第29話 再会の風
「はい、退院おめでとうございます、綾瀬さん。これがデータプレートです。最後にこちらへサインをお願いしますね」
笑顔の看護師が、小型の透明端末──“データプレート”を提示してくる。画面には凪人の名前と、診療コード、退院許可の時刻がホログラムで表示されていた。
凪人はベッド脇で体を起こしながら、それを受け取る。
「……もう、ここには来ないようにね?」
看護師は軽くウインクしながらそう言って、ふわりと笑う。
「こんなところ、若い子が通う場所じゃないんだから」
「……努力します」
そう答えて、凪人は苦笑を浮かべた。
データプレートに指を滑らせると、ピピッと軽やかな音が鳴る。生体認証が完了し、退院処理が正式に完了した。
病院の廊下を進み、別棟へ。
堂嶋鋼一の病室の前で立ち止まる。
中に入ろうとしたところで、対応していた医師に制止された。
「すみません。いま、ご家族以外の面会は……」
「……そうですか」
凪人は静かに頭を下げた。
ガラス越しに見える重装備の医療機器と、包帯に巻かれた巨体。
その背中に、また一歩近づきたいと思った。
だが、今はその時じゃない。
(また来るよ、堂嶋さん)
病院のロビーを抜け、玄関の自動ドアが開く。
(……ようやく、外だ)
凪人はゆっくりと歩を進める。まだ体には痛みが残るが、なんとか動ける程度には回復していた。
「凪人くん!」
懐かしい声が、真正面から届く。
「……えっ?」
視線を上げると、そこには──
金髪ロングの少女。制服姿ではなく、私服の軽いジャケットに身を包みながら、
明るく微笑む彼女がいた。
「……あかり、さん?」
「あっ、ごめん。急に声かけて驚かせちゃった?」
「い、いや……なんでここに……?」
明璃──神谷明璃は、すこし照れたように指を合わせた。
「入院したって聞いてたけど……任務が立て込んでて、なかなかお見舞い行けなくて」
「……ああ、そうだったんだ」
「だからね。退院の日を聞いて、ここで待ってたの」
「…………」
凪人は言葉を失った。
(……待ってた? この人が、わざわざ俺のために?)
そんな実感が、なかなか湧いてこなかった。
だが、明璃の表情はどこまでも自然で、優しかった。
「ほんとに……よかった。無事で」
その一言に、胸の奥がわずかに熱くなる。
「……あかりさん」
「ん?」
「来てくれて……ありがとう」
すると、明璃は小さく笑って、右手をデバイスにかざした。
「ほら、これ。ギルドの情報端末。“退院通知”だけはリアルタイムで流れてたから、急いで来たんだ」
表示されたのは、銀鷹連の専用ネットワーク──
凪人の退院処理が、時刻付きでログに記録されている。
(なるほど……さすがギルド、医療情報まで繋がってるのか)
凪人は納得しつつも、明璃の行動が少しだけ“嬉しい”と感じていた。
「ねぇ、せっかくだし……少し、歩かない? 今日はまだギルドにも戻らなくていい日なんだ」
「え?」
「だって退院祝いしないとでしょ?」
明璃はそう言って、にこっと笑った。
凪人は目を見開き、それから小さく笑って頷いた。
「……うん、じゃあ、少しだけ」
二人はゆっくりと歩き出した。
まだ陽は高く、街には人の気配と、風の匂いが漂っている。
「……そういえば、前に言ってたよね。“英雄になりたい”って」
「……え?」
凪人は足を止める。
隣で歩いていたはずの彼女が、まるで何気ない雑談のようにそう呟いたのが、不意に胸に引っかかった。
「俺……そんなこと、言ったっけ?」
明璃は柔らかく微笑んで、首を少しかしげた。
「ううん、なんとなく。あなたなら、きっとそう言う気がするって……そんな気がして」
「……そっか」
凪人はうなずきつつも、胸の奥に小さな疑問が残る。
(……“英雄になる”って、確かにあのとき――プロ冒険者試験のとき、俺……)
──「俺は英雄になる」
あの場で、確かに言った。
けれど、明璃がそのとき近くにいた記憶はない。
(……もしかして、あの時の声……聞かれてたのか?)
自分でそう結論づけて、無理に納得しようとする。
だが、その違和感は、消えないまま静かに胸に沈んでいった。
明璃は再び歩き出した。
凪人もあとを追いながら、何も言わず、その背中を見つめていた。
明璃が、止まり、ふと振り返った。
「ねえ、少し行きたいとこあるんだけど。……退院祝い、ってことで」
「……どこへ?」
凪人が問い返すと、明璃はわずかに微笑んだ。
「私のお気に入りの場所。いつか、君と来たいと思ってた」
そう言って振り返り、歩き出す。
車道を外れて、静かな歩道を抜けた先。人工湖の脇を通り、小高い丘を登ると──
そこに、街を見下ろす展望スペースが現れた。
透明な強化ガラスで囲まれたその場所は、開放感がありながらも落ち着いた雰囲気を漂わせている。
天井には淡い光のホログラムが浮かび、近未来的な演出がどこか幻想的だった。
「ここ、知ってる人ほとんどいないの。仕事で煮詰まったとき、たまに来るんだ」
明璃はそう言って、ガラス越しに遠くの空を見上げる。
凪人もゆっくりと彼女の隣に並ぶ。
その瞬間──胸の奥に、微かな“違和感”が生まれた。
「……なんだろう、ここ……」
ぽつりと、言葉が漏れる。
「懐かしい気がする。来たことなんてないはずなのに……」
明璃は、静かに目を伏せたまま、答えなかった。
風がそっと吹き抜ける。ホログラムの光が、彼女の髪を淡く照らしていた。
(……この感覚、なんなんだ……?)
胸の奥に、小さなざわつきが残ったまま、
ふたりはしばらく黙ったまま、遠くの空を見つめ続けていた。
「……そろそろ、帰りますね。今日は、ありがとうございました」
そう言って、凪人が立ち上がる。
夕暮れに染まる高台の空気が、ほんの少しだけ名残惜しい。
明璃はベンチに腰を下ろしたまま、やさしく微笑んだ。
「うん。バイバイ。……体には気をつけてよ」
「……はい」
凪人が小さくうなずいたとき、明璃が声をかける。
「また、ギルドで会おうね」
その一言に、凪人は歩きかけた足を一瞬だけ止めて──
振り返らずに、静かに右手を上げて応えた。
やがてその姿が小さくなり、丘の下へと消えていく。
明璃はひとり、ベンチに残されたまま、淡い夕陽を見つめていた。
(あたし……どうしちゃったんだろ)
心の中に、ふと湧き上がった疑問に、自分でも戸惑う。
(凪人くんのこと……なんで、こんなに気になるんだろ)
誰かに説明できるような感情じゃない。
恋愛とも、友情とも違う。
けれど、ずっと前から──“彼のことを知っていた気がする”。
(あの場所……誰にも教えたこと、なかったのに)
彼を案内したのは、自分でも不思議だった。
でも、迷いはなかった。
「なんか……懐かしいって、言ってたよね。あのとき……」
明璃の指先が、ベンチの縁をなぞる。
小さな風が通り抜けていった。
(ねえ、あたし……あなたのこと──どこまで、知ってるんだろ)
問いかけるように、夕空を見上げた。
その瞳には、どこか確信に似た光が宿っていた。
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