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実録悪夢「親父からの伝言」

作者: 皆月 優
掲載日:2026/05/30

 夢の中で、親父は生きていた。


 場所は実家だった。


 私は仕事から帰宅し、持ち帰った書類の整理をしていた。すると、一枚の書類に不備を見つけた。


 お客様のサインがない。


 まずい。


 本来なら取り直さなければならない書類だった。


 私は母に代筆を頼んだ。


 自分で書けば筆跡でばれる。だから母に頼んだのだ。


 だが、母は名前を書き間違えた。


 それだけではなかった。


 余白に関係のないメモを書き始め、さらに意味不明な数式のようなものまで書き込んでいく。


 私は慌てて指摘した。


「違うよ。そこじゃない」


 しかし母は理解できない様子だった。


 焦ったようにペンを走らせ、消そうとしているのか、上から何度もぐちゃぐちゃと線を重ねていく。


 消せるはずのない紙の上を。


 嫌な予感がした。


 そして母は最後にこう言った。


「終わったよ」


 差し出された書類を見て、私は絶句した。


 書類が破られていた。


 母は長年、自営業で牛乳配達店を営んでいた。


 伝票や契約書の大切さを知らない人ではない。


 むしろ誰よりも知っている。


 その母が、書類を破った。


 私は激昂した。


「何やってるんだ!」


「これがどれだけ大事な書類かわかるだろ!」


「破ったらどうにもならないじゃないか!」


 半ば怒鳴るように言った。


 だがその時だった。


 母がぽつりと呟いた。


「仕事を辞めようかな」


 親父と私は顔を見合わせた。


「今年中に辞める予定じゃないか」


 そう答えた。


 だが私は違和感を覚えていた。


 母は確かに仕事を辞めたいと言っていた。


 しかし、こんなタイミングでそんな話をする人ではない。


 何かがおかしい。


 そもそもなぜ間違えたのだろう。


 なぜ消せないものを消そうとしたのだろう。


 なぜ破ったのだろう。


 私は母に尋ねた。


「どうしたの?」


 母はうつむいたまま答えた。


「もう限界かもしれない」


 私は母の様子を見た。


 会話は成立している。


 話の内容も理解できる。


 認識のずれもない。


「お母さん」


 私はできるだけ穏やかに言った。


「お母さんが言っていることはおかしくないよ」


「ちゃんと会話できてるよ」


 その瞬間だった。


 母は私に抱きついて、大声で泣き出した。


「怖かった!」


「私、頭がおかしくなったのかと思った!」


 その言葉で、私は全てを理解した気がした。


 母は間違えたことが怖かったのではない。


 自分が自分でなくなってしまうかもしれないことが怖かったのだ。


 そして私は思った。


 もしかしたら認知症というのは、こういうものなのかもしれない、と。


 本人は普通に考えている。


 普通に話している。


 なのに、どこかで思考と行動が噛み合わなくなる。


 そんな話を以前聞いたことがあった。


 そこで目が覚めた。


 時計を見ると、まだ夜中だった。


 トイレに行き、用を足し、部屋へ戻る。


 暗い天井を見上げながら私は呟いた。


「なぁ、親父」


 返事はない。


 当たり前だ。


 親父は四年前に亡くなっている。


 それでも私は続けた。


「親父が見せたのか?」


 夢の中の親父は、ずっと黙っていた。


 何も言わなかった。


 ただ、そこにいた。


 私は叔母のことを思い出していた。


 認知症になって十年以上になる。


 そして母も、もう若くはない。


 もし、いつか本当にそんな日が来たら。


 母が私を忘れたら。


 意味のわからないことを言うようになったら。


 今日の夢のように、自分自身を怖がるようになったら。


 その時は。


「責めないでくれ、ってことか」


 私はそう呟いた。


 親父は最後まで何も言わなかった。


 けれど、その沈黙が答えだったような気がした。

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