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指名手配犯 九条雅紀  作者: 綾見 恋太郎


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第七話 都市の中の九条

 最初に違和感を持ったのは、顔だった。

 いや、正確には、顔がないことだった。

 真壁彰は防犯映像の停止画面を一枚ずつ机の上へ並べながら、何度目かの見直しに入っていた。駅前ロータリー、湾岸の歩道橋、交番前、深夜営業のコンビニ、病院の搬入口、古い団地の自販機脇、公共デッキ、港の待合所。九条雅紀らしき男がいたとされる場所は、もう都内地図の上でひとつの気候のように広がっている。最初のうちは、それを異常な移動能力として読もうとしていた。複数のルート、複数の足、複数の時間差。だが、どれだけ読み込んでも、人間一人の移動としては整わない。逆に、整わなさの中へ同じ種類の特徴だけが何度も現れる。

 左手。

 黒い鞄。

 少し顎を引いた歩き方。

 立ち止まる時に足より先に視線だけが止まる癖。

 コートの前を押さえる指。

 振り返らない背中。

 それらは驚くほど九条らしい。だが九条本人だと断定できるだけの顔は、どの映像にも決定的には残っていなかった。

 真壁は湾岸歩道橋の映像を拡大した。濃紺のコートを着た男が、欄干の近くで三秒ほど立ち止まり、それから人波へ紛れる。顔はマスクで半分隠れている。残り半分も、逆光で浅い影に落ちている。だが左手に鞄を持っている。歩き出す直前、ほんの少し顎が引かれる。

 別の映像では、交番前の男が立ち止まり、掲示板を見る。手の位置が少し違う。鞄は右手だ。だが、立ち止まる順番だけは似ている。

 病院搬入口の映像では、コートの前を押さえる指が九条らしい。だが身長が数センチ低い気がする。

 団地の自販機脇では、背格好は近い。だが歩幅がほんの少し広い。

 真壁はひとつの結論へ近づきながら、それでもまだ言葉にしたくなかった。簡単すぎるからではない。簡単なことのくせに、質が悪かったからだ。

 顔ではなかった。

 人々が見ていたのは、九条という一人の男ではなく、九条だと読みたくなる順番だった。左手、鞄、顎、立ち止まり方。それだけあれば、都市は勝手に残りを補う。

 その一文が頭の中で出来上がったとき、真壁は無意識に椅子の背へ深くもたれた。

 九条が複数いたわけではない。都市の中へ、九条らしさの部品が散っていたのだ。

 それははじめからずっと、この街で起きていたことの正体だった。公開手配の顔写真が最初の枠になる。そこへ左手の鞄が足される。顎の角度が足される。交番前で止まるという異様な一手が足される。あとは都市の側が勝手に埋める。人は“全部を見て”九条だと思ったのではない。“九条らしい部品を、九条らしい順番で見せられて”そう読んだのだ。

 真壁は机の上の停止画面を、いままでとは別の分類で並べ替えた。顔の見え方ではなく、部品の強さで分ける。左手が強いもの。輪郭が強いもの。立ち止まり方が強いもの。背中だけで成立しているもの。すると、あれほど散っていたはずの映像が、急に整然としてきた。初期は顔に近い要素が多い。マスク、濃紺のコート、細身の輪郭。中盤になると、顔から離れ、仕草や歩き方だけが残る。後半に近づくほど、さらに抽象化されていく。公的視線に拾われやすい位置取りだけで、もはや誰であっても“九条らしき男”になっている。

 終点が近い。

 真壁はそう感じた。

 終点へ近づくほど、九条本人に似せる必要がなくなる。最後に必要なのは本人確認そのものではなく、公的な視線が一斉にそこへ寄ることだからだ。

 だがその前に、確かめるべきことがあった。誰がその部品を担ったのか。

 昼前、真壁は港沿いの倉庫街へ出た。以前、九条の返礼の線の一端として浮かんだ大学時代の先輩が、いまは検査補助の仕事のほかに、港湾側の夜間記録整理も手伝っているという情報が入っていた。仕事の掛け持ち自体は珍しくない。だが、あまりに都合が良すぎる。

 倉庫の事務所にいた男は、真壁を見ると、最初から諦めた顔をした。以前会ったときと同じ、乾いた目だ。嘘をつくことに慣れているのではなく、言わないことを決めている目だった。

「また来たんですか」

「来るでしょう」

 真壁は事務机の前に立った。

「今度は別の話です。九条をどこへ隠したかじゃない」

「じゃあ何です」

「あんた、歩いたな」

 男の視線が一度だけ揺れた。それで十分だった。

「どこをです」

「交番前か、湾岸か、どっちでもいい。左手で鞄を持って、三秒止まっただろ」

 男は黙った。真壁は続ける。

「九条の代わりをやれなんて、あいつは言わない。言ったのは、左手で、ここで、止まれ。それだけだ」

 沈黙が長かった。倉庫の外をトラックが通り、荷台の金属音が低く響く。男はしばらく机の木目を見ていたが、やがて短く息を吐いた。

「……代わりじゃないです」

「分かってる」

「似せろとも言われてません」

「だろうな」

 男はそこで初めて真壁を見た。少し苛立ったような、少し呆れたような顔だった。

「あの人、顔を使わせるんですよ」

「顔を?」

「いや、違うな。顔じゃない。読まれ方を使わせるんです」

 男は自分でも言い直しながら、苦い笑みを浮かべた。

「渡されたのはメモ一枚です。左手で。交番の前。三秒。振り向かない。朝の人通り。そう書いてあった」

 真壁は黙ってその続きを待った。

「それで終わりです。どう歩けとか、どんな顔しろとか、何もない。俺はただ、左手で鞄を持って、言われた場所で三秒止まっただけです」

「怖くなかったか」

「怖かったですよ」

 男は即答した。

「でも、長くじゃない。三秒ですから。三秒で終わる」

 三秒で終わる。その言葉が妙に刺さった。九条のやり方はいつもそうだ。誰かの人生を長く壊さない。代わりに、一瞬だけ正確に借りる。一瞬だから、頼まれた側も引き返せる。だが一瞬であっても、その身体はその時間だけ“九条として読まれる位置”に置かれる。

「何でやった」

 真壁が訊くと、男は肩をすくめた。

「返礼ですよ。恩義って言うほど大げさじゃない。前にも言いましたよね。あの人、答えじゃなく順番だけ置いていくって」

「だから、あんたも順番だけ受け取った」

「そういうことです」

 真壁はその答えに腹が立った。理屈が通りすぎているからだ。九条らしすぎる。誰かを深く巻き込まないように見せかけながら、一番危ない位置へ一瞬だけ立たせる。断るほど重くもなく、断った後味も悪い頼み方で。

 倉庫を出たあと、真壁は車の中でしばらくエンジンをかけなかった。フロントガラスの向こうで、海風に旗が揺れている。九条の顔が頭から離れない。あいつは人へ深入りしない。だからこそ、頼み方も短い。説明もしない。だが短いから軽いわけではない。一瞬しか借りないから安全とも限らない。

「お前、人の人生を長く壊さない代わりに、一瞬だけ九条にするのか」

 独り言のように呟いて、自分で嫌になった。もし本人に言っても、九条はたぶん答えない。あるいは、答える必要がない顔をするだろう。

 午後、真壁はさらに別の“部品”へ当たった。都立病院裏手の資材置場にいる老女の清掃員だった。以前、記録の中で傷つけない扱いを受けたことで、九条へ小さな貸しを感じていた女である。真壁が訪ねると、老女は最初から箒を持ったまま立っていた。

「また私ですか」

「今度は九条を隠したかどうかじゃない」

「じゃあ何です」

「コートを出したろ」

 老女の指が、箒の柄をほんの少し強く握った。

「濃紺の。顔は見えなくても、あれを着て立てば“九条らしい”と読まれる」

「貸したとは言ってませんよ」

「着た人間がいた」

「いたかもしれませんね」

「誰だ」

 老女は首を振った。だが否定の仕方は曖昧だった。

「名前なんて要らないでしょう。あの人も訊かないんだから」

 真壁は眉をひそめた。

「九条がか」

「そうです。誰が着るかより、どこで止まるかのほうが大事だったみたいですよ」

 やはりそうだ。九条は人に演技をさせたのではない。見つかる条件だけを渡している。

「何て言われた」

「言われたというほどじゃないです」

 老女は少し考え込むように目を伏せた。

「紙切れでした。濃紺。前は閉じる。柱の陰。二秒だけ見える。そんなふうに」

「それだけか」

「それだけで充分だったんでしょう」

 老女の答えは冷静だった。善意に酔っていない。自分が大きなことをしたつもりもない。ただ、置かれた順番をそのまま渡しただけという顔だ。

「あなたたち、九条に心酔してるわけじゃないな」

 真壁がそう言うと、老女は鼻で笑った。

「まさか。あの先生、感じは悪いですよ」

 真壁は少しだけ肩の力を抜いた。その言い方が救いだった。九条は好かれていない。少なくとも、分かりやすくは。だが返礼だけは残す。相手の人生へ大きく入り込まず、それでも消えない貸しだけを置いていく。そのやり方が、いま都市の中で部品になって返ってきている。

「でも、頼み方がずるいんです」

 老女が言った。

「大きなことを言わない。ここで、ちょっと立って、とか。コートを貸して、とか。そういう頼みなら、断るほうが大げさになる」

 真壁は何も言えなかった。まったくその通りだった。

    *

 夕方、本部では二階堂壮也が別の種類の頭痛に襲われていた。広報課に集まってくる通報の再整理資料を読み込むほど、九条像の固定が不可能になっていると分かるからだ。

 写真は同じだ。危険性の文言も揃えている。訂正も最小限に抑えている。それでも目撃される“九条”は、すでにひとつではない。左手の鞄として見つかる九条がいる。顎の角度だけで見つかる九条がいる。交番前で止まるという順番そのもので見つかる九条がいる。もはや公式の指名手配像は固定点ではなくなっていた。九条は都市の中へ、読むための枠そのものとして撒かれている。

 そして最悪なのは、それが組織的ななりすましではないことだった。

 暴力や命令なら、切れる。金の流れなら追える。だが今起きているのは、個別の返礼と短い善意だ。たった三秒立つ。コートを貸す。朝の人通りを教える。交番の前を通る時間をずらす。その程度の行為を、一律の強い警告や弾圧で止めることはできない。止めようとした瞬間、今度は広報の側が“市民の善意を敵視している”物語へ転ぶ。

「最悪ですね」

 部下が、資料を見ながら本音を漏らした。

「何が」

 二階堂が訊くと、部下は一瞬たじろぎながらも言った。

「一人の容疑者を追ってるのに、像だけ増えていくことです。しかも写真より仕草が強い」

 二階堂は端末画面を閉じた。

「写真はもう、入口に過ぎないんだろう」

「入口、ですか」

「人はそこから先、自分で九条を読む」

 部下は意味がわからない顔をしたが、それ以上は訊かなかった。二階堂の頭の中では、もうはっきりしていた。九条がやっているのは逃亡補助ではない。都市の中へ九条という読む枠を撒くことだ。誰かがそこへ少し似た部品を置けば、人々は勝手に残りを補う。広報がどれだけ写真を固定しても、もう遅い。九条像は人々の生活圏と仕草の中へ分散してしまっている。

 その理解は、広報としては敗北に近かった。固定できない像は、制御できない。制御できない像は、いずれ物語になる。二階堂が最も嫌っている形だ。

    *

 夜、真壁は本部の映像確認室で最後の突き合わせに入った。これまで接触した“部品”たちの証言を、再び防犯映像へ重ねる。左手で鞄を持った元研修生。濃紺のコートを着た誰か。港の待合所で“九条らしい背中”を作った搬送補助の男。団地の自販機脇を通る時間だけずらされた通行人。交番前の張り紙へ視線を置く位置だけ教えられた若い男。どれも本人になりかわってはいない。ただ、必要な部品だけを短時間担っている。

 映像を見続けるうち、真壁はさらにひとつの変化に気づいた。後半になるほど、部品の具体性が薄れているのだ。初期は輪郭、服装、鞄。中盤は顎、歩き方、立ち止まり方。終盤は、もはや立つ位置と時間帯だけが残る。朝の人通り。公共デッキの角。交番の視界。病院裏口のカメラの外縁。九条本人に似せる必要が、だんだん消えている。

 終点が近いからだ。

 最後に必要なのは、“あれが九条本人かもしれない”という推測ではなく、“そこへ公的な視線が集まる”という事実だけになる。つまり、港湾沿いの旧搬送路、保管棟、説明処理の起点となった一帯。そこへ人と記録と警察と広報が同時に集まればいい。九条本人に似せるための部品は、もう最小限で足りる。

 真壁は会議室へ戻り、壁の地図を新しい色で塗り直した。後半の目撃地点だけを抜き出し、公的視線に回収されやすい位置を太線で結ぶ。港湾。旧搬送路。保管棟。広報前整理の起点。線はもう、迷わず同じ一帯へ落ちていく。

 そのとき、ドアが開いた。二階堂だった。お互い、呼んでいない。だが来ると分かっていたような気がした。

「終点が見えた」

 真壁が先に言うと、二階堂は一瞬だけ立ち止まった。

「……おまえもか」

「そっちもだろ」

 二階堂は壁の前まで来て、真壁の引いた太線を見た。港湾沿いの旧搬送路、保管棟、広報前整理の起点となる一帯。そこは二年前の処理の始点であり、今もなお説明の始点である場所だ。死体や記録が、最初に“説明へ変換される”場所。九条が見つかるために戻る場所としては、あまりにふさわしすぎる。

「初期は顔に近い部品だった」

 真壁が言う。

「途中から仕草に変わった。で、今は位置取りだけだ。本人に似てる必要が、もうなくなってる」

「そこへ公的な視線が揃えば足りる」

 二階堂が続けた。

「広報も、警察も、関係者も、記録も」

「犯人側もな」

 二階堂は短く息を吐いた。

「最悪だ」

「おまえにとってか」

「全員にとってだ」

 真壁は少しだけ笑いそうになったが、笑えなかった。まったくその通りだった。

 壁の地図を見上げる二階堂の横顔は、いつもの平静を保っている。それでも分かる。九条像が固定不能になったこと、自分の広報がその散布に加担したこと、その全部を飲み込んだ上で、なお次に何を出すか考えている顔だ。

「なぜそこへ戻る」

 二階堂が低く訊いた。

「まだ全部は分からない」

 真壁は正直に答えた。

「でも、そこなら揃う。二年前の処理の始点で、今の説明の始点でもある。九条が“見つかるために戻る”なら、あそこ以上の場所はない」

 二階堂はしばらく何も言わなかった。そして、ごく小さく頷いた。

「同じ座標を見てるな」

「初めてかもな」

「嬉しくはない」

「俺もだ」

 会議室の外では、まだ捜査員の足音が続いている。都市のどこかでは、また別の“九条”が見つかるのかもしれない。だがもう、その意味は最初の頃と違っていた。本人が増殖しているのではない。都市の中へ撒かれた九条らしさの部品が、最後の一点へ向けて視線を送っている。

 真壁は壁の終点候補を指先で叩いた。

「ここだ」

 二階堂はその一点から目を離さない。

「二年前の処理の始点で、今の説明の始点」

「九条が見つかりたがる場所だ」

「見つかりたがる、か」

 二階堂はその言葉を口の中で転がすように繰り返した。

「嫌な言い方だな」

「でも正確だろ」

 正確だった。九条は逃げ切るために動いていない。見つかる順番を置き、見つかる条件を配り、見つかる場所へ戻っている。しかも都市の中の他人の身体を、一瞬だけ部品として借りながら。

 真壁はふと、元研修生の顔を思い出した。左手で鞄を持って三秒止まっただけの男。老女が貸したコート。港で背中を作った男。誰も九条本人になったわけではない。だがその一瞬だけは、九条として読まれる位置へ置かれた。九条は人を長く壊さない。だが無傷でも返さない。その冷たさが、今は腹立たしく、同時によく分かってしまう。

「ようやく答えが出る」

 真壁は独り言のように言った。

「何でそこへ戻るのか」

 二階堂は壁を見たまま、静かに答えた。

「戻るんじゃない。たぶん最初から、そこへ見つかるつもりだった」

 その一言が、地図の上で重く沈んだ。

 真壁は頷き、終点へ集まる線の束を見つめた。港湾沿いの旧搬送路、保管棟、説明処理の起点となった一帯。刑事も広報も、ようやく同じ一点を見ている。だが、その一点へ至る順番そのものは、ずっと九条が作ってきた。

 都市の中にいた無数の九条たちは、そこへ視線を運ぶための部品だった。

 そして今、その視線がようやく揃おうとしていた。


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