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運命を紡ぐ

西日の差す喫茶店にて17-チョコレート-

作者: 蓮見庸
掲載日:2026/02/01

「ねえ、おかあさん? おかあさん!」

「え? ああ、ごめんね。なんの話だったっけ?」

「だから、こないだの部活の話」

「そうだったわね。おかあさん仕事で疲れてて、ちょっとぼうっとしちゃった」


 北風がひと晩中窓を叩き、布団から出るのが億劫おっくうなほど冷え込んだ冬のある日。

 午後からは雲が広がり、寒いのは相変わらずだったが、ちょっと気分転換をしたいとわたしはいつもの喫茶店にいた。

 ゆらりと湯気の立ちのぼるブレンドコーヒーの香りを味わいながら、静かなピアノのリズムに体をゆだね、眠りに誘われるような心地よさを感じていると、隣の席からこんな会話が聞こえてきたのだった。

 女子高生とその母親だろうか。

 娘はケーキを食べながら、ひっきりなしに母親に話しかけているが、母親の方は遠くを見つめるようにしてどこかうわの空のような表情に見えた。

 娘はそんな母親の様子に気付き、視線の先に何かあるのかと振り返ったが、そこに何もないのを確認して、ふたたび母親に話しかけたようだった。

「おかあさん、やっぱりまだおとうさんのこと気にしてるの?」

「え? なに言ってるのよ。そんなことないわよ」

「だって、さっきからわたしの話なんてぜんっぜん耳に入ってないみたいだったし」

「ごめんね。最近仕事が忙しくて疲れちゃってたのよ」

「ほんとにそれだけ?」

「そうよ。おとうさんのことはもう忘れるって言ったでしょ。だからあなたは気にしなくて大丈夫」

「だったらいいんだけど……」

「あら、もうケーキ食べちゃったの? おかあさんのケーキも食べる? それとも別のにする?」

「別のが食べたい」

「じゃあ注文しましょ。すみません、注文お願いします」

 母親はマスターに声を掛け、続けて娘に何か飲むかと聞いたが、娘は「まだ入ってるからいい」と砂糖とクリームの入ったコーヒーをひと口飲んだ。


「ケーキはまだありますか?」

 母親は注文を取りに来たマスターに尋ねた。

「はい。チョコレートケーキとチーズケーキがあります」

「チョコレートケーキがいい」

 娘がすかさず答えた。

「じゃあチョコレートケーキをひとつお願いします」

「他にご注文はございますか?」

「いえ、それだけで大丈夫です」

「かしこまりました。少々お待ちください」


「ねえ、いい感じのマスターだね。なんだかそれっぽい」

 娘は母親に顔を寄せ、内緒話をするように小さな声で言った。

「それっぽいってなによ」

 母親は少女のようにほほえんだ。

「喫茶店っぽいなって」

「だって、喫茶店じゃない」

 母親はそう言ってまた笑った。

 わたしはこの娘の言う喫茶店っぽいという感覚がよくわかる。マスターといい、雰囲気といい、喫茶店というものを想像したときに、そのすべてがこの店にはあるような気がする。


「お待たせしました」とマスターがケーキを運んできた時、母親は娘に目配せし、娘もたぶん同じように目配せし合っていたのだろうと思う。

 そしてケーキを食べている娘に向かって母親が言った。

「チョコレートで思い出した。ねえ、今年のバレンタインはどうするの?」

「え、バレンタイン?!」

 娘はびっくりしたように少し大きな声で言った。

「だって、去年はあげてたじゃない。ほら、何君だっけ……」

「去年は去年。今年はもういいの。そういうんじゃないんだから」

「あら、そうなの?」

 母親はにこにこしながら、それ以上その話をしようとはしなかった。


 わたしは読みかけの文庫本を広げ、文字を追っていった。

 久しぶりに入り込んだその世界では、登場人物はそれほど多くないにもかかわらず名前と人物が一致せず、数ページを行きつ戻りつして読み進めていたが、そのうちに本の中の世界に没頭し、周りの音は耳に入らなくなっていった。


「これはビル・エヴァンスね」

「ええ、そうです。よくご存じですね」

 その声にわたしはページをめくる手を止めた。

 カウンターにいたマスターと初老の女性の話し声だった。

 店内に流れている曲の話をしているのだろう。

「昔よく主人と聴いたのよ。懐かしいわね。ほんと久しぶりに聴いたわ」

 そう言い残して女性は店を出ていき、マスターは「ありがとうございました」とお辞儀をして見送った。

 気付けばわたしの隣の母親と娘もいなくなり、店内にはピアノとベースの旋律だけが穏やかに流れていた。

 ひとり取り残されたような気がして、まだまだ時間は早かったが、本にしおりをはさんで帰り支度をはじめた。


「今日は気温が上がりませんね。どうぞお気を付けてお帰りください」

 客を気(づか)うマスターの声を背に扉を開けて外へ出ると、空をねずみ色に覆っていた雲の間から光が差し込み、雪がはらはらと舞い降りてきた。

「これは積もるかもしれませんね……」

 マスターがわたしの後ろから空を見上げて言った。


 翌朝、部屋のカーテンを開けると、見渡す限りの家並みは一面の雪景色だった。

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