実録悪夢「親父からの伝言」
夢の中で、親父は生きていた。
場所は実家だった。
私は仕事から帰宅し、持ち帰った書類の整理をしていた。すると、一枚の書類に不備を見つけた。
お客様のサインがない。
まずい。
本来なら取り直さなければならない書類だった。
私は母に代筆を頼んだ。
自分で書けば筆跡でばれる。だから母に頼んだのだ。
だが、母は名前を書き間違えた。
それだけではなかった。
余白に関係のないメモを書き始め、さらに意味不明な数式のようなものまで書き込んでいく。
私は慌てて指摘した。
「違うよ。そこじゃない」
しかし母は理解できない様子だった。
焦ったようにペンを走らせ、消そうとしているのか、上から何度もぐちゃぐちゃと線を重ねていく。
消せるはずのない紙の上を。
嫌な予感がした。
そして母は最後にこう言った。
「終わったよ」
差し出された書類を見て、私は絶句した。
書類が破られていた。
母は長年、自営業で牛乳配達店を営んでいた。
伝票や契約書の大切さを知らない人ではない。
むしろ誰よりも知っている。
その母が、書類を破った。
私は激昂した。
「何やってるんだ!」
「これがどれだけ大事な書類かわかるだろ!」
「破ったらどうにもならないじゃないか!」
半ば怒鳴るように言った。
だがその時だった。
母がぽつりと呟いた。
「仕事を辞めようかな」
親父と私は顔を見合わせた。
「今年中に辞める予定じゃないか」
そう答えた。
だが私は違和感を覚えていた。
母は確かに仕事を辞めたいと言っていた。
しかし、こんなタイミングでそんな話をする人ではない。
何かがおかしい。
そもそもなぜ間違えたのだろう。
なぜ消せないものを消そうとしたのだろう。
なぜ破ったのだろう。
私は母に尋ねた。
「どうしたの?」
母はうつむいたまま答えた。
「もう限界かもしれない」
私は母の様子を見た。
会話は成立している。
話の内容も理解できる。
認識のずれもない。
「お母さん」
私はできるだけ穏やかに言った。
「お母さんが言っていることはおかしくないよ」
「ちゃんと会話できてるよ」
その瞬間だった。
母は私に抱きついて、大声で泣き出した。
「怖かった!」
「私、頭がおかしくなったのかと思った!」
その言葉で、私は全てを理解した気がした。
母は間違えたことが怖かったのではない。
自分が自分でなくなってしまうかもしれないことが怖かったのだ。
そして私は思った。
もしかしたら認知症というのは、こういうものなのかもしれない、と。
本人は普通に考えている。
普通に話している。
なのに、どこかで思考と行動が噛み合わなくなる。
そんな話を以前聞いたことがあった。
そこで目が覚めた。
時計を見ると、まだ夜中だった。
トイレに行き、用を足し、部屋へ戻る。
暗い天井を見上げながら私は呟いた。
「なぁ、親父」
返事はない。
当たり前だ。
親父は四年前に亡くなっている。
それでも私は続けた。
「親父が見せたのか?」
夢の中の親父は、ずっと黙っていた。
何も言わなかった。
ただ、そこにいた。
私は叔母のことを思い出していた。
認知症になって十年以上になる。
そして母も、もう若くはない。
もし、いつか本当にそんな日が来たら。
母が私を忘れたら。
意味のわからないことを言うようになったら。
今日の夢のように、自分自身を怖がるようになったら。
その時は。
「責めないでくれ、ってことか」
私はそう呟いた。
親父は最後まで何も言わなかった。
けれど、その沈黙が答えだったような気がした。




