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黒雨の川

作者: 雉白書屋

 太陽はなく、空全体が白く発光しているようであった。

 一本の道路。その両脇は頭をもたげるかのように、葉先が反った雑草が地平線の彼方まで続いている。

 彼はひとり、そこを走っていた。

 ここが夢の中であることは彼も承知だった。息苦しさ。痛み、疲労は現実とそう変わらないほどであったが、それは彼自身の経験がリアリティを持たせたことに他ならない。

 それに加え、夢の中特有の淀んだ思考回路なら、ここが現実だと錯覚することもできたであろう。

 しかし、時折どこかからする声が、風もないのに遠くから流れてくるような声が彼に夢を見る事を、現実から目を逸らすことを許さなかったのだ。


 ――君は練習中に事故に遭ったんだ。


 彼は叫んだ……が出たのは、か細い声であった。

 それもまた夢特有の現象。思った通りにならないという歯痒さだけを残す。そして、そのか細い声は病室での彼の、思い出せば情けなくなるほどの動揺と不安に満ちた声とよく似ていた。

 反対に、彼に語りかける声には圧迫感があった。


 ――残念だが嘘じゃない。覚えていないか?


 覚えているとも。


 ――君はトラックに轢かれたんだ。


 突然、背後から。体が、足から吸い込まれるようだった。


 ――居眠り運転だそうだ。発見が遅れていたら死んでいたかもしれなかったんだ。


 死んださ。あの山の中の道路で。


 ――足は繋ぎとめることができたが……。


 誰かに事故のことを聞かれるたびに彼は、すぐに気を失ったから覚えていない。目覚めたら病院だったと、そう答えた。

 だが、彼は覚えていた。鮮明に。すぐに気を失ったのは確かだが、また目覚めたのだ。あの道路で。

 尤も、その記憶も夜を迎え夢を重ねるたびに正しいものなのか、あの日見たものは幻だったのか、あるいは夢を見ていたのか。そう思うこともしばしばあった。あの時、限界を超えたのか痛みもなく、あらゆる感覚が麻痺していた。

 ただ、音だけはやけにハッキリと聞こえた。



 ――ぶちぶち


 あの日、あの山の中の道路で目覚めた彼がまずしたことは、目を走らせることであった。

 大事な自分の足。ゴールのその向こう、輝かしい未来まで運んでくれる存在。大げさなものか。声に出しても恥ずかしくない。現にこの足で大学の推薦を勝ち取ったのだ。名門大学。来年は駅伝で名を轟かせるのだ。そう、この足で……。


 ――ばちっ、ぶちっ


 右足は無事であった。擦り傷はあったが大したことはない。安堵。あれに轢かれよく無事だったものだと、先にある大型トラックに視線をやり、思った。

 トラックはブロック塀に衝突し静止していたが、猛るようなエンジン音を轟かせていた。


 ――ぐちゃ、ぶちぶち


 次に彼は後ろを振り返る。ブロック塀に当たり、削れたトラックの破片と血痕。破片はかなり後方まであるようだった。

 タイヤの跡、つまりブレーキ痕は見えなかった。ブレーキは踏まなかったのか。自分がその役目を果たしたのかなどと彼は自虐的に笑おうとしたが、ゾッとする感覚がそれを許さなかった。


 ――ぐちゃくちゃ


 音はハッキリと聞こえていた。目を逸らせばそうするほどにそこから。

 彼は視線を一度空へ向け、そして下ろした。


 ――ぶち、ぐちっ

 

 絶叫は長く、長く続いた。やがて涙を交え嗚咽に変わり、彼はまた叫んだ。

 彼の左足。脛の部分がパックリと開いていた。

 皮一枚、とまではいかないまでも、ふくらはぎの肉(それも厚みのない)が繋ぎとめているその様はまるで小袋の醤油。『ここから切れますよ』の切り取り線より上の部分、指でつまみ開き、千切れず残ったあの部分のようにしぶとく残っている。

 あるいは口の部分がパクパク動くハンドパペット。

『やぁ! コンニチハ! ハハッ! 慌てないで! たーくさんあるからね! ハハハハハハハハハハッ!』


 そこには無数の蟻が林の奥から列を成し、集っていた。

 

 彼は叫びながら顔を右へ、左へそして上へと向け、ヒッヒッヒと短い呼吸と鼻をすすりながら恐る恐る、また左足に目を向ける。そしてまた叫び、叫び、また見つめる。

 これは現実なのか? 蟻が、蟻がこんなにも、集るなんてことあるのか。

 生きた動物に。虫ならある。弱り切った虫に襲い掛かる場面をこれまで目にしたことは何度も。幼い頃や、練習の休憩中にふと道の脇で目にしたことも。しかし、そんな、こんなことが。


 ――弱っているじゃないか。


 彼の心の声は、それが自分のものか疑うほど冷静であった。


 ――もう死んでいるってことじゃないか? この左足は。


 これは、あのブロック塀と落ち葉止めの奥。広がる林の深くに潜む悪魔の声ではないか。そんな考えは現実逃避であることは誰に言われなくともわかっていた。

 だが、現実。それと向き合うには残酷過ぎた。

 しかし、そうする他ない。彼は足を左右に振り、蟻を振り落とそうとした。

 ただ、地面から浮かせると、その重みにより千切れてしまうのではと、あまりそう激しく足を動かせはしなかった。

 足の中から覗くやや白く尖った部分。折れた骨のその先端に蟻が乗り、口を動かし触覚を振っている。まるで崖の先端に立ち、天に在られる神に懇願する哀れな人間。

 

 おお、どうか我らから何も奪わないでください。そのまま大人しくしていてください。


 ――ふざけるな。


 彼は上半身を折り曲げ両腕を伸ばし、左足の足首を掴んだ。掴まれたその感触はしなかったが痛みも感じていない。まだ希望はある……はず。そう思った。

 彼はぐぐぐっと引き寄せるようにして、足を押しこんだ。

 彼はふと壊れたヘッドホンを修理した時のことを思い出した。折れたヘッドバンドの部分に接着剤をつけ、力いっぱい両方向から押し込んだことを。上手くはいかなかった。あの時も、今も。

 ドロッとした小さな血の塊がいくつか落ち、肉の断層に押しつぶされそうになった蟻が足と触角を振り、慌てて逃げ出していくのが見えた。

 脛から膝へ登るものと、足首へ行き、彼の手に登るもの。そして彼から離れ、道路へと向かうもの。

 黒雨の川。彼はその流れの先を目で追った。


 ――通報を受け、駆け付けた時には運転手の男性は死亡していた。


 彼は手で足を押さながら這いずった。


 ――運転席からどうにか外に出たが、呼吸が止まり、死んだようだ。


 トラックの運転席の傍まで来ると彼は立ち上がり、ドアに手をかけた。


 ――あるいは……君は何か見てないかい? 


 ――刑事さん。そろそろ彼を休ませてあげてください。


 ――ああ、先生。これは失礼。じゃあ……またね。



 あの日の情景から帰った彼は立ち止まり、背中を折り曲げ地面に向かって息を吐いた。

 白光の下にできた自分の影。皮膚のようなアスファルトの模様を見つめる。その視界の隅で小さく蠢くものが見えた。

 それは蟻ではなかった。黒く小さく虫ではあるが違った。ただあの時、現実で見たものとよく似ていた気がした。足を擦り合わせ鳴く悪魔の使者。唆すように、急かすように。

 ただ、彼はその記憶にも自信が持てなかった。


 目を閉じ、また開けると虫は消えていた。あるのは白い天井。病室。

 目を覚ましたばかりの彼は体を起こし、左足のギプスを触る。


 ――縫合したあたりの皮膚が黒くなっていることはわかっているね。……感染症の疑いがある。やむを得ない場合はやはり、切断ということに……。


 その下で蠢く感覚がした。そしてそれはやがて全身に。

 憎悪の奔流。血と共に体を廻り、彼は何かを握りしめるように手を閉じた。

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