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指名手配犯 九条雅紀  作者: 綾見 恋太郎


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第一話 顔が出る

 最初に九条雅紀の顔が現れたのは、駅だった。

 朝の通勤客で膨れた構内を、いつもと変わらぬ無表情が流れていく。人は前の人間の背中と、頭上の案内板と、発車時刻だけを見て歩く。他人の顔を真正面から見ることは少ない。だからこそ、その顔が出た瞬間、かえって視線をさらった。

 改札の上に吊られた電子掲示板が、一度だけ交通情報を流し、そのあと画面を切り替えた。白い背景。黒い活字。中央に男の写真。

 真正面を向いた証明写真だった。笑っていない。怒ってもいない。ただ、感情が外へ漏れないように静かに閉じられている。整った輪郭、細い顎、綺麗な鼻筋。眼差しだけが妙に強く、画面越しでも、こちらの顔を一度受け取ってから返してくるような冷たさがあった。

 その横に、名前が出た。

 九条雅紀。

 その下に、容疑が並ぶ。

 殺人死体遺棄、証拠隠滅の疑い。

 そして最後に、定型の一文が表示された。

 この男を見かけた方は、直ちに最寄りの警察署、交番までご連絡ください。

 数秒後、画面は別の案内へ戻った。だが、一度見た者の目にはもう焼きついている。さっきまで赤の他人だった男の顔が、急に都市の共有物になった。

 同じ時刻、別の駅でも同じ画面が流れていた。交番の掲示板には印刷された手配書が貼られ、庁舎の一角では新しいポスターが束で出力されていく。ニュースサイトは速報を打ち、テレビ局は警視庁発表のテロップをそのまま流した。スマートフォンの画面には「監察医の男を指名手配」「警察、所在確認急ぐ」といった見出しが並び、誰かがそれを切り取り、別の誰かがさらに転載する。数分もしないうちに、九条雅紀の顔は紙になり、光になり、通知になり、都市のあちこちで同時に開いた。

 顔が出る、というのは、こういうことかと真壁彰は思った。

 庁内端末に表示された画像を見つめたまま、しばらく動けなかった。

 見間違えるはずがない。だが、見間違いであってほしいという願いが、ごく短いあいだだけ働いた。写真は三年前、職員証の作成時に撮られたものらしい。背景は無機質な青。白衣ではなく、黒に近い濃紺のジャケットを着ている。九条はもともと写真映りを気にするほうではなかった。どうせ身分証でしょう、と言って、撮影係に促されるまま椅子へ座る。その淡泊さまで想像できる。

 だが今、その顔は職員証のためではなく、探されるために使われていた。

 背後で椅子が引かれる音がした。捜査一課の若い刑事が早足で近づいてきて、真壁の机の横で立ち止まる。

「真壁警部補、会議室です。至急」

 真壁は返事より先に、もう一度画面を見た。容疑の文字だけが妙に硬い。殺人死体遺棄、証拠隠滅。社会はこの三語で十分に理解する。詳しい事情はいらない。誰が悪者で、誰を怖がればいいのか。それだけ分かれば話は早い。

 だが九条がそこへ収まるはずがないことを、真壁は知っていた。

 知っているからこそ、厄介だった。

 会議室にはすでに十人ほど集まっていた。捜査幹部、所轄との連絡役、鑑識担当、広報連携の係。大型モニターに事件概要が映されている。被害者氏名、発見現場、行政解剖所見の一部、そして逃走中の容疑者として九条雅紀の名前。

 真壁は着席しながら資料へ目を通した。被害者は都内で発見された四十代男性。死亡推定時刻は昨夜から未明にかけて。身元照合と初動捜査の過程で、現場付近の防犯カメラに九条の姿が映っていた。さらに、押収予定だった一部証拠物が搬送ルートから外れ、所定の保管記録に欠損がある。監察医として本来関与できる範囲を明らかに超えた動きだ、と資料は淡々と記していた。

 完全な冤罪ではない。

 その感触が、文字の行間から滲んでいた。

 もし何もしていない男なら、九条はここまであからさまな位置に出てこない。逆に言えば、何かはやっている。少なくとも法的に言い逃れしにくい何かを。だからこそ手配にまで踏み切ったのだろうし、だからこそ真壁も、最初から組織へ異を唱えることができない。

「現時点で所在不明です」

 説明役の管理官が言った。

「昨夜以降、勤務先にも自宅にも戻っていない。携帯は電源断。交通系ICの使用記録なし。防犯映像では二十三時四十分頃、現場近くの裏通りを単独で離れる姿が最後です」

 モニターに静止画が映る。フードつきのコート。白いマスク。左手に黒い鞄。顔は半分隠れている。それでも歩き方で分かる、と真壁は思った。歩幅が大きく見えて、着地だけが静かだ。急いでいるように見えて、どこか体重を逃がして歩く。病院の廊下を何度も見てきた癖がそこにある。

「問題は、被疑者が医学知識を有することです。証拠隠滅、変装、逃走準備、いずれにも応用可能性がある。危険性を明示したうえで、本日午前九時十分、公開手配へ移行しました」

 誰かが小さく息を吐いた。公開。もう引き返せない。

 真壁は資料の一頁をめくった。そこには、欠損した証拠物についての簡単な記載があった。被害者関連の保全資料の一部、搬送途中に記録消失。関与者不明。ただし直前接触者として九条雅紀の名がある。

 記録を抜いたのか。現物を持ち出したのか。それとも、もっと別の手順に介入したのか。

 九条が警察のやり方を嫌うことはあった。検視、解剖、照合作業の順序に、感情ではなく構造として苛立つこともあった。だが苛立つことと、手を出すことは違う。九条はその線を知っている男だった。

 その男が越えたなら、理由がある。

 そう考えた瞬間、真壁は自分で眉をひそめた。理由があれば何だ。警察官として動く以上、そこに理解を差し挟むのは危うい。

「真壁」

 管理官に名前を呼ばれ、顔を上げる。

「おまえは対象と面識があるな」

「あります」

「私情を挟むなとは言わん。ただ、判断を遅らせるな。追える情報は全部追え」

「承知しました」

 答えた声は、自分でも驚くほど平板だった。

 会議が終わると同時に、廊下の空気が慌ただしく動き始めた。内線、無線、足音、ドアの開閉、コピー機の連続音。警察にとって指名手配は手続きであり、その手続きは一度始まれば人間の感情を待ってくれない。

 真壁は端末室へ戻る途中、エレベーターホールの壁に貼られたばかりの手配書を見つけた。黒がまだ新しい。顔写真の下に、身長、年齢、特徴。特徴欄には、痩身、左利き、医師免許保持者、と必要以上に分かりやすい単語が並んでいた。

 左利き、という一語を見た瞬間、真壁は妙な気分になった。そんなことまで他人に渡されるのかと思った。箸を持つ手、署名の流れ、メスの角度、ポケットに鍵を入れる癖。そういう個人の細部が、都市の誰にでも使える判別情報へ変わる。顔が出るとは、輪郭だけでなく、見分けるための説明まで配られることなのだ。

 端末室では、すでに目撃情報の受付画面が立ち上がっていた。公開からまだ三十分も経っていない。普通なら、ここから数時間は沈黙が続くことも珍しくない。似ているだけの人間を通報するには、世間は意外と慎重だ。まして相手が凶悪事件の容疑者ならなおさらで、見た気がしても確証がない限り人は電話を躊躇する。

 だが今回は違った。

「もう十八件入ってます」

 係員が言った。

「公開から三十五分で?」

「はい。しかも増えてます」

 画面をのぞくと、一覧に短い報告が並んでいた。駅前で見た。湾岸道路脇で見た。商店街の裏路地で見た。都立病院の搬入口付近で見た。コンビニで見た。バス停で見た。防波堤で見た。

 都内全域に散りすぎている。

 真壁は最初にそう思った。だが奇妙なのは場所以上に内容だった。一件ごとの文章が妙に具体的なのだ。

 黒いマスク、濃紺のコート、左手に黒い鞄。

 コートの前を押さえるような癖があった。

 歩く時に少し顎を引いていた。

 階段を下りる時だけ右へ重心が流れた。

 交差点で信号待ちのあいだ、一度だけ背後を見た。

 どれも、ありそうではある。だが、公開されたばかりの指名手配犯に対する初期目撃情報としては、出来すぎていた。顔写真を見て、あの男だと気づく。そこまでは分かる。その直後に鞄を持つ手や重心の流れまで見ているのは不自然だ。人はもっと大雑把に他人を認識する。特に怖い相手ならなおさら、顔と服装だけで十分なはずだった。

 真壁は一件ずつ時刻を追った。

 九時十五分、湾岸のバス停。

 九時二十三分、北区の商店街。

 九時二十九分、世田谷のコンビニ。

 九時三十一分、中央線沿線の駅階段。

 移動が成り立たない。車でも苦しい。だが、雑な虚偽通報にありがちな曖昧さもない。むしろ、九条らしさだけが異様に揃っている。

「映像と照合は?」

「追ってますが、まだ確定はありません。似た服装の人物はいても、顔が出ていないものが多くて」

「通報者の属性は」

「通勤客、店員、通行人、警備員、清掃員。今のところ偏りは見えません」

 偏りは見えない。だが、偏りすぎている。

 真壁は心の中でそう言い直した。場所はばらけているのに、見えている九条はどれも同じ方向を向いている。まるで、目撃者たちが先に「どう見れば九条らしいか」を教えられていたみたいだった。

 そこへ別の端末からニュース動画の音が漏れた。記者が早口で事件概要を読み上げる。監察医という職業の異様さが強調され、凶悪性が端的に並べられ、最後に「一人で行動している可能性があります。発見の際は近づかず通報してください」と締めた。

 一人で行動している可能性。

 その一文に、警察広報の匂いがした。

 真壁は少し考え、内線を取った。繋がった相手は予想通り、二階堂壮也だった。

「忙しいところ悪い」

『悪いと思ってる声じゃないな』

 受話器の向こうの声は、いつも通り落ち着いていた。柔らかく聞こえるのに、余計なものを一切混ぜない声だ。周囲が騒がしいらしく、断続的にキーボード音と人の出入りが聞こえる。

「そっちはどうなってる」

『公開文面の統一、問い合わせ先の整理、誤情報の監視。だいたい想像どおりだろ。いま、危険性の表現を一本化してる』

「一本化」

『媒体ごとに言い方がぶれると厄介なんだよ。テレビは強く煽るし、ネットは勝手に背景を盛る。だから先に骨組みだけ配る。“個人的背景は不明”“単独犯の可能性”“接触回避”“目撃時は通報”。余計な解釈が広がる前に、枠だけ置く』

「九条を枠にはめるためか」

 少しの沈黙があった。二階堂はその沈黙を隠さない男だった。

『はめる、じゃない。固定するんだよ。これ以上意味を増やさせないために』

「意味?」

『監察医が逃げた、なんて物語として出来が良すぎるだろ。放っておいたら、勝手に背景が生まれる。警察の不祥事だの、内部告発だの、被害者との因縁だの、好きな物語をくっつけ始める。そうなる前に、“危険だが孤立した個人犯”として流すしかない』

 真壁は言い返さなかった。二階堂の言うことは、広報として正しい。しかも二階堂自身が九条を嫌っているわけではないことを、真壁は知っていた。むしろ逆だ。知っているからこそ、そこから先を削る。

「写真はおまえが選んだのか」

『候補を見て決めた。いちばん説明が少ない顔だ』

「説明が少ない?」

『感情の読める写真はだめだ。怒ってる、怯えてる、追い詰められてる、そういう読みが入る。あの顔なら、見た側が勝手に補わない。定型句と相性がいい』

 なるほど、と真壁は思った。だからあの写真だったのか。九条本人の温度を削って、制度の言葉だけが乗るようにするために。

「目撃情報、見てるか」

『見てる。ずいぶん景気がいいな』

「早すぎるし、妙に細かい」

『そうだな』

「何か感じないか」

『感じることはいろいろある。でも今は感じたことを口にする役じゃない』

「おまえらしいな」

『褒め言葉として受け取っておく』

 そこで二階堂は声を少し落とした。

『真壁。ひとつだけ言う。余計な背景を出すなって、こっちは全員に言ってる』

「……ああ」

『でも、背景を消そうとする時にいちばん困るのは、本人が背景ごと歩く場合だ』

 通話が切れた。

 真壁は受話器を置いたまま、しばらく動かなかった。本人が背景ごと歩く。二階堂にしては珍しく比喩の強い言い方だった。いや、比喩ではないのかもしれない。九条という人間は、ただそこにいるだけで意味が増えることがある。監察医であること、言葉の選び方、死体に対する距離、誰にでも同じ温度で接しない癖。その全部が勝手に説明へ変わる。

 だから消す。

 だから固定する。

 広報としては当然だ。だが九条がそれを知らないはずもない。

 一覧の件数はさらに増えていた。真壁は新しく追加された通報を開いた。

 十時二分、臨海部の防波堤付近。黒いマスク。海側を見ていた。左手に黒い鞄。声はかけていない。

 十時四分、大学病院裏口。救急搬入口の脇を歩いていた。コートの前を押さえる癖。

 十時七分、下町の小さな交番前。掲示板の前で立ち止まっていた。しばらく何かを見ていた。

 真壁の目がそこで止まった。

 掲示板の前で。

 しばらく何かを見ていた。

 報告者は交番勤務員ではなく、たまたま道を尋ねに立ち寄った近隣の店主だった。記述は素朴だ。黒いマスクの男が、貼り出された紙をじっと見ていた。横顔が似ていた。左手に黒い鞄を持っていた。気になって振り返ったら、もういなかった。

 貼り出された紙。

 交番の掲示板。

 そこにあるのは、ほぼ間違いなく自分の手配書だ。

 指名手配犯が、自分の指名手配ポスターを見ていた。

 そんな馬鹿な、と真壁は思った。だが思った直後に、その否定はひどく弱いものだと分かった。馬鹿な、より先に浮かんだのは、やりかねない、だったからだ。

 九条なら、自分の顔がどんな言葉と並べられ、どの高さに貼られ、どんな光の下で見られているかを、確かめに行くかもしれない。確かめるだけではない。その見られ方ごと、次の動きを決めるかもしれない。

 真壁はもう一度、目撃一覧の全体を見た。

 これは逃走経路ではない。

 少なくとも、普通の意味では。

 人目を避けて移動した痕跡ではなく、人目に置かれた断片の集まりに見える。駅前、病院裏口、コンビニ、防波堤、交番。都市の機能が違う場所ばかりを選んで、その都度、少しずつ違う顔で現れている。だが共通しているのは、どこでも九条らしさだけがきれいに残っていることだ。左手の鞄、顎の角度、コートの押さえ方、階段の重心。まるで、顔写真の次に配る説明を、目撃情報の形で都市へ置いているみたいだった。

 端末のガラス面に、自分の顔がぼんやり映った。真壁は無意識に目を細めた。まだ分からない。九条がどこにいるのかも、何を持ち出したのかも、なぜこんな見つかり方をしているのかも。

 ただ、ひとつだけ確かなことがある。

 九条雅紀は、もう都市のどこかへ逃げているのではない。

 都市そのものの中へ、いる。顔写真として、通報文として、目撃の記憶として、複数の場所に増えながら。

 そしてその増え方は、晒されている人間のものではなかった。

 真壁は交番前の通報記録を開き直し、末尾の一文を見つめた。

 黒いマスク、濃紺コート、左手に黒鞄。掲示板の前で立ち止まり、貼り紙を見ていた。

 視線の先に、自分の顔がある光景を想像した瞬間、背中の内側が冷えた。

 九条なら、そこから始める。


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