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指名手配犯 九条雅紀  作者: 綾見 恋太郎


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第五話 見つかる順番

 九条雅紀はどこにいるのか。

 その問いだけを正面に置いている限り、地図は何度見ても壊れていた。

 真壁彰は、捜査本部の隅に押し込められた仮の作業机を、ここ三日でほとんど自分の領分に変えていた。壁には都内広域図が二枚、机の上にはさらに縮尺の違う地図が三枚重なっている。目撃情報の一覧、時刻表、交番配置図、監視カメラの設置位置、湾岸部の歩行導線、病院搬入口の動線図、そして二階堂壮也の広報課が出したリリースの控え。紙の色が違うのは、見る順番を変えるためだった。最初は時系列、次に目撃の信頼度、その後は“九条らしさ”の部品ごと。そこまでやっても、まだ一本の逃走経路にはならなかった。

 なるはずがない、と真壁はもう薄々分かっていた。

 九条はどこにいたか。その問いで読む限り、地図は壊れていた。だが九条がどの順番で見つかったことになっているかで読み替えると、散らばっていた点は初めて線になった。

 気づいたきっかけは些細だった。午前二時台の目撃情報を、真壁が何気なく別の束へ重ねた時である。

 駅前のロータリー。湾岸の歩道橋。交番前。病院の搬入口。古い団地の自販機脇。深夜営業のコンビニ。公共デッキ。港の待合所。どれも人の目に触れやすい。だがそれは単に“人通りがある”という意味ではなかった。交番前なら通報が公的記録へ直結しやすい。公共デッキなら監視カメラに残りやすい。病院搬入口は関係者の口が早い。駅前ロータリーや港の待合所は、一度目撃が出ればニュースやSNSで位置情報ごと反復される。つまり九条が選んでいるのは、街の目ではなく、公的な視線に拾われやすい場所だった。

 真壁は赤鉛筆を取り、目撃地点のうち「公式に確認されやすい場所」を丸で囲み始めた。交番前、駅前、港の待合所、公共デッキ、病院裏口。次に青鉛筆で、九条と過去に接点のある人間の生活圏を記した灰色の付箋を結んだ。すると赤い丸と青い線のあいだに、奇妙な規則が浮かび上がる。九条は返礼の線に守られながら、その線の端に必ず“見つかる地点”を置いていた。

 隠れる場所と、見つかる場所が、ひと組になっている。

 たとえば港の待合所。近くには二年前の案件遺族が住んでいる。短時間なら休ませることができる。だが目撃そのものは、待合所で起きる。しかも「子どもに席を譲っていた」という、危険な個人犯像とは少し矛盾する細部を伴って。それによって視線は、単なる逃亡者から生活の内側へ一度だけずれる。その直後に広報が危険性を強める訂正を打つ。すると今度は、湾岸の歩道橋や展望デッキで輪郭だけの九条が現れる。生活の細部を打ち消すように、抽象化された九条像が次に置かれる。

 そこには対話のようなリズムがあった。

 九条は追跡を攪乱しているのではない。追う側と広報の動きに対し、次にどういう九条像が必要かを選んで置いている。言い換えれば、目撃地点は“ここにいた”という証拠ではなく、“次の読みを生むために置かれた部品”だった。

 真壁は椅子から立ち上がり、壁に貼った広域図へ歩いた。新しい紙を上から重ねる。そこには二階堂のリリースが時刻ごとに並んでいた。

 公開手配開始、午前九時十分。

 危険性強調の文言修正、十三時〇〇分。

 目撃情報の細部統制、十六時三十分。

 職種表記の整理、翌日十時四十分。

 目撃情報の扱い変更、同日午後。

 そのひとつひとつの直後に、質の違う目撃が入っている。

 最初の公開手配直後は、顔と服装が中心だった。

 危険性を強めた後は、生活感のある細部が混じった。

 目撃の細部を削った後は、輪郭と立ち止まり方だけで九条が完成した。

 職種表記を薄めた後は、監察医らしさではなく、無機質な視線の置き方だけで九条が見つかった。

 真壁はそこに線を引き、リリースと目撃を一本ずつ結んだ。逃走経路ではない。視線の移動経路だ。警察が何を消し、何を残し、人がどの部品を拾い、次にどこへ視線を寄せるか。その順番が、地図の上でなめらかに繋がっていく。

「おい」

 背後から声がした。若い刑事が会議室の入口から壁を覗き込んでいる。

「すごいことになってますね」

「綺麗に見えるか」

「いや、余計分からなくなりました」

「その感想は正しい」

 真壁は答えた。

「分かりやすい逃走なら、こんなふうにはならない」

 若い刑事が近づいて、壁に貼られた紙の束を眺めた。

「どれが本物の目撃なんですか」

「本物かどうかは、いまは二の次だ」

「二の次?」

「本人がいたかどうかより、本人がいたことにすると何が起きるかのほうが重要だ」

 自分でも言いながら、真壁は九条らしい発想だと思った。死体から真実を読むのではなく、死体がどんな順番で読まれるかを先に整える。そういうことを九条は昔からやっていた。解剖でも説明でも、相手に与える情報量より、情報が届く順番を気にする男だった。

 若い刑事は理解しきれていない顔で頷き、書類を置いて去っていった。真壁はその背を見送り、再び壁へ向き直る。

 九条が向かっているのは安全な場所ではない。見つかりやすい場所だ。しかも、その見つかり方は単発ではない。前の目撃が次の読みを生み、その読みが次の目撃を必要とするように出来ている。だからこそ散漫に見えた。実際には一点へ向かう線なのに、途中で何度も視線を外させるから、追う側は遅れる。

 午後、真壁は二階堂を呼んだ。

 呼んだ、というより、半ば強引に作業部屋へ引きずり込んだ。

 二階堂は広報課の会議を終えたばかりらしく、手元のファイルが厚い。顔色は相変わらず整っているが、目の奥に眠っていない色があった。

「五分」

 二階堂が言う。

「十分だ」

「五分でいい話にしろ」

 真壁は返事をせず、壁の地図を指した。二階堂は最初、いつものように冷めた目で一瞥しただけだったが、次の瞬間、眉がわずかに動いた。広報リリースの時刻と内容が、目撃地点の横に細かく書き込まれている。

「勝手に持ち出したのか」

「庁内共有だろ」

「並べるなとは言ってないが、並べて良いとも言ってない」

「見れば分かる」

 真壁は壁の中央を指した。

「この訂正のあとに、この目撃が出てる。ここでおまえが細部を削ると、次は輪郭だけの目撃が来る。危険性を強めると、生活の断片が混じる。おまえが削った像を、次の目撃が補ってる」

 二階堂は数秒黙っていた。反論の材料を探しているのではない。見た瞬間に理解したことを、どこまで言葉にするか選んでいる沈黙だった。

「……最初からそのつもりなら」

 二階堂が低く言った。

「広報も追跡も同じ素材だ」

「そうだ」

 真壁は頷く。

「おまえが出す文言も、俺たちが走らせる足も、九条の盤面から見りゃ同じ“公的な視線”だ」

 二階堂は壁に近づき、リリースの時刻の横へ指を置いた。公開手配。危険性強調。目撃情報の細部統制。視線の流れを自分の頭の中でなぞっているのが分かる。

「ここで俺は、人物像を痩せさせようとした」

「痩せてない」

「痩せたよ。だが薄くなった分、誰でも着られるようになった」

 その言い方が、真壁には妙に腑に落ちた。九条像は削られたことで消えたのではない。均されたことで、別の人間が短時間だけ着られる輪郭になったのだ。マスクと濃紺のコートと、少しだけ顎を引く立ち方。それだけで“九条らしさ”の最低限が成立する。広報が細部を消すほど、都市は残った部品で九条を完成させる。

「九条ならやる」

 真壁が言うと、二階堂は否定しなかった。

 否定できないのだ。九条はもともと、説明を削ったときに人がどこを補うかを読む男だった。情報を全部置くより、相手が勝手に完成させる余白を作るほうが早いことを知っている。今回の広報戦は、その悪い見本みたいなものだった。

「ここを見ろ」

 真壁は湾岸部を示した。

「港の待合所で生活の断片が出たあと、おまえが危険性を強めた。で、そのあと展望デッキ。自分の手配写真をスマホで撮ってたって目撃。あれが本人か偽物かはどうでもいい。重要なのは、おまえが置いた公開像そのものが、次の目撃の主題になってることだ」

「分かってる」

 二階堂は短く言った。

「見つかった男じゃない。見つかり方を観察してる男として流れが変わった」

「そこまで読んでるなら、次もある」

 二階堂は地図の下半分へ目を移した。団地、自販機脇、公共デッキ、病院搬入口、交番前。どれも公式記録に回収されやすい地点ばかりだ。

「裏通りにいないな」

「いない」

「隠れるつもりなら、もっと消える場所がある」

「でも行ってない」

 二人の会話は短いのに、少しずつ同じ地点へ近づいていた。九条は路地裏の自由を選んでいない。逃走に有利な暗さより、公的な眼差しに拾われる場所を優先している。しかも、その選び方には一貫性がある。駅前、交番前、公共デッキ、病院搬入口、港の待合所。都市の中でも、公的記録へ回収されやすい地点だ。

「終点がある」

 真壁はそう言った。

 二階堂はすぐには答えなかったが、否定もしなかった。

 九条のルートは、街を漂っているのではない。どこかへ向かって視線を寄せている。その一点がどこかは、まだ断定できない。だが終わりのない攪乱なら、ここまで公的な場所に偏らない。見つかることそのものが目的のルートなら、最後に回収されるべき地点があるはずだ。

「どこだと思う」

 二階堂が訊く。

「候補はいくつかある」

 真壁は壁の端に書いた地名を指した。湾岸の旧搬送路起点、広報前整理室のあった別棟、最初の記録処理が行われた施設、資料が一時集積された保管区画。どれも“説明と処理の始点”になりうる場所だ。九条のやり方を考えれば、ただ逃げやすい場所ではなく、何かを読み始める起点になる場所へ向かう可能性が高い。

「港か」

 二階堂が言う。

「まだ絞れない。でも港は強い。あそこは運ばれる場所で、待つ場所で、公式記録も残る」

「旧搬送路も近い」

「病院からの流れと繋がる」

 二人は地図を見たまま黙り込んだ。答えはまだない。だが“逃走先”を探していた時とは違う種類の沈黙だった。向こうが隠れる場所ではなく、こっちが見つけるべき順番の終点を考えている。

    *

 その夜、九条雅紀は、港沿いの簡素な休憩室にいた。椅子が四つ、机が一つ、壁際に古い電気ポット。夜勤者が仮眠を取るための部屋を、数十分だけ借りているらしかった。蛍光灯は半分しか点いていない。窓の向こうには黒い海があり、岸壁の照明がぼんやりと滲んでいた。

 向かいに座っているのは、港湾関係の荷役補助をしている中年の男だった。九条と直接深い付き合いがあるわけではない。数年前、搬送時の確認で一度だけ関わったことがある程度だ。それでも今、ここにいる。

「明け方は人が増えます」

 男が言った。

「五時を過ぎると早い。始発組と、荷の受け側が動きます」

 九条は頷いた。

「交番は」

「角を曲がってすぐです。デッキの上からも見える」

「記録は残る」

「ええ。監視もあります」

 会話はそれだけだった。九条は地図を広げない。逃走計画の全体像も説明しない。どこへ行くか、ではなく、どこならどう見つかるか、その条件だけを確かめている。朝なら人がいる。交番の角は見られやすい。そこなら公式に残る。必要なのはそれだけだ。

 男が湯気の消えた紙コップを片づけながら、小さく言った。

「先生、そこ、危なくないですか」

 九条は少し考えてから答えた。

「危ないほうがいい時があります」

 男はそれ以上、訊かなかった。九条も説明を足さない。相手が理解できる分だけ置き、余計な物語を許さない。その冷たさが、なぜか人を遠ざけ切らない。真壁には、その距離感が今ようやく別の形で読め始めていた。

    *

 本部に戻った真壁は、日付の変わるころ、机の上の紙を全部一度外した。新しい地図を中央に置く。今度は逃走経路として線を引かない。公的視線に拾われやすい地点だけを赤で打ち、返礼の線を青で置き、広報訂正の時刻を黒で記す。最後に、それぞれの目撃が“次にどこへ視線を流すか”を矢印で示した。

 港の待合所のあと、湾岸部へ。

 団地の自販機脇のあと、生活圏潜伏の印象へ。

 交番前のあと、公開像の自己観察という気味の悪さへ。

 展望デッキのあと、公的視線の中心へ。

 矢印は一見ばらばらなのに、少しずつ同じ方向へ寄っていく。湾岸と旧搬送路周辺。説明と処理の始点になりうる場所。しかもどれも、逮捕や確認が「公式に残る」形を取りやすい地点だった。

 真壁はそこでようやく、自分が何を見ているのかを正確に言葉にできた。

 九条は自由を確保するために移動しているのではない。

 見られ方を管理するために移動している。

 その管理の最後に必要なのは、逃げ切りではない。回収だ。警察に、都市に、公的な視線に、どういう順番で自分を見つけさせるか。そのための終点が、必ずどこかにある。

 二階堂が再び部屋へ来たのは、その直後だった。広報課の誰かに呼ばれていたはずだが、途中で抜けてきたらしい。

「まだやってるのか」

「おまえもだろ」

 二階堂は壁の前に立ち、新しい線を見た。今度の地図は前より静かだ。ぐちゃぐちゃに見えない。その分、気味が悪い。意味のある線だけが残っているからだ。

「……収束してるな」

「ああ」

「湾岸」

「そこが強い。でも港そのものか、旧搬送路の起点か、まだ断定はできない」

「どちらにしても、説明が始まる場所だ」

 二階堂のその言い方に、真壁は目を上げた。説明が始まる場所。確かにそうだった。九条の事件で鍵になる場所は、どれも処理や搬送や記録や告知の起点だった。死体がどこにあるかではなく、死体がどう説明されるかが始まる場所。九条がそこを選ぶなら、あまりに九条らしい。

「広報を使ってるんじゃない」

 真壁は低く言った。

「公開捜査そのものを使ってる」

 二階堂はすぐには答えず、壁の黒線を指でなぞった。リリースの時刻、目撃の変化、視線の移動。広報はただ世論を整えるためのものではなく、九条にとっては公的な目の向きを制御する装置になっている。止めれば“消そうとしている”ことが意味を持つ。続ければ、次の視線移動が発生する。どちらにせよ盤面から降りられない。

「そろそろで来るな」

 真壁は独り言のように言った。

「何が」

「九条が何を逆に使ってるか、もっとはっきりする」

 二階堂はその言葉にだけは反応せず、逆に別の一点を見た。

「ここだな」

 港近くの赤い印だった。公共デッキと交番、待合所、旧搬送路の枝が重なる地点。

「ここは、見つかりすぎる」

「だから怪しい」

「普通の逃走なら切る場所だ」

「九条は切ってない」

 二人は同時に同じ結論へ近づきながら、それでも最後の一語だけは口にしなかった。もしそこが終点なら、九条は最初から逮捕される場所を選んでいることになる。逮捕されること自体が負けではなく、説明の最終手順の一部になる。そこまで考えると、背筋が冷えた。

 真壁は壁から一歩下がり、最後の線を引いた。赤い印と黒い時刻と青い返礼の線を、一本の濃い鉛筆で結ぶ。逃走の線ではない。見つかる順番の線だ。その終わりはまだ点でしかない。だが点があることだけは、もう疑いようがなかった。

 背後で二階堂が低く訊く。

「それで、何て書く」

「何を」

「この地図の名前だよ」

 真壁は少しだけ考えた。捜査用の表題なら、もっと事務的にできる。目撃情報統合図、広報反応相関図、そんなふうに。だが、ここにあるものはどれでもなかった。

 真壁は鉛筆を置いた。

「九条雅紀の逃走経路」

 言いかけて、首を振る。

「いや、違うな」

 二階堂は黙って待っていた。

 真壁は地図の中央、湾岸へ寄っていく線の束を見つめたまま、静かに言った。

「これ、逃走じゃない」

 その一言で、室内の空気が張りつめる。

 真壁は最後の線の先を指した。

「見つかる場所を先に決めてる」

 そして、もう一度地図全体を見渡し、確信として言った。

「逮捕地点を作ってる」


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