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覚えのない警告が、私の字で書かれていた

作者: 鈴木 明
掲載日:2026/09/10

午前三時十七分、高瀬真琴は浴室の鏡に貼られた一枚の付箋を見て、自分の記憶がおかしくなったのだと初めて本気で思った。淡い黄色の紙には、黒いボールペンで二行だけ書かれている。


『拓海に、思い出したことを言わないで。


 今夜は薬を飲まないで。』


 そこに並んでいる文字は、紛れもなく自分の字だった。少し右へ傾く「拓」の木偏も、「夜」の最後の払いが必要以上に長くなる癖も、真琴自身が何年も見慣れてきた筆跡と一致している。


 三十七歳の真琴は、出版社で十五年間、校正と校閲の仕事をしている。他人から見れば同じように見える文字でも、線の重なり、送り仮名の選び方、読点を置く位置、数字を漢数字にするか算用数字にするか。そうした小さな違いが自然と目に入る職業だったからこそ、何度見直しても、その付箋が自分以外の人間によって書かれたとは思えなかった。


 問題は、自分には書いた記憶がまったくないことだった。真琴は裸足のまま洗面所に立ち尽くし、ここへ来るまでの数分を頭の中で辿った。


 喉が渇いて目を覚まし、隣で眠っている佐伯拓海を起こさないようにベッドを抜けた。台所へ行く前に洗面所へ寄り、そこで鏡の中央に貼られた付箋を見つけた。そこまでの記憶はある。それなのに、いつ、何のためにこの文章を書いたのかという肝心な部分だけが、頭の中から切り取られたように存在しない。


 四か月前、自宅マンションの共用階段から転落した真琴は、後頭部を強く打った。幸い命に別状はなかったものの、事故前後の記憶が部分的に欠け、退院後もしばらくは新しい出来事をうまく記憶できない時期が続いた。現在はかなり改善しているが、疲労や睡眠不足が重なると記憶が曖昧になることがある、と担当医から説明されている。


 事故以来、眠りも浅くなった。夜中に何度も目が覚めるようになり、医師から処方された少量の睡眠導入剤を就寝前に服用している。今夜も、拓海が用意してくれた水と一緒に一錠飲んだばかりだった。


 だからこそ、付箋に書かれた二行目が真琴の胸を冷たくした。今夜は薬を飲まないで、と書かれているのに、もう飲んでしまっている。


 洗面台へ両手をつき、鏡の中の自分を見る。事故前より頬が少し痩せた。肩まで伸ばした黒髪の生え際には、注意して見なければ分からない細い傷痕が残っている。自分の顔なのに、ときどき知らない人間を見ているように感じることがあった。


 退院して間もない頃、冷蔵庫へ入れたと思っていた牛乳が棚の上に置かれていたことがある。洗った記憶のないコップが水切り籠にあったことも、買った覚えのない食材が冷蔵庫に入っていたこともあった。そのたびに真琴は、自分がやって忘れたのだと思った。


 拓海も、そう説明した。


「焦らなくていいよ。少しずつ戻ればいい」


 五年間付き合い、半年前から同居している拓海は、事故後の真琴を献身的に支えてくれた。三十六歳で、住宅向け防犯設備の設計会社に勤めている。帰宅が遅い日も多かったが、真琴が退院してからは在宅勤務を増やし、食事を作り、通院にも付き添い、薬の時間まで忘れないよう気に掛けてくれた。


 真琴自身、拓海がいてくれてよかったと何度も思った。それなのに鏡には、自分の字で彼を警戒するような文章が残されている。


 真琴は付箋へ手を伸ばした。


「真琴?」


 背後から声がして、心臓が大きく跳ねた。振り返ると、拓海が洗面所の入口に立っていた。濃い灰色の半袖シャツと部屋着姿で、寝癖のついた髪を片手で押さえている。


「どうした? こんな時間に」


「……喉が渇いて」


「大丈夫?」


「うん」


 拓海の視線が鏡へ向いた。真琴は反射的に付箋を剥がし、手の中へ握り込んだ。


「何それ?」


「何でもない。明日の買い物」


「こんなところに?」


 二人の間に一瞬だけ沈黙が落ちたが、拓海はすぐに小さく笑った。


「また寝ぼけて書いた?」


「また?」


「覚えてない?」


「何を?」


「先週も冷蔵庫にメモ貼ってただろ。『銀行に電話』って。電話したか聞いたら、書いた覚えないって言ってた」


 真琴には、その出来事自体の記憶がなかった。


「……そうだった?」


「うん」


 拓海は近づき、真琴の肩へ手を置いた。


「疲れてるんだよ。最近仕事も戻し始めたし」


「でも……」


「先生も言ってただろ。記憶が安定するまでは無理しないほうがいいって」


 声は優しかった。以前なら、その声を聞けば安心したはずなのに、今夜はなぜか背中が冷たくなった。


「薬、飲んだよな?」


「飲んだ」


「じゃあ、もう寝よう」


 拓海に促され、真琴は洗面所の灯りを消した。握り締めた付箋だけは寝間着のポケットへ入れ、その夜はベッドへ戻ってから眠りに落ちるまで、隣で呼吸する拓海の気配をずっと意識していた。



 高瀬真琴は、間違いを見つける仕事をしている。出版社「北辰書房」の校閲部へ入社したのは二十二歳の春で、それから十五年、文章の中に潜む小さな不整合を探し続けてきた。


 人名の表記が前の章と違う。三日前に満月だったはずなのに、翌日の場面でも満月が昇っている。第一章では右利きだった人物が、何の説明もなく第四章では左手で箸を持っている。一つだけを見れば些細な違和感でも、前後を繋げれば明らかな矛盾になる。


 事故の前、同僚からは冗談半分に「高瀬の前では嘘をつけない」と言われていたが、事故後はその自信を失っていた。退院から三か月で段階的に仕事へ復帰し、現在は週三日だけ在宅勤務をしている。


 文章を読む力そのものに問題はなかった。それでも、自分が前日にどこまで読んだのか分からなくなることがある。コメントを入れた覚えのない箇所に、自分の名前で修正履歴が残っていたことも一度あった。


 その時が一番怖かった。生活の記憶だけではなく、十五年間積み上げてきた仕事まで信用できなくなるように思えたからだ。


 付箋を見つけた翌朝、拓海はいつも通りだった。七時に起き、コーヒーを淹れ、食パンを二枚焼く。真琴の皿には苺ジャム、拓海の皿にはバター。それぞれの好みを五年間で一度も間違えたことがない。


「今日は十一時から会議だっけ?」


「十時半」


「あれ、そうだった?」


「十時半。昨日言ったよ」


 拓海は少し考え、申し訳なさそうに笑った。


「ごめん。俺の勘違いだ」


 ただの間違い。それで済む話だったが、真琴の胸には小さな引っ掛かりが残った。


 事故後、自分の予定を覚えているのはいつも拓海だった。通院日も仕事の会議も友人との約束も、真琴が忘れれば拓海が補ってくれた。その拓海が、自分の予定を間違えたことが妙に気になった。


「真琴?」


「何?」


「ぼーっとしてる」


「寝不足」


「夜中起きたからな」


 拓海は心配そうに眉を下げた。


「今日、仕事休んだら?」


「大丈夫」


「無理しなくていいんだぞ」


「うん」


 真琴はコーヒーを飲みながら、それ以上何も言わなかった。


 拓海が出勤したあと、机の引き出しから昨夜の付箋を取り出した。明るい場所で改めて確認しても、やはり自分の字にしか見えない。


 ただ、一つだけ気になる箇所があった。


『拓海に、思い出したことを言わないで。』


 「拓海に」のあとに置かれた読点だった。真琴は普段、この程度の短い文章なら「拓海に思い出したことを言わないで」と続けて書く。私的なメモで助詞の直後へ読点を置く癖はない。


 もちろん、寝ぼけて書いたのなら普段と違っていても不思議ではない。それでも校正者としての感覚が、そこだけを異物として拾っていた。


 真琴は本棚から使っていない大学ノートを一冊取り出し、表紙へ「確認記録」と書いた。最初のページには日付と時刻を記し、その下へ一文を書き加える。


『自分の記憶を無条件には信用しない。ただし、拓海の記憶も無条件には信用しない。』


 書き終えたあと、真琴はペンを握ったまましばらく動けなかった。恋人を疑う理由など本来ならないし、四か月間、最も自分を支えてくれた人でもある。


 それでも、理由がないから確認してはいけないという理屈は、真琴が十五年間続けてきた仕事には存在しない。違和感があるなら前後を照合し、記憶が曖昧なら記録を残す。断定するのは、そのあとでいい。



 真琴が最初に始めたのは、物の位置を記録することだった。午後の休憩時間、自分の携帯電話でリビング、台所、寝室、洗面所の写真を撮る。クッションの向き、机の上の筆記具、薬箱の蓋、寝室の引き出しまで、なるべく同じ角度から写した。


 初日も二日目も何も変わらず、三日目も同じだった。しかし四日目、一つだけ違いが見つかった。


 寝室の小さなチェスト、その一番下の引き出しだった。真琴は前日の午後、閉じる際に一本の髪の毛を引き出しと本体の隙間へ挟んでおいた。誰かが開けば、髪は外れる。


 帰宅後、その髪は床へ落ちていた。


 真琴はしばらく動けなかった。引き出しの中に重要な物はなく、冬物の靴下と数年前まで使っていた手帳が何冊か入っているだけだ。拓海が開ける理由は思いつかない。


 もちろん、自分で開けて忘れた可能性もある。確認記録には断定せず、事実だけを書いた。


『六月二十九日。一番下の引き出し。挟んだ髪が床に落ちていた。自分で開けた記憶はない。ただし、自分で開けた可能性を否定できない。』


 その夜、夕食を食べながら拓海が何気ない調子で尋ねた。


「今日、何してた?」


「仕事」


「それだけ?」


「昼にスーパー行った」


「何買った?」


「牛乳と卵」


「薬局は?」


 真琴の箸が止まりかけた。


「行ってないけど」


「そう? レシート見た気がしたから」


「どこで?」


「テーブルの上」


「昨日のじゃない?」


「ああ、そうかも」


 拓海は何事もなかったように食事を続けたが、真琴は自分の鼓動だけを聞いていた。


 その日の午後、真琴は薬局へ行こうとしていた。財布を持って玄関まで出たものの、薬のことを確認する自分が拓海を裏切っているように感じ、結局そのまま引き返した。


 そのことを拓海へ話していない。予定さえ伝えていないのに、彼の口から「薬局」という言葉が出た。


 偶然かもしれない。だからまだ断定はしない。


 ただし、記録する。


 食事のあと、真琴は一人になった隙にノートへその会話を書き加えた。



 翌六月三十日、真琴は一人で薬局へ行った。拓海には、近所の喫茶店で仕事をするとだけ伝えた。


 薬剤師へ名前と生年月日を告げ、現在処方されている薬を確認する。睡眠導入剤は就寝前に一錠。事故後の不眠に対して処方されているもので、服用したあとは速やかに就寝するよう注意されていた。


「この薬で、記憶が曖昧になることはありますか?」


 真琴が尋ねると、薬剤師は慎重に答えた。


「人によっては、服用後の出来事を覚えていないことがあります。特に薬を飲んだあとに起きて活動していると、その間の記憶が抜けることはありますね。ただ、頻繁に起きるようでしたら、自己判断で服用を変えず、必ず処方した先生へ相談してください」


「自分でメモを書いて、それを覚えていないということも?」


「可能性としてはあります。ただ、それだけで薬の影響とは断定できません」


「このほかに、私は何か薬を処方されていますか?」


 薬剤師が記録を確認する。


「現在はこちらだけです。退院直後に鎮痛剤が処方されていますが、もう終了しています」


「不安を抑える薬みたいなものは?」


「少なくとも、こちらの薬局でお渡しした記録にはありません」


 真琴は礼を言って薬局を出し、帰宅途中に百円ショップへ寄って小さな金属製のケースを一つ買った。自分でも何に使うのか明確に決めていたわけではない。ただ、薬を一度別に保管できるものが欲しかった。


 その夜、拓海が浴室にいる間に薬箱を開く。自分の睡眠導入剤の隣には、小さな白いボトルが置かれていた。ラベルには「総合ビタミン剤」と印刷されている。


 事故後、拓海が毎晩「体力も落ちているから」と一錠ずつ渡してくれるものだった。蓋を開けると、薄い黄色の錠剤が並んでいる。


 背後で浴室の扉が開く音がし、真琴はすぐにボトルを戻した。


「何してる?」


「薬」


「もう飲む?」


「あとで」


 拓海はタオルで髪を拭きながら近づいた。


「最近、顔色悪いぞ」


「そう?」


「仕事戻すの早かったんじゃないか」


 拓海が髪へ触れようとした瞬間、真琴の体が無意識に固くなった。彼も気づいたらしく、手を止める。


「どうした?」


「何でもない」


「本当に?」


「うん」


 拓海は真琴をしばらく見たあと、ふっと笑った。


「昔から嘘下手だよな」


 いつもなら軽い冗談として流せた言葉が、その夜だけは妙に重く残った。



 真琴はその夜、薬を飲んだふりをした。睡眠導入剤も黄色い錠剤も口に含み、水を飲んだあと、洗面所で取り出して金属ケースへ移した。


 処方薬を自己判断で止めることに不安はあったが、翌朝には医師へ相談すると決めていた。今夜だけは、自分が眠ったあと何が起きているのか確認したかった。


 六月三十日の午後十一時半頃、拓海が眠った。真琴は目を閉じたまま待ち、一時間、さらにもう一時間と、自然な眠気と戦いながら隣の気配だけを追った。


 日付が変わった七月一日、午前二時四十三分頃、拓海が動いた。


 ベッドが軽く軋み、彼が起き上がる。寝室を出ていったあと、数分で再び戻ってきた。


 真琴は呼吸の速さを変えなかった。


 拓海が枕元へ立つ。


 指先が頬へ触れる。


「……今日は起きないか」


 小さな独り言が聞こえた瞬間、真琴の全身が冷えた。


 拓海は再び寝室を出ていった。真琴は十分ほど待ってから静かに目を開ける。


 廊下の向こうから明かりが漏れていた。


 リビングではない。


 拓海の仕事部屋だった。


 二人で暮らし始めた時、六畳ほどの一室を在宅勤務用にした。会社の機密資料を扱うから、必要がなければ入らないでほしいと言われ、真琴もそれを守ってきた。


 扉が少しだけ開いている。真琴は裸足のまま廊下を進み、中から聞こえる鍵盤を叩く音を頼りに、隙間から室内を覗いた。


 拓海は机の前に座っていた。大型の画面が二つ並び、片方には仕事らしい設計図、もう片方には見覚えのある部屋が映っている。


 自宅のリビングだった。


 画面の端には日時が表示され、その日の午後、ソファに座る真琴自身の姿が映っている。その横には台所、寝室、洗面所の映像まで小さく並んでいた。


 真琴は息を止めた。カメラなど、一度も見た覚えがない。


 拓海は映像を巻き戻し、六月三十日の午後、真琴が鞄を持って玄関を出る場面で止めた。何度か再生したあと、小さく呟く。


「薬局か……?」


 真琴はゆっくり後退した。


 薬局へ行ったことを、拓海は知っている。


 見ていたからだ。


 次の瞬間、廊下の床が小さく鳴った。仕事部屋の椅子が動く。


「真琴?」


 呼吸が止まりそうになった。


「起きてる?」


 寝室まで戻る時間はない。真琴はすぐ横のトイレへ入り、扉を閉めて水を流した。


「真琴?」


「……トイレ」


 拓海が近づいてくる。


「大丈夫?」


「うん」


「気持ち悪い?」


「少し」


「薬のせいかな」


 扉一枚隔てた場所に拓海がいる。真琴は便座へ座り、震える両手を強く握った。


「水、持ってくるよ」


 足音が遠ざかる。


 その瞬間、鏡に貼られていた警告の意味が初めて現実味を持った。あの言葉は誰かが真琴へ送ったものではなく、おそらく真琴自身が、記憶を失うかもしれない未来の自分へ残したのだ。



 翌朝、真琴は何も知らないふりをした。


「昨日、夜中起きた?」


 拓海が朝食を食べながら尋ねる。


「トイレ行った気がする」


「覚えてる?」


「何となく」


「そう」


 拓海は安心したように笑った。


 真琴はその笑顔を見ながら、五年間の記憶を一つずつ思い返した。


 初めて会ったのは友人の結婚式だった。拓海は新郎の大学時代の友人で、席が隣になった。緊張して水ばかり飲んでいた真琴を見て、「乾杯だけで一リットルいきそうだね」と笑った。


 付き合い始めてからも優しかった。真琴の仕事が忙しい時には夕食を作り、母が入院した時には仕事を休んで病院まで車を出した。誕生日に高価な品物を贈る人ではなかったが、真琴が何気なく欲しいと言った本の発売日を覚えていて、帰りに買ってきてくれたこともある。


 その全てまで嘘だったとは、真琴には思えなかった。だからこそ怖かった。


 人間は、優しい人か危険な人か、どちらか一つに分かれるわけではない。一人の人間の中に、その両方が存在することはある。


 拓海が自分を大切にしてくれた記憶が本物であることと、今していることが許されるかどうかは、別の問題だった。


 拓海が出勤したあと、真琴は確認記録を開いた。


『七月一日。午前二時四十三分頃。


 薬を飲まず、眠ったふりをした。


 拓海は私が眠っているか確認した。


 仕事部屋で室内の映像を見ていた。


 少なくともリビング、台所、寝室、洗面所が映っている。


 私が六月三十日に外出した場面を確認し、「薬局か」と言った。


 これは推測ではない。私は自分の目で見た。』


 最後の一文を二重線で囲ったあと、真琴は最初の付箋をもう一度机へ置いた。


『拓海に、思い出したことを言わないで。』


 不自然な読点。


 自分なら気づく。


 もし、この読点まで意図的だったとしたら。


 真琴はノートの次のページへ、大きく書いた。


『間違いをわざと残す。私なら気づく。』


 さらに、その下へ続けた。


『この記録を読んでいる未来の私へ。


 まず日付を確認すること。


 自分の記憶を疑う前に、残っている証拠を確認すること。


 拓海の前では、分かっていないふりをすること。』


 途中で涙が一滴、紙へ落ちた。真琴は慌てて拭い、ペンを握り直した。


 泣くのは、あとでいい。


 今は、自分の生活を校正する。



 黄色い錠剤については、自分だけで判断しないことにした。真琴は大学時代からの友人で、現在は薬剤師として働いている河合美里へ連絡した。


 携帯電話で錠剤の刻印が分かるよう写真を撮り、「この錠剤について相談したい」とだけ送る。


 三十分ほどして、美里から電話が掛かってきた。


「真琴、これどこで手に入れたの?」


「家」


「家?」


「総合ビタミン剤って書いてあるボトルに入ってた」


 電話の向こうで短い沈黙があった。


「写真だけで薬を断定することはできない。でも、普通のサプリメントには見えない。現物、持って来られる?」


「今日?」


「できれば」


「分かった」


「真琴」


「何?」


「誰かに飲むよう言われてる?」


 真琴は答えられなかった。


「拓海さん?」


 名前を聞いただけで、涙が出そうになった。


「一人で来られる?」


「うん」


「本当に?」


 真琴は目を閉じた。


「……分からない」


「じゃあ迎えに行く」


「家には来ないで」


 その一言で、美里は何かを察した。


「分かった。駅で会おう。人の多いところで」


 二時間後、二人は駅ビルの喫茶店で向かい合った。事故以来、直接会うのは初めてだった。


「痩せたね」


「そうかな」


「そうだよ」


 真琴は小さな袋に入れた錠剤を渡した。美里は刻印と形状を確認し、薬剤情報を調べたあと、眉を寄せる。


「この刻印どおりなら、不安を和らげるために使われる処方薬の可能性が高い。眠気が出ることもあるし、人によっては頭がぼんやりすることもある。ただし、正式な確認は医療機関でしてもらって。写真や刻印だけで決めつけるのは危ないから」


「私、別に睡眠薬も飲んでる」


「一緒に?」


「毎晩」


 美里の表情が厳しくなった。


「それは処方した先生に必ず相談して。自分に処方されていない薬を飲んでる可能性があるなら、なおさら」


「分かった」


「誰が渡してる?」


 真琴は水の入ったグラスを見つめた。


「拓海」


「本人に処方された薬かもしれない?」


「分からない」


「警察にも相談しよう」


「もう少し確認したい」


「真琴」


「監視カメラもある」


 美里の顔が変わった。


「何?」


「家の中。寝室も」


「……真琴、それは一人で確認する段階じゃないよ」


「分かってる。でも事故のこともある」


「階段から落ちたやつ?」


「拓海は、私が足を滑らせたって言ってる」


「真琴は覚えてないんだよね」


「うん」


「病院の記録、自分で見た?」


 真琴は首を横に振った。


 そこにも拓海がいた。


 搬送時の説明。


 医師との面談。


 退院後の予定。


 真琴の記憶が欠けている場所を、拓海が説明で埋めてくれた。


「美里」


「うん」


「事故の前に、私から何か連絡してなかった?」


 美里は少し考える。


「事故の三日前くらいに来たよ」


「何て?」


「覚えてない?」


 真琴は首を振った。


 美里は過去の履歴を探し、画面を見せた。


 事故の三日前。


『今度会える? ちょっと変な相談したい。電話じゃなくて直接。』


 その翌日には、別の文章が届いている。


『やっぱり大丈夫。ごめん。忘れて。』


 真琴は二つ目の文章を何度も読んだ。


「これ……私っぽくない」


「どういうこと?」


「私なら『忘れて』じゃなくて、『気にしないで』って書くと思う」


「でも真琴のアカウントから送られてる」


「分かってる。証拠にはならない。でも、覚えておきたい」


 真琴は画面の記録を送ってもらった。


 帰り際、美里が真琴の腕を掴む。


「今日から毎日連絡して」


「うん」


「返事がなかったら?」


「……警察に連絡して」


「約束」


「約束する」


 美里はそれでも手を離さなかった。


「もう一つ」


「何?」


「自分がおかしくなったって思わないで」


 その言葉を聞いた瞬間、真琴は初めて人前で泣いた。



 病院の診療記録を確認したのは翌日だった。本人として開示された事故当日の記録には、真琴が聞いていた話といくつか違う点があった。


 搬送時、血液から検出されたアルコールは少量で、著しく酩酊していたと判断される状態ではなかった。身体所見には、後頭部の打撲、右肩の挫傷とともに、左前腕内側の皮下出血についても記録されている。


『把持による可能性を否定できない皮下出血。』


 真琴はその一文を何度も読んだ。退院後にも、左腕に指のような形の痣が残っていたことを覚えている。


 拓海は、「階段の手すりにぶつけたんじゃないか」と言っていた。


 それ自体が嘘だったと断定できるわけではない。しかし、拓海の説明だけで自分が事故を理解していたことは確かだった。


 病院から帰る電車の中で、真琴は事故当日の記憶を探そうとした。


 赤いワイン。


 仕事部屋。


 電子音。


 自分の声。


 ――どうしてこんなものがあるの?


 それ以上を思い出そうとすると、頭の奥に痛みが走った。真琴は無理に追わず、代わりに事故前一か月の記録を調べることにした。


 仕事と同じだった。


 記憶ではなく、残っている資料を時系列へ並べる。


 電子メール。


 予定表。


 購入履歴。


 携帯電話の記録。


 事故の三日前には美里へ「変な相談」を持ち掛けている。翌日、その相談を取り消す文章が送られている。そして事故前日、自分の電子メールアドレスから自分自身へ送った、件名のない一通のメールが残っていた。


 本文は一行だけだった。


『机の裏』


 真琴は画面を見つめた。そんなメールを送った記憶はない。


 仕事机を壁から少し離し、裏側へ手を伸ばす。指先に粘着テープが触れ、小さな記憶媒体が貼り付けられているのを見つけた。


 真琴はその場へ座り込みそうになった。


 事故後も四か月間ここにあった。


 拓海は見つけていない。


 真琴は仕事用とは別の古い端末へ接続した。一つのフォルダが表示される。


『校了前』


 開こうとすると、合言葉を求められた。


 誕生日。


 社員番号。


 母の誕生日。


 どれも違う。


 真琴はしばらく考えた。


 事故前の自分が、記憶を失うかもしれない自分へ残したもの。


 校了前。


 校正者。


 確認。


 真琴は「要再校」と入力した。


 フォルダが開き、中には映像が三本と文章ファイルが一つ残されていた。


 最初の映像は、自宅の寝室を撮影したものだった。撮っているのは真琴自身で、天井近くの火災報知器へ近づく。


『これ、火災報知器だけじゃない』


 事故前の自分の声が聞こえる。


 映像は白い円形の機器へ寄る。側面に、ごく小さな黒い穴がある。


 次はリビングの置き時計。


 同じような穴。


 さらに洗面所の機器。


 二本目の映像は、拓海の仕事部屋だった。誰もいない室内で、真琴がこっそり撮影している。


 画面には、自宅内部の複数の映像が表示されていた。今の真琴が数日前に見たものと同じだった。


 三本目を再生する。


 事故前の真琴自身が映った。今より頬がふっくらし、髪も少し長い。


 カメラを机へ置き、正面へ座る。


『これを見てるのが未来の私だったら、たぶん何かあったんだと思う』


 真琴は息を止めた。


 画面の中の自分は、怖がっていた。


『拓海が家の中にカメラを置いてる。本人にはまだ言ってない。いつからか分からない。寝室にもある』


 声が少し震える。


『仕事の機械を試してるだけって言うかもしれない。でも、私には何も言ってない。それに、私の携帯電話の位置情報も見てた。昨日、仕事部屋の画面で確認した』


 映像の中の真琴は、一度言葉を止めた。


『明日、美里に相談する。その前に拓海へ聞くか迷ってる。でも、一人では話さないほうがいい気がする』


 現在の真琴の目から涙が落ちる。


『もしこれを見てる私が拓海を信じてるなら、ちゃんと証拠を見て。私も拓海を信じたい。でも、信じたいことと、本当のことは別だから』


 映像が終わった。


 真琴は長いあいだ動けなかった。事故の前から、すでに疑っていた。


 付箋もそうだった。


 この記憶媒体もそうだった。


 現在の真琴を守っているのは、記憶が欠ける前の自分だった。


 最後に文章ファイルを開く。


『二月八日 寝室の機器確認。カメラと思われる。』


『二月九日 拓海の仕事部屋。映像保存あり。少なくとも半年分。』


『二月十日 美里へ連絡。』


『二月十一日 拓海が私の携帯電話を触っていた。美里への連絡を消した可能性あり。』


 最後の記録だけが少し長い。


『二月十二日 今日、拓海と話す。一人で話さないつもりだったけど、美里と予定が合わなかった。先延ばしにするのも怖い。何かあったら、この記録を見ること。』


 二月十二日。


 事故の日だった。



 事故当日の記憶が戻ったのは、その日の夕方だった。玄関の鍵が開き、拓海の「ただいま」という声を聞いた瞬間、現在の部屋へ四か月前の光景が重なった。


 赤いワインが入ったグラス。


 食卓。


 外して置いた小型カメラ。


 仕事部屋の画面。


 真琴自身の声。


『これ、何?』


 拓海は最初、驚いた顔をした。


 次に笑った。


『会社の試験用だよ』


『寝室に?』


『防犯性能を見るため』


『私に黙って?』


『言うの忘れてた』


『半年も?』


 そこで拓海の笑顔が消えた。


『俺の仕事部屋、見た?』


『見た』


『勝手に?』


『私を勝手に撮ってる人に言われたくない』


 真琴は家を出ると言った。


 今夜は美里のところへ行く。


 後日、第三者がいる場所で話す。


 鞄を持って玄関へ向かう。


 拓海が腕を掴む。


『待って。ちゃんと話そう』


『離して』


『真琴、誤解してる』


『離して!』


 玄関を出る。


 共用廊下。


 階段。


 拓海が追ってくる。


 左腕を再び掴まれる。


 真琴が振り払う。


 踊り場。


 肩へ手が伸びる。


 その手が押したのか、それとも引き止めようとしただけなのか。そこだけは今も曖昧だった。


 真琴の足が階段の縁から外れ、身体が傾く。何度も段差へぶつかり、最後に後頭部を強く打ったところで、記憶は暗闇に変わった。


 現在の真琴は仕事机の前で口元を押さえ、こみ上げる吐き気に耐えた。


「真琴?」


 玄関から現在の拓海の声がする。


「どうした? 大丈夫?」


 足音が近づいてくる。真琴は記憶媒体を抜き、机の奥へ隠した。


「頭……痛い」


 部屋へ入った拓海がすぐに近づく。


「また?」


「うん」


「薬飲む?」


 顔を上げると、拓海は優しい表情をしていた。事故の日、自分の後ろを追ってきた男と同じ顔だった。


「お願い」


 真琴がそう答えると、拓海は安心したように頷いた。


 その瞬間、真琴は決めた。


 まだ知られてはいけない。


 記憶が戻ったことも。


 証拠を見つけたことも。



 翌朝、真琴は美里へ全てを話した。二人で警察署へ向かい、これまで保存してきた資料を見せた。


 事故前の映像、現在の監視映像についての説明、診療記録、黄色い錠剤、確認記録、美里に残っていた事故前の連絡。真琴の記憶だけではなく、複数の客観的な記録が残っていた。


 対応した警察官からは、拓海へ一人で問い詰めたり、さらに証拠を集めるため危険な行動をしたりしないよう強く言われた。提出された資料は確認されることになり、薬についても正式な鑑定へ回される。


 真琴が最も怖かったのは、警察へ相談しても「記憶障害のある人の思い込み」と扱われることだった。しかし実際には、そうはならなかった。


 記憶だけではない。


 映像がある。


 記録がある。


 診療記録がある。


 友人の端末にも履歴が残っている。


 そして何より、事故前の自分が残した証拠がある。


 帰宅する必要はないと言われ、その日から真琴は美里の家へ泊まることになった。荷物についても、一人では取りに戻らないよう助言された。


 真琴には一つだけ、自分の口から拓海へ伝えたいことがあった。


 別れる。


 それだけは、拓海のためではなく、自分のために自分の言葉で終わらせたかった。


 警察からは直接会わなくてもいいと言われ、美里も反対した。それでも真琴は、安全を確保した第三者のいる場所で、短時間だけ話すことを選んだ。


 数日後、二人は警察署に近い公共施設の面談室で向かい合った。廊下には美里が待ち、施設職員にも事情を伝えてある。


 以前のように、自宅で二人きりではない。


 逃げ道のない階段もない。


 拓海は椅子へ座るなり、真琴を見つめた。


「何で家に帰ってこない?」


「今日は話をしに来た」


「俺、何かした?」


 その問いを聞いて、真琴は胸の奥が冷たくなるのを感じた。


「カメラのこと、全部分かった」


 拓海の顔がわずかに止まる。


「何の話?」


「寝室。リビング。台所。洗面所」


「……」


「事故の前から撮ってた」


「防犯のためだよ」


「私に黙って?」


「言えば嫌がると思ったから」


「嫌がることを、黙ってやったんだね」


「真琴」


「位置情報も見てた」


「心配だった」


「私の連絡も消した?」


 拓海は黙った。


「美里へ送った連絡」


「……あいつはお前を余計に不安にさせるから」


 真琴はその答えを聞き、静かに息を吐いた。


「消したんだ」


「お前のためだ」


「事故のあとも?」


「何が?」


「私が忘れたことを利用してた?」


 拓海の眉が寄る。


「利用なんかしてない」


「あなたが『昨日話した』って言えば、私は信じた。『忘れてるだけだ』って言われれば、自分を疑った」


「実際に忘れてただろ」


「そうだよ」


 真琴は頷いた。


「本当に忘れてることがあった。だから、あなたの嘘を見分けられなかった」


「嘘なんて――」


「黄色い薬は?」


 拓海が言葉を止めた。


「総合ビタミン剤じゃなかった」


「……眠れないって言ってたから」


「医者に相談せずに?」


「俺も処方されたことがある薬だ。少しくらいなら大丈夫だと思った」


「私の睡眠薬と一緒に?」


「お前が毎晩眠れないって言うから!」


 拓海の声が大きくなる。


「退院した頃のお前、ひどかったんだぞ。夜中に起きるし、泣くし、同じこと何度も聞くし。俺がどれだけ面倒見たと思ってる?」


 面倒を見た。


 その言葉を聞いた瞬間、真琴は五年間の記憶が別の形に並び替わるのを感じた。


 優しかったことまで消えるわけではない。


 だからといって、現在の行為が正しくなるわけでもない。


「事故の日も思い出した」


 拓海の顔から色が消えた。


「どこまで?」


「私がカメラを見つけた。あなたと喧嘩した。家を出ようとした。あなたが追ってきた」


「待って」


「腕を掴まれた」


「俺は押してない」


「そこは、私にも分からない」


 拓海が息を詰める。


「押されたのか、止めようとしただけなのか、それはまだ曖昧。でも、それを決めるのは今ここじゃない」


「じゃあ何で俺を犯罪者みたいに扱うんだよ」


「階段から落ちたことだけが問題じゃないから」


 真琴は拓海から目を逸らさなかった。


「事故のあと、私は何も覚えてなかった。その私に、カメラのことを隠した。友達との連絡を消した。自分に処方された薬を勝手に渡した。私が忘れていることを使って、自分に都合のいい説明を続けた」


「違う。守ろうとしたんだ」


「何から?」


「お前自身からだよ!」


 拓海が身を乗り出した。


「事故のあと、お前は普通じゃなかった。何でも疑うし、夜は眠れないし、俺がいないと生活もまともに――」


「それでも、私の人生は私のものだよ」


 真琴の声は震えていたが、言葉そのものは揺れなかった。


「私が間違えることがあるからって、あなたが私の代わりに現実を決めていいわけじゃない」


「俺は愛してるから――」


「それとこれは別」


 拓海の顔が歪む。


「五年だぞ」


「分かってる」


「五年一緒にいたんだぞ!」


「分かってるよ」


 真琴も泣きそうだった。


「だから苦しい。でも、五年一緒にいたことと、これからも一緒にいなきゃいけないことは同じじゃない」


「真琴」


「別れます」


 拓海が黙った。


「もう一緒には暮らさない」


「待ってくれ」


「待たない」


「ちゃんと話せば――」


「今、話してる」


 真琴は彼の目を見た。


「私があなたを好きだったことまで、嘘にするつもりはない。助けてもらったこともある。本当に優しかった時もあったと思う。でも、だからって監視されていい理由にはならない。薬を勝手に飲まされていい理由にも、記憶を利用されていい理由にもならない」


 拓海はしばらく何も言わなかった。


 やがて低い声で呟く。


「俺がいなかったら、お前どうなってたと思う?」


 以前の真琴なら、その言葉に答えられなかったかもしれない。


 今は違った。


「分からない」


 真琴は言った。


「でも、それを知るために離れるんだよ」


 真琴は立ち上がった。


「さようなら、拓海」


 拓海は呼び止めたが、真琴は振り返らなかった。扉を開けると、廊下の椅子から美里が立ち上がる。


「終わった?」


「うん」


「帰ろう」


 真琴は一度だけ深く息を吸った。


「うん。帰る」


 それは事故以来初めて、自分で選んだ帰り道のように思えた。



 三か月後、真琴は一人で暮らしていた。以前のマンションではなく、会社から電車で二十分ほど離れた、小さな賃貸マンションの三階だった。


 広い部屋は必要なかったので、居間と寝室だけの簡素な間取りを選んだ。家具もほとんど買い直し、ベッド、テーブル、小さな本棚、カーテン、食器まで、自分で一つずつ決めた。


 入居初日、真琴は部屋中の火災報知器を確認した。コンセントも、時計も、天井の機器も一つずつ見た。夜中に不安になり、もう一度確認した日もある。


 それを恥ずかしいとは思わなかった。


 拓海に関する捜査は続いている。室内の無断撮影、真琴の端末への不正なアクセス、薬を渡していた経緯。事故についても改めて調べられることになった。


 拓海は、階段から落とす意図はなかったと話しているらしい。


 真琴にも、そこだけは断定できない。事故だった可能性はある。


 しかし、その後に行われたことまで事故ではない。


 記憶を失った真琴に情報を隠し、行動を監視し、本人に処方されていない薬を渡し、現実の判断を自分へ依存させた。その事実は、事故が故意だったかどうかとは別に残る。


 真琴は仕事にも完全復帰した。最初の一か月は、自分の赤字を翌日もう一度確認し、修正履歴を残し、同僚にも「変なところがあったら必ず言って」と頼んだ。


 事故前の真琴なら、そんなことを言うのは少し恥ずかしかったと思う。自分の仕事は自分で完璧にしなければならないし、誰かに確認を頼むのは自信がない証拠のように感じていた。


 今は違う。


 確認することと、自分を否定することは同じではない。


 間違える可能性があるから確認する。


 それは他人も同じであり、自分も同じだった。


「高瀬さん」


 午後五時過ぎ、隣の席から後輩の小松がゲラを持ってやってきた。


「ここなんですけど、三十二ページでは主人公のお父さん、六十三歳ですよね。でも百十八ページの二年前の回想で六十二歳になってます」


 真琴は該当箇所を確認した。


「本当だ。一歳ずれてるね」


「確認出します?」


「出そう。年齢要確認で」


「分かりました」


 小松が自分の席へ戻ったあと、真琴は赤鉛筆で余白へ小さく「要確認」と書いた。その文字を見て、自然と少しだけ笑みが浮かぶ。


 仕事を終え、駅へ向かう途中、美里からメッセージが届いた。


『今日ご飯どう?』


 真琴は歩きながら返信する。


『行く。七時なら大丈夫。』


 数秒後、また届く。


『記憶合ってる?』


 美里なりの冗談だった。


 真琴は思わず笑った。


『予定表確認した。合ってる。』


『よろしい。』


 携帯電話を鞄へ戻し、人の流れに混じって駅へ向かう。


 今でも怖い夜はある。目を覚まして時間が分からなくなると心臓が速くなり、鍵を置いた場所が思い出せないだけで、あの頃の感覚が戻ってくる日もある。


 そんな時は、確認する。


 自分の記録を見る。


 それでも分からなければ、人に聞く。


 美里。


 医師。


 同僚。


 以前の真琴なら、それを弱さだと思ったかもしれない。今はそう思わない。


 一人の記憶だけで世界の全てを決めないことは、弱さではない。


 むしろ、自分を守るための方法なのだ。


 その夜、帰宅した真琴は机の引き出しから「確認記録」と書かれたノートを取り出した。あの日から、必要な時だけ書き続けている。


 最後のページを開き、今日の日付を記した。


『仕事、問題なし。


 美里と夕食。


 薬は医師の指示どおり。


 玄関の鍵を確認。


 今日はよく眠れそう。』


 そこでペンを止め、少し考えたあと、最後に一行だけ付け加える。


『今の私は、私を信じている。』


 書いた文章をしばらく見つめる。


 やがて真琴は、その一文へ一本だけ線を引き、下へ書き直した。


『今の私は、私だけを信じる必要はない。』


 こちらのほうが正しいと思った。


 最初の文章は完全には消さなかった。校正の仕事でも、修正前の言葉を跡形もなく塗り潰すことは少ない。


 何が書かれていたのか。


 なぜ直したのか。


 その痕跡にも意味があるからだ。


 事故前の自分も、記憶を失った自分も、拓海を信じ続けた自分も、疑い始めた自分も、怖くて震えていた自分も、どれか一つだけが本当の高瀬真琴なのではない。


 全部、自分だった。


 ノートを閉じたあと、真琴は洗面所へ向かった。鏡を見ると、そこにはもう付箋は貼られていない。


 最初の警告は証拠として提出する前に写真へ残してある。


『拓海に、思い出したことを言わないで。


 今夜は薬を飲まないで。』


 いつ書いたのかは、今でも完全には思い出せない。


 事故後のある夜、薬を飲まずにいられた自分が何かへ気づき、翌朝の自分へ残したのかもしれない。あるいは、記憶が曖昧な中で必死に書いたのかもしれない。


 不自然な読点も、未来の自分なら気づくと思ってわざと入れた可能性がある。それとも、本当にただ手が止まっただけなのかもしれない。


 そこだけは、答えが出なかった。


 真琴は鏡の中の自分を見つめる。


 分からないことが残っていてもいい。


 全ての空白を埋めなくてもいい。


 ただ一つ、もう間違えたくないことがある。


 誰かが「あなたのため」と言った時、その言葉だけで行為まで正しいものにしてはいけない。愛情は監視する権利ではなく、心配は相手の選択を奪う許可でもない。


 そして、自分の記憶が間違うことがあるからといって、他人の言葉が必ず正しいわけでもない。


 真琴は洗面所の灯りを消し、寝室へ向かった。ベッドに入り、目覚ましを午前七時へ設定する。


 明日は出社日だ。


 部屋は静かだった。


 隣で誰かが呼吸する音はない。


 眠っているか確かめるために、誰かが頬へ触れることもない。


 室内のどこかから、自分を見ている人間もいない。


 以前なら、その静けさを寂しいと感じたかもしれない。


 今夜は違った。


 誰にも見られていない。


 誰にも昨日を決められない。


 明日、何をするかも自分で選べる。


 それは孤独ではなく、自由だった。


 目を閉じると、最初の付箋が頭に浮かんだ。あの夜、自分を救ったのは完璧な記憶ではなく、小さな違和感だった。


 十五年間、文章の中の矛盾を探し続けてきた目と、過去の自分が未来の自分へ残した、ごく短い警告だった。


 だから真琴はもう、記憶に空白があることを以前ほど恐れていない。分からなければ確認すればいい。一人で分からなければ、誰かに聞けばいい。


 そして、誰かがその空白へ勝手な言葉を書き込もうとしたなら、自分で確かめればいい。


 必要なら、赤を入れる。


 真琴はゆっくり息を吐き、目を閉じた。


 その夜は、朝まで一度も目を覚まさなかった。

ここまで読んでくださり、そして『覚えのない警告が、私の字で書かれていた』を応援してくださって、本当にありがとうございます。


もし物語を楽しんでいただけましたら、ぜひブックマークと5つ星の評価で応援していただけると嬉しいです。


皆さんからの応援は、これからも物語を書き続けていくうえで大きな励みになります。


いつも本当にありがとうございます。これからも『覚えのない警告が、私の字で書かれていた』をよろしくお願いいたします!

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