傷跡の通過駅
「あの青年、帰った?」
「多分。透けるようにして、消えていきました」
「そんな風に帰るのか」
「窓の外を流れる光みたいに、もっと綺麗な消え方だと思ってました」
「消えるだけじゃ、地味だな。祝いのファンファーレくらい鳴ればいいのに」
少女は口元を押さえる。隠された手の下で、口元を薄っすら緩めていた。
俺はその様子を、見に焼き付けるように凝視する。少女の笑顔が、自分でも信じられないほど嬉しかった。
少女は俺の視線に気が付くと、窓の外を見つめるように顔を背ける。彼女の右耳の後ろに、縫ったような傷跡があった。
「その傷跡は?」
俺は反射的に声をかけた。心臓が大きく跳ねて、嫌な汗を背中が伝う。
「一歳くらいの時に、机の角にぶつけて切ったみたいです」
「誰から聞いたんだい? 代わりの父親から?」
「え、はい、どうしてそれを?」
「君を育ててたのは、お父さんの弟さん?」
「……はい。どうして分かるんですか?」
少女は目を見開き、不思議そうにこちらを見つめている。その表情に、体が震え、緊張が走った。
妻の顔が重なったのだ。
娘が産まれて仕事も忙しくなった俺は、ある日を境に妻を抱けなくなってしまった。妻の優しい愛撫を受けても、熱を帯びた吐息をかけられても、体が反応しなくなってしまったのだ。
妻への愛は微塵も薄れていない。そう分かっていても、罪悪感が胸の内を虫のように這う。
その時、妻は同じように目を見開き、不思議そうにこちらを見つめていた。
そして、妻は不倫の道へと進んでしまった。
俺は結婚指輪を少女の手に乗せて、その温かい手を包み込む。
少女は一瞬だけ体を強張らせたが、俺の手を受け入れてくれた。
「いいか乃愛。黒電話が鳴ったら、絶対に取りに行くんだよ」
俺は席をゆっくりと立ちあがって、運転席の方へと向かった。
ケータイやスマホの類いは、ここの乗客になった時点で没収されている。となれば、車掌のスマホを使うしかない。きっと、荒っぽいことになるだろう。車掌が少年でよかった。
例の黒電話の番号は分からない。だが、絶対に鳴らすことのできる自信があった。
俺は覚悟を決める。それは列車を降りる覚悟だ。
車両の先頭にある電光掲示板を見上げる。天国行き、と書かれていた。
ご愛読ありがとうございます。
もう少し、続きます。