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指名手配犯 九条雅紀  作者: 土屋 拓真


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第四話 広報戦

 九条雅紀を追っているはずなのに、追うたびに数が増える。

 二階堂壮也は、その不快な感覚を、三日目の午後にはもう誤魔化せなくなっていた。

 警視庁広報課の会議室には、朝から同じ種類の紙が何度も積み上がっている。報道各社への発表文、差し替え用の簡易リリース、訂正文案、庁内向け共有メモ、FAQ、問い合わせ想定問答、SNS監視報告、まとめサイト対策の一次メモ。机上の紙は整然としているのに、内容はどれも同じ一点へ向かっていた。九条雅紀を、意味の多い男にしないこと。危険だが孤立した個人犯として、平板な輪郭へ押し込めること。そのために必要な修正を、機械のように積み上げること。

「見出しの統一をもう一度」

 二階堂は椅子にもたれないまま言った。

「“監察医の逃走”は切る。“公開手配中の容疑者”で揃える。職種が先に立つと、背景を読ませる」

「各局とも、職業名のほうが、引きが強いと」

「知ってる。だから消す」

 向かいの若い職員が慌ててメモを取る。別の席の担当者がノートPCを叩きながら確認した。

「目撃情報の外向け共有はどうしますか。現状、各媒体が勝手に“左手に黒い鞄”“顎を引いて歩く”“コートの前を押さえる癖”みたいな細部を拾ってます」

「全部切る」

「全部、ですか」

「全部だ」

 二階堂は即答した。

「服装の大枠、危険性、最終確認エリア、接触回避。外へ出すのはそれだけでいい。手の使い方も、歩き方も、立ち止まり方も、補助情報にしかならない」

「通報精度が落ちる可能性は」

「上がっても困る」

 その言い方に、会議室の空気が一瞬だけ止まった。二階堂は気にしない。

「正確に言えば、精度の上がり方がまずい。人物像が補完される形の通報が増えるのがいちばん困る。いま起きてるのはそれだ。人は顔を見てるんじゃない。顔に仕草を足して、勝手に九条を作ってる」

 壁のモニターには、すでに朝から更新された記事見出しが一覧で並んでいた。『危険な監察医、都内潜伏か』『謎多き逃亡』『駅前、病院裏口、防波堤……目撃相次ぐ』。そこからさらにリンクを辿れば、匿名投稿の断片が際限なく生まれていく。「自分も見た気がする」「あの歩き方だった」「マスク越しでも分かった」「視線がそうだった」。見たのは顔か、思い出したのは仕草か、その順番さえ曖昧なまま、人々は九条という像を増やしていく。

 広報としては、最悪だった。

 情報を削れば、像は痩せるはずだった。だが九条だけは違った。削られたぶんだけ、人は残った輪郭へ勝手に意味を足し始める。二階堂は、その増え方を止められなかった。

「写真は差し替えますか」

 別の職員が訊いた。

「現行の正面写真は、冷たすぎて逆に印象に残るという意見もあります。横向きの業務記録画像なら、もう少し匿名性が」

「だめだ」

 二階堂は首を振った。

「横顔は余計な読みを誘う。疲れて見える、追い詰められて見える、何かを見てるように見える。全部だめだ。正面のまま行く」

「では文言だけ修正で」

「危険性の強調を一段上げる。接触しないこと、単独行動の可能性、発見時の通報を前面へ。背景説明は削る。人となりを想像させる要素は一行も要らない」

 言いながら、二階堂自身、その処理が正しいことを知っている。知っているからこそ苛立った。正しいやり方をしているのに、盤面の主導権がこちらにない。自分が削った像の隙間へ、九条の断片が先回りして置かれていく。その感覚が、広報としての自負を静かに傷つけていた。

 会議が終わると、二階堂はそのまま庁内の調整会議へ呼ばれた。捜査幹部、法務確認担当、報道連携。全員がそれぞれの正しさを持ち込む場で、二階堂は言葉を最短距離で切り分けていく。

「訂正のタイミングは一日二回で固定します。小出しにすると、その都度“何が違ったのか”の議論が起きる」

「目撃情報はどこまで事実として扱う」

「個別の認否はしません。“現在精査中”で統一です」

「ネットでは“監察医だから証拠を持っているのでは”という流れが」

「否定も肯定もしない。“捜査中につき回答差し控え”で十分です」

 無駄がない。冷たいくらいに整っている。だからこそ周囲は従いやすい。二階堂はこういう場で感情を挟まない。九条がどんな人間か知っていることも、知っているから余計に厄介だと思っていることも、外には一切出さない。ただ、広報として正しい処理を積み上げる。

 だが、その正しさが逆回転し始めていることを、彼はもう感じていた。

 会議室を出た直後、内線で新しい通報が入った。内容を聞いた若い職員が、露骨に困った顔で二階堂を見た。

「何だ」

「湾岸の小規模フェリー乗り場です。九条らしき男が、案内板の前で立っていたと」

「それだけか」

「いえ……手配写真を見た感じではないそうです」

「どういうことだ」

「通報者いわく、“顔じゃなくて、立ち止まる順番で分かった”と」

 二階堂は一瞬、言葉を失った。順番で分かった。まるで九条本人に接したことがある人間のような言い方だ。しかし通報者は湾岸の売店店員で、九条と直接面識はない。つまり、面識がなくても分かるほど、九条らしさが都市へ配られているということになる。

「詳細は外へ出すな」

「はい」

「その文言もそのまま書くな。“不審な立ち止まり”程度に丸めろ」

「了解です」

 だが丸めれば丸めるほど、人はその先を補う。二階堂にはもう、それが分かっていた。情報を削るほど、想像力が働く。危険性だけを残せば、人は危険な顔を探す。職業名を消せば、逆に無機質な顔の意味が増す。細部を伏せれば、誰もが残ったわずかな部品で九条を作り始める。

 夕方、真壁彰は捜査会議の端で、その広報訂正の時刻を一覧に書き込んでいた。九時二十分、第一次修正。十三時、追加注意喚起。十六時半、目撃情報の取扱変更。時刻の横へ、その直後に入った新通報を重ねていく。

 九時二十分のあと、駅前で「黒いマスクの横顔」。

 十三時のあと、港の待合所で「子どもに席を譲った男」。

 十六時半のあと、フェリー乗り場で「立ち止まる順番が九条らしい男」。

 偶然で片づけるには、噛み合いすぎていた。

 広報が像を削る。すると、その削られた部分を補うような目撃が入る。危険性を強めれば、生活の細部が混ざる。仕草を伏せれば、次は別の仕草が現れる。まるで九条が、公式発表の不足分を読んで次の一手を置いているようだった。

「もう使われてるな」

 真壁は独り言のように呟いた。

 隣にいた刑事が顔を上げる。

「何がです」

「広報だよ」

 真壁は訂正時刻の並んだ紙を見た。

「訂正が出るたびに、次の目撃が入る。たまたまにしては出来すぎてる」

「でも、それは二階堂さんのせいってことじゃ」

「そういう話じゃない」

 真壁は首を振った。

「やらなきゃもっとまずい。ただ、やってることごと盤面に乗せられてる」

 真壁には責めきれなかった。二階堂のやり方は正しい。いや、正しいからこそ九条に読まれる。二階堂は広報の定石を知っている。そして九条も、その定石を知っている。知っている者同士の戦いで、いま起きているのは対立ではなく利用だった。消そうとする力が、別の場所では見つける順番として働いている。

    *

 そのころ、都心から少し離れた雑居ビルの三階、使われていない事務室の片隅で、九条雅紀は小さな液晶画面を見ていた。壁紙の剥がれた部屋に、外のネオンが薄く差し込んでいる。机の上にはボールペン、折り畳まれた地図、使い捨てマスクの包み。画面に流れているのは、警視庁の公式発表を転載したニュース記事だった。

 文言が少し変わっている。目撃情報の細部は消え、危険性が一段強くなっている。写真は変わらない。真正面の冷たい顔。余計な感情を持たせないために選ばれた写真だと分かる。二階堂の癖だった。情報を削るとき、あいつはまず温度を抜く。

 九条は記事を最後まで読み、画面を伏せた。表情はほとんど動かない。納得も苛立ちも見せない。ただ机の上の紙を引き寄せ、短く書いた。

 湾岸、顔より輪郭。

 書いた紙を二つに折り、向かいにいた男へ差し出す。大学時代の先輩だった。名は呼ばない。相手も余計なことは訊かない。紙を受け取って、目だけで確認する。

「時間は」

 男が小さく訊く。

「訂正が回ったあと」

「どのくらい置く」

「長くなくていい。見える位置だけで」

 それだけだった。九条は説明を足さない。どうしてその地点なのか、なぜその時間なのか、何を補いたいのか、言葉にはしない。必要なだけ渡し、相手が理解できる前提で置く。その置き方を、真壁も二階堂も知っていた。

 男が立ち上がると、九条はもう一度画面を見た。自分の顔が都市へ出て、それを削る文言が上に重ねられる。その変化ごと観察対象にしている目だった。公開像は、もはや自分の外にある素材に近い。人がどこに何を足すか、それを見るための。

    *

 夜の本部廊下で、真壁は二階堂をつかまえた。会議を終えたばかりらしく、二階堂は細いファイルを片手に持っている。顔色は変わらないが、目の下に薄い疲労が見えた。

「少し話せるか」

「短くなら」

 二階堂は立ち止まった。周囲に人がいないことを確認して、廊下脇の小さな打合せスペースへ入る。真壁は正面から言った。

「やればやるほど増えてる」

 二階堂は一瞬だけ眉を動かした。

「目撃情報の話か」

「そうだ。訂正のあとに補うような通報が入る。危険性を強めたら、今度は生活の細部が混ざる。細部を削ったら、輪郭だけで九条が作られる。もう使われてる」

 二階堂はすぐには答えなかった。打合せ机にファイルを置き、ゆっくり腕を組む。

「分かってる」

「なら止めろ」

「止めたらもっと意味を持つ」

 その返答は、真壁にも予想できていた。だが聞くと腹が立つ。

「いまでも十分持ってる」

「まだ平板にできる余地がある」

「おまえはそう思ってる。でも九条は、その平板さごと使ってる」

「知ってる」

 低い声だった。感情を押し潰した音だ。

「だからやってる。何もしなければ、あいつは“意味のある逃亡者”になる。広報が抑えに入らなければ、勝手に背景が増える。内部告発、冤罪、組織への反逆、いくらでも読ませられる。いま起きてるのは、その一歩手前で止める作業だ」

「止まってない」

「止まってないからって、やめていい理由にはならない」

 真壁は息を吐いた。二階堂の言うことは正しい。広報としては、これ以外にないのだろう。だがその正しさが、いまは九条の盤面の上で動いている。

「おまえ、気づいてるだろ」

 真壁は言った。

「九条が、おまえの癖を知ってる」

「知ってるだろうな」

「訂正の打ち方も、削り方も」

「知ってる」

 そこには妙な静けさがあった。二階堂は怒鳴らない。悔しさを表へ出さない。だが真壁には分かった。これは九条への単純な怒りではない。広報の技術が効かないことへの怒りだ。正しい処理をしているのに、相手がその処理を前提に次を置いてくる。その構図が、二階堂にはたまらなく腹立たしいのだろう。

「だったらなおさら、やめない」

 二階堂はファイルを持ち上げた。

「癖を知られてるなら、逆にその範囲でしか読ませない」

「読まれてる時点で負けてる」

「負けの種類を選ぶしかない時もある」

 真壁は何も言えなかった。その言葉は警察の人間には珍しくなかったが、二階堂の口から出ると別の重さがあった。広報は常に、完全勝利ではなく被害の形を選ぶ仕事なのだ。

 そのとき、廊下の向こうから早足の職員が走ってきた。手にしたタブレットを見ながら、息を切らしている。

「二階堂さん、新しい通報です」

 二階堂が振り向く。

「どこだ」

「湾岸の展望デッキ。九条先生らしき男が、自分の手配写真をスマホで撮っていたと」

 真壁と二階堂のあいだの空気が、そこで一気に冷えた。

「詳細」

 二階堂の声は平静だったが、少しだけ低くなった。

「通報者は観光客の女性二名。展望デッキの掲示板に貼られていた手配情報の前で、黒いマスクの細身の男が立ち止まっていた。少し距離を置いてスマホを向けていたので、最初は観光案内でも撮ってるのかと思ったが、近づいたら手配写真の前だった。声をかける前に離れた」

「顔は」

「正面確認はできていません。ただ、輪郭とコートの雰囲気が似ていたと」

「映像は」

「施設側に確認中です」

 二階堂は職員からタブレットを受け取り、通報文を一読した。短い文章のはずなのに、その中に嫌な感触が詰まっている。自分の手配写真を、スマホで撮る。容疑者本人であれ偽物であれ、意味が強すぎた。公開像そのものを観察し、収集し、次の材料にしているように見える。

 真壁が低く言った。

「ほら見ろ」

 二階堂は返事をしなかった。タブレットの画面から目を離さない。そこに書かれた通報文の向こうで、自分が置いた像が、すでに九条の側から見返されている気がした。

 九条は逃げながら、自分の顔がどう配られているかを見ている。

 広報が何を削ったか、何を残したか、どの言葉で危険性を押し出したか、その変化ごと観察している。

 つまり自分は、九条を追い詰めるために像を置いているのではなく、九条に観察される素材を都市へ供給していることになる。

 その理解が、二階堂の腹の底を静かに冷やした。

「外へは出すな」

 ようやく彼は言った。

「まだ確定情報じゃない」

「でも回りますよ」

 職員が言う。もう一度、苦い既視感が走る。出さなくても回る。削っても補われる。止めても別の場所で増える。

「分かってる」

 二階堂はタブレットを返した。

「映像確保を急げ。通報者の聞き取りも丁寧に。文言は固定するな。内向け共有だけ先に回せ」

 職員が去ると、打合せスペースには真壁と二階堂だけが残った。二人ともすぐには動かなかった。今の一報が、本当の九条を示しているかどうかは分からない。だが、本当かどうかより前に、構図が確定してしまったことのほうが大きかった。

 自分の公開像が、九条の観察対象になっている。

 それだけで十分、気味が悪い。

「どうする」

 真壁が訊いた。

 二階堂は短く息を吐いた。

「やることは変わらない」

「変わらないか」

「変えたら、変えたことまで読まれる」

 そう言ってから、二階堂は少しだけ顔を上げた。廊下の蛍光灯が、その横顔を白くする。

「でも一つだけ確かになった」

「何が」

「もう、あいつは逃げてるだけじゃない」

 真壁は黙って続きを待った。

 二階堂は視線を廊下の先へ向けたまま、低く言った。

「自分がどう見つかっているかまで、素材にしてる」

 その言葉は、広報としての敗北宣言ではなかった。むしろ逆だ。相手の盤面を正確に認めるところからしか、次の手は打てないという種類の声だった。

 真壁は頷き、会議室の地図を思い出した。目撃地点。返礼の線。広報訂正の時刻。そして、その全部の直後に置かれる新しい九条像。もう足取りではない。逮捕地点を読むなら、次はこの全体の順番から考えなければならない。

 湾岸の展望デッキで、誰かが手配写真を撮っていた。

 本人かどうかはまだ分からない。

 だがその仕草だけで十分だった。九条雅紀は、都市へ配られた自分の顔を、もう逃走の不利益として受け取ってはいない。見つかるための素材として、観察している。

 廊下の向こうで、また新しい足音が鳴った。夜の庁舎はまだ明るい。どこかで印刷機が回り、どこかでニュースの見出しが更新され、どこかで別の誰かが九条らしい輪郭を見つける。

 二階堂はファイルを持ち直した。

「俺は戻る」

「俺もだ」

 二人は同じ方向へ歩き出したが、見ている盤面は少しずつ違っていた。真壁は逮捕地点を読むために、二階堂は像の暴走を削るために。それでももう、どちらの仕事も九条の外にはない。

 広報戦は、始まったのではなかった。

 気づいた時にはもう、九条に組み込まれていた。


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