26 旅人の宿にて
聖ネフィル教会の敷地を脱出後、レオナはノームに連れられアンデシュダリア国外にある旅人の宿の前にいた。
旅人の宿、それは世界中至る所に点在している宿泊施設だ。
各地域、各国で共有し管理しているこの宿屋は旅の道中の安全を確保するため、長旅をする者たちから重宝されていた。
旅人の宿の周囲には他の店も連なることもある。
レオナが今いる旅人の宿は、度に欠かせない品々を売っている道具やくらいだった。
危険な地域などに設置されている場所であれば、武器屋や防具屋といった戦闘に備える店も構えられている。
だがここは国外とはいえ、管轄はアンデシュダリアとなっていた。
アンデシュダリア管轄の旅人の宿には、武具屋どころか魔道具屋も設置を許されない。
聖ネフィルを信仰する国にとって、武器は争いの火種となる。
それを防ぐために管轄する側として規制を設けている理由だ。
旅人の宿の周辺は武器屋、防具屋、道具屋、魔道具屋、そして酒場が併設されているのが一般的である。
それらがないということは、ここがアンデシュダリア管轄の旅人の宿でまず間違いないとレオナは思った。
寂れた宿、というのが第一印象だ。
時間帯が深夜であることを忘れてはならないが、それにしても建物自体が年期を感じさせるせいで余計ボロに見えてしまう。
『フィクスさんは中にいます。あと、神聖黙示録もどうぞ』
「……まぁ、私が一切顔を見せずに渡すっていうのは違うのかしらね」
できることなら顔を合わせることなくクリサンセマム家に戻りたかったレオナ。
しかし物が物なだけに、慎重にならなければいけない。
その理性だけはかろうじて残っていたようだ。
渋々といった表情で神聖黙示録を受け取る。
そのままの状態ではさすがに扱いが雑だと考えたレオナは、ガルガンシエルに大きな布袋を吐き出させ、それに神聖黙示録をしまい込んだ。
『では終わったらここで声をかけてください。レオナさんのおうちに送り届けますので』
戻るだけなら自分だけでどうにでもなるが、ノームの移動は人目を気にする必要がない上に驚くほど早いことはすでに経験済みだ。
あと二時間もすれば夜が明けてしまうだろう。
レオナは無言でうなずき、宿へと向かった。
深夜だというのに宿は開かれており、店内にあるカウンターには一人の男が仏頂面で控えていた。
常識的に考えて、このような時間帯に訪れるレオナの方がおかしいのだが、店はまだやっているように見える。
「こんな夜遅くにごめんなさい」
「……ずいぶんとした格好だな。ま、何も聞くまいよ。訳ありなんて腐るほどいるからね」
店主にそう言われ、レオナは暗部の戦闘服のままであったことに今さら気付いた。
早着替えの魔性がいたのなら契約したいものだと、その時初めて痛感する。
「えっと」
「黒髪のレディ、あんたの来訪は承っているよ。二階の一番奥の部屋だ」
「それはどうも」
全てフィクスが事前に準備していたのだろう。
深夜にレオナがここを訪れると。
それならそれで手っ取り早いと開き直ったレオナは、足早に階段を上って一番奥にある部屋の前でノックをした。
中から聞き覚えのある低い声がしたと思うなり、ドアが開かれる。
現れたのは長身の男、フィクス本人だった。
相変わらず長い黒髪を垂れ流し、美しい相貌の半分を覆っている。
格好は以前に見たようなイーステッドを思わせる衣装を身に付けていた。
アンデシュダリアやグランディスといった様式の衣装とは異なる、独特な雰囲気のものが好みなのだろうか。
「中へ」
意外にもフィクスが掛けた言葉は、そのたった一言だけだった。
てっきり軽口の一つや二つ飛び出してレオナの神経を逆撫でするものだと構えていたのだが、簡素な態度に拍子抜けしてしまう。
中へ入ると同時にすぐさまドアは閉められロックする。
いつものフィクスではないと直感した。
警戒心の強い野生動物のように、フィクスはやや緊張した面持ちで奥の椅子に腰かけるよう促す。
レオナは両手に抱えていた物を丸いテーブルの上に置き、椅子に腰を下ろした。
フィクスは無言のままそれを見つめ、じっと立ったままである。
さすがに調子が狂わされたレオナが険のある口調で嫌味を言った。
「大仕事を終わらせた相手に対して労いの言葉の一つもないのかしら。そうね、一国の柱ともあろう人物ならその程度で頭を垂れるほど安くはないって?」
レオナのとげとげしい物言いで、やっとフィクスは視線をレオナに向けた。
ハッとした様子からレオナは彼の様子がおかしかった原因にようやく気付く。
思えばドアを開けた瞬間、彼はレオナを一瞬その目に捉えはしたが、それ以降は一切レオナの存在に触れていなかったように思う。
それどころかレオナの存在よりも、彼の注意は常にこの本になかっただろうか。
フィクスは終始、本の存在に気を取られ、緊張していたのでは。
「君は、なんともないのか」
「何のことかしら。もしそれが魔力探知の才能の差というならば、私はそちらほど影響を受けていないわ。こうして手に持つことすら厭わない程度にはね」
フィクスの反応は、魔性たちが本を目の前にした時と同じような感じだ。
躊躇い、戸惑い、恐れをなしているような。
それほどこの本から放たれる魔力が凄まじいのだろうか。
今もなお清浄なマナを発し続けるこの本に、本能的な畏敬の念を抱いているのだろうか。
確かにこの本は、重い。
それは物理的な重量としての意味ではなく、存在感として。
だがレオナにとってはそれだけだ。
恐れおののくほどの脅威を、この本から感じたりはしていない。
フィクスは今もなお神聖黙示録を前にして緊張しているのか、腰かけてもまだ本から視線を外すことができずにため息ばかりをついていた。
その様子は初めて見るものだったので、レオナは思わず面白がってしまう。
いつも威風堂々としていて、誰を前にしても怯むことのなかった態度の大きな男が。
口を開けば軽口ばかりで、人の神経を逆撫でするような言葉使いしかできない無神経なこの男が、これほどまでに緊張している姿はもはや滑稽に思えて仕方ない。
だが面白がってばかりもいられなかった。
レオナは常に時間が惜しい身だ。
もっと拝んでおきたいところではあるが、本題に入らなければ何時間でもこの本に魅入られっぱなしの可能性が高そうだった。
「わかってると思うけど、今回はそっちがノームを寄越したことで順番が逆になっているわ。本来ならまずベリルにこの本を渡して読み終えた後、グランディス国へ渡す手筈だったの」
ノームが来てくれたことは、実際感謝しかなかった。
本を持ち帰る術を失っていたところなので、渡りに船だったことは確かだ。
しかしレオナはそんなことで媚びた態度を取りたくない。
調子に乗らせでもしたら,どこまで不快な男になっていくものやら。
「わかっている。それに関しては事前に情報共有できなくて申し訳ないとさえな。だが、ノームを寄越して正解だったんじゃないか?」
すでに読まれていた。
ぐっと言葉を飲み込み、次の言葉を考え直さねばと思っているところに、フィクスは本を手に取りページをめくり出す。
布袋から取り出す前からそうであったが、布越しからでもわかった清浄な空気というものが強くなった。
まるで冷たくて心地の良い風が本から放たれているかのように、淡い光と共に空気が澄んでいくのがわかる。
ページをめくる度に、フィクスの翠簾のような黒髪がたなびく。
鋭くも憂いを帯びたような瞳は書かれた文字を追っているのか、素早く動いては時折険しさを見せていた。
本の内容に全く興味のないレオナは、まさかこれだけ大きく分厚い本を今から全部読むつもりなのかと気が遠くなる。
しかしそんなレオナの声すら届かないだろう。それだけフィクスの顔には常にあったはずの余裕が失われていたのだから。
やがてページをめくる速度が速くなった。
目当ての内容ではないのか、読み飛ばすページが多く感じられる。
どうせもうこの本を返すことはないのだから、一旦ベリルに渡してから再びフィクスが後でじっくり読めばいいものを。そう口に出そうとした時だった。
「ははははっ、そうか……なるほどな! どうりで……!」
突然大きな声で笑いだしたかと思うと、フィクスは手で顔を押さえながら肩を震わせていた。
それからのフィクスの表情には、いつもの余裕が戻っていた。
口の端は吊り上がったまま、薄ら笑いを浮かべているように見える。
「これはアンデシュダリアの歴史書のようなものだ。世界に関することは一握りしかない。つまりこれは神聖黙示録の一部にも満たない、パズルのピースのひとかけらといったところだ」
「どういうこと? 神聖黙示録は一冊じゃないの?」
ぱたりと本を閉じ、布袋にしまう。
どうやら調べたい内容が見つかったらしい。
普段の、結局何を考えているのかわからない余裕しゃくしゃくとしたフィクスが帰ってきた。
「一度あの聖騎士団長に手渡した後、また俺に寄越してくれるか」
「元よりそのつもりよ。こんなもの、クリサンセマム家で隠し持てるはずがないからね」
仮にも今ここにある神聖黙示録は、アンデシュダリア国の国宝だ。
だがレオナにとってはどうでもいいことである。
アンデシュダリアが困ることならむしろ率先してやりたいくらいなのだから。
「それじゃあこれは一旦こちらで。……グランディア国王は随分とお暇なのかしらね。わざわざこんな所までご足労いただくなんて思わなかったわ」
「魔性はこの本を嫌がる性質を持っているからな。魔性使いである君が困っていると思ったら、いてもたってもいられなくてね」
やはりこの男はいけ好かない。
そうやってこちらを無能扱いして喜んでいるのだから、本当に虫唾が走るとレオナは胸の奥がむかむかしてきた。
一刻も早くここから出て行きたい。
いや、この男から離れたかった。
「四大精霊は精神世界面で通じ合っているのよね? ベリルの用事が済んだらウンディーネに伝言を頼んでおくわ」
「そうしてくれ。――あぁ、それと」
思い出したように、フィクスがポケットから取り出した紙切れをレオナに見せる。
怪訝な顔で紙切れを覗き込む。
それは正式な書面、カードのようだった。
よく見るとアンデシュダリア国の国璽が……。
「正式な手続きをした結果を、君に報告しようと思ってな。アンデシュダリア国との友好国として、無期限の滞在が許可された。それとマリクが親善大使に任命された」
「え?」
「これでいつでも出入り自由だ。入国審査はさすがに毎度しなければいけないが」
(大嫌いな魔道具国家のトップを? アンデシュダリアが許可?)
にわかには信じられない内容だったが、許可証を見る限り本物であることに間違いはなかった。
国璽も本物、正真正銘本物の許可証だ。
レオナの知らぬところで、フィクスはしっかりと事を進めていたらしい。
悪役令嬢の救済計画のために。




