ金を管理する副生徒会長。彼の監視下のもと、俺は黙って鉄板に生地を広げていく。
「一日目の今日、何事もなく最後まで働けば明日は解放してやる」
副生徒会長のお告げを信じ、持てる真心のすべてをお好み焼きに叩き込んだ。
依子と弟がやってきた。仲良く手をつなぐ依子と弟の姿は、はたから見れば母子のようであり、歳の離れた姉弟のようにも見えた。弟はパンフレット片手にきょろきょろと辺りを見回し、やがて俺を見つけて「いた!」と指をさしてきた。依子を引っ張り、屋台へと駆けてくる。
「兄ちゃん、お好み焼き作れるんだ。すっげー」
「ちゃんと買ってけよ雄二」
弟は依子の制服のすそを引き、「だってさ。買ってよ姉ちゃん」などとほざいた。
「依子に払わせんな。自分のお小遣いあるだろ」
「だって、姉ちゃんが全部おごってくれるっていうから」
眉を下げてしょんぼりする弟。彼を背中に隠し、依子は財布からお好み焼き代を出した。何とも言えない気分で彼女の手の中の三百円を眺めていると、背後の副生徒会長から尻を蹴られた。俺は恐れをなして速やかに三百円を受け取り、お好み焼きの準備を再開した。
「文化祭だからって、雄二のこと甘やかさなくていいからな」
お好み焼きを手渡しながら俺は言う。そしてあることを思い出した。
「そういえば依子、図書室の漫画喫茶は?」
「一日目と二日目で、二つの班に分かれてる。今日は原村先輩たちの班。あたしたちの班は二日目」
つまり依子が忙しくなるのは明日ということだ。ちょうど俺とはすれ違う形になる。
「でも、午後の二時半からだったら抜けられるけど」
気付けば、依子が気遣うように俺の顔色をうかがっていた。途端に恥ずかしくなって、照れ隠しに鼻で笑ってみせた。
「なにそれ。一緒に回りたいとか、俺ひとことも言ってないんだけど」
依子は深々と相づちして、
「あたしも言ってない」
そして踵を返し、モールで飾り付けされた生徒玄関を颯爽と通り抜けていった。弟はすぐには依子のあとを追わず、不思議そうに俺を見つめた。
「なんで赤くなってんの?」
このガキ思いっきり小突いてやろうか。だが相手は一応客ということになってるので、俺は誤魔化し混じりに首筋の汗を拭うのだった。
「たぶん暑いからだな。いやほんと暑い。マジで」
四十五分後、弟から差し入れのかき氷をもらった。
◆
九月二十五日、文化祭二日目。
一年二組のプラネタリウム展示を軽く回っていると、偶然そこで原村と合流できた。彼と共に十一時から体育館で行われた演劇部の公演を鑑賞し、俺たちは旧校舎屋上に上がった。
屋上は今日もほどよく荒廃し、文化祭の慌ただしさや喧噪も知らん顔のシカト状態で通常営業していた。
鉄扉を開けた俺たちは、そこに居た思いがけない先客にしばし身を硬直させた。
彼は柵に身を預けて煙草をふかし、器用に焼きそばを食べていた。俺たちに向け、煙草を持った方の手をあげてみせた。
「やっぱ来たかお前ら」
浅海さんは煙草を口にくわえ直し、俺たちに歩み寄って焼きそばを差し出した。
「俺のおごりだ。まぁ遠慮しないで食えよ」
食べかけなのに。いまいち釈然としないが黙って受け取る。
「じゃあ僕からもおごり」
原村はお返しに半分まで食べたフランクフルトを浅海さんに渡した。二人はそれでしばらく爆笑していた。意味分からん。
「こうしていると、高校時代を思い出すね」
「それ俺の台詞じゃね?」
貯水タンクの段差に並んで座り、彼ら二人は唐突に漫才を始めた。俺は焼きそばをすすりながらそれを眺めていた。
ふと俺は問う。
「そういやさ、原村」
「ん」
「知ってた? 吉岡のこと」
原村はその質問の意味をすぐ理解したようだった。俺はさっき鑑賞した演劇部の公演、つまりそれに出演していた吉岡のことを尋ねたのだ。
脚本はオリジナルらしく、内容は戦時中に離ればなれになっていく二人の男女を描いた悲劇だった。ヒロインの配役が予想斜め上の吉岡美野里で、俺はそんな話を一度も聞いたことがなかったし、それはもうしこたま驚いて直前に飲んだコーラを吹き出しそうになったくらいだ。
「あれね。ヒロイン役の子が急な病欠で、急遽吉岡がってことになったらしいけど」原村はなんでもないことのように答えた。「しかし、代役とは思えないほどの名演技だったなぁ」
「吉岡って演劇部だったの」
「むしろなんで君は知らなかったんだ」
俺は何も言えなくなった。そして浅海さんの顔を流し見た。
「そういや美野里、一昨日と昨日で必死に何か練習してたな。このことだったのか」
浅海さんは上空高く煙を吹き出しながら空をあおいだ。原村は若干興奮していた。
「いや、でも本当良かったね。なんなのあれ。吉岡のあの感涙シーンはなに? 目薬?」
俺たちはしばらくうなり、彼女の演技のことについて考えた。
演劇のストーリーはこうである。時代は昭和初期、日ソ国境紛争が勃発し、ある富豪の夫婦のもとに政府から通知が来るところから始まる。亭主へ宛てられた手紙で、師団の幹部として仕官するようにとの内容だった。妻は戦争へ出ていく夫を快く送り出すのだが、その心中は複雑だった。その妻役が吉岡というわけだ。
紛争地から送られてくる夫の手紙に彼女は一喜一憂する。やがて、のちにノモンハン事件と称される紛争が起こり、日本軍の戦況はさらに悪化する。送られてくる手紙は徐々に減り、彼女の絶望はさらに深くなっていく。
荒んだ気分を晴らすように、彼女は女中に嫌がらせを始めた。掃除が足りないと言いがかりをつけて女たちを箒で叩き、わざと花瓶を割って誰かに責任をなすりつけ、気に入らない者は次々と解雇させた。しかし結局、そんな彼女の行為も気休めに過ぎなかった。
戦況の悪化によって国は富を失い、彼女の屋敷もその影響は免れなかった。ついに夫の戦死を知らせる手紙が届いたとき、彼女の地位は決定的に暴落した。そこで初めて、彼女は自分の罪深さに気づくのだった。
薄暗いバーで一人、彼女は夢の中で人生を振り返る。彼と出会ったときの清らかな淑女だった自分、そして、動かし難い現実を受け止められず、罪もない人々に八つ当たりを繰り返してきた今の愚かしい自分。対比し、後悔をさらに深くする。夢の中の夫はそんな妻の愚行に呆れ、彼女の幻想からも遠ざかっていく。
彼が戻ってこなかったのは、きっと私のせいだったのだろう。彼女は確信する。
すでに私は、醜い悪魔となり果てていたのだ。
彼の墓前に花を手向け、彼女は崖に向かう。
崖で身を投げようとしたそのとき、彼女を抱き止める者があった。以前彼女が解雇させた、あの女中であった。
「私の夫も旦那様と同じように、ハルハの地で命を捧げました。ですから、奥様のお気持ちはよく存じているつもりです。貴女が身投げしたいと思う気持ちも痛いほど伝わってきます。ですが、いけません。ここで貴女が死ねば、旦那様もきっと浮かばれないでしょう」
元女中の身をていした行為に彼女は衝撃を受ける。彼女の愚かしさを理解し、過去を帳消しにしてまで、助けようと言うのだ。彼女は元女中の慈悲深さに感動し、同時に強く心を打たれた。
その場に崩れ落ち、涙をこぼし始める。彼のためにも変わらなければいけない。そして再び、彼女は夢の中で夫と再会するのだった。
「あれは目薬じゃねえよ」
浅海さんは確信めいた口調で言った。
「お前らは気づいてないと思うけど、あいつ、マジで演技上手いからな」
俺と原村は拍子を抜かれて顔を見合わせた。
演技が上手い、という言葉が何故か引っかかった。劇における表面上だけの意味を指したのか、それとも、普段の吉岡のもっと深い場所を示唆した言葉なのか、俺たちは判断しかねていた。
「じゃ、俺もう帰るわ」
追求する間もなく、浅海さんは屋上をあとにした。
午後二時二十分。依子が漫画喫茶から離脱するまで幾ばくもない。
俺は意を決し、財布から紙幣数枚を出し、原村に近づいた。半分眠りかけていた原村は俺の気配に気づき、ぼうっと顔をあげた。俺は彼の手に数枚の紙幣を握らせた。
「遅くなったけど、これ、俺が壊したiPhoneの弁償代だから。たぶんこれだけあれば買い換えられると思う」
原村は、自分の手の中でくしゃくしゃになった一万円札五枚を見つめた。ふっと口元を緩め、気持ち悪いくらい満面の笑みを向けてきた。
「いいよ、こんな大金」
紙幣を俺に返してくる。そして彼はポケットから真新しいスマートフォンを取り出した。DoCoMoの最新モデルだった。
「沙樹のとこで暮らすようになったからさ、家族割が利くんだ。母さんも沙樹もDoCoMoだからね。つい三日前に買ってもらったばかりなんだぜ」
少し申し訳なさそうな顔をして、そうだ、と原村は言う。
「せっかくだ。さっそくメアド交換しようぜ」
「お前の絵、いくらだったっけ」
原村ははっと目を見開いた。そう来たか、と幾分感心しているようだった。返事を待つのももどかしく、俺は畳みかけて言う。
「たしか五万で売るっつったよな、原村の絵」
もう一度、原村の手に金を握らせる。今度こそ返されないように、しつこく、かつ強固に拳を握らせた。
「絵、買わせてくれ」
団子状になった紙幣を手に、原村はとことん気の抜けた笑みを浮かべた。
「何を描いてほしい?」
俺が絵の注文を告げたその直後、屋上の扉を開いて依子がやってきた。
次話で最終回です。