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指名手配犯 九条雅紀  作者: 土屋 拓真


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第三話 かくまう人たち

 九条雅紀を見た、という報告は、三日目に入っても減らなかった。

 数が増えているのに、輪郭はむしろ曖昧になる。駅前にいた九条、防波堤にいた九条、コンビニの光の中にいた九条、病院裏口の柱の陰で立ち止まった九条。どれも似ている。だが、全部が同じ男の移動だと思って時刻を追うと破綻する。反対に、持ち手、歩幅、視線、顎の角度といった要素で分けると、驚くほど整う。

 それはもう、単なる逃走の記録ではなかった。

 警視庁本部の会議室に貼られた地図の前で、真壁彰は新しい付箋を指先で押さえた。目撃地点を示す赤、移動可能時間を示す青、監視カメラの有無を示す黄。そこへ今朝からは別の色が足されている。薄い灰色。九条と、過去に何らかの接点があった人物たちの名だ。

 港区の待合所から徒歩十分のアパートに、かつて九条が担当した案件の遺族が住んでいる。

 都立病院搬入口の裏手には、九条が顔を知っている古参の夜間清掃員の勤務ルートがある。

 モノレール乗換口の近くには、医務院の非常勤で記録整理をしていた男の自宅がある。

 古い住宅街の外れには、九条の大学時代の先輩が勤めるクリニックの倉庫がある。

 ドラッグストアの裏道を抜けた先には、かつて搬送現場で九条とやり取りした救急隊員の詰所がある。

 どれも、決定的な証拠にはならない。だが偶然が重なりすぎていた。

 真壁はその灰色の付箋を一つずつ眺めた。事件の中心人物ではない人間ばかりだ。肩書きに力がない。ニュースに名前が出ることもない。捜査本部の会議で真っ先に洗われるような種類の人間でもない。遺族、清掃員、非常勤、先輩、救急関係者、受付や雑務を担う職員。そういう人々が、九条の出現ラインの近くで、うっすら浮かび上がってくる。

 九条が組織に守られているのではないことだけは、はっきりしていた。

 誰か一人が全面的に匿っているのでもない。そんな形なら、とっくに綻びが出る。今の九条の見つかり方は、もっと短い単位で成り立っている。一晩だけ。数時間だけ。ここだけ。そこまでなら、という距離感の連続だった。

「また拾えました」

 会議室に入ってきた若い刑事が、書類を差し出した。

「昨日の目撃地点の近くです。第十六医務院の非常勤記録担当、七十四歳。表向きは無関係ですが、九条先生と勤務時間帯が何度も重なってます」

「本人は?」

「話は聞きました。何も知らない、たまたま近所にいただけだと」

「目は泳いでたか」

「いいえ。むしろ、こちらが無駄に騒いでるのを見てる感じでした」

 真壁は小さく息をついた。そういう人間は厄介だ。嘘に慣れているわけではない。ただ、何を言わないかを自分で決めている。

 壁の地図を見上げながら、真壁は考えた。九条は人に頼る男ではない。少なくとも、助けてくれと頭を下げて回る姿は想像しにくい。追い詰められたらなおさらだ。ならば、いま九条を先へ運んでいるものは何か。命令でも忠誠でもない。もっと弱く、もっと個人的で、それでいて折れにくい何か。

 貸し、という言葉が浮かんだ。

 ただし、恩義というほど大げさなものではない。劇的に人生を救われたとか、忘れられない優しさを受けたとか、そういう分かりやすい話ではない。もっと小さい。だが消えずに残る種類の貸しだ。

 最初にその輪郭が見えたのは、午後、港区の古い集合住宅だった。

 待合所で「子どもに席を譲った九条らしき男」の通報が入った地点から、歩いて十分ほどの場所にある四階建ての建物。階段の踊り場に古い自転車が置かれ、郵便受けの金属はくすんでいる。真壁が訪ねた部屋から出てきたのは、四十代後半の女だった。痩せた顔に疲労の影が残っているが、目だけは妙に静かだった。

「警察です。少しお話を」

 女はチェーンを外し、ドアを開けた。部屋の中には子どもの靴が二足並んでいる。居間の隅に吸入器のケースが見えた。

「九条雅紀という男をご存じですね」

「知っています」

 否定しなかったのが意外だった。たいていはそこで一度、困ったふりをする。記憶を探る間を作る。だが女は真壁の顔を見て、最初から知っていると言った。

「どういう関係です」

「関係というほどではありません。昔、夫の件で会いました」

 夫の件。その言い方だけで十分だった。真壁は手帳を開き、案件番号を照合する。二年前の変死事案。病死と事故の境に引っかかる事案で、遺族説明に九条が立ち会っている。

「その後も連絡を?」

「していません」

「最近、この近くで見かけたことは」

「ありません」

 口調は平坦だったが、嘘を隠す熱がない。真壁は部屋の中へ視線を流した。テーブルの上に薬袋があり、壁際に小児用の椅子がある。待合所での目撃がもし本当なら、子どもに席を譲ったという一報は、この女の生活と奇妙に繋がっていた。

「九条は、あなたに何をしました」

 真壁がそう訊いたのは、半ば直感だった。

 女は一瞬だけ瞬きを止めた。何もしていない、と返すかと思った。だが彼女は視線を少し落とし、乾いた声で言った。

「慰めませんでした」

 真壁は黙って次を待った。

「みなさん、同じことを言うんです。つらかったですね、とか、お気の毒に、とか。悪いとは思いません。でも、あの時は、聞けなかった。耳に入らなかった」

 女はテーブルの縁に指を添えた。

「あの人は、夫の身体に何が起きて、何が起きていないのか、それだけを順番に話しました。曖昧な言い方をしなかった。あとで読み返せるように、説明のメモも渡してくれた。分からなくなったら、その順番で見てくださいって」

「それで?」

「それだけです」

 女は真壁を見た。

「大きなことはされていません。ただ、壊れている時に、余計な言葉を乗せなかった。それだけです」

 真壁は手帳を閉じた。なるほど、と思った。その“だけ”が残るのだ。感謝の言葉を返すほどの劇的な出来事ではない。だが、忘れようとしても消えない。

「九条は頼みましたか」

 女は首を横に振った。

「頼みません。あの人は、頼まない」

「でも、返したくなる?」

 女は少しだけ笑った。笑うというより、苦さを口元に浮かべたに近い。

「頼まないからです」

 その言葉が、真壁の胸の奥に小さく沈んだ。

 部屋を出たあと、真壁は階段を下りながら二年前の記録を思い出していた。九条は遺族対応が上手いわけではない。優しい表情を作ることも、慰めの語彙を選ぶこともない。むしろ冷たく見えることすらある。それでも時折、ひどく深く記憶に残る。必要な言葉だけを、必要な順番で置くからだ。説明を足しすぎない。感情に踏み込みすぎない。相手が後から持ち帰れる形に整える。それは親切というより、雑にしないという態度に近い。

 その雑にしなさが、貸しとして残るのかもしれない。

 夕方、真壁は別の場所へ向かった。都立病院の裏手にある資材置場。そこを管理している夜間清掃員の老女は、聞かれたことには答えるが、自分からは何も出さない種類の人間だった。病院の廊下を何十年も見てきたような目をしている。

「九条先生?」

 老女は箒の柄に手をかけたまま言った。

「夜中に歩いてても不思議じゃない人でしょう」

「この辺で見かけたか」

「さあ」

「倉庫裏の防犯カメラが、一昨日の一時間だけ遮られてた。清掃台車が妙な位置にあった」

「掃除してたんじゃないですか」

 とぼけ方が下手ではない。わざとらしいくらい普通だ。真壁は少し間を置いてから、別の角度で切り込んだ。

「九条は、あなたに何かしたことがあるか」

 老女は眉をしかめた。

「変なことを訊きますね」

「あるんでしょう」

 老女はしばらく黙っていたが、やがて視線を横へ流した。資材置場の隅には古い汚物回収箱が置かれている。蓋の金具が少し曲がっていた。

「昔、私が片付けを一つ失敗したことがあるんです」

 ぽつりと話し始めた。

「処理の順番を間違えて、記録がずれた。別に死人が増えたわけじゃない。でも、ああいう場所では記録がずれるのがいちばん嫌われるでしょう」

 真壁は黙って聞いた。

「あの人、見つけたんです。見つけたけど、みんなの前で言わなかった。あとから来て、“次からはこっちを先に動かしてください”って、それだけ言った。報告書も、私が傷つく書き方にはしなかった」

「庇ったのか」

「庇ってはいないでしょう」

 老女は首を振った。

「でも、潰しもしなかった。あの人、余計に人を下げないんです」

 その言い方は、港区の女の言葉とよく似ていた。助けられた、と言い切らない。大きな恩人にしない。だが、落とさなかったという感覚だけは残っている。

「それで、一晩くらいなら貸したくなるか」

 老女はすぐに答えなかった。箒の先で地面の埃をゆっくり寄せ集め、それから言った。

「貸した、とは言ってませんよ」

「言ってないな」

「でも、あの人は頼まない」

 真壁は目を細めた。

「だから、こっちが勝手に決めるんです。ここだけなら、とか。この時間だけなら、とか」

 その夜、真壁は本部へ戻らず、捜査車両の中で資料を広げた。車内灯の下に地図を置き、灰色の付箋を増やしていく。案件の遺族。古参清掃員。非常勤の記録担当。大学時代の先輩。救急隊員。受付補助。どれも強い繋がりではない。むしろ、強い繋がりではないからこそ足がつきにくい。九条は誰かひとりの家に潜んでいるのではなく、その晩ごとに、小さな返礼を受け取りながら先へ進んでいる。

 逃走経路ではなかった。

 九条が渡っているのは道路ではなく、人に残した小さな貸しの線だった。

 しかもその線は、隠れるためだけではなく、見つかるための場所まで含んでいた。

 真壁はその一文を、頭の中で静かに確かめた。安全な場所だけを選ぶなら、もっと単純に消えられる。だが九条はそうしていない。一晩休める場所の近くに、なぜか必ず“見つかりやすい地点”が置かれている。交番前、駅の乗換口、港の待合所、病院裏口。隠れ場所と露出地点が、ひと組になっている。

 それは九条らしい発想だった。守りながら晒す。消えながら配る。ひとつの行動で二つの効果を取る。九条は昔から、そういう順番の作り方をした。

 深夜近く、真壁の携帯に一本の連絡が入った。大学時代の先輩の所在が掴めたという。場所は郊外の小さなクリニック。現在は夜間の検査補助をしているらしい。

 真壁はその足で向かった。

 クリニックは幹線道路から一本入った場所にあり、夜になると人通りが途絶える。裏手には古い物置があり、その横にワゴン車が停まっていた。面会に出てきたのは三十代前半の男だった。痩せてはいるが、目だけが妙に強い。九条と同じ現場を一時期見ていた人間の目だと真壁は思った。

「遅くにすみません。警察です」

「分かってます」

「九条雅紀をご存じですね」

「知ってます」

 この男も否定しない。

「最近、会いましたか」

「会っていません」

「嘘だな」

 真壁が即座に言うと、男は少しだけ笑った。笑ったというより、諦めたように肩の力を抜いた。

「証拠は?」

「まだない」

「じゃあ、会っていません」

 やり取りは短いのに、じりじりした熱があった。真壁は物置の影へ一瞬目をやった。ほんのわずかだが、人が立っていた気配が残っている。ついさっきまで誰かがいた空気だ。

「九条は、何を残した」

 男は無言だった。

「あなたみたいな人間が、ここまで口を閉ざす理由だ」

 男の視線が初めて揺れた。真壁はそこを逃がさない。

「学生の頃か。研修の時か。失敗した時に救われたか」

「救われてませんよ」

 男は低く言った。

「あの人、優しくないんで」

「だろうな」

「失敗した時も、慰めなかった。大丈夫とも言わなかった。“いま見ている順番が違います”って、それだけです」

 男は暗いガラスに映る自分の顔を見た。

「でも、あれで助かったんです。答えをくれたんじゃない。自分で立て直せる順番だけ置いていった。先輩だとか後輩だとか関係ない。あの人はそういう垣根を越えていく」

「それで返すのか」

「返すってほどでもない」

 男は首を振った。

「一晩なら。車を出すくらいなら。目立つところに似たコートを一枚置くくらいなら。それで、あの人の足が半日伸びるなら、そうするだけです」

 真壁は何も言わなかった。その告白は自白に近いが、肝心の場所も時間も言っていない。だが十分だった。構造が見えたからだ。

「居場所は言わないんだな」

「言いません」

「なぜ」

 男は少し考えてから、静かに言った。

「あの人は頼まない」

「……」

「でも、頼まないから返したくなる」

 真壁はその言葉を、港区の女と老女の声と重ねて聞いた。誰も同じ場所に属していない。職業も立場も違う。それでも出てくる言葉が似ているのは、九条が彼らに残したものの性質が同じだからだ。

 大きな恩ではない。

 劇的な救済でもない。

 ただ、壊れている時に余計なものを乗せなかった。落ちかけたものを、わざわざ踏まなかった。答えを押しつけず、見る順番だけ置いた。記録の中で傷つける必要のない人間を、無駄に傷つけなかった。

 そういう整った行為が、貸しとして残る。

 九条本人は、その貸しを取り立てて回らない。だから返す側が、自分で距離を決める。一晩なら。ここだけなら。このくらいなら。その小さな返礼が、九条を一晩ずつ先へ運ぶ。

 真壁はクリニックを出たあと、車の中でしばらく動かなかった。フロントガラスの向こうに、深夜の道路が静かに伸びている。街灯の下を一台の自転車が通り過ぎ、すぐに見えなくなった。

 九条は、いまもどこかにいるのだろう。狭い事務所の仮眠椅子かもしれない。倉庫裏の古い休憩室かもしれない。車の後部座席で、コートをかけて短く眠っているのかもしれない。たぶん弱ってはいる。眠れていないし、まともな食事も取っていないはずだ。それでも惨めには見えないだろうと真壁は思った。九条は逃亡者の顔で逃げる男ではない。次の配置を考えている顔をしているはずだ。

 その想像は、ほとんど確信に近かった。

 同じ時刻、都心から離れた古い事務所の休憩室で、九条雅紀は窓の外を見ていた。蛍光灯は消され、換気扇の音だけが一定に回っている。古いソファの端に腰を下ろし、マスクを外した横顔は、手配写真より少しだけ疲れていた。だが目は澄んでいる。机の上にはコンビニの水と、未開封の栄養ゼリー、それに折り畳まれた地図が置かれていた。

「あと二十分で出ます」

 部屋の入口に立つ女が言った。医務院で受付補助をしていた非常勤職員だった。九条よりひと回り年上だが、会話は事務的で無駄がない。

「分かった」

 九条は短く答えた。

「裏は、今日は使えません。巡回が一回増えてます。その代わり、表に一人置きます」

「誰を」

「あなたに似そうな人」

 九条はそれ以上訊かなかった。女も詳しく説明しない。頼みごととして交わされていないからだ。必要なことだけが置かれる。

「ありがとう」

 九条はそう言った。礼は短い。重くもしない。軽くもしない。受け取るべき量だけを受け取る声だった。

 女は頷き、ドアを半分閉めた。その前に一度だけ振り返る。

「先生、無理はしないで」

 九条は少し考えたように視線を上げた。

「している」

 女は笑いそうになり、笑わなかった。そのままドアを閉める。

 九条は机の上の地図へ目を落とした。印の位置は最短経路ではない。休める場所、見つかる場所、監視の薄い時間、目撃が拡散しやすい地点。その全部が折り重なるように結ばれている。安全だけを取るなら、もっと暗い道がある。だが九条は暗い道だけでは足りないのだ。都市へ九条像を残しながら進まなければならない。見つかる順番が、まだ必要だった。

 真壁は本部へ戻ると、会議室の地図の前に立った。赤い目撃地点の印の上へ、灰色の付箋を重ねていく。人の名前。生活圏。夜間の動線。九条と接した案件。誰も中心ではなかった。だが、中心ではないからこそ使える線だった。

 地図の景色が変わる。

 いままで点だったものが、人の記憶によって繋がり始める。待合所の近くに遺族。病院裏口のそばに清掃員。住宅街の先に大学時代の先輩。搬送ルートの端に救急関係者。九条の移動は、最短でも最安全でもない。返礼を受け取りながら、その返礼がもっとも効果的に露出へ変わる場所を選んで進んでいる。

 安全と露出。

 普通なら両立しない二つを、九条は同時に取ろうとしていた。

 真壁は壁に貼った地図から一歩下がった。ここから先は、単に隠れ場所を潰す捜査では追いつけない。広報がどれだけ物語を削っても、都市の側で九条像が補完される。その補完は、九条が過去に残した小さな貸しによって支えられている。ならば、次に来るのはもっと強いぶつかり合いだ。九条が都市へ配る像と、それを危険な個人犯として固定しようとする側との衝突。

 真壁は携帯を取り出し、二階堂の番号を開いた。だがかける前に、ほんの少しだけ指を止めた。あちらももう気づいているはずだ。九条が匿われているのではなく、返礼の線で運ばれていることを。そして、それが広報にとって最悪の種類の広がり方であることを。

 壁の地図には、赤と灰色が重なっていた。

 九条雅紀は、まだ捕まらない。

 ただ隠れているからではない。人に残した小さな整いが、次の一晩を作ってしまうからだ。

 真壁はようやく通話ボタンを押した。二階堂が出るまでの短い呼び出し音のあいだ、壁の地図は静かに、都市の別の顔へ変わり続けていた。


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