32 ベリル・ニフテリアという男の一生
結局、核心に迫る内容をレオナに伝えることはできなかった。
しかし警戒させることには成功したと胸を撫で下ろす。
ベリルが何者かによって沈黙魔法をかけられていることを、あの場で誰かが監視していたことも、勘の鋭いレオナならば気付いていたはずだ。
馬鹿な奴だと、鼻で笑う。
こんなところまでしゃしゃり出てさえ来なければ、レオナに勘づかれることもなかっただろうに。
ベリルが神聖黙示録で知った情報が、相手にとってはよほど都合が悪かったのだろう。
だがそれでも表立って消しに来なかったところを見るに、泳がせて遊んでいるのかもしれない。
だがそれもきっと時間の問題だろう。
その直後であった。
一瞬にして周囲から光が奪われる。
夜通しついているはずの外灯が全て消えて、夜空に輝く星の明かりだけ……いや、見上げると月どころかその星明りすら完全に消え失せていた。
完全な闇の中に、ベリルはいつの間にか立たされていた。
「……なっ!?」
ここはどこだ?
本当に街の中なのか?
まるで異世界にでも迷い込んでしまったかのような。
そんな考えが次々と浮かびながら、果てには人間が時折迷い込んでしまうと言う精神世界面なのかもしれないと思い至った時だ。
「……神聖黙示録を読んだね?」
「っ!!」
少女の声がした。
全身が粟立つほどに震えが止まらない。
圧倒的な、驚異的な圧に押し潰されそうになる。
声すら出せない。
腰が抜けて逃げ出すことすら。
目の前に誰かが立っていることだけはわかる。
しかし闇の中で、その瞳が光っている以外に何も見えない。
姿形も、大きいのか小さいのか、何もわからなかった。
ただわかることは、目の前にいる者の性別が女ということだけだ。
――女神。
先ほど目にした内容が脳に焼き付いて離れない。
呼吸すらできなくなる。
空気を吸おうとすればするほど、吐こうとすればするほど、呼吸の仕方を忘れてしまったかのように上手く酸素を取り入れることができずにいた。
「今はまだ捨て置こう。ユーフォルビアが死んだばかりだ。続けて教会上層部による死は、不信を招く」
「……!?」
光る目だけがこちらに近付いて来ることだけはわかる。
すぐ目の前に、目と鼻の先にいる。
「へぇ、良い魔性を飼っているね」
***
ベリル・ニフテリアは真面目な男であった。
代々教会側に仕える家系として、幼い頃より魔法や剣術の稽古を日課とした生活を送っていた。
ゆくゆくは審問官、聖騎士団へと昇進することがベリルに定められた将来の目標。
強制的に組み敷かれたレールを走ることがベリルの人生であった。
そして当然、教会で行なわれる集会には欠かさず出席し、教典を暗唱できるまで熟読することを義務付けられてきた。
それが教会側に仕える家系の義務であり、疑う余地のない生き方であった。
審問官となって数年後に、ベリルはわずか十五にして妻をめとることになる。
相手もベリルと同じく聖ネフィル教会の敬虔な信者であり、それなりの地位のある貴族令嬢だ。
淑やかで慎ましい令嬢もまた、ベリルと同じレールの上を走るだけの人生を送ることを義務付けられていた。
謙虚に、自然に感謝して生きることに疑問を抱かない。
審問官として各地を走り回る多忙な仕事をこなすベリルに対しても、文句の一つもなく笑顔で送り出し、そして出迎えた。
二人は政略結婚であったが、それが自然であるアンデシュダリアにおいて愛情は二の次であった。
共に生活を送る内に愛情は芽生えるものだと、そう教えられた。
男女が結びつき、自然と共に生きることが健全とされ、やがて子を成せば家族となる。
それが自然の摂理。
教典に書かれた通り、それが人が生きていくための、繁栄するための基盤となるのだ。
妻が妊娠したことで、ベリルの中で責任感が芽生えた。
夫として、父親として、もっと働かなければ。
そう思った矢先に、ある重要な任務を与えられた。
不可解な内容であったが、要約するに国の繁栄に必要な才能ある少女を探し出し、連れて来ればそれでいいというものだ。
一般公開されている教典とは別に、聖ネフィル教会にはもうひとつ隠された教典があった。
口外厳禁、徹底的な守秘義務を言い渡され、ベリルの中にほんのわずか違和感が生じる。
国の繁栄のため、一定の周期に従って悪役を生贄として用意しなければならない。
その悪役は全国民を敵に回すほどの役目を以てして、神の代行者である聖女の対抗として存在しなければならない。
完全悪を全国民の前で断罪することにより、正義の一体感を共有し、その高揚を神に捧げて初めて主神ネフィルからの恩恵と繁栄が約束される。
実に不可解だった。
そう思った瞬間に、これまで培ってきた信仰心に初めて小さな揺らぎが生じた。
だがこれを無事達成させればベリルは昇進し、念願の聖騎士団となれる。
断る理由などなかった。
他にもベリルと同じような任務を言い渡された審問官が複数。
彼らは各地に散らばり、悪役令嬢の教育係に相応しい人材を探した。
教会側が求める条件に合う少女など、そうそういない。
ベリルは遠い異国の地にて、稀有な魔力を有する人種……イーステッドの噂を頼りに遥か東方にある荒れ果てた地まで足を運んだ。
そこでベリルはレオナという逸材を見つけ、連れ帰った。
他の審問官たちが連れて来た少女たちとは比較にならない才能、魔力量、そして恐怖などといった感情が先走らない冷静な判断力。
生きることへの執着心から、どれだけ過酷で残忍な命令にも従う心の壊れ方。
それが認められ、他の候補を押しのけてレオナが悪役令嬢の教育係として抜擢された。
同時にベリルは聖騎士団、そして暗部への昇進を果たすことになる。
多忙すぎる毎日、秘匿の多い仕事に妻との会話は皆無であった。
すれ違いと呼ぶには生ぬるい、完全にかけ離れた生活に妻はやがて限界を感じていく。
帰らない夫。
生まれたばかりの娘のことより、部下の教育に忙しい父親。
妻は孤独に耐えられなくなり、貴族街を離れる決意をした。
元より妻は自然主義で、願わくば農家としての生活を送りたいと思っていた。
土いじりが好きで、野菜や果物を育てるのが趣味だと言ってもいい。
自然の中で生きることこそ聖ネフィルの教えそのものだと信じている妻は、ベリルとの別居を相談した。
悪役令嬢の教育係の育成に成功し、そして悪役令嬢を教会の希望通りに育て上げることができたなら、ベリルはさらなる地位を約束されていた。
そうすれば妻は好きなことをしながらも、苦労のない生活を送らせることができる。
娘も充分な教育を受けさせることができるし、誰もが目指すプラチナ学園に入学させることも可能となるだろう。
全ては家族のために。
それが聖ネフィル教典に書かれた、教えに従った最良の人生を得るための近道であるはずだった。
そう信じていたベリルは徹底的にレオナをしごき、枢機卿が望んだように十体ほどの魔性と契約をさせる必要がある。
同時に侍女としての能力を身に付けるため、礼儀作法や必要な技術を修得させなければならない。
悪役令嬢の教育係は、完璧な侍女であらねばならない。
教会側が文句の一つも言えないような、そんな駒を育て上げなくては。
そうすればきっと。
教えを信じるならば、きっと事態は良くなるはずだ。
信じる者は救われるはずなのだから……。
妻が娘を連れて屋敷を出て行く。
その瞬間にすら、ベリルは立ち会うことができなかった。
離婚は教義に背く行為なので、妻もその選択肢は思い浮かばず別居という形を選んだらしい。
家族のために奔走していたはずが。
子供を授かったことで、二人の間に確かな愛情が芽生えたと思っていた。
妻の出産に立ち会わず、娘の誕生日どころかパーティーに顔を出したこともない。
恐らく娘は父親の顔すら知らないだろう。
そんな年月に先に耐えかねたのは妻の方だった。
妻に対する後ろめたさがあったため、妻の要望に対して反対する権利などベリルにあるはずもない。
家父長制を強いている家であれば主人の言葉が絶対だが、ベリルはそうしなかった。
妻と娘が屋敷を出て行った以上、皮肉にもベリルの足に付いていた枷は外れ、より一層職務に全精力を注ぎ込むようになった。
悪役令嬢アリエッタがプラチナ学園中等部へ進級する頃。
珍しく妻から手紙が届き、初めて妻と娘が暮らしている農民街へと足を運んだ。
のどかな街並み、食材の大多数はここから出荷されている生産の街で、ベリルは数年ぶりに妻と再会した。
やせ衰えているのかと思っていたが、健康的な生活を送っていたのだろう。
妻は今も昔も変わらず美しい姿をしていた。
まるで客人でも出迎えるように、妻は甲斐甲斐しくベリルにお茶を出して歓迎する。
笑顔が失われていた屋敷での妻とは、まるで別人のようにご機嫌な様子でベリルは戸惑った。
久しぶりに会ったせいだろう。
まるで他人行儀だ。なんと声をかけてよいのかわからない。
元気かと問うのもおかしく感じられる。
明らかに屋敷での生活より、ここでの暮らしの方が元気そうだからだ。
ならば残された話題は、やはり娘のことしか思いつかない。
娘の名を口にした時、妻はこれまでで最大の笑顔を見せて声を弾ませる。
頬を紅潮させ、この世の幸福を独り占めした子供のような無邪気な笑顔で、こう言ったのだ。
「私とあなたの娘が、聖女候補に抜擢されたのよ! とても光栄なことだわ!」
その瞬間、ベリルの視界は真っ暗になった。
全身の血の気が引くように固まるベリルは、それから妻が何と話しているのか何も思い出せない。
ただわかることは、妻が異常なまでに敬虔な信者であった、ということだけだ。
「正式に聖女様として選定されたら、あの娘はこの先一生ネフィル様のためにその身を捧げることができるようになるのよ!」
「私は今の生活のままでいいけれど、聖女様の家族は生涯安泰を約束されるわ」
「ネフィル様に尽くせたことが、私は何より嬉しいの。あなたもそう思わない?」
生き生きと話す妻に、ベリルは彼女が別の醜い何かに見えた。
妻は大人しくて、慎ましやかで、淑やかで、上品で、多くを望まない素晴らしく美しい女性だったはずなのに。
神の存在を信じ、どっぷり宗教に浸かった妻を見ていると、どろどろとした汚泥を被っているように映る。
途端に、ベリルの中に巣食っていた何かが弾けた。
反射的に驚き立ち上がるベリルに、妻は「はしゃぎすぎてごめんなさい」と軽く謝り、冷めたお茶を淹れ直すと言ってダイニングから離れる。
ベリルは全身から冷や汗をかき、テーブルに手を突きながらめまいがするのを自覚する。
目が回る。
くらくらと、立ち眩みがひどい。
「聖女に選ばれることの、何が幸福だ……?」
今までと同じではダメなのか?
元気な妻の姿を見て、ベリルは確かに安堵した。
ここで満足に過ごせているのなら、それでよかったのではないのか?
自分と共に暮らすことが苦痛なら、一緒に住まなくて構わない。
金に困らないよう援助は惜しまない、当然だ。
家族が健康的に、健全に、楽しく暮らしていく環境がここにあるというのなら、自分はそれ以上を望まない。
これだけ大切に思っていてもなお、教典に書かれていることを優先するのか?
――聖女は、神の代行者。
それは信者にとって光栄なことであり、最高位といってもいい。
もちろん恩恵ありきであるが、自然派の信者は神に仕える使者を身内から出したことを大役だと思っている。
だが聖女という存在は、地位は、身分は、役割は……。
今後一生その身を神にのみ捧げ、外界から完全に断絶されるのだ。
穢れをその身に受けないために。
一部の人間としか接触を許されずに、死ぬまで一生隔離されて生活しなければならない。
それが、聖ネフィルが教える幸福なのか?
信仰心が、揺らぐ。
疑問が生じる。
違和感が、疑惑が、ベリルの目を覚まさせる。
「……教えなど、くそくらえだ」
自分の娘に、そんな一生を与えさせてなるものか。
娘だけは普通に誰かと恋愛し、結婚し、子を授かり、好きなことを好きな時にできるような安穏とした生活を送ってもらいたい。
決して、聖女などという縛られた一生を歩ませてなるものか。
信仰から解放されたベリルは、人目を忍んで教会内部を探り始めた。
そこで目を付けたのはやはり神聖黙示録である。
聖騎士団長という地位にまで昇り詰めることができたなら、神聖黙示録が安置されている宝物庫の場所がわかるはずだ。
そのためには国家が、教会が何より最優先している事項……悪役令嬢断罪計画を滞りなく遂行することが最も早い昇進への道となるだろう。
より一層、非情に徹することが要求される。
暗部の仕事も、聖騎士団としての仕事も、情に流されるようでは務まらない。
教会が求めるような働きをしなければ、聖騎士団長という地位など遠い夢だろう。
寝る間も惜しみ、感情を殺し、ただひたすらに真実を追い求めた結果がこれかと……。
ベリルは打ちひしがれる。
そこに救いなどなく、ただ人間が矮小な存在でしかなかったのだという真実を突きつけられただけだった。
神聖黙示録に書いてあったことが事実であるならば、俺は何のために奔走していたのか。
走馬灯のように流れた記憶が、思い出が次々とゲデヒトニスによって失われていく。
忘れちゃいけない。
失ってはいけない。
俺はまだ、娘に父親だと紹介されてもいないというのに。
真実を知るのは俺だけなのか?
いや、神聖黙示録は今グランディス国王の手元にある。
癪に障る男だが、魔術師最強と謳われるあの男ならばきっと……俺なんかよりよほどレオナの力になってやれる。
俺は、ただの道化に過ぎなかった。
無様に走り回るだけの、神の手のひらの上で踊るだけの……。
一度も父親らしいことはしてやれなかったが……。
どうか、抗ってくれ。
セスティリア……、どうか……。
お前だけは真っ当な幸せを掴んでおくれ……。




