2 選ばれし悪役令嬢アリエッタ(1)
「もうがまんできないわっ! パパに言いつけてやるんだから!」
少女のけたたましい金切り声が教室内に響き渡る。
貴族階級の者しか入学を許されないプラチナ学園初等部、四年生に進級してわずか半年しか経っていないこの教室で事件は起きた。
一クラスの生徒数、およそ四十人分の机が並ぶ教室のど真ん中。二人の少女を中心にして円を描くように、まだ年端もいかない少年少女が息を飲みながらその光景を眺めている。
円の中心で声を張り上げていたのは、ハーフアップにしたはちみつ色の髪に大きなリボンが特徴的な少女だ。アイスブルーの瞳は涙に濡れて、頬を紅潮させ怒り心頭といった様子。
対してもう一人の少女は、亜麻色のウェーブがかった長い髪をポニーテールにしていて、実に涼し気な表情で黙って相手を見据えていた。
「私のパパは公爵なのよっ!? その娘の私に嫌われたらどうなるか、思い知らせてあげるんだからっ!」
威勢よく父親の権力を自分のもののように振りかざしているが、涙声ではそれもただの負け惜しみにしか聞こえない。変わらず涼しい顔で見下している亜麻色の髪の少女。
「言いたければどうぞご自由に。だけどそんなことをしたって、ベリルージュがみんなの足を引っ張ったっていう事実は何も変わらないのよ?」
秋の生活発表会で披露した演劇で、公爵の娘ベリルージュは緊張のあまりセリフを噛みに噛み倒し、観客席から失笑を買ってしまった。
点数を競うような発表会ではなかったのだが、貴族という身分である以上彼らには彼らなりのプライドがあった。同時に両親から多大な期待をされては失敗など許されない。
この三カ月間、毎日練習を重ねて来たクラス全員の努力を、ベリルージュ一人の失態で劇は散々な結果に終わってしまった。
それを誰も責めたりしなかったのだが、ベリルージュにはどうしても看過できない不満があった。静かにしていれば事なきを得ていたのに、プライドの高い彼女は自ら藪をつついて猛毒の蛇を出してしまったのだ。
「うるさいわね! そういうあんたはどうなのよ、アリエッタ!」
アリエッタと呼ばれた亜麻色の髪の少女は、どれだけ喧嘩を売られてもそれに過剰に乗ったりはしなかった。
十歳ともなれば売り言葉に買い言葉で喧嘩が発生しやすいものだが、アリエッタは感情に身を任せることはなかった。……なかったのだが、それ以上の報復をクラス全員が恐れていることをベリルージュだけは未だ気付けない。
「どれだけ回りが凡庸な演技をしたとしても、私だけは完璧に役を全うすることができたから何も言うことはないわ?」
「ぼん……? え、なんて? ……はっ! と、とにかくそんなことはどうでもいいわっ! 演劇には一体感が大事だって先生が言ってたのに、なによその言い方は!」
「プラチナ学園は演劇専門じゃないのよ? ましてや初等部に通う子供に一体感のある完璧な演技ができるわけないわ」
何を言っても冷静に返されるので、ベリルージュは敗北を感じつつもそれを認めたくなくて、泣きながら反撃をしていた。これが今現在クラスで起きている事件の顛末である。
「ねぇ、もうやめようよ」
「相手はあのアリエッタよ? 口で言って勝てるわけないわ」
「あんな意地の悪い子なんて、相手にしない方がいいって」
クラスの女子、ベリルージュの特に仲の良いお嬢様たちが口をそろえて同じことを言う。
彼女らだけではなく、周囲を取り巻いているクラスメイトのほとんど全員がひそひそとアリエッタに対する不満と恐れを口にしていた。
「お父様が、触らぬアリエッタに呪いなしって言ってたぜ」
「お~こわ」
「意地悪令嬢もここまで来れば魔族や悪魔と変わんないな」
言いたい放題言われようとアリエッタはびくともしなかった。
それどころか不敵な笑みを浮かべる始末で、みんなアリエッタから距離を置く。
べそをかいたベリルージュは三人の女友達に慰めてもらいながら、まだぶつくさとアリエッタに対する文句をやめていない。
そんな一悶着の後に担任の先生がクラスのドアを開けて、生徒たちの様子がおかしいことに勘づいた。
「一体どうした? セクトクラムが泣いているのはどういうわけだ」
仮にもベリルージュ・セクトクラムは公爵家のご令嬢、担任はいち早く彼女の異常事態に気付いて訊ねるが、それに答えたのはアリエッタ・クリサンセマムだった。
「先生、ベリルージュさんはこの間の演劇で失敗してしまったことを恥じてみんなに謝っていたんです。誰も責めてないから泣かないでいいよって励ましていたところで」
「なっ!?」
「そうだったのか。セクトクラムも一度や二度の失敗くらいでくよくよするなよ? クラスメイト全員が優しくてよかったじゃないか。友達に感謝しなさい」
「なっ、なっ……?」
事の顛末を何も知らない担任は、アリエッタの言葉を真に受けて呑気に笑っていた。
もちろんベリルージュ本人だけではなく、クラス全員がアリエッタの嘘に呆気に取られていたが、当の本人はしれっとした態度で笑顔を作っている。
しかし一部始終を見聞きしていたクラスメイトは、誰も何も言わない。
アリエッタ・クリサンセマムは嘘つきだ。
大人や先生の前では優等生を演じている。
それがクラス全員が持っている、アリエッタの印象だ。
敵に回してしまえばどんな仕返しが待っているのかわからない上に、絡まれでもすれば先ほどのベリルージュのように一方的に口撃されて終わり。
「嘘つき」「汚い」「嫌い」「しゃべりたくもない」「嫌な子」「ずるい」「悪魔」
口々に発せられるクラスメイトたちの言葉。
その声はあまりに小さく、先生の耳には届いていないが本人の耳にはしっかりと聴こえていた。
それをまるで自分への称賛とするように、アリエッタは誇らしく思った。
今日も上手にできた。
少しずつだけど確実に、ちゃんとみんなに嫌われている。
帰ったらこのことを報告しなくちゃ。
チャイムが鳴り、授業が始まる。
それぞれが席について教科書を出していく中、アリエッタも彼らと同様に教科書を取り出すがその手はがくがく震えていた。
ダメよ、まだダメ。
ここでの私は常に笑顔でいなくちゃいけないの。
誰にも負けない完璧な優等生でなくちゃ、全部台無しになっちゃうんだから。
にっこりと満面の笑みで前を見る。
先ほどの冷ややかな空気を作った張本人とは思えないほど、屈託のない笑顔をアリエッタは作り上げた。
***
下校チャイムが鳴り、アリエッタはいそいそと教室を出た。
一緒に下校する友達がいるはずもない。アリエッタは全員からしっかり嫌われていた。
それでもアリエッタの顔は満足げで、今すぐ校舎を出て行くために廊下を早歩きで駆け抜け急いで下靴に履き替える。
周囲では友達を待つ生徒や、遊びに行く約束を交わす生徒。彼らの楽しそうな声が聞こえてくるが、アリエッタには無縁のやり取りだと割り切って校門まで走った。
迎えの者に大きく手を振って、ようやく心からの笑顔がこぼれる。
「走ったら危ないですよ、アリエッタお嬢様!」
深い漆黒の長髪を編み込んだ髪型の美女が、校門で主人の帰りを待っていた。
黒いロングスカートにロングコートを着た美女は、走って向かってくるアリエッタを両手で受け止め、そのまま抱きしめる。
「早く帰ろ、レオナ」
優しい笑顔で抱き留めた時、アリエッタの肩が震えていることに気付いたレオナの笑顔がわずかに曇る。察したレオナはリュックを受け取り、迎えの馬車に乗り込んだ。
貴族学校でもあるプラチナ学園では、馬車などの送迎が義務付けられていた。下校時に事故や事件に巻き込まれないためである。
アリエッタも例外なく、レオナという名の侍女が毎日送迎に訪れていた。二人一緒に馬車に乗り込んで、御者の男が馬を出す。
舗装された道とはいえ、馬車が走る音は少しばかりうるさいのでキャビン内の会話は御者に聞こえることはない。
甘えるようにレオナに抱きつき、アリエッタは泣きながら今日の出来事を報告した。
レオナはそれに対して相槌を打ちながら一言一句逃さず聞く。
「そうですか、公爵令嬢であるベリルージュ嬢と言い争いを」
「私、ちゃんと負けなかったよ。何か言われても倍にして返したわ」
喧嘩の内容、その後に現れた担任に対する対応、それらを嗚咽を漏らしながらアリエッタが話すと、レオナは満足そうに微笑みながら主人の頭や背中を優しく撫でた。
「それはよく頑張りましたね、アリエッタお嬢様」
「ちゃんとみんな、私のこと嫌なものを見るみたいに見てたよ……」
「しっかりと嫌な部分を見せて差し上げたんですね? とても偉いですわ」
「……これでお父様やお母様が殺されたり、……しないよね? ね? レオナ?」
「もちろんです。お嬢様がこれだけ頑張って憎まれ役を演じていらっしゃるんですもの。国王陛下も納得して、お嬢様の功績を讃えてくださることでしょう。ご両親にもきっと手出ししたりしませんわ」
苦しそうに自分が今日した行ないを報告するアリエッタに対し、上出来だと褒めちぎる侍女レオナ。
わずか十歳のアリエッタに、これほど歪な行動を起こさせた原因――。
「悪役令嬢断罪計画」
それに選ばれたアリエッタは、国王の、枢機卿の、侍女レオナの指示通り今日も悪役を演じて来た。
心を痛めながら、心にもないことを言い放ち、心の中で号泣しながら。
それもこれも全てアリエッタがたった四歳の頃……、六年前の春先から始まった。
アリエッタの運命を変えたあの日。
侍女レオナと出会ったあの時から、アリエッタの命運は決まっていたのだ。