私に告白してきたはずの先輩が、私の友人とキスをしてました。黙って退散して食事をしていたら、ハイスペックなイケメン彼氏ができちゃったのですが。
今日は、会社の歓迎会。久しぶりの宴席ということでアルコールもほいほい進む。いやあ、飲み会って楽しいなあ。
そう思いながら中座して化粧室へ行ったら、先日私に告白してきたばかりの先輩が、私の友人とキスをしていた。
……飲みすぎた?
むしろ酔いは覚めた気がするのに、目の前のふたりは消えてくれない。濃厚キスからさらにくんずほぐれつな状態に突入したのを見て、ようやく我にかえる。廊下にある手洗い場であれはまずいでしょう。せめて個室の中でやれ。
……うーん、なんだろうこのモヤモヤ感。いや、文句を言う筋合いもないんだけど。
「あら、山本さん大丈夫? 化粧室に行ったんじゃなかった?」
脳は働かないまま、自分の席には戻ってこれたらしい。なにそれ怖い。
顔見知りの女性社員に声をかけられ、私は口ごもってしまった。行ってすぐに戻ってきたせいで、心配をかけてしまったのかな。
とはいえ、一体何を伝えれば良いものやら。だいたい用を足したかったから席を立ったのに、その望みは果たされないままだ。地味に辛い。
昨日告白してきたくせに、即行彼女ができただと? 私への告白ってなんだったの?
いや、そもそも本当に告白されたのか。手紙を渡されたわけでもないし、立会人がいるわけでもない。告白を受けたという記憶自体が、私の妄想だったのでは……? 最近仕事が忙しすぎたからなあ。
仕方がないので、現在確認できる客観的な事実だけを話すことにした。
「化粧室には行ったのですが、ちょっとお取り込み中みたいで……」
「ああ、やっぱり? さっき連れだって席を立っていたからちょっと気になっていたのよね」
「同時に化粧室へ行くって、そういう意味になるんですか?」
「常にそういうニュアンスがあるわけではないけれど、男性陣の中には都合よく解釈するひともいるし、そこまで飛躍しなくてもアピールタイムとしてしつこくしてくるひともいるから……。気をつけてね」
たまたま催したタイミングが同じというだけでそんなことになるなんて、もう意味がわかりません。
「女の子は、山本さんの同期だったでしょ。彼女、肉食系みたいね。あの感じだと、結婚に持ち込むために手段は選ばなそう」
やーめーてー。友人で生々しい想像はしたくないですっ。ああ、もうなんか全部嫌になってきた。
「このお店、化粧室はあそこだけですよね? もう結構限界で……」
「そうねえ。会社の恥だから誰かが注意しにいかなきゃいけないけれど、私もかかわり合いになるのは嫌なのよね」
「ですよね、わかります」
その意見については完全に同意する。公共の場でお楽しみなひとたちなんて、まともじゃない。かかわり合いになっても、ろくな目にあわないだろう。もうあのひとが、私に告白してきたかどうかなんてどうでもいいし。
「山本さんも気をつけてね。彼だけではなく、化粧室に行くときに男性と時間を被らせるのは避けて。そういう雰囲気に持っていくのが上手なタイプって、わりといるから」
「は、はいっ」
え、これってもはや私も告白されてたんですよとか言えない流れじゃない? 下手したら同類扱いにならない?
「顔色がよくないけど、ああそうね。そもそも化粧室に行きたかったのよね。ちょっと店を出てから戻ってくる?」
「……うーん、そうですね」
正直、めんどうくさい。店を出たのなら、そのまま帰った方が絶対楽だよなあ。
「……顔に出てるわよ。実はね、今回の歓迎会、いろんなフロアのひとに声をかけているの。人数も多いから、抜けてもバレないと思うし……」
「ありがとうございます!」
「ふふ、適当に誤魔化しておくから、気にしないで」
食い気味にお礼を言ったら、苦笑されてしまった。すみません! その言葉に甘えて、頭を下げつつ居酒屋から退散する。さすが、総務課のお姉さま。できる女性は気遣いからしてすごいぜ!
***
「で、ここに来たってわけ?」
「はい。あー、やっぱりオムライスは最高~!」
やれやれと肩をすくめたイケメン――陽斗さん――に適当にうなずきつつ、スプーンをすすめる。
真っ赤なケチャップライスに、とろとろの半熟卵、濃厚なデミグラスソースのハーモニーがたまらない。
「飲み会の途中で出てきたから、お腹がすいちゃって。もう、いくらでも食べられそう。デザートも食べたい。でもコーヒーもいいなあ。いや、お酒を追加で飲むのも良さそう。やーん、決められないー」
「カロリーを気にしないその潔さがいいね」
「美味しいものは、口に入れた時点でカロリーが昇天するから問題ないんですよ!」
「一花ちゃんは好きだね、ゼロカロリー理論!」
ステンドグラスのランプシェードから伸びた光が、テーブルの上を柔らかく照らしている。やけ食いするつもりが、普通に美味しくいただいてしまった。
「家みたいで落ち着く~。ご飯も美味しいし、もうここに住みたい」
「俺と結婚する?」
「やだなあ。ここのオーナーは、陽斗さんじゃなくてマスターでしょ」
「俺がここのオーナーなら結婚する?」
「考えときます」
会うたびに繰り返される軽口を笑って流す。だって最初に出会ったときから、こんな調子なのだから、本気にしても仕方がない。いやまあ、最初はちょっとドキドキしたけれど。毎回されてりゃ、冗談にも免疫ができますって。
この喫茶店に初めてきたのは、2年前。第一志望の会社の面接で落とされてへこんでいた時だ。
お祈りメールなんて届かなくても、面接終了の時点で完全にアウトなのがわかった。
『これから、どうするの?』
『カレーでも食べて帰ります』
『そうだね。ダメな時こそ、たくさん食べて体力をつけた方がいいよ。頑張って』
お腹が空いていたはずなのに、きゅっと胃が痛くなったのを覚えている。それからどこに行こうか決められずにふらふらして、そうして目に入ったのがここ、サラセニアだ。
大通りに面しているはずなのに、少しだけ道から引っ込んでいるビルの1階にあるせいか、見落としそうな古めかしい喫茶店。外からではやっているかどうかもわからない薄暗い店内だったのに、ドアを開けることができたのはいつの間にか意地になっていたのかもしれない。絶対にカレーを食べて帰ってやるんだと。
席につきカレーを注文したけれど、残念ながら売り切れだった。なんとこのお店のカレーは数量限定な上に不定期販売。マスターの気がのった時にしか食べることができないスペシャル品なのだとか。そんなことを知らなかった私は、一瞬固まり……恥ずかしいことに泣き出したのだった。
『え、ごめん、うそ、そんなに食べたかったの? カレーがなくてゴネたひとや怒ったひとは見たことあるけれど、泣いたひとは初めてだよ!』
『ちが、違うん、でっすっ』
しゃくりあげながら、必死に否定した。お腹は空いていたし、カレーが食べられなかったことは確かに悲しかったけれど、別に泣くほどじゃない。ただ、面接が終わってから我慢していたものが溢れだしただけだ。
今なら笑い飛ばせるけれど、明確に「お前はいらない」と言われたことが私にダメージを与えていた。他の友人には内定が出ていたのに、私は「無い内定」。ちょっと病んでいたのかもしれない。
『す、すみ、ません。も、もう、出ますっ、から』
『マスターのカレーじゃなきゃ食べたくない? オムライスもオススメなんだけど』
『す、好きっ、です』
『……よかった。今はちょうどお客さんもはけて誰もいないし、落ち着いてから帰りなよ。大丈夫だから、ね』
『……はい』
そうやってしばらく放っておいてくれたんだよな。
泣きながら食べたオムライスがとっても美味しかったから、そして食後のデザートを食べながら陽斗さんに愚痴を聞いてもらえたから、気持ちを切り替えて就職活動を再開できたんだっけ。
社会人になったらまたここに来よう、そう思って頑張っていたら、偶然ここから近い会社に就職できたのだから、縁があったのかもしれない。実は、最初に希望していた会社よりも良い企業に就職できたおかげで、たびたび外食できるだけの余裕もできた。まあ、ここのメニューが都心にしてはびっくりするくらいのお買い得価格に設定されているっていうのもあるんだけれど。なんか陽斗さんが前に言ってたなあ、「家賃払っていない味」だかなんだか。
デザートを選ぶ私の横で、お冷やを注ぎながら陽斗さんが微笑んだ。
「泣いている一花ちゃんも可愛いけれど、やっぱり笑顔の一花ちゃんが一番だね」
「美味しいものを食べると元気が出るんです。あの時のオムライスに一目惚れしたんですよ、私は」
本当は陽斗さんの優しさにノックアウトされたんだけれど。
「結局マスターのカレーは食べていないしね」
「なんか浮気しているような気持ちになっちゃって。オムライス以外、頼めないんですよね」
「そりゃあ、愛情たっぷりに作っているからね」
「マスターの愛情たっぷり!」
陽斗さんがいきなり笑いだした。そのまま、いたずらっ子みたいな顔でささやかれる。
「一花ちゃんのオムライスは、最初に出会ったときからずっと俺が作ってるよ?」
「は?」
「好きなひとには、俺が作ったものだけ食べていてほしいからね」
当然でしょ?みたいな顔で微笑まれても、困るんですが。え、陽斗さん、ホール担当じゃないの?
「っていうか、俺、一花ちゃんが告白されたとか、聞いてないんだけど?」
「えーと、昨日の話だったので?」
「ショックを受けたということは、好きだったってことでしょ? まさか、OK出してたの?」
「いや、正確に言うとですね、告白されたけれど相手のことをよく知らなかったのでお断りしたんです。ただの顔見知りなので」
「顔見知り」
「はい。でも、あんな濃厚シーンを見せられたので、あの告白ってなんだったのかとか、悩んだ私の時間を返せとか、むしろ私をネタにした嘘告白だったんじゃないかといろいろ考えまして」
「一花ちゃんが素敵な女の子だって気がついた点は誉めるけれど、俺の一花ちゃんに告白するとか許せない」
っていうかなんで、私が怒られているんでしょうか?
「なんで断ったの?」
「えーと、ですね」
「一花ちゃん?」
「……好きなひとがいるからでs!」
すみません、ソファに押し倒されてるんですけど!
「……誰?」
「な、何がですか?」
「一花ちゃんの好きなひと」
「えーと、言わなきゃダメですか?」
「ごめん、優しくできないかもしれない」
「ちょっ、ちょっと、思い詰めないで! 言います、言います、あなたですよ! っていうか、好きじゃなかったら、どうして何年もここに通い詰めてると思ってるんですか!」
「オムライスが美味しいから?」
「いやむしろ、なんでそこ? 確かに、好きだけど! イケメンの癖に女心に疎いとか何それ!」
「俺、すっごくアピールしてたのに」
「アピールし過ぎてて、チャラ男の社交辞令みたいでしたよ」
「やっぱりこれから夜明けのコーヒー、飲もう? がぶ飲みしよう?」
「展開がはやすぎるので、落ち着いて! ちょっとずつ、仲を深めていきましょう! 今日から私は陽斗さんの彼女。ね!」
「もうすぐオレンジデーだから、プレゼントは楽しみにしててね」
オレンジデーってなんだよ!
よくわからないけれど、陽斗さんが記念日好きで助かった……のかな?
***
「はい、どうぞ。俺からのお詫びのアイリッシュコーヒーだよ」
「それで許してもらおうだなんてセコいですね!」
「でも一花ちゃん、口もとが緩んでるよ?」
美味しいものに罪はないからね!
「ウインナーコーヒーみたいにクリームがふわふわ。なんだかパフェみたい」
「せっかくだから、最初は混ぜずに飲んでね」
口の中に広がるのは、冷たいクリーム。それから熱いコーヒーの苦みが押し寄せてくる。そのまま砂糖の甘みとかぐわしい香りに口の中がかき回されていく。
「なんだか、くらくらするんですけど」
「だってそれお酒入ってるもん」
「確信犯だ!」
「あわよくばってのは、正直あるからね」
くすくすとおさえぎみの笑い声が色っぽすぎる。
「とはいえ、好きなひとだから、大事にしたいっていうのもあるし。体から落とすのも、ありだとは思うけど」
「さっきなんかしようとしてましたよね?」
「大丈夫、俺なしではいられないようにしちゃうから」
「全然大丈夫じゃない!」
熱いようで冷たいアイリッシュコーヒー。
下に行けば行くほど、砂糖が溶けて甘ったるくなる。まるで目の前の陽斗さんみたいに。
「俺たち、相性いいと思うよ」
「名前が春っぽいもの繋がりだから?」
「それだけじゃないんだけどさ。まずはちょっと試してみない? 後悔させないよ?」
「お試し?」
「お試ししたら、もう逃がさないけど」
コーヒーとは違う甘い香りが近づいてくる。ふたりの影が重なる直前、テーブルの上の携帯からメッセージアプリの無粋な音がした。誰だよ、こんな時に。そう思いながら携帯を確認し、そのままカバンの中に突っ込んだ。
「誰から?」
「会社のひと」
「昨日告白してきたひと?」
「なんでわかるんですか!」
「一花ちゃんのことなら、何でもわかる」
イケメン恐るべし!
ちなみにメッセージを読んだら、先輩の好感度がさらに下がった。ただでさえ低かったのに、マイナスに突入だ。
彼女どころか、ただ都合のいい女が欲しかったんだろうなってことがよくわかった。悩んだ時間を返せ。
「既読スルーでいいの?」
「だって今の状態では返事もできませんから。このひと、3月中に処理しておかないといけない経費精算、やり忘れていたんですって。だから、なんとかこっそり作業してほしいとか言われたんだけれど、無理なものは無理です」
「3月中? でも今は」
「はい、もう4月です。うちの会社は3月末が期末なので。年度が変わって決算も終わってしまった以上、下っ端の私だけではどうにもなりません。しかも今日は金曜日ですから。だから月曜日の朝イチで、それぞれの上長をCCに入れて、社内メールで返信しておくことにします」
「CCに入れてあげるなんて優しいね。俺なら、BCCで返して自爆させるけど」
「別に嫌がらせじゃなくって、単に一般的な事務としての対応ですから」
「相手が勝手に自爆しても?」
「ええ、相手が勝手に自爆しても」
くすくすと笑いながら、私は残りのアイリッシュコーヒーを飲みほした。
「あ、これって情報漏洩になるんですかね? 最近、コンプライアンスとか厳しいっていうじゃないですか」
「今の会話は、よく聞く話だし、大丈夫じゃないかな。むしろ俺的には、業務時間外に個人的なお願いを単なる後輩にお願いしているのは良くないんじゃないかって思うよ」
「まあ、ただのお願いベースですから」
「でも、彼氏のお願いだったら聞いたんじゃない?」
「いや、だから断りましたし! だいたい、私の彼氏はさっき決まったでしょう!」
「でもやっぱり心配なものは心配だし? 一花ちゃん、こういうのはすぐに社内の窓口に相談していいからね。社内規定がゆるゆるなところもあるけれど、うちは違うから。セクハラ、パワハラは御法度だし、社会規範を乱す行いにも厳しいからね!」
社会規範ってことは、不倫とかかなあ。まあ、社内不倫が横行する会社よりは、厳しいほうがいいのかも?
「もう夜も遅いし送ろうか」
「……そうですね」
急展開は無理だけれど、もうちょっとだけ一緒にいたい。そう思っていると、ぎゅっと抱きしめられた。
「それともうちにくる?」
「え?」
「夜明けのコーヒーにはまだ早そうだけれど」
「はい」
「我慢できなかったらごめんね」
陽斗さんのウインクは、流れ星みたいな弧を描いて私の胸に飛び込んできた。
***
飲み会を途中で抜けた翌週、私は例の総務課のお姉さまと一緒に喫茶店にランチに来た。受けた恩は返せるときに返すのが、社会人のたしなみです。
あれ、ちょっとそわそわしているな。どうしたんだろう。
「すみません、もしかして午後から用事がありました?」
「う、ううん、そうじゃないの。ただ、ここって会社から近いでしょ」
「あ、確かに。他の社員さんがいたら、気になりますよね。でも、私が来るときってちょうど谷間に入るのか、誰もいないんですよ」
「……へえ、すごいわね」
「貸し切りみたいですよね!」
あ、ドン引きしている……。わかります、疫病神っぽいですよね、この現象。特定のひとが来るとお客さんが増えるという招き猫みたいなひともいるというのに……。こういうところがあるから、第一希望は落ちたのかしらん? よし、こういう時は話題を変えよう!
「あのあと、結局飲み会はどうなったんですか?」
「結局彼女の上司が声をかけにいってね。『結婚式はいつだい?』って話しかけたら、『今年中には挙げたいんです!』って彼女がノリノリで話し始めて」
「わお」
たぶんその声かけって、きっと嫌味だったよね? 友が強すぎる。でも同期としてはあんまり嬉しくない強さだなあ。
「しかも相手の男の子は、まだそのつもりじゃなかったみたいなんだけれど、彼女はお取り引き先のお偉いさんのお嬢さんだからね。もうそれでおしまい。おめでたいね!ってことになって、ふたりの婚約記念パーティーみたいになったわ」
「すごい。超展開ですね」
「ただ、震えている女の子が数人いたからね。彼ったら真面目そうな顔をして、手広く声をかけていたんじゃないかしら。結婚までに身辺整理が大変そうよ」
マジですか、あいつ最低だな! いやあ、断って正解だったわ。
「そういえば山本さんは、この喫茶店の名前の意味って知ってるの?」
「いや、知らないですね。なんか、横文字だなって思ってます」
「そっかー」
「すみません、私英語苦手で。やっぱりもうちょっと勉強した方がいいですかね?」
「大丈夫、大丈夫。これ、花の名前だから。たぶん花言葉からとっているんじゃないかしら」
「ちなみに、どんな花言葉なんですか?」
「こ……いいえ、『憩い』よ」
「わあ、喫茶店にぴったりですね!」
「そうね……」
「こんにちは。お食事はお済みですか?」
あ、陽斗さんだ。今日はいつもと雰囲気がちょっと違うなあ。髪をきっちりまとめているからかな。でもやっぱり、カッコいいわ。
「せ、せんm」
「よろしければ、デザートはいかがですか? 綺麗なお嬢さんがたには、特別にコーヒーもサービスでおつけしましょう」
「わーい!」
やった、陽斗さんったら太っ腹! あれ、喜んでるのは私だけ?
「もしかして、コーヒー苦手でしたか?」
そうだよねえ、サービスのコーヒーを紅茶に替えてくれとは言いにくいよね。いくら図々しい私でも、それは遠慮しちゃうし。
「い、いいえ。ありがたくいただきます」
「ご用意いたしますので、少々お待ち下さい」
陽斗さんの後ろ姿を見ながら、声をひそめて話しかけた。
「常連さんっぽくて、嬉しいですよね!」
「常連さんというか、単純に特別扱いじゃないかしら」
その言葉の意味は、もう少し先でわかることになる。
喫茶店のマスターが、私が勤める会社の会長さんだということも、陽斗さんが次期社長だということも。
マスターのカレーは、奥さまがカレーを食べたいと言ったときに限って作られるものだということも(ある程度の量を作らないとスパイスの配合が難しいため、そのおこぼれとして店で販売しているらしい)、陽斗さんは私以外には絶対に料理をしないということも。
そもそもこの喫茶店はマスターと陽斗さんが気に入らなければ入店できないということも、サラセニアは「恋の憩い」という花言葉を持つ食虫植物だということも。
コネ入社だと知って私が陽斗さんと初めての喧嘩を繰り広げることも、確かに推薦はしたけれどちゃんと会社として良い人材だと判断したんだと言いながら会社を辞めるならこのまま結婚に持ち込んでやると陽斗さんが暴走することも、やけになった陽斗さんが私情ましましで私に告白してきた先輩のことをとてつもない僻地にとばそうとすることも、今の私には全然想像できていないのだった。