飛び降り自殺をしようとしていたクラスメイトを助けるお話
「————スペアの意味、新庄君は知ってる?」
下校時間などとうに過ぎた頃。
建物から漏れ出る人工の光が彩る夜の街を背景に、薄れ消えそうな斜陽が辛うじて見える午後7時過ぎの学校の屋上で、俺は一人の少女と話をしていた。
投げ掛けられる声音は平坦で、普段となんら変わらない。ただ、会話をするその場所だけが、尋常とは程遠かった。ただ、それだけ。
「……代用品?」
「そう。代用品。言ってしまえば私は、代用品なんだ。どこまで行っても、十六年前に死んだ漣春香という人間の代用品だった」
少しだけ、漣の声が震える。
屋上に設られた柵の向こう側で、飛び降り自殺を試みようとしていた彼女は、心なし泣いているようにも見えた。
偶然、課題の提出に随分と時間を取られ、漸く終わったと思って下校しようとする直前に見えた人影を追ってみれば、一人の女子生徒が飛び降り自殺を試みようとしていた。
だから、慌てて止めようと声を上げ、そして今に至る。
けれど、彼女の言葉の意味が全く分からなくて、困惑する。
ただでさえこの状況も満足に理解出来ていないのに、その上、己が十六年前に死んだ漣春香の代用品発言。
俺の目の前にいる彼女こそが、漣春香だろうに、彼女は一体何を言ってるのだろうか。
「私、里子なの。元の親は碌でなしだったみたいで、十六年前に今の両親に引き取られたらしいんだけど……漣春香という名前は、今の両親の本当の子供の名前。元は、十六年前に死んだ人の名前なんだ」
俺の知る漣春香は、容姿端麗、学業優秀、品行方正。そんな言葉を悉く体現した完璧超人。
勝手ながら、そんなイメージを抱いていた。
誰からも好かれて、誰からも頼られて。
平々凡々と生きている俺なんかとは別の世界の住人なんだと思ってた。
それはこれまでも、これからも。
だから、こうして漣が自殺をしようとする現場に居合わせる事になるなど、夢にも思わなかった。
「でも、私は引き取って貰った側だから。その事実を知っても、恩返しだって思うようにしてた。両親が喜ぶように、漣春香を演じ続けてきた。誰からも好かれる漣春香をね」
「自殺をする理由は、だからなのか」
「そ。もう、疲れたんだ。漣春香として生きる事に。自殺しようって決めたのは……一昨日くらいだったかな。私の生みの親が家を訪ねてきてね。私を返せって言い出して、凄い喧嘩になってたの。それが決定的だったかなあ」
疲れ切った様子で、漣は言葉を紡ぐ。
死人を思わせるような、生気の削がれた声音。
思わず顔を歪めてしまう程に、それはどうしようもなく痛々しいものであった。
「これでもさ、顔とか、スタイルとか? それなりに自信があってね。読者モデルって言うのかな? あーいうのにも出てたりしてたんだ」
そこらへんの女子が漣と同じ言葉を言ったならば、何言ってんだコイツ、とか思っただろうけれど、漣が言うとそんな感想すら抱かなかった。
寧ろ、お前なら当然だろうなと思う自分すらいる。そのくらい、漣は綺麗な女の子だった。
「でも、それを見て、生みの親が嗅ぎ付けてきたんだ。金になるから返せ。それが嫌なら金を寄越せ、ってね。元から碌でなしと聞いてたし、別に何の期待もしてなかったけど……あれは辛かったなぁ。本当に、しんどかった。だって、生みの親ですら私を私として見てくれてないんだもん」
————死にたくなるのも無理ないでしょ。
風に攫われるほど小さな声量で、同意を求められる。だけど、ここで頷いてしまえば漣を止める事は叶わなくなる。
だから、どれだけ感情を揺さぶられようとも、正論だろうとも、俺は首を横に振る事以外、選択肢は残されていなかった。
「生きてたって、苦しいだけだ。これが、永遠に続いてくだけだ。どうせ人はいつか死ぬのに、なんでわざわざたっぷり苦しんでから死ななきゃいけないの? ……そう思ったら、これが一番楽だって思えてね」
心身共に、もう限界であるのだと。
「ねえ、新庄君。私、間違ってるかな?」
自殺を止めようとして。
こんな時間帯に人がいると思わなかったと言われ、少しだけお話をしないかと言われ、そして俺は、諭すようなその言葉に、一層顔を歪める羽目になっていた。
でも、何かを言わなければ漣が消えてしまう気がして。取り返しのつかない事になってしまう気がして。
「間、違ってる。漣がそう考える事はきっと間違ってないと思うけど、でも、間違ってると思う」
頭の中はパニックだった。
自分でも何を言ってるのか分からない。
ただ、漣の気持ちが理解出来る事と、どうにかして否定しなきゃという気持ちが混在。
そして、矛盾の言葉が口から溢れる。
「……優しいんだね、新庄君は」
生暖かく感じる返事だった。
きっと、俺の考えは漣にはモロバレだったのだろう。
「でも、多分私が求めてるものは、この先頑張って生きてても多分手に入らないと思うんだ」
だから、ここで自殺してしまうのだと。
「どれだけ我慢しても、苦しんでも、きっと私は得られない。だって、私はただ、皆と同じが良かっただけだったから」
その一言は、鈍器で思い切り、頭を打ち付けられたかのような衝撃を俺にもたらした。
「普通に愛されて、普通に生きて、普通に……、普通、に」
次第に声が萎んでいく。
「……だから、ね。無理なんだよ。私には、無理なんだ。こうするしか、無いんだよ」
……俺は、勘違いをしていた。
漣春香って人間は、もっと完璧で、近寄り難くて、なんでも出来て、キラキラとした人生を歩んでいく選ばれた人間なんだと思っていた。
でも、今の俺の目の前にいる少女は、とてもじゃないがそんな人間には見えない。
それどころか、普通に苦しんで、普通に悩んで、普通に泣く。そんな、何処にでもいるありふれた少女だった。
そこで、俺自身も漣春香を見ようとしていなかった一人なのだと気付かされる。
「……悪い、漣」
その事実が、どうしようもなく申し訳なくて。
今、漣春香が苦しみ、自殺をしようとしている理由の一端に、俺もいるのだと気付かされては、謝らずにはいられなかった。
「なんで新庄君が謝るの?」
「俺も、漣春香を自分とは違う完璧な優等生としか見てなかった一人だったから」
「新庄君達には、そう見えるように行動してたんだもん。寧ろ、そう見えてくれてなかった方が問題だったよ」
そして、漣春香は俺に背を向けた。
両手で掴んでいた安全柵から、片手が離れる。
「漣!!」
自殺はよくないというありきたりな言葉では、漣の足は止められない。
それを分かった上で、俺は叫ぶ。
もう、目すら合わせてくれず、次の瞬間には飛び降りる事の出来る体勢を整える漣春香に俺は言葉を投げ掛ける。
「お前の考えは、正しいんだと思う。でも、目一杯苦しむだけ苦しんで、何一つ報われずに死ぬ必要はないだろ」
「……でも、これから先を生きていても苦しい事は確実にやって来るのに、報われるかどうかは分からない。もしかすると、この先ずっと報われないまま苦しい思いだけする事になるかもしれないんだよ?」
だったら今、死んだ方がずっとマシでしょ?
そう口にされた事で、漣の決意は強固なものであると再確認させられる。
「……ッ、だっ、たら、俺がその考えを覆してやる」
勢いに任せて、言葉を並べる。
時間は残されていない。
だから、出来る限り、漣の足を止められるように。
「覆す、から……だから、なぁ漣。俺に時間をくれよ」
「…………」
漣は、依然として俺に背を向けたままで返事はない。
「一週間でもいいから、俺に時間をくれ。お前、塾だったり、仕事だったり、学校のボランティアだったり、そんな事ばっかしてるから、知らないんだよ」
同じクラスメイト。
席も、それなりに近い。
何より漣は俺にとって有名人だった。
だから、彼女の存在というものは嫌でも目についた。
偶に、漣が塾に行くところを見かけて。
学校では、優等生らしくボランティアや手伝いに勤しんで、そしてきっと休日も読者モデルとかいう仕事をしていたんだろう。
その事は、学校に通う中で時折、彼女の姿を見掛けていたからよく知ってる。
というより、クラスの連中もこの日、漣を見ただなんだと話題にするから嫌でも覚えてる。
「死ぬにはまだ勿体ないって思えるくらい、この世界には面白いことが転がってる。漣がただ知らないだけだ。だから、このまま死んだら後悔する事になるぞ」
こんな時、もっと引き留める事に使える言葉が浮かんでくれれば良かったのに、生憎と俺の頭の出来はそこまで良くない。
でも、良くないからこそ、こうして居残りをする羽目となり、漣を止められる唯一の存在にこうしてなれているのだから案外、運は悪くなかったのかもしれない。
「何より、少なくとも俺は、この瞬間から、漣春香を漣春香として見る気は微塵もない」
優等生としての。
みんなの憧れる漣春香として彼女を見る気はない。というより、もう見れないだろう。
俺達とは違うから。
そんな理由で、距離を取る事はしない。
何なら、俺に出来る事があるならこれから助けるから————。
そう、言おうとしたところで
「変な人」
小さく笑われた。
「新庄君って、変な人だね」
同じ言葉を繰り返される。
「私達は、恋人でも、家族でも、付き合いの長い友人でもないのに。これまで学校で話した回数だって、ほんの少しなのに」
「そうだな」
「なのに、こうして必死に止めようとしてる。もしかして、私に惚れてた?」
何故か、少しだけ嬉しそうに漣はこんな状態にもかかわらず揶揄ってくる。
「……かもな」
「それは嘘」
気恥ずかしくはあったけど、それで漣が飛び降りる事をやめてくれるなら。
そんな事を思って言葉を返したのに、即座に嘘であると断じられてしまう。
「新庄君が私のこと、客寄せパンダくらいの感覚で見てた事は知ってるよ。そこに、恋愛感情が一切なかった事も」
……分かってて聞きやがったな、こいつ。
「でも、優しい嘘だから今回は許したげる」
そして、先程の嘘が漣を止める為のものと見透かした上で、また笑う。
「ねえ、新庄君」
「……なに」
「私ってさ、新庄君の目から見て、そんなに哀れだったかな? 可哀想だったかな? 同情したくなるような人だったかな?」
返事に困る問い掛けだった。
飛び降りようとしている己は、俺の目に哀れに映ったかと。
哀れで、可哀想で、同情すべき対象故の、その発言なのかと。
……でも、変に取り繕ってもまたバレる。
そんな予感があったからか、後は野となれ山となれ、などと思いながら俺は本心を口にする。
「ばかだと思った」
「ばか?」
「模試で常に一位を取る漣春香が、常に下の方にいる俺の目に、初めてばかに映った。たぶん、それが理由だと思う」
たぶんそれが、漣の自殺をこうして俺が止めようとしている理由の一つであると思った。
学力では天の地の差があるのに、それでも俺の目に漣がばかに映った。
「そんなに頭が良くて、俺にないものをお前は沢山持ってる。人望だってある。教師から常に呆れられてる俺とは違って教師からの信頼もある」
卑下し過ぎな気もするが、俺と漣との間にはそのくらいの差がある。
寧ろ、これでも控えめな気すらするあたり、やはり漣はハイスペック過ぎる。
「なのに、誰一人にも頼ろうとしなくて、最後まで優等生としての漣春香として終わらせようとしてるお前が、ばかだと思って……だったら、なら、俺が手を差し伸べたいと思った。意地っ張りな漣春香を、俺が助けたいと思った」
きっと、屋上にやって来た当初であれば、こんな感情を抱いてはいなかった。
漣の話を聞いたから、そう思うようになった。
「……あーあ。最後だから全部ぶちまけちゃえって思って、ちょっと話し過ぎちゃったかな」
後悔しているような、でもそれでいてどこか嬉しそうな。
うまく判別のつかない声音。
「でもね、無理なんだよ」
「何が無理なんだよ」
「私は漣春香だから、完璧でいなくちゃいけない。両親の理想でいなくちゃいけない。だから、頼る頼らないの選択肢はないの。私は、誰にも頼れないんだよ」
どれだけ頭が良かろうとも。
どれだけ己にとっての最善の選択を模索しようとも、漣に許されている選択肢は、ひとつだけ。
「それに、好き勝手に生きようにも、そうした瞬間に、誰かから拒絶されるのが私は怖いの」
家族や、周囲の人間に拒絶されるのが怖いと。
漣春香自身、漣春香としてではなく、自分自身を見て欲しいと思いつつも、見てくれた瞬間に全て瓦解し、拒絶されるのが怖いのだと彼女は言う。
十六年もの間、彼女が貫いてきた生き方を今更になって変える事は、恐らく難しい。
どうせ死ぬならと割り切ってどうにかなる程、簡単な問題ではなかったのだと思い知らされる。
「分かってくれた? だから、私は————」
「でもそれは、ついさっきまでの話だろ」
頼る人間がいなかったのは。
拒絶に怯えて、一人で抱えるしか出来なかったのは、ついさっきまでの話である筈だ。
「俺は、お前が話してくれたから、他の人よりも漣の事を知ってる。聞いたからといって拒絶をする気はないし、ましてや言いふらす気だってない」
選ばれた人間。
勝手にそう思っていた漣春香も、俺より少しだけ容姿がよくて、頭が良い。
それだけの何も変わらない人間だ。
「漣の力になれるかは分からないけど、頼る人がいないんなら、俺を頼れよ。もう漣が自分でゲロったんだから、俺には隠しても意味ないだろ」
教師が学校を後にしようとする直前まで、課題の提出に時間を掛けていた俺が力になれる気は正直なところ、あまりない。
だから、
「勉強とか、そういったもので力になれる気はしないけど、悩みくらいなら聞くから。俺でよければ、漣の力になるから」
だから。だから。
「頼る人がいないんなら、俺を頼れよ。それじゃダメなのかよ、漣」
「……。そういう、事、今言うの、やめてくれないかなあ。なんか……その、慣れないからさ、泣きたくなるじゃん」
「いいんじゃねえの。誰もいない今ならさ。普段だったら、漣を泣かせたって言われて俺が袋叩きに合うだろうから勘弁して欲しいけど」
「あ、ははっ、たしかに、そうかも」
鼻を啜りながら、漣が泣き笑う。
「話なら、気が済むまでまだまだちゃんと聞くから。だから、危ないからひとまずこっちに来いよ」
せめて、安全柵のところまでは来て欲しくて。
そういうと、考えを改めてくれたのか。
安全柵をくぐり、安全な場所まで移動をしてくれる。
次いで、ぽすんと腰を下ろす。
そして、十数秒ほどの沈黙を経たのち、漣が口を開いた。
「……あーあ、私ってば、意気地なしだなあ」
後一歩。
本当に、すぐそこまで来てた筈なのに。
そんな呟きが、聞こえてくる。
「……縁起でもない事を言うなよ」
一応、漣はそう言うって事は止められたと思って良いのだろうか。
「そう、なんだけどね。死ぬって決めた筈なのに、こうしてまだ生きてる。だから、そう思わずにはいられなくて」
力なく笑う漣の横顔は、夜の闇の中にあって尚、どうしようもなく儚く見えて。
俺は制服のポケットに手を突っ込んで、スマートフォンを漣に差し出すように取り出す。
「……? どしたの?」
「連絡先。漣の連絡先を教えてくれ。何かあれば電話してくれればいいから。話なら、電話ででもちゃんと聞くから」
目を離したら、また自殺するんじゃないのか。
そんな予感が頭の中を過ったせいか。
女子に連絡先を聞く事に対する気恥ずかしさなど置いてきぼりに、そう尋ねる事が出来ていた。
その対応に、一瞬ばかり漣が硬直していたものの、彼女もポケットに収めていたスマートフォンを取り出し、画面を開く。
そして十数秒ほどのやり取りを経て、漣の連絡先が追加される。
「……ありがとね」
「礼を言うなら、もうあんな真似はしないでくれ。冗談抜きで、心臓が飛び出るかと思った」
そうは言ってみたものの、漣の口から「もうしない」の言葉は出てこなくて。
はぁ、と溜息を吐きたくなった。
そしてその日は、不安を感じながらも、もう学校が閉まるからという事で校門の前まで一緒に歩き、それで別れる事になった。
†
漣と連絡先を交換したスマートフォンはその日、呼び出し音が鳴ることもなく、どこか不安を感じながらも次の日、俺は馬鹿みたいに朝早くから登校をした。
家にいても、漣の事が気になって宿題に手がつかず、ならばとさっさと学校に登校してそこでやってしまった方がまだマシだ。
そんな魂胆だったのだが、
「おはよ、新庄君」
「……おはよ、漣」
悩みの種であった漣春香は、優等生らしく早々と登校していた。
その事実に安堵すると同時、これで漸く宿題に手がつけられそうという安心感が湧き上がる。
「宿題?」
「……昨日はそれどころじゃなかったんだ」
答え写しをするならば何とかなっただろうが、集中力を要する宿題であったが為に、全く手が進まなかった。
そんな俺の言葉を聞いた漣は何を思ってか、小さく笑う。
「それじゃ、一緒に宿題しない? 私もあの後、宿題する気になれなくて学校でやってたんだ。分からないところとかあったら、私が教えるから。ね? ね?」
そう言って、良いとも悪いとも言ってないのに隣の席だった漣は机をくっ付け、教科書を開く。
所々にある書き込みに、字が綺麗だなと思いつつも、あまり時間に余裕があるわけでもないので鞄から俺も教科書を取り出した。
「……昨日は、ごめんね。色々と、その、迷惑掛けちゃって」
「昨日散々謝ってただろ。それはもう、終わった話だ。これからは、ああいう事しようとする前に、誰かに相談してくれればそれでいい」
カリカリ。
漣と俺の二人以外誰もいない早朝の教室の中で、シャーペンを走らせる音だけが響く。
「うん。じゃあ、そうさせて貰う」
そして、会話が終わり、場に沈黙が降りる。
「……何も、聞かないんだ?」
「聞いて欲しいならいくらでも聞くし、力にだってなる。でも、それと人の事情を無闇矢鱈に詮索する事は違うだろ。だから、聞かないだけ」
「そっ、か」
言いたい事や、言いたくない事の一つや二つ、誰にでもある。
特に漣の場合、無理に聞き出すべき内容ではない。誰かに聞いて欲しいと思った時に、聞いてあげる。それが一番良いと思った。
「ねえ、新庄君」
「ん?」
「今日の放課後って、暇?」
俺は漣のように習い事をしている訳でもなかったので、特にこれといって用事はなかった。
「どうかした?」
「新庄君が良ければなんだけど……放課後にさ、二人でデートしない?」
「…………は?」
†
つい昨日、自殺しようと試みていた奴にデートに誘われるとは夢にも思っていなかった。
それが、俺のまごう事なき本音である。
そして、加えて言うならば、
「んーー! おいしっ」
ソフトクリームを買い食いをしながら、幸せそうな表情を浮かべる漣を前に、昨日のあの出来事は実は夢だったんじゃないかと思う自分すらいた。
ただ、あの漣春香と一緒に放課後デートをする事になるなど、余程のことがない限りあり得ない。つまり、昨日のあれは現実であったのだとすぐ様、再確認をする。
「誰かと一緒に食べ歩くなんてした事が無かったから色々新鮮だなあ」
そして更に一つ言わせて貰えるならば、これはデートというよりただの食べ歩きであった。
同じベンチに腰掛けながら、ソフトクリームを頬張る漣を横目に、俺も同じく頬張りながら咀嚼をする。
「……ないのか? 一度も?」
「ないよ。遊びだって殆ど誘われた事ないかなあ。責めるわけじゃないけど、みーんな私に対しては昨日の新庄君と同じ反応してたから」
「……成る程」
「でも、それで良かったって思ってる私もいる」
「なんで?」
「だって、みんなが見てるテレビとか、そんな話題についていけないし、門限は厳しいし、色々と制限ばっかりでその場の空気をぶち壊しにする自信しかなかったから、かな」
寂しそうに、漣は言う。
「そんな事ない」
本当はそう言ってやりたかったのに、漣の言葉の通りの展開が脳裏で鮮明に再現されてしまったが故にその言葉を紡ぐ事は出来なかった。
だけど、
————私はただ、皆と同じが良かっただけだったから。
不意に、漣と交わした昨日の会話が思い起こされる。
そして、その事実を知っているのは俺だけだ。
だったらせめて、俺くらいは、漣を普通のただの同級生扱いすべきなのだろう。
否、しなくちゃいけない。
あの時言い放った言葉に俺は、責任を持つ必要があるから。
「ちなみに、門限って何時?」
「一応、十八時」
ポケットに突っ込んでいたスマホの画面を確認。現時刻は既に十七時を回りかけていた。
確かに、放課後を遊ぶどころか、休みの土日ですらその門限だと色々と不便だろう。
……ただ。
「なら、適当に言い訳考えるか。漣っぽくいくなら……学校で友達と自習するから少し遅れるとか?」
「んー。確かに、それならいけなくもない、かも? でも伸ばせて十九時過ぎが限度かも」
「後二時間ある。そんだけあれば十分だろ」
そして、気付けばコーンの部分だけになっていたソフトクリームを口の中に放り込む。
「何かするの?」
「何かするのって、お前が誘ったんだろ。時間があるなら二人でデートしよって。折角の役得だし、もう少し付き合えよ、漣」
†
「へええ。祭りなんてやってたんだ」
電車で数駅ほど移動した先。
大通りに展開された出店の行列を前に、側で漣が感嘆の声を上げた。
「でも、よく今日、祭りをやってるって知ってたね」
「昔はよく来てたんだ。だから、そういえばと思ってな」
デートといえば、映画とか、水族館とか。
そんな事を思い浮かべてしまうが、生憎、そんなものを楽しむ時間はなかった。
かと言ってショッピングもピンと来ない。
そう思ったところで、偶然思い浮かんだのがこの神城神社と呼ばれる神社の側で定期的に行われている中規模の祭りだった。
「祭りは初めて?」
「流石にそのくらいは経験あるよ。でも、学校帰りに祭りは初めて」
それもそうかと、顔を見合わせて笑い合う。
まだ十七時過ぎという事もあってか。
準備中の屋台も多かったが、そんな事は関係ないと言わんばかりに漣は軽快な足取りで先を行く。
そして、漣の足はとある屋台の前でぴたりと止まる。
暖簾には『かき氷』の三文字。
また、アイスかよ。と思いながらも、口パクで「食べよ」と言ってくる漣の言葉に、俺は少しだけ呆れながらも頷いた。
かき氷の後は、わたあめ。そして、射的に金魚掬いなどと俺は、漣と一緒に昔に戻ったかのように時間も忘れて祭りを楽しむ事早一時間。
十八時を既に回っており、流石にそろそろ帰らなくちゃなと思ったあたりで空から弾けるような火薬音と共に色鮮やかな花火が上がった。
「あー、楽しかった!!」
んーっ、と伸びをしながら漣が言う。
見せる笑顔は、到底、飛び降り自殺をしようとした人には見えなかった。
見えなかったけれど、漣は言っていた。
己が、漣春香という完璧な人間を演じているのだと。だから、笑顔を見せて楽しかったと言ってくれてるのに一抹の不安を感じずにはいられなくて。
「楽しかったんなら、そりゃ良かったよ」
「……その顔。もしかして、新庄君、色々と疑ってる?」
昨日のように、また、見透かされる。
「楽しかったのは本当だよ。一切取り繕ってない。誰かとこうして一緒に遊ぶ事も、憧れてはいたけど、こんなに楽しいものとは思っても見なかった。ありがとうね、新庄君」
「なぁ、漣」
「どうかした?」
「それじゃあ、次、遊ぶ日も決めようぜ。んで、その次も。で、その次あたりにぜひとも、俺の勉強を手伝ってくれ」
どうにかして漣との繋がりを作っておかなくては、胸の中で渦巻く不安がどうしても拭えなくて、気づいた時には俺はそんな事を口走っていた。
漣に自殺をして欲しくない。
それは本当だ。
クラスメイトでもあるし、こうして奇縁ではあったが、それなりに話す仲にもなれた。
これからも、こうして遊べたらいいとも思う。
偏見で、俺達とは違うとか思っていたが、なんて事はない。アイスが好きで、楽しい事に飢えていて、はしゃぎたいただの女の子だった。
そんでもって、浮かべる無邪気な笑顔が馬鹿みたいに可愛い女の子。
漣は俺達と全く変わらない。
本当に、皆と同じような存在だ。
「お。勉強かあ。いいね。私も新庄君には恩を返さなくちゃって思ってたところなんだ」
全国模試一位の秀才である。
下手に家庭教師や塾に行くよりも間違いなく漣に教えて貰った方がいい。
だから、そこは素直にラッキーと思う。
「……ただ、鬱陶しくなったら、その時は遠慮なく言ってくれよ」
その時が、きっと俺のお役御免の日。
俺はただ、漣の助けになりたいだけ————。
そう言おうとしたところで、思い止まる。
そして、くしゃりと髪に手を乗せ、掻きまぜる。
……俺って、こんなに単純な奴だったっけか。
漣に死んで欲しくないという思いに変わりはない。ただ、死んで欲しくないからという理由よりも、単純に、漣の助けになりたいから、に理由がいつの間にか置き換わりつつある事を自覚して、苦笑いを浮かべる。
たった二日話した程度で惹かれてるとか、単純過ぎないかと心の中で自責をした。
「……それは、私のセリフなんだけどね」
打ち上がり続ける花火の音に紛れて、消え入ってしまいそうな小さい声だった。
「新庄君はさ、無理してない?」
「俺は初めに言ったろ。役得だって」
「客寄せパンダ程度にしか思ってなかった人に言われてもねえ?」
苦笑い。
「でも、確かに新庄君の言う通り、楽しい事は沢山転がってたかも。親に嘘ついて、こうして祭りで遊ぶのも物凄く楽しかった」
「不良だな」
「……嘘つけば良いって言い出したの、新庄君だって事もしかして忘れてる?」
「言い方の問題だよ。さっきのだと、親に嘘つく事まで含めてワンセットみたいなもんだっただろ」
「あー……それは、まぁ、その、うん。これまでそうまでして遊びたい理由もなかったから、本当に初めてで、スリルがあったというか、なんというか」
————やっぱり、不良だな。
そう言うと、漣からめちゃくちゃ睨まれた。
でも、可愛げのある小動物に睨まれた気しかしなくて、つい、微笑ましいものを見るような笑みを浮かべてしまう。
「兎に角、私は不良じゃないから。分かった? アンダスタン?」
「……分かった。分かったから耳元で叫ぶな、漣」
「うん。よろしい」
納得してくれたのか。
耳元で口を尖らせていた漣の距離が離れていく。
「あ」
「ん?」
「そういえば、名前。こうして一緒に遊んだりもするのに、苗字じゃなんか他人行儀だし、私の事ははるかでいいよ」
「……いや、それは」
なんとなく、下の名前を呼ぶ事には少しばかりの抵抗があった。
でも、漣はそんな抵抗は知らんと言わんばかりに、ほら早くと急き立ててくる。
「呼ばないと勉強に付き合ったげないよ」
「……それはせこくないか」
「女の子が名前で呼べって言ってるのに、名前を呼ばない新庄君が悪いと思うんだ」
理不尽過ぎる。
そう思わずにはいられない。
「……なら、その代わりに漣も俺の事は下の名前で呼べよ?」
つい先程、新庄君と俺の事を言っていたあたり、漣もそれなりの羞恥心があるのではないか。
そう思っての一言だったのだが、
「それは勿論。そうじゃないと不公平だしね。ちゃんと、新庄君の事は優希君って呼ぶよ」
さらりと言い放つ。
そこに、想定していた羞恥心の欠片すらも存在しておらず、胸の中でなんとも言えぬ敗北感だけがじわりと滲むように広がった。
ついでに、そのお陰で下の名前を呼ぶ事に抵抗を覚えてる事が馬鹿らしく思え、大人しく観念して呼んでしまう事にする。
「春香、でいいか」
「違う。春香じゃなくて、はるか」
「……何が違うんだよそれ」
漣は違うと言うけれど、俺からすると何が違うのかよく分からなかった。
「私が里子だって話は前にしたよね」
「ああ、それは聞いた」
「私が漣の家に引き取られた理由が、名前が『はるか』だったかららしいの。元々は平仮名で『はるか』。引き取られてから、『春香』って呼ばれるようになったの」
だから、『春香』じゃなくて『はるか』と呼んで欲しいと言葉が続けられる。
イントネーションの違いなのだろうが、いかんせん、分かりにくい。
「……分かりづらいとは思うけど、あえて言葉に変えるなら、『春香』よりも柔らかい、感じかな」
「ん……、はる、か?」
「そうそう! そんな感じ! ……ややこしいだろうけど、優希君にはそう呼んでもらいたくて。ロクでもない親から貰った名前だけど、これが私の名前だから。だから、あの状況で漣春香としてではなく、ただの一人の人間として見てくれた優希君には『はるか』って呼んでもらいたいんだ」
漣の身の上話はあの屋上で、聞いた。
だから、春香でなく、はるかにこだわる理由も何となく分かる気がした。
ただ、付け加えられた最後の一言は、いまいちよく分からなかった。
「優希君は自覚ないかもしれないけど、これでもあの時、私は結構救われたんだよ。自殺してやるって、決めてた決意が揺らいじゃうくらいにはね」
……抱いた感想が顔に出てたのか。
そう言われる。
視界に映る漣————はるかの横顔は、嬉しそうに微笑んでいた。
「たぶん私は、仲間外れが嫌だったんだろうね。そうなる道を自分で選んでた癖に、私自身は『特別』扱いをして欲しくはなかった。だから、今がどうしようもなく、嬉しくて、楽しくて仕方がない」
香り立つような幸福を振りまきながら、安寧の表情を一度。そして、苦笑い。
————自分の事ながら、面倒臭い女だ。
はるかは、そう口にする。
拾って貰ったという後ろめたさが、漣春香という完璧な人間を演じなくてはいけないという使命感を増幅させている。
しかしながら、当の本人は、己を己として見てほしいと切に願っており、叶うならば普通に過ごしたかったと思っている。
同居する二つの思いが彼女を苦しめていたのだと、口から溢れでる言葉から理解する。
「矛盾って言うのかな。本当に、優希君の言う通りだった」
「俺の?」
「うん。私は……ばかだった」
あの時は確かに、俺ははるかに向けてばかだと言った。でも、彼女の事を知れば知るほど、その雁字搦めに絡みつくしがらみを前に、ばかだとは言えなくなってしまっていた。
なにせ、そんなばかに俺は心あたりがあったから。去年までの俺こそが、ちょうどそんなばかだったから。
だから、そんな事は無かったと訂正しようとして。
「ねえ、優希君。一つ、聞いてい?」
訂正するより先に、はるかの言葉が続いた。
「……なに」
「どうして優希君は、そんなにも私を分かってくれようとするの? 助けてくれようとするの? どうしてそんなにも、優しくしてくれるの?」
これがきっと、単純に漣春香好いている。
という理由だったならば、きっと「今」は無かったのかも知れない。
そうだったならば、あの時既に、漣春香は屋上から飛び降りていただろう。
だが、新庄優希が漣春香を助けた理由はそうで無かった。
言ってしまえば同情に近かった。
それも、漣春香を哀れむ同情ではなく、同類を見るような、そんな同情。
だから聞きたかったのだろう。
どうして? と、そう一言。
「……そういや、不公平だったよな」
「不公平?」
「ああ。はるかの過去だけ聞いておいて、俺の過去を話していないのは、何というか不公平だったよな」
哀れか?
可哀想か?
同情したくなるような人間か?
かつて屋上ではるかからそう問い掛けられた時、俺はばかだと言った。
あの時はそれ以外の言葉はあえて省いたが、ちゃんと言うならば、「去年の俺みたいで、ばかだと思った」これが、本来の回答だった。
「俺の家、母子家庭なんだ」
バン、バン、と闇に染まった空へと、弾ける音を轟かせていた花火が漸く止む。
「父親がちょっとした碌でなしでな。今は、病気患ってる母親と、妹と、俺の三人家族。はるかは、俺の成績が悪い事知ってるよな?」
「うん。それは知ってるよ」
「それ、一年の時、俺が出席日数ギリギリしか登校してなかったのが原因なんだ」
全てが自分のせい。
そこに言い訳をしたいわけではない。
瞳の奥に、不安の感情を湛えながら俺を見詰めてくるはるかに、事実を事実として言うだけ。
ただ、それだけ。
「妹は俺より年下で、母親は病気。だから、俺が何とかしなきゃって思った。そのせいで、なんて言うんだろ。前が見えてなかったってやつなのか。どうにかして家族を支えてやるって気持ちしかなかった。当たり前の生活を手放してたって意味では俺とはるかは似てたのかもな」
少しだけ。
ほんの少しだけ境遇が似ていた。
はるかの事を分かろうと、助けようと、優しくしようとする理由をあえて答えるなら多分それが理由になると思う。
同病相憐れむに、きっと近い。
「借金があるわけではなかったけど、金にそこまで余裕がなかったのは本当。だから、俺はバイトに明け暮れてたんだけど……ある日、母親からぶん殴られた」
「どうして」
「理由は沢山ある。無断で学校をサボってた事。んで、その空いた時間にバイトしてた事。それで稼いだ金を勝手に家の生活費の中に入れてた事。子供なのに、親に気を遣ってた事。たぶん、探せばまだあると思うけど、そりゃもう、一日中怒られた」
「うん。そりゃそうだと思うよ」
はるかにも、笑われる。
「結局、その日にバイト先に辞める電話をさせられ、学校も教師がうちにきて三者面談。預金通帳を覗かれてバイト代も全部俺に返された。んで、最後に泣かれた。頼りない親だって自覚はあるけど、相談の一つくらいして欲しかったって、泣かれたんだ」
「良いお母さんだね」
「……あぁ、そうだな」
そして、俺は空を見上げる。
花火が消え、真っ黒に染まった空。
はるかと目を合わせながらこれを言うのは何故か、気恥ずかしいような気がして、俺は視線を上に向けていた。
「なんとなく、漣春香は俺に似てる気がした。自分勝手に、自分一人で抱え込んでいるとこが」
それが真に正しいのだと考えるあたりが特に。
「だから、放っておけなかったのかもしれない。だから、助けたいのかもしれない。節介を焼こうとする理由は、たぶん、それ」
俺の時は、母親だった。
でも、漣春香の苦しみを理解している人間は、どこにもいない。この世界に、どこにも。
ただ一人、俺を除いて、どこにも。
「かつての俺が、そうだったように。だから、助けたいと思った。何より、これは約束でもある」
「約束?」
「母親から昔から言われててな。交わした約束だけは、死んでも破るなって。あの時屋上で、色々と言っただろ? 約束を色々」
だから。
「だから、あの時死ななくて良かったってはるかが思えるように、俺なりに節介を焼かせてもらうさ」
なにせ、それが約束だから。
「だから、俺に出来る事があれば言ってくれよ。したい事、やりたい事、俺に出来る範囲で、叶えてやるから」
少なくとも、完全無欠の漣春香として振る舞わなくて済む人間が俺一人の間は。
「……ねえ、優希君」
「ん?」
「手、握ってい?」
「……別にいいけど」
「ありがと」
右の手に、人肌の温もりが生まれる。
肩に寄りかかるように手を握るものだから、少しばかり歩き辛くあった。
そして何故か、程なく右の手に温かい雨粒のようなものが落ちてくる感触に見舞われた。
「……あの時、私を止めてくれたのが優希君で良かった」
呟くように漏れる一言。
その言葉に、「どういたしまして」と返すのは流石に烏滸がましいような、気恥ずかしいような気がして。
「……次遊ぶ時は、はるかが場所決めろよ。交代交代だからな」
「……分かった。考えとく」
その日は何故か、場に降りる沈黙が。
静かな時間が無性に心地良かった。
†
「なあ、新庄。お前、漣さんとめちゃくちゃ仲良いよな」
「ん?」
漣春香と屋上で出会ったあの日から一ヶ月。
あれから俺は、時間があればはるかと遊んだり、勉強を教えて貰ったりと一緒にいる時間が明らかに増えていた。
そしてそれは、クラスメイトの目から見ても一目瞭然な程に。
「付き合ってんの? 新庄と漣さんって」
昨日、徹夜で予習をしていたせいで机に突っ伏していた俺の頭の中は靄がかったようにボヤけていた。そのせいで、即座にちげーよと否定するのが遅れてしまう。
そして。
「優希君」
そんな俺の側で、そっと身を乗り出す少女の微笑が近くに寄った。
同時、鼻腔をくすぐり、香る甘い匂いは漣春香のものだとすぐに理解する。
「ご飯、食べに行こう?」
「ん、あ、もうそんな時間か」
授業を聞いて、合間の十分休憩の時に机に突っ伏して。
その繰り返しをしていたせいで、時間感覚が曖昧になっていた。
こうしてはるかにご飯の誘いを受けるまで、昼食まであと一時限あると思っていた程。
「悪い、ちょっと混む前に飯食ってくるわ。話はその後って事で」
「……あいよ」
食堂が本格的に混む前に。
そう思い、話し掛けてくれていた男子生徒——蒼井翔に謝りながら、俺ははるかと共に教室を後にする。
「……やっぱあの二人、付き合ってるな」
もちろん、確信に満ち満ちた翔のその呟きには、聞こえないふりをする事にした。
「勘違いされても俺はしらねーぞ」
食堂のおすすめメニュー「たらこうどん」を食べながら、向かいに座ってラーメンを食べるはるかに告げる。
勘違いとは、先程の翔の言葉。
食堂で並んでる際には周りに人が多くいたから言いはしなかったが、今は周りに殆ど人はいない。
だから今、こうして聞く事にしていた。
「別にいいよ。私は」
ただ、返ってきたのは斜め上を行く回答。
ああして強制的に会話を終わらせるのではなく、友達って言えば良かっただろうに。
そう思っていた俺の予想から大きく逸脱したものであった。
「それとも、優希君は嫌だった? 私と、その、恋人に見られる事って」
固まってしまう。
そして、はるかの瞳を見詰め、不安が渦を巻くその視線を前に、揶揄う為の冗談とは少し違うのだと理解する。
ここで、馬鹿な事を言うなと会話を終わらせる事は簡単だ。そして逆に、ここで首を横に振って「嬉しい」とさえ言えば、目の前の少女の嬉しむ顔を見る事が出来るだろう。
でもだからこそ、すぐに答えられなかった。
「……俺は、お前を助けたかった。そこに嘘偽りはない。今でも、力になりたいと思ってる。それは本当だ」
漣春香を助けたいと、切に願っている。
「恩なら、感じる必要はない。勉強を教えてくれてるあれで、十分過ぎるくらい俺も恩を受けてる」
明確な返事を避けて、建前のようなものをぽつぽつと並べ立てる俺に、はるかは「嗚呼、そっか」って、苦笑いをする。
そして、
「違う。それは、違うよ優希君」
幸せそうな表情を浮かべて、「違う」と連呼した。
「私はただ、そういう貴方だから、恋人に見られて嬉しかった。私を真正面から見て、心配して、幸せを願ってくれてる優希君だから」
次いで「それにね」って言葉が続けられる。
「もし、本当に恩返しとか、そんな事を考えてる人がこんな顔を見せると思う?」
心臓の脈動が早くなってしまう程、幸せに彩られた笑みを見せられて、かろうじて浮んでいた筈の次なる言い訳も霧散し、頭の中が真っ白になる。
そして、逃避するように漣春香から目を逸らした直後————嫌がらせのように、この一ヶ月で生まれてしまった本心が俺を見ろとばかりに浮上する。
ちくりと心が痛んだ。
言葉に変えてしまえば簡単だ。
俺は、漣春香が好きなのだろう。
その兆候は、たぶん二日目くらいにあった。
それで、一緒に遊んで、勉強を教えて貰って。
お返しの、お返し。そのまたお返しの、お返し。それの永遠ループをしてるうちに、殆どずっと一緒に行動するようになっていて。
漣春香という人間の心ってやつを見せつけられて。綺麗な笑顔をずっと隣で見てきて。
気がついた時には、もう手遅れだった。
だから、奥底にしまって見ないようにしてきた。だって、ここで俺がその感情を吐露してしまえばあの時、助けたことを盾にしているみたいで自分が許せなかった。
何より、漣春香と俺はつり合わない。
そして、今のこの関係がどうしようもなく心地が良かった。だから、言葉に変えるわけにはいかなかった。
贅沢は言わない。
だからせめて、友達として漣春香の隣にいられたら、俺はそれで。
そう、思っていたのに。
「私は、好きだよ。そういう優希君だから、好きになっちゃったんだと思う」
そんな告白まがいの事を言われたが最後。
必死に押さえつけて堰き止めてきた感情が、溢れ出して止まらなくなっていた。
「だから、欲しくて仕方がなくなっちゃったんだと思う」
————何が。
問いかけるより先に、長い睫毛に縁取られた瞳が俺のすぐ目の前にまでやって来る。
潤んだ黒曜石のような瞳は、変わらず不安を湛えていて。
「優希君に、ずっと私の側にいて欲しいと思っちゃったんだと思う」
そうやって、ちゃんと私の事を見て、考えて、優しくしてくれる人と一緒にいたいって。
か細い呟きを聞いているうちに、後数センチで睫毛がぶつかる程の距離になっていた。
「私じゃ、だめかな?」
きっと、まだあの時の屋上での出来事から日が経ってないから。
だから、だから————。
そんな下らない言い訳が浮かんできて、でも、そんな言い訳はこの場に相応しくないと切り捨てる。
たとえ卑怯に見られようとも、この場では素直にならなきゃいけないと思った。
こうして、漣春香が勇気を振り絞って伝えてくれたのに、俺だけ逃げるなんて事をするのはフェアじゃない。
「……だめじゃない。だめじゃないけど、」
「つり合わない、とか言ったら流石に怒るよ」
言い淀んでいた俺に、はるかが怒る。
「あの時の恩を、私が感じてるからとか言っても怒る。優しくされる事に弱い自覚はあるけど、でもそれだけでこんな事を私が言うと思う?」
この一ヶ月、漣春香をずっと見てきた俺の目から見て、本当にそう思うのかと問い掛けられる。
そして、嫌なものは嫌と拒み、楽しい事は人一倍楽しんで、映画に行ったらめちゃくちゃ隣で泣いて、遊園地に行こうとか急に言い出す。
そこらへんの子供よりも余程楽しんでいた姿を脳裏に思い浮かべながら、俺は首を横に振った。
「それに、好きでもないのに、こうしてずっと一緒にいようとは思わないよ」
それが決定打だった。
「……でも、ずるいだろ。俺がはるかが好きなのは事実だけど、あの時の事を盾にするみたいだろ」
「……勘違いしてるみたいだけど、たぶん、あの時あの場にきたのが優希君じゃなかったら、きっと私はこの世界の何処にもいなかったと思うよ」
だから、盾にしてよ。
ずるいとか思わないで、卑怯とか思わないで、それを盾にしてくれたら良かったのに。
そしたら私、二つ返事で「うん」って頷いたのに。
呆れると共に、瞳で訴えかけてくる。
「だから、そんなことで悩む必要なんて何処にもなかったのに。でも、そうやって私の為にって悩んでくれてるのも、実は嬉しかった」
必死に隠そうとしていた感情は既にバレてしまっている。そして、その感情も、動機も、全てが嬉しいと花咲いたような笑みで肯定されて。
堪らず手で顔を隠したくなる。
「————好き」
ロマンチックとは程遠い場所で、はるかは言う。
もう一秒足りとも待てないと言うように。
「好きだよ、優希君」
耳に入ってくるその声が、友愛よりも重く深いものだと伝えてくる。
そして、それを再認識させられて、
「俺も……、俺も、はるかの事が好きだ」
「……そっ、か」
安堵の笑顔が俺の瞳に映される。
ただでさえ近かった距離が、更に詰められて。
やがて、おでこに軽い衝撃が走る。
熱を測る時のように、おでこ同士がくっついていた。
「本当はキスでもしたかったけど、お昼ご飯食べたばっかりだったから、今はこれで勘弁して」
顔を見合わせたまま、苦笑い。
程なく、縮まっていた距離が開いてゆく。
少しだけ、物寂しくあった。
きっと、だから————。
「なあ、はるか」
「どしたの?」
「今日の放課後、デートしよう」
早朝に、二人で机をくっ付けて宿題をしたあの日のように。
ただ、今回ははるかでなく、俺が彼女をデートに誘う。
その誘いにはるかは、あの日の俺のように頷いてくれて。
「勉強はいいの? 今日、勉強の日だったと思うけど」
「明日、倍頑張るからいい」
「そっかそっか」
そう言うと、面白おかしそうに笑われた。
でも、ダメだと言う気は無いのか。
じゃ、勉強は明日がんばろっか。
そう、はるかも同意してくれる。
「それで、何処に行くかとか優希君決めてる?」
「うんや、それはまだ」
「それじゃさ、あの時行ったお祭り。二人でまた行ってみない? 今日もやってるんだって」
毎月、この時期にあの祭りやってたっけかと思い出しつつ、俺はその提案に首肯した。
「やたっ。じゃあ決まり! 今日は大事な日だし、浴衣でも借りちゃおっかなあ」
鼻歌まじりに笑顔を浮かべるはるかの表情を見詰めながら、この日常がいつまでも続きますように。
そんな事を思って、「いいんじゃねえの」と言葉を返す。
「あ、勘違いしてるみたいだけど、私が着る場合は優希君ももれなく着てもらうから」
「……ま、まじか」
「マジです」
浴衣って動きにくいし、好きじゃ無いんだよなあ……と、反論しようとするけれど、厳しい視線を向けてくるはるかを納得させられる言い訳は思い浮かばなくて。
「……わーったよ」
「うん。それでよろしい」
早々に俺は観念する。
そして、向けられる満面の笑みに応えながら、あの時屋上で、はるかの手を掴み取れて本当に良かったと俺は心底思った。
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